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番外編1 辺境の子どもたちは奥様が大好き
辺境の春は、子どもたちにとっていちばん忙しい季節だ。
冬のあいだ雪に閉ざされていた道がようやくぬかるみに変わり、石垣の隙間から黒い土が顔を出し、凍りついていた水桶の縁が朝にはもう薄く濡れている。大人たちは皆、「まだ春など半分だ」と言う。風は冷たいし、夜はときどきまた白くなるし、うっかり薄着で走り回ればすぐに咳が出る。それでも子どもたちには、春は春だった。土が見えるだけでうれしいし、足元が白ではなく茶色になるだけで外へ飛び出したくなる。
北門外の仮住まいの並ぶ一角でも、その朝は早くから子どもたちの声がしていた。
木工小屋の裏手に、冬の終わりから作られた小さな菜畑がある。畑と呼ぶにはまだあまりに頼りない、土を四角く起こしただけの場所だ。雪解け水が引いたあとを鍬でならし、石を拾い、細い柵を立てただけ。それでも、去年まではそこに何もなかったのだから、子どもたちにとっては立派な「自分たちの畑」だった。
「こっちは触るなよ」
十歳のガルは、まだ少し冬の荒れが残る赤い手で腰に手を当て、もっと小さい子たちへ向かって偉そうにそう言った。
「奥様が、ここはまだ芽が出たばっかりだからって」
「ちょっとくらいならいいじゃん」
六つのミノが口を尖らせると、ガルはすぐに首を振る。
「駄目だ。昨日も言われただろ。『ちょっとくらい』でだめになるの」
その言い方が妙に大人びているものだから、周りにいた子どもたちは一瞬だけ黙ったあと、くすくすと笑った。
「ガル、お前、また奥様の真似してる」
「してねえよ」
「してるよ。『ちょっとくらいでだめになるの』って」
「うるせえな」
言い返しながらも、ガル自身ちょっとだけ気まずくなる。たしかにその言葉は、自分で考えたものではなかった。昨日、奥様が苗箱を前にして、本当にそう言ったのだ。
奥様。
辺境の子どもたちがその呼び名を口にする時、声は自然と少しだけ明るくなる。
グランフェルド辺境伯夫人、アリア・グランフェルド。王都から来た奥様で、最初の頃は「都の貴婦人だから、寒いのは苦手だろう」とか、「すぐに帰りたがるのではないか」とか、大人たちは好き勝手に言っていた。子どもたちも最初は、どんな人かよくわかっていなかった。綺麗で、細くて、少しひんやりした人なのだろうと思っていた。
けれど実際の奥様は、想像していたのとずいぶん違った。
たしかに綺麗だ。初めて見た時、ガルは少しだけぎょっとした。雪の上に落ちる朝の光みたいに白くて、都の絵本に出てくる人みたいだったからだ。けれどそれだけではなかった。奥様は、こちらの話をちゃんと聞いた。子どもの声でも途中で遮らず、どの子の名前も何度か聞けばきちんと覚えた。若菜の食べ方も、苗箱の持ち方も、冷えた手を温める順番も、細かいことを驚くほどよく見ていた。
そして何より、子どもたちへ向ける時の顔がやわらかかった。
大人たちがよくする「よしよし、可哀想に」という顔とは違う。もっとまっすぐで、ちゃんと一人の人間として見てくる顔だ。転んで膝を擦りむいた時は、痛いわねとちゃんと言う。泣いている時は、泣いていいけれどそのまま泥の上へ座るなと袖を引く。勝手に若菜の芽を抜こうとすれば、しっかり叱る。なのに、その叱り方が怖くない。
だからいつの間にか、子どもたちは皆、奥様が好きになっていた。
「今日、奥様来るかな」
ミノがしゃがみ込んで土を覗き込みながら言う。
「昨日来てたじゃん」
「今日も来るかも」
「毎日来るわけねえだろ」
ガルはそう言ったものの、自分も少しだけ気になっていた。
今朝は、城の方から人が多く出入りしている。春の帳場は忙しいらしいし、医務室へ回す若菜も増えてきたと聞いた。奥様は城の中でも外でも仕事をしているから、仮住まいの小さな菜畑まで毎日来られるはずがない。わかっている。わかっているのに、つい「今日は来るか」と考えてしまう。
ちょうどその時、木柵の向こうで小さなざわめきが起きた。
誰かが「奥様」と小さく言う声がする。
子どもたちは一斉に振り向いた。
細い道の向こうから、二人の人影がこちらへ歩いてくる。
先にわかるのは背の高い方だった。濃い色の上着に、無駄のない歩き方。春の光の中でも、あの人だけはいつも少しだけ冬みたいに見える。辺境伯レオンハルト。子どもたちのあいだでは、こっそり「こわい旦那様」と呼ばれている。怒鳴るわけでもないし、むやみに子どもを追い払うわけでもない。けれど声が低くて、立っているだけで空気が少し張るから、皆なんとなく背筋を伸ばしてしまう。
そしてその半歩横に、奥様がいた。
今日は春の朝らしい淡い灰青の上着を着ていて、その下からのぞくスカートの裾が歩くたび静かに揺れる。陽の下で見る髪の色は、雪が溶けきる前の川みたいにやわらかい金色だ。白い手袋はしていない。たぶん、土を見るつもりで外したのだろう。
「おはようございます」
アリアがまず声をかける。
その言葉だけで、場の空気が少し明るくなるのが、子どもたちにもわかる。
「お、おはようございます」
ガルがいちばんに返すと、ほかの子たちも慌てて続いた。
レオンハルトはその少し後ろで、黙って畑を見る。黙っているだけなのに、「ちゃんとやっているか」を見られている気がして、ガルは知らず胸を張った。
「昨日、水はやりすぎなかった?」
アリアがしゃがんで芽の様子を見る。
「うん。土が乾いてるところだけ」
「誰が見てくれたの?」
「俺と、あとミノと、エナも」
ガルが言うと、アリアはその三人の顔を順に見て、ほんの少し笑った。
「えらいわ。ちゃんと増えてる」
その一言で、ミノの顔がぱっと明るくなる。エナも頬を赤くして下を向く。ガルは何でもない顔をしようとしたが、口元が少しだけ勝手に緩むのを止められなかった。
奥様は本当に、小さなこともちゃんと見てくれる。
誰が水をやったか。誰が芽を踏まなかったか。昨日より何枚葉が増えたか。そんなことを、いちいち覚えている。大人たちだって忙しい時はそんなところまで見ないのに、奥様は見逃さない。そして見逃さないくせに、恩着せがましくない。だから嬉しいのだ。
「こっちの土、少し固くなってるわね」
アリアが木箱の脇を指先でほぐしながら言う。
「晴れた日の朝にだけ、もう少し細かく崩してもいいかもしれない」
「俺、やる」
ミノがすぐ手を挙げる。
「ミノは強く掘りすぎるから、今日はエナと一緒にね」
「えー」
「えー、じゃなくて」
やさしいのに、そこはちゃんと断る。その言い方に、子どもたちはまた少し笑う。
レオンハルトはそのやりとりを黙って聞いていたが、ふとアリアの手元を見て眉を動かした。
「手袋は」
「土を見るのに邪魔で」
「朝の土はまだ冷たい」
「少しだけです」
その会話を聞いた瞬間、ガルたちはこっそり顔を見合わせた。
来た、という感じだった。
辺境の子どもたちは、もう知っている。旦那様は、奥様に対してだけ、時々すごくわかりやすい。しかも本人はたぶん隠しているつもりがない。ないどころか、気にしてもいない。
今だってそうだ。若菜の芽のことでも、苗の数のことでもなく、真っ先に「手袋は」と聞く。土が冷たいからだ。春の朝の土はたしかに冷たい。けれどそんなこと、普通はいちいち言わない。言わないのに、旦那様は言う。
アリアが少しだけ困ったように笑う。
「今、します」
「最初からしろ」
「見えづらいの」
「なら私が見る」
あまりにも当然みたいに返されて、子どもたちはまた一斉に黙ったあと、今度は笑いを堪えるのに必死になった。ガルはミノの頭を軽く叩いて「笑うな」と小声で言ったが、自分の口元もかなり危なかった。
奥様はそれに気づいたらしく、頬を少しだけ赤くして立ち上がる。
「子どもたちの前で、そういう言い方をしないでください」
「どういう言い方だ」
「……そういう言い方です」
「意味がわからん」
真顔だ。旦那様は本当にわかっていない顔でそう言う。だから余計におかしい。
ガルたちはとうとう堪えきれず、何人かが吹き出した。ミノに至っては「旦那様、奥様にだけこわくない」と言ってしまい、すぐに自分で口を押さえた。
しまった、という空気が一瞬で広がる。
子どもたちは皆、息を止める。言いすぎたかもしれない。相手は辺境伯だ。
けれどレオンハルトは怒らなかった。ただミノの方を見て、ごく短く言った。
「お前たちに厳しくする理由がないだけだ」
それが否定にも肯定にもなっていなくて、余計に場がおかしくなる。ガルは今度こそ吹き出しそうになるのを堪えきれず、肩を震わせた。アリアは片手で額を押さえ、小さく息を吐いている。
「もう、ほんとうに」
そう言う声が、叱っているというより、半分あきれて半分困っている響きなのが、また甘かった。
辺境の子どもたちは知っている。
旦那様は怖い。強い。怪我をして帰ってくる兵たちも、帳場で叱られる大人たちも、旦那様の前では少しだけ声が低くなる。けれど、奥様の前でだけは時々すごくわかりやすい。朝の土が冷たいとか、風がまだ強いとか、昼までにちゃんと食べたかとか、湯気の立つスープが少し熱すぎるとか、そういう細かいことをすぐ言う。
最初は、子どもたちにはそれがよくわからなかった。
でも最近は皆、あれはたぶん「ものすごく大事にしている」ということなのだと理解し始めていた。
大人の言葉は難しいけれど、そのくらいはわかる。
奥様が咳をすれば旦那様の眉が少し動く。
奥様が若菜の箱を持てば、いつの間にか半分は旦那様の手に移っている。
奥様が笑えば、旦那様の口元もほんの少しだけ変わる。
それはもう、子どもでもわかるくらいわかりやすかった。
「旦那様、奥様に甘い」
七つのエナがぽつりと言った。
今度はミノではない。だからたぶん、本当に思ったまま出たのだろう。
アリアが目を丸くし、レオンハルトが少しだけ眉を寄せる。
「そう見えるか」
「見える」
エナはこくりと頷いた。
「すごく」
その「すごく」に、周りの子どもたちも一斉にこくこく頷く。
アリアはとうとう顔をそらした。耳のあたりまで少し赤い。子どもたちはその変化も見逃さない。奥様は大人たちの前では落ち着いていて、何でもちゃんとできる人なのに、旦那様のこういうわかりやすい甘さを向けられると時々少し困った顔になる。その困った顔がまた、子どもたちにはなぜか好きだった。
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがてごくあっさりと言った。
「そうだ」
それだけだった。
だが、それだけで十分すぎた。
子どもたちは一瞬静まり、それから一斉に笑った。大人だったらもっと遠慮しただろう。だが子どもたちはそんなことをしない。はっきり言われたら、そのまま面白がる。
「やっぱり!」
「旦那様、隠してなかった!」
「隠していないだろ」
レオンハルトが真顔でそう返すから、笑い声はさらに大きくなる。
アリアは「もう、あなたまで」と言いながらも、完全には怒れない顔をしていた。その顔がひどくやわらかくて、ガルはふと思う。奥様はここへ来てから、前よりずっと笑うようになった。城下へ苗を持ってくる時も、若菜の食べ方を教える時も、子どもが泥だらけの手で寄ってきた時も。もちろん、叱る時は叱る。けれど、そのあとでちゃんと目を見て「次はこうしなさい」と言う。そういう人を、嫌いになれるはずがない。
「奥様」
ミノが急に真面目な顔で言った。
「俺、もっと大きくなったら、若菜いっぱい育てる」
「そう」
「そしたら、奥様にあげる」
その言葉に、アリアの目がやわらかくなる。
「ありがとう。でも、その時は半分だけでいいわ」
「なんで?」
「残りは、あなたの家で食べるの」
そう言われて、ミノはしばらく考え、それから大きく頷いた。
「じゃあ、半分奥様で、半分うち」
「ええ」
「でも一番きれいなのは奥様」
その真っ直ぐすぎる言い方に、アリアは少しだけ笑ってしまう。レオンハルトは横で「一番きれいなのは、私が決める」とでも言いそうな顔を一瞬したが、さすがにそれは飲み込んだらしい。それでも表情に少し出たものだから、ガルたちはまた笑った。
「旦那様、今なんか言おうとした」
「言っていない」
「言おうとしてた」
「していない」
こういう時の旦那様は本当にわかりやすい。怖い人のはずなのに、奥様のことになると少しだけ不器用になる。子どもたちはその不器用さが好きだった。なぜなら、それが本物だからだ。取り繕っていない。見せびらかしたいのでもない。ただ、そうなってしまうだけなのだ。
ガルは土の上にしゃがみ込みながら、ふと思う。
奥様が来てから、城下は少し変わった。
若菜が増えた。薬草の匂いが前より近くなった。温室の話をしている大人たちの顔が、以前より少し明るい。帳場の前で待たされる時間も短くなったし、冬の終わりに配られる布の札もわかりやすくなった。子どもたちには難しいことはわからない。だが「前より暮らしやすい」とか、「前より怒鳴られない」とか、「前より春が早い気がする」とか、そういうことはちゃんとわかる。
そして、その変化のそばにはいつも奥様がいた。
だから皆、奥様が好きだ。
それは美人だからとか、都から来たからとか、そういうことだけではない。寒い朝の土を一緒に覗き込み、誰が水をやったかを覚え、若菜の食べ方を教え、冷えた手を見れば自分の上着の端で包む。そういう人だからだ。
「奥様、また明日も来る?」
エナが聞く。
アリアは木箱の位置を直しながら顔を上げた。
「明日は帳場が少し長引くかもしれないけれど、昼には来られると思うわ」
「やった」
「その代わり」
アリアはすぐに続ける。
「今日のうちに、ここの土を少しだけほぐしておいて。強く掘りすぎないこと」
「はーい」
子どもたちの返事が一斉に飛ぶ。
レオンハルトはその様子を見ていたが、ふとアリアの上着の裾を指先で軽く引いた。
「そろそろ戻る」
「もう少しだけ」
「もう十分見ただろう」
「でも、ここの芽が」
「昼にも見る」
「そうだけど」
言いかけたところで、レオンハルトの視線がアリアの手元へ落ちる。
「また土に触れている」
「だって」
「手袋は」
「今日はちゃんとしています」
「土は冷たい」
「大丈夫ですって」
その会話を聞きながら、子どもたちはもう隠しもしないでにやにやしていた。
「旦那様って、本当に奥様のことしか見てないよな」
ガルが小声で言うと、エナがすぐ頷く。
「でも奥様も、ちょっと嬉しそう」
その指摘はあまりにも正しくて、ガルは思わず「そうなんだよな」と心の中で頷いてしまう。
アリアは困ったような顔をする。けれど、本気で嫌がってはいない。そのことを子どもたちはちゃんと知っていた。嫌なら、奥様はもっとはっきり「やめてください」と言う。そうではなく、少しだけ困って、少しだけ笑って、結局は手袋をはめ直す。その流れが、最近ではもうこの城のいつもの景色になりつつある。
「じゃあ、お昼の前に少しだけ戻るわ」
アリアが子どもたちにそう言うと、皆一斉に手を振った。
「またね、奥様!」
「昼に!」
「若菜増やしとく!」
「増やすのは土じゃなくて芽よ」
アリアが笑いながらそう返すと、また一斉に笑いが起きる。
レオンハルトはその笑い声の中で、何も言わずにアリアの歩幅へ合わせた。小庭から城へ戻るほんの短い道のりでも、彼は必ずそうする。急ぎすぎず、遅すぎず、奥様の足に合わせる。子どもたちはその後ろ姿も好きだった。
「なあ」
ミノがぽつりと呟く。
「旦那様って、奥様のこと大好きだよな」
ガルは鼻を鳴らした。
「今さら何言ってんだ」
「でも奥様も、旦那様のこと好きだと思う」
「そりゃそうだろ」
「なんでわかるの」
その問いに、ガルは少し考えた。
難しいことはうまく言えない。けれど、見ていればわかるのだ。旦那様が奥様を見ている時の目と、奥様がそれを見返す時の顔は、ほかの人に向けるものとちょっと違う。大人のくせに、なんだか安心している顔をする。強い人たちなのに、二人でいる時だけ少しだけやわらかい。
「見ればわかる」
結局、ガルはそう言った。
エナもミノも、うんうんと頷く。
見ればわかる。
そのくらい、辺境伯の愛妻ぶりはわかりやすかったし、奥様の人気も隠しようがなかった。
子どもたちは再び土の前へしゃがみ込む。若菜の芽は、春の光を受けて小さく揺れている。奥様が来ると、土の色まで少しやわらかく見える気がする。そんなことを言ったら大人たちは笑うかもしれない。でも子どもたちは本気でそう思っていた。
辺境の子どもたちは奥様が大好きだ。
そして、辺境伯はその奥様が大好きだ。
だからこの城の春は、去年より少しだけあたたかいのだと、子どもたちは疑いもしなかった。
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