全ルートで処刑される宿敵悪女に転生したので、死ぬ前に黒幕を暴きます

なつめ

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第三十一話 白い設計図



中央棟の古い書庫は、昼の明るさの中でも薄暗かった。

窓はある。けれど高い位置に細く取られているだけで、曇り空の光は棚の上部へ淡く触れるところで力を失う。残りは、壁際に置かれた燭台と、机の上へ寄せられた油灯の火が支えていた。紙と革と、長く閉じた箱の匂い。乾いた樟脳。少しだけ黴の匂い。そういうものが混ざり合い、ここだけ季節から切り離されているみたいだった。

ルシアンが先に扉を押し、ヴィオレッタがその後へ入る。

北塔から中央棟へ戻る途中、膝の傷は少しだけ重くなっていた。じくじくとした鈍い痛みが、階段を下りるたび、上るたび、思い出したように足元を引く。けれど、その痛みが逆に身体を現実へ繋いでいた。白い部屋の冷たさも、玩具箱の裏の赤も、いまは夢ではなく、確かに今朝見たものなのだと。

書庫の中央には、すでに何冊かの帳簿が広げられていた。

背表紙の褪せた台帳。
細長い記録簿。
婚礼準備用の一覧。
建築改修の設計台帳。
どれも薄い布や紙片を挟まれていて、ルシアンが先に当たりをつけていたことがわかる。

「座れますか」

彼が机の脇の椅子を軽く引く。

ヴィオレッタは少しだけ眉を上げる。

「あなた、こういう時だけ本当に」

「何です」

「人を人として扱うのがうまいわね」

ルシアンの口元が、ごく僅かだけ乾いた線を描いた。

「普段もそうしているつもりです」

「つもりなのね」

そう言いながら、ヴィオレッタは椅子へ腰を下ろした。机の前へ座ると、書庫の匂いが少しだけ濃くなる。白い部屋とも、礼拝堂とも違う。ここはもっと古く、もっと事務的な場所だ。痛みや恐怖より先に、記録が優先される場所。

だからこそ、少し息がしやすかった。

ルシアンが一冊の帳簿を開く。

「婚礼予定表です。先代当主時代のもの」

頁は黄ばんでいる。けれど文字はまだ読みやすい。几帳面な手で、日付、品目、場所、関係者の名が並んでいる。

最初の方は普通だった。

花嫁衣装の採寸。
花飾りの搬入。
礼拝堂の花の色。
主寝室の改装。
使用人の配置替え。

そのどれもが、昨日までならただの古い予定にしか見えなかっただろう。けれど今は、一つ一つの文字が、礼拝堂の白いヴェールや主寝室の花嫁の部屋へ繋がって見える。

ルシアンがある頁で指を止めた。

「ここです」

ヴィオレッタが身を乗り出す。

そこにあった一行を読んだ瞬間、喉の奥が少し冷えた。

**北塔三階旧幼児室 婚礼後調整準備室として仮使用**

「……幼児室を?」

ヴィオレッタが思わず呟くと、ルシアンが頷く。

「ええ。婚礼後」

その下の注記には、もっと細かな指示が並んでいた。

**白布搬入**
**小暖炉整備**
**呼び管接続確認**
**北向き光量保持**

ヴィオレッタはその一語一語を目で追う。

白布。
小暖炉。
呼び管。
北向き光量保持。

「最初から……」

言葉がそこで途切れる。

北塔三階の白い部屋は、ヴィオレッタを閉じ込めるために初めて整えられたわけではない。婚礼のあとに使う“調整準備室”として、もっと前から白くされ、暖炉が整えられ、呼び管まで接続されていたのだ。

「何の準備室だったのかしら」

低く呟くと、ルシアンは別の紙片を挟んだ。

「建築改修の設計台帳の方に、その注記があります」

次に開かれたのは、厚手の設計台帳だった。紙は硬く、端がやや反っている。そこには簡単な部屋割り図と、細い線で描かれた改修の指示が残っていた。

北塔三階の部屋は、もともとただの幼児室だった。
窓。
小さな暖炉。
低いベッド。
玩具棚。
それだけ。

だが、その脇に、後から朱で書き足された指示がある。

**花嫁静養・将来育児調整兼用**
**白布常置**
**観察口追加**
**必要時隔離可**

観察口追加。

必要時隔離可。

書庫の空気が、少しだけ凍る。

ヴィオレッタはその頁を見つめたまま、しばらく瞬きができなかった。

「……最初から、誰かを閉じるつもりだったのね」

声がひどく静かになる。

ルシアンはすぐには答えない。
だが、その沈黙がほとんど肯定だった。

白い部屋は、事故のあとで即興的に作られた部屋ではなかった。
婚礼後の花嫁。
将来の子ども。
そのどちらにも使える“調整のための白い部屋”として、最初から設計されていた。

修復。
調整。
静養。
必要時隔離可。

マリアンヌの理屈は、思いつきではない。
もっとずっと前から、部屋の設計そのものへ染み込んでいたのだ。

「観察口は、誰の指示?」

ヴィオレッタが問う。

ルシアンが台帳の署名欄を指す。

そこには、先代当主の許可印の下に、別の細い字が添えられていた。

**M.B.要望**

マリアンヌ・ベルクレア。

胸の奥がじわりと冷える。

やはり、あの女は最初から“見る側”に立つつもりで部屋を考えていたのだ。花嫁としてそこへ入り、将来は子どもをそこへ置き、白い布と北向きの光の中で、落ち着くまで、整うまで、眺めるつもりだった。

「最低」

ヴィオレッタが吐き捨てるように言う。

ルシアンは何も言わない。
ただ、頁を閉じずに、そのままこちらが見られる位置へ残してくれている。

しばらくして、ヴィオレッタは別のところへ目を止める。

図面の隅。
主寝室から北塔へ繋がる、細い実線と破線。
普通の廊下ではない。
裏階段と暖炉裏通路を経由する、家人以外には見えない動線だ。

「これ……」

ルシアンが頷く。

「主寝室と北塔は、最初から繋がるよう設計が補われています」

「つまり、花嫁の部屋と白い部屋が」

「ええ」

マリアンヌは、婚礼のあと、自分の部屋から白い部屋へ直接行ける構造を望んでいた。誰にも見られず。自分の白を整え、その先で別の白を整えるために。

ヴィオレッタの胃の奥が、ゆっくりと重く沈む。

礼拝堂。
花嫁のヴェール。
白い部屋。
人形。
全部が一本の線になる。

「じゃあ、あの部屋は」

ヴィオレッタの声は少しだけ掠れた。

「わたしのためじゃなかったのね」

ルシアンが、今度ははっきりとこちらを見る。

「最初は」

そう言って、ほんの少しだけ間を置く。

「最初は、あなたのためではなかった」

その言い方が、妙に救いになる。

最初から自分のために用意された檻ではない。
もっと前に、別の誰かが、自分の理屈のために作った部屋。
その部屋へ、あとからわたしが当てはめられたのだ。

もちろん、それで痛みが薄まるわけではない。
でも、“わたしのせいで”あの部屋があったわけではないと知るだけで、胸のどこかがほんの少しだけほどける。

ルシアンが更にもう一冊、細い台帳を開く。

「閉鎖部屋管理簿です。ここから先は、夫人が嫁いでからの記録」

頁をめくる。
年ごとの管理。
掃除回数。
薪の出入り。
白布洗浄。
記録は乾いている。
でも、ある年で、文字の筆圧が急に変わっていた。

ヴィオレッタはそこを見て、息を止める。

**北塔三階旧幼児室 通常閉鎖扱い**
**ただし、夫人判断により一時使用可**

夫人判断。

母だ。

「……お母様」

自然にその名が零れる。

ルシアンが低く言う。

「ええ。完全に外から押しつけられただけではない」

それはもう、昨夜からわかっていたことだ。
でも、紙で見るとまた違う。
母はその部屋の設計者ではない。
けれど、使うことを許可した。

痛い。
でも、たぶん必要な痛みだ。

「この頁、見ますか」

ルシアンが、さらに先を指す。

そこには、夫人判断での一時使用の備考欄があり、年と理由が短く書かれている。

**七歳冬 情緒過敏・色矯正**
**九歳春 再使用見送り**
**十歳冬 閉鎖維持**

ヴィオレッタは、その三行を見たまま動けなかった。

情緒過敏。
色矯正。

言葉の乾き方がひどい。
泣いた子ども。
白いリボンを嫌がった子ども。
髪を切られ、笛を吹き、眠ったふりをした子ども。
それを、この家の紙は“情緒過敏・色矯正”と書く。

吐き気がした。
でも、同時に、その冷たさごと知りたいとも思う。

「……九歳春、再使用見送り」

ゆっくりとその行を読む。

それは何だろう。
母が一度だけ、もうあの部屋を使わないと決めかけた時期だろうか。

「この頃、何が」

ヴィオレッタが呟くと、ルシアンが別の付箋を開く。

そこには短い走り書きがあった。

**本人、白室再入拒否強し。通常東棟管理へ戻す。**

本人。

ヴィオレッタは目を見開く。

「……わたし、拒否したのね」

「ええ」

ルシアンは静かに答える。

「少なくとも九歳の時点では、明確に」

その言葉に、胸の奥へ熱が差す。

覚えていない。
でも、紙の上には残っている。
七歳の冬、白い部屋へ置かれた。
でも九歳の春には、再入を拒否した。

つまり、眠ったふりをした子どもは、そのまま永久に白い部屋へ従ったわけではない。ちゃんと、後から拒んでいる。白へ戻されることを。

それだけで、少しだけ息がしやすくなる。

「……見た?」

思わず小さくそう言う。

ルシアンは帳簿から目を上げる。

「何を」

「わたし、ちゃんと嫌がってたの」

ルシアンの鋼色の瞳が、ほんの僅かにやわらぐ。

「ええ」

たった一言。
でも、それだけでよかった。

白い部屋で折れたままではなかった。
最初の赤を選んだ子どもは、その後も、ちゃんと白を拒んだ。
記憶はない。
でも、紙がそれを残している。

書庫の奥で、ふと衣擦れの音がした。

二人が同時に顔を上げる。

扉のところに、母が立っていた。

いつの間にか入ってきていたらしい。
今日は薄い灰色のドレスに着替えている。
髪も整えられている。
でも、疲れはまだ隠しきれていない。
目の下の薄い影が、そのまま残っている。

彼女は、机の上の帳簿と、設計台帳と、こちらの顔を順に見た。

それだけで、何を読んでいたのかはほとんど察したのだろう。
顔がほんの少しだけ強張る。

「……そこまで見たのね」

低い声。

ヴィオレッタは母を見返す。

「ええ」

「どこまで」

「花嫁静養・将来育児調整兼用。観察口追加。必要時隔離可」

一語ずつ、はっきりと言う。

母の指先が、わずかに動いた。
それでも目は逸らさない。

「そう」

「最初から白い部屋だったのね」

母は少しだけ黙って、それから静かに頷いた。

「ええ」

「あなたが作った部屋じゃなかった」

「ええ」

「でも、使った」

今度は間を置かずに答える。

「そうよ」

そのやり取りに、書庫の空気が少しだけ張りつめる。

でも、不思議と昨夜ほど息苦しくない。
たぶん、紙がもうそこにあるからだ。
言葉だけではなく、記録が。
図面が。
あの部屋が、誰かの気分や言い訳ではなく、ちゃんと構造と判断で成り立っていたことを示す紙が。

母は机の方へ少しだけ近づく。
でも、帳簿には触れない。
触れられないのかもしれない。

「九歳の春の行も見た?」

ヴィオレッタが目を瞬く。

「ええ」

母の目が、ほんの少しだけ揺れる。

「あなたが、わたくしに向かって“二度と入らない”って言ったの」

胸の奥が、ひどく静かに鳴る。

覚えていない。
でも、その言葉は、自分の口で言ったとすぐにわかる気がした。
九歳の自分なら、きっとそう言う。
白い部屋の何をどこまで理解していたかは別として、二度と入らない、とだけは。

「あなた、よくそんなこと覚えてるわね」

ヴィオレッタが言うと、母は小さく息を吐いた。

「忘れられるはずないでしょう」

その返しが、ひどく静かだった。

白い部屋でのことを、母は全部忘れて生きてきたわけではない。
忘れられず、それでも見ないようにしてきた。
そのことが、今朝の書庫の薄暗い光の中では、少しだけはっきり見える。

「それで、見送りにしたの?」

ヴィオレッタが問う。

母は頷く。

「ええ」

「もっと早く閉じればよかったのに」

その言い方には棘が混じる。
でも、もう隠せない。

母はそれを受け止める。

「そうね」

そして、少しだけ視線を落とす。

「でも、その時のわたくしは、“使わなければ済む”と思ったのよ」

その言葉に、ヴィオレッタは短く息を吐く。

「またそれ」

「ええ。またそれ」

母は自嘲するみたいに、ほんの少しだけ口元を歪めた。

「使わなければ見なくて済む。閉じておけばなかったことにできる。そういう愚かさで、ここまで来たの」

その自己認識が、遅すぎる。
でも、紙の前で言われると、否定もできない。

書庫の中へ、しばらく沈黙が落ちた。

ルシアンがその沈黙を切る。

「夫人、北塔三階の今後について、記録係は今日中に第一次の保全を終えます」

母が彼を見る。

「ええ」

「その後、封鎖を維持するか、整理に入るかは、令嬢の判断に」

「承知しているわ」

母の返答は静かだ。

そして、今度はヴィオレッタを見る。

「急がなくていい」

昨夜も似たようなことを言っていた。
でも、今朝のそれは少しだけ違う。
“急いで白に塗り替えたり、灰にして消したりしない方がいい”と言った昨夜の続きとして、もっと静かに、でもはっきりと。

ヴィオレッタはその視線を受け止める。

「急がないわ」

そう返した。

たぶん、いま必要なのは“すぐに正しい形へ戻す”ことではない。
マリアンヌがやり続けたのも、母がやろうとしたのも、結局はそこだった。
急いで整える。
急いで隠す。
急いで白くする。
急いで灰にする。

そうではなく、しばらくはそのまま、ちゃんと見える形で置いておかなければならないのだろう。

「それでいいわ」

母が言う。

その声を聞いて、ヴィオレッタは少しだけ目を細めた。

昨夜、東棟の部屋へ来た母。
今朝、赤い紐をよこした母。
そして今、北塔の紙の前で“急がなくていい”と言う母。

全部が遅い。
遅すぎる。
でも、その遅さごと受け取らなければ、前へ進めないところまで来てしまったのだとも思う。

ルシアンが帳簿を閉じる。

「午前の分はここまでです」

その言い方が、やはり少しだけ可笑しい。
まるで通常業務みたいに区切る。
でも、そうやって区切らなければ、たぶん誰も息継ぎができない。

ヴィオレッタは机の上の設計台帳をもう一度見る。

花嫁静養・将来育児調整兼用。
観察口追加。
必要時隔離可。

そんなふうに書かれた部屋へ、自分があとから押し込まれた。
でも、九歳の春には、二度と入らないと拒んだ。
その記録が、紙に残っていた。

そのことが、いまは思った以上に大きい。

「ルシアン」

ヴィオレッタが呼ぶ。

「何です」

「その行、写しをもらえる?」

彼は少しだけ目を細める。

「九歳春の行ですか」

「ええ」

母も、そちらを見る。

ヴィオレッタは視線を帳簿へ向けたまま続ける。

「最初の赤の絵だけじゃなくて、それも欲しい」

二度と入らない。

それは、覚えていない自分の言葉だ。
でも、たぶん今のわたしにも必要な言葉だった。

ルシアンは短く頷いた。

「作らせます」

「ありがとう」

母はそのやり取りを黙って見ていた。
そして、ほんの僅かに、疲れた目をやわらげた。

白い部屋の前で、まだすべては終わっていない。
でも、少なくとも今朝の書庫では、白の設計図の上へ、最初の赤と、九歳の春の拒絶が並んだ。

それだけで、曇り空の昼へ向かう光が、少しだけ違って見えた。

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