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**第3話 近侍になる日**
夜明け前の家は、妙に音が響く。
まだ鶏も鳴ききらぬ刻限、葛代家の離れでは、控えめに立てられているはずの物音が、どれも薄い板を打つように耳へ届いた。廊下を急ぐ足音。箱の蓋を閉じる音。風呂敷を結ぶ布擦れ。誰かが小声で呼び交わし、それに別の誰かが短く答える気配。
依澄は、薄く目を開けたまま、その一つひとつを聞いていた。
眠れなかったわけではない。眠ったのかどうかもよくわからない。夜のどこかで意識は途切れたはずなのに、胸の奥はずっと張りつめたままだった。眠りの底に落ちれば、前世の戦場が戻ってくる。起きていれば、三日後に来るはずだった使者が今日にも来るかもしれないという予感が、神経を細く震わせる。
運命は、待ってくれない。
四年前の春へ戻されて二日。依澄は、家の中の空気がじわじわと御陵家への差し出しに向かって固まっていくのを肌で感じていた。父が言葉にしてから、家人たちはあからさまに依澄へ向ける態度を変えた。丁重になったわけではない。むしろ逆だ。これから外へ出す物の傷み具合を確かめるみたいに、妙な遠慮のなさが混じりはじめた。
扱いは、もう息子ではない。
葛代家から御陵家へ送る駒。交誼の証であり、目付けでもあり、いざとなれば切って捨てても惜しくない側室腹の次男。それが今の依澄の立場だった。
襖の外で、志津がそっと声をかける。
「若様。お目覚めでしたら、湯をお持ちします」
「……頼む」
喉が少しかすれた。昨夜から何度も息を詰めていたせいだろう。依澄は布団の中で身を起こし、胸を押さえる。傷はない。そんなことはもうわかっている。だが、御陵へ向かう日が近づくほど、前世で貫かれた位置だけが時折ひどく冷たくなる。
死んだ場所へ向かい直すのではない。
死ぬまでの道を、もう一度歩き直すのだ。
その事実は、言葉にしてしまえば簡単だった。だが身体は、その簡単さで受け止めてくれない。胸は浅く上下し、指先はいつもより冷える。怖れているのだと認めるのは癪だったが、怖れているのだろうと思う。
やがて志津が盆を持って入ってきた。白湯と、顔を拭くための桶。今朝の志津は少し忙しない。いつもなら朝の支度をしながら小言の一つもこぼすのに、今日は口数が少なかった。
「何かあったのか」
桶の水に手を浸しながら問うと、志津は一瞬だけ視線を彷徨わせた。
「……本邸が、朝から慌ただしゅうございます」
「御陵の使者か」
「おそらくは」
やはり、と思う。
三日後と言っていたのは父だ。だがこういう話は、相手の都合でいくらでも早まる。特に御陵家のような武門は、思い立てば夜明け前でも門を叩く。
「母上は」
「先ほどお見舞いしましたが、落ち着いておられます。ただ、若様のお支度だけは自分で見たいと」
「……そうか」
温い水で顔を拭う。頬に触れた布の感触が、今日は妙に頼りなかった。鏡台の前へ座らされると、志津が櫛を入れる。髪を梳かれる音は幼い頃から好きだった。一定の間隔で、細い歯が髪をすく。結び目にかかるたび、少しだけ頭皮が引かれる。その規則正しさに、心が少し静まる。
「志津」
「はい」
「私は今日、御陵へ発つと思うか」
櫛がほんのわずか止まった。
「……若様は、もうそうだとお思いなのですね」
「思う、というより」
依澄はそこで言葉を切った。知っている、とは言えない。
「この家の空気がそう言っている」
志津は小さく息をついた。
「空気を読むのが早すぎるのも、若様の難儀なところです」
「良い方には働いていない」
「そんなことはありません」
志津は再び櫛を動かした。きっちりと髪をまとめる手つきは、いつも通り丁寧だ。
「鈍いよりはずっと良うございます。鈍ければ、いらぬ傷を負いますから」
「十分負っている」
ぽつりと返すと、志津は言葉を飲んだらしかった。鏡越しに見えるその顔は、何か言いかけてやめた人の顔だった。依澄はそれ以上追わなかった。志津が知っている傷は、この家で負わされたものだけだ。戦場で負った傷までは知らないし、知られようもない。
髪を結い終えるころ、表のほうから蹄の音がした。
屋敷の門前へ、硬い鉄を打つような音が連続して響く。朝の静けさを割る、遠慮のない到来の音だ。
依澄の背筋がすっと伸びる。
来た。
身体が先にそう理解した。
志津も手を止め、鏡の中で依澄と目を合わせた。二人とも何も言わない。その沈黙だけで十分だった。
*
使者は、御陵家の家紋を染め抜いた旗を掲げていた。
本邸の広間へ呼び出された依澄は、廊下を渡る途中でそれを見た。黒地に銀で描かれた、鋭い羽根のような紋。風に鳴る幟の音が、妙に胸へ刺さる。前世では、それを見るたび心のどこかが緩んだ。御陵の兵がいる。あの人の家の者がいる。ただそれだけで、異郷のようだった御陵の城も、少しだけ自分の居場所に近づいたからだ。
けれど今は、安堵より先に緊張が来た。
同じ紋を見ているのに、身体はそれがもたらす未来を知っている。あの旗の向こうには、朔惟がいる。まだ顔を合わせていないのに、その存在が匂いのように胸へ入り込んでくる。
広間の前で一度足を止め、呼吸を整える。
襖の向こうから、男たちの低い声が聞こえた。父の声。兄の声。そして知らない、だがよく通る落ち着いた男の声。御陵の使者だろう。声色だけで武門の者だとわかる。語尾が無駄に伸びず、相手を試すような曖昧さもない。
呼ばれて中へ入ると、使者がこちらを見た。
四十前後と思しき男だった。陽に焼けた顔に浅い皺があり、口元は引き締まっている。鎧ではなく旅装だが、脇差の位置と立ち居の癖で、戦場に慣れていることが見てとれた。
「こちらが、葛代依澄にございます」
父が言う。
紹介の口調に、情はなかった。品定めに出す品を示すような、乾いた平坦さだけがある。
依澄は進み出て、膝をついた。
「依澄にございます」
「御陵家家臣、橘宗真と申す」
男は名乗り、依澄を正面から見た。じろじろと無遠慮に見るのではない。ただ、どの程度の者か確かめる目だった。
「若いな」
「未熟にございます」
「未熟かどうかは、これから見ればわかる」
橘宗真。前世でも会った。
御陵へ上がる道中を率いた男であり、最初の数月、依澄の振る舞いを黙って観察していた人物。表向きは寡黙で厳しいが、理不尽を嫌う。家柄で人を過不足なく見ず、役に立つかどうかで測る。だからこそ依澄は、前世でこの男に嫌われずに済んだ。
「本日は、話を進めに参った」
宗真は父へ向き直る。
「総領殿よりの意向はただ一つ。葛代家より差し出される者を、今日のうちに預かる」
今日。
やはりそうだ。依澄は胸の奥で冷たく納得した。前世でも、使者は来るなりその日のうちの出立を求めた。余計な入れ知恵や情のやり取りを挟ませぬためだ。武門らしい苛烈さであり、葛代家のような中家には逆らえぬ強さでもある。
「急ですな」
父が言う。その声音には抗議の色を滲ませているが、本気ではない。外聞として一応不満げにしているだけだ。御陵家に逆らう気がないことは、宗真も依澄もわかっている。
「急か」
宗真がごくわずか眉を上げる。
「北嶺の情勢をご存じなら、これを急と仰るのは悠長でしょう。総領殿は、遊学の小姓を求めておられるのではない。今すぐ側で働く者を求めておられる」
その一言で、室内の空気がぴたりと張った。
正室の扇が小さく動く。兄がわずかに口の端を引く。父は不快そうに喉を鳴らしたが、反論はしない。できないのだ。
依澄は膝の上で指を握る。
今すぐ側で働く者。
その言葉が胸へ落ちた時、自分でも驚くほど強く心臓が鳴った。呼ばれているわけではない。朔惟が自分を指名したわけでもない。ただ御陵家が人手を求め、その駒として差し出されるだけだ。
それでも、その「側」という言葉ひとつで、胸の奥に眠っていたものが起きてしまう。
「依澄」
父が名を呼んだ。
「聞いた通りだ。お前は今日より御陵家へ上がる」
「承知いたしました」
依澄は頭を下げた。
悔しさはあった。家の都合で、何の相談もなく差し出されることへの屈辱は、前世よりむしろ鮮明に感じる。前世の自分は若かった。従うこと以外の道をほとんど考えなかった。だが今は違う。四年後まで生き、戦い、死に、そして戻ってきた自分には、この場にいる誰より多くの現実が見えてしまう。
だからこそ、なおさら屈辱だった。
この家は、自分がどう生きるかに興味がない。朔惟のそばへ差し出され、その先でどれほどのものを背負い、どんなふうに死のうと、葛代家にとっては御陵との関係が円く回ればそれでよい。
けれど、その屈辱を飲み込むのもまた、今は自分の意思だった。
死ぬためではなく、変えるために行く。
あの人を死なせないために、自分からこの道を選ぶ。
たとえ入口が「差し出されること」であっても、そこから先をどう歩くかは、自分で決める。
「支度に半刻いただきたい」
依澄が言うと、宗真は短く頷いた。
「よい。馬は既に整えてある」
「では、その間に母へ挨拶を」
「手短にしろ」
「はい」
話はそれで終わった。あまりにもあっさりと、物の受け渡しのように決まっていく。それがたまらなく腹立たしく、同時にありがたいとも思う。揉めれば、感傷が入る。感傷が入れば、自分の足が鈍る。今日は鈍らせてはならない。
退出しようとした時、兄がふと口を開いた。
「依澄」
珍しい。兄から名を呼ばれること自体が少ない。
「御陵へ行って、余計な欲を持つなよ」
依澄は足を止めた。
「余計な、とは」
「調子に乗るなということだ。お前は葛代の人間だが、本筋ではない。向こうで少し目をかけられたからといって、自分の立場を見誤るな」
静かな声だった。怒鳴りではない。だが、その言葉の一つひとつには、依澄を釘で留めるみたいな悪意があった。
「泰親」
父が制する気のない声で名を呼ぶ。兄は肩をすくめた。
「忠告です。家の恥になるよりましでしょう」
依澄は兄を見た。兄の目は、昔から少しも変わっていない。自分より優れた者を恐れるほど大きくはなく、自分より弱い者へわざわざ情を割くほど広くもない。ただ序列だけを信じ、その序列の中で自分の座を守ろうとする目だ。
前世の自分は、この目に怯えていた時期があった。だが今は違う。
「心得ております」
依澄は静かに答えた。
「私は、私の務めを果たすだけです」
兄が何か言い返す前に、依澄は一礼して広間を出た。背中へ視線が突き刺さる。だが振り返らない。もうこの家の視線に立ち止まるつもりはなかった。
*
母の部屋へ戻ると、そこはすでに出立の空気に包まれていた。
志津が荷をまとめている。とはいえ多くはない。衣を数枚、書き物道具、日用品、母が持たせようと決めた守り袋。近侍として差し出される者の持ち物などその程度で十分だし、それ以上を持てばかえってみっともない。
母は几帳の前に座り、膝の上に小さな箱を置いていた。依澄が入ると、その白い指が箱の蓋をそっと押さえる。
「決まったのですね」
「はい。本日中に発ちます」
母は目を伏せた。その横顔に悲しみはあっても、取り乱しはない。依澄はその静けさに救われる。泣かれれば、きっと自分は弱くなる。
「早いこと」
「御陵家は、待ってくれませぬ」
「そうでしょうね」
母はかすかに笑った。
「でも、それでよいのかもしれません。あまり長く引き留められたら、あなたはかえって苦しくなるでしょう」
依澄は言葉に詰まる。見抜かれている。いつもそうだ。母は多くを問わない代わりに、こちらの息の乱れや目の動きだけで、かなりのところまで察してしまう。
「母上」
「こちらへ」
近づくと、母は箱の蓋を開けた。中には小さな守り袋が一つ入っている。薄い灰青の布に、銀糸で梅の枝が縫い取られていた。
「これは」
「あなたが幼い頃、熱を出すたび枕元へ置いていたものです」
「覚えておりません」
「そうでしょうね。子どもはすぐ忘れますから」
母は守り袋を依澄の掌に乗せた。布は歳月の分だけ柔らかくなり、香がほのかに移っている。母の衣に似た、清い香りだった。
「武運長久を祈るようなものではありませんよ。そんな大それたものは、私には縫えませんでしたから。ただ、帰る場所を忘れないようにと、それだけを願ったものです」
依澄は守り袋を見つめた。
帰る場所。
前世の自分にとって、それはどこだったのだろう。この離れか。母のいる部屋か。あるいは、御陵の城の中で朔惟の気配がする廊下の曲がり角か。思えば四年のうちに、自分の帰る感覚は少しずつ葛代から遠ざかっていた。母を除けば、この家は自分を留める場所ではなく、いつでも手放す準備のある場所でしかなかったからだ。
「……ありがとうございます」
依澄は両手で守り袋を包んだ。掌に収まるほど小さいのに、妙に重い。
母は依澄の顔を見上げる。
「依澄。前にも申しましたね」
「何を」
「生きていて、と」
依澄の喉がひくりと鳴る。
母は静かに続けた。
「務めを果たすことは大切です。けれど、人は務めだけでは生きていけません。あなたはそういうところが少し極端だから、私は案じています」
「……」
「何か一つに心を決めたら、それ以外を全部捨ててもよいと思ってしまうでしょう」
その通りだった。依澄は何も言えない。
前世の最期、自分は確かにそうした。朔惟を守るためなら、自分の命も未来も未練も投げ捨ててよいと思った。いや、実際に投げ捨てた。
母は依澄が答えないのを責めず、ただ手を伸ばして頬に触れた。
「お前が誰かを大切に思うなら、その方のためにも生きなさい」
胸の奥がひどく痛んだ。
誰か。名前は出されていない。なのに、その誰かが誰なのか、自分だけははっきりわかってしまう。
朔惟。
会ってもいないのに、もうその名前が息みたいに胸の中へ入っている。
「母上」
依澄は目を伏せた。
「私は、今度は……」
そこまで言って、口をつぐむ。今度は。そんな言葉をこの場でこぼすわけにはいかない。戻ってきたことを話せぬ以上、その先も言えない。
母はそれ以上を聞かなかった。代わりに依澄の額へそっと口づける。幼い頃に何度かされたきり、もう長く覚えのない仕草だった。依澄は息を止め、目を閉じる。額に残るぬくもりが、ひどく心細く、ひどくありがたい。
「行きなさい」
母の声は静かだった。
「あなたが自分で決めた顔をしています」
依澄は顔を上げる。
決めた顔。そう言われて、ようやく自分の中の輪郭が少しはっきりした気がした。差し出される。追いやられる。駒として使われる。そのどれも事実だ。だが、それだけではない。いま御陵へ向かうのは、自分でもある。
死の続きをなぞるためではなく、死に至る運命を折るために。
「はい」
依澄は深く頭を下げた。
「行ってまいります」
*
出立は、驚くほどあっけなかった。
門前に並ぶのは、御陵の兵が十余名。葛代家からの見送りは少ない。父も兄も、門まで出てはこなかった。正室など姿も見せない。母が離れから立ち上がれぬ以上、玄関先に出てきたのは志津と、数人の下働きだけだった。
「若様」
志津が最後に荷を手渡す。
「着いた先で、無理をなさいませんよう」
「それは難しい」
正直に答えると、志津は眉をしかめた。
「そういうことを笑ってお言いになるのが、一番いけません」
「笑ってはいない」
「では余計にいけません」
依澄は少しだけ口元を緩めた。志津は本当に、最後まで志津だった。過度に泣かず、必要なことだけを言い、こちらが崩れそうになる手前で軽く叱る。
「母上を頼む」
「申されずとも」
「……頼む」
「はい」
短い返答なのに、そこには確かな強さがあった。依澄はそれに頭を下げる。使用人へ頭を下げるなどこの家では奇異に映るかもしれない。だがもうどうでもよかった。
門が開く。
外には春の空が広がっていた。高く澄み、雲が薄い。道の脇には名も知らぬ小さな花が咲いている。陽はまだ柔らかいのに、空気の奥には昼へ向かう明るさがある。
御陵の兵たちの間へ、宗真が馬を進めた。
「葛代殿」
「はい」
「馬には乗れるな」
「一通りは」
「なら自分で手綱を取れ。御陵では誰もお前を腫れ物のようには扱わん」
その言葉に、依澄は不思議と肩の力が少し抜けた。そうだ。御陵はそういう場所だ。冷たいことはある。厳しいこともある。けれど、役に立つかどうかを見られる場所でもある。少なくとも、葛代家のように最初から「余りもの」と決めつけられた扱いではない。
依澄は馬へ近づき、鐙へ足をかけた。
身体が覚えている。四年前のいまより、前世で鍛えた後の感覚が濃く残っているせいで、動きに一瞬だけ違和感はあった。だが鞍へ跨がるまでに時間はかからなかった。馬の背は高く、温かい。生き物の熱が腿に伝わる。革の匂い、馬の体臭、日を吸った鞍のわずかな温もり。どれも戦場の記憶と結びつきやすいのに、今はまだ平穏の側にある匂いだった。
「出るぞ」
宗真の声で一行が動く。
門を離れるその瞬間、依澄は振り返った。
葛代の屋敷。離れ。低い塀。門前の松。志津の姿。母の部屋はここからでは見えない。見えないのに、その位置だけはわかる気がした。
戻れるだろうか、と一瞬思う。
前世では、結局この家へはあまり戻れなかった。戦が始まれば帰郷は難しくなる。便りだけが細く繋がり、それもやがて戦の波に飲まれていく。
けれど今回は違うかもしれない。
変えるために行くのだ。そう決めたのだから。
依澄は前を向いた。
馬の蹄が土を打つ。門前の砂が細かく舞い、春の日差しの中で薄く光った。
*
御陵までの道は、記憶とほとんど違わなかった。
田はまだ水が浅く、畦には若草が伸びている。遠くの山裾に、遅い梅が白く残っていた。道沿いの村では、女たちが川で布を叩き、子どもが裸足で駆けまわっている。煙の匂いがどこからともなく漂い、昼近くなるにつれ土は温んでいく。
平穏だ。
その平穏さがかえって恐ろしい。
依澄は知っている。この景色のいくつかは、数年後には戦のために荒れる。田は踏み潰され、村は兵糧を差し出し、若い男たちは槍を持たされる。川辺で布を洗っている女の中にも、夫や息子を失う者が出るだろう。いま道端で笑っている子どもの中に、兵として死ぬ者もいるかもしれない。
前世では、こうした景色を守るために戦うのだと、どこかで信じていた。間違ってはいない。だが戦の中に長くいれば、守るという言葉だけでは足りない現実がいくらでも見えてくる。守るために奪う。生かすために殺す。選ばなかったほうを切り捨てる。その重さを、依澄はもう知ってしまった。
「酔ったか」
前を行く宗真が、振り向きもせずに問うた。
「いいえ」
「顔色が悪い」
「元からです」
素っ気なく返すと、宗真が小さく鼻を鳴らした。
「減らず口を叩けるなら大丈夫だな」
「減らず口ではございません」
「なお悪い」
短いやり取りだった。それだけなのに、前世の記憶がはっきりと蘇る。宗真はこういう男だった。必要以上に話しかけてはこないが、放っておくわけでもない。体調や気配の変化を妙によく見ていて、ぎりぎりのところで拾い上げる。
「昼までに一度休む」
「はい」
「御陵へ着けば、すぐに総領殿の前へ出ることになる。そこで死人のような顔をされても困る」
「……努力いたします」
総領殿。
宗真の口からその呼び名を聞くだけで、依澄の喉がわずかに乾く。朔惟はまだ将軍と呼ばれる前だが、御陵家の中枢ではすでにそうした扱いに近い地位にいた。前世のこの時も、依澄は初対面の場でひどく緊張し、必要以上に口数を失ったのを覚えている。
けれど今回は、それだけではない。
初対面ではないからだ。
少なくとも依澄にとっては。
寝所の灯りの下で見た横顔も、血に濡れた戦場の目も、苛立って唇の端を硬くする癖も、ふとした時に視線だけで許す表情も、もう知っている。知っているのに、向こうにとっては初めて会う相手でしかない。その歪さが、胸の奥を落ち着かなくさせた。
会いたい。
けれど、会うのが怖い。
あの目をもう一度見たら、自分は本当に「恋はしない」という誓いを守れるのだろうか。まだ城にも着いていないのに、その不安だけがじわじわと胸の内側を這っている。
昼の休憩で水を飲み、干飯を噛みしめながら、依澄は空を見上げた。
高い。青い。何も起きていない春の空だ。
こんな空の下で、前世の自分も御陵へ向かった。あの時は、自分が何者になるのかもわからなかった。ただ、家から出され、異なる家へ入るのだという事実だけが重かった。屈辱もあったし、不安もあった。だがどこかで諦めていた。自分はそういう人間だと。選ばれる側ではなく、選ばれて運ばれる側だと。
今は違う。
運ばれるのだとしても、その先で何をするかは自分で選ぶ。
死ぬためにではない。
朔惟を守り、生かし、運命を変えるために。
依澄はゆっくりと干飯を飲み込んだ。乾いた米が喉を擦る。水を足して流し込み、膝の上で拳を握る。
前世の最期が脳裏をかすめた。血まみれの土。息の切れた視界。崩れた朔惟の顔。二度と見たくないはずの光景なのに、だからこそ忘れられない。
「……同じにはしない」
誰にも聞こえぬ声で、依澄は呟いた。
宗真が少し離れたところで兵と話している。馬たちは草を噛み、風は淡く土を撫でる。何も知らない春の陽気の中で、依澄だけが前世を抱えたまま座っていた。
だが、それでいい。
知っているのは自分だけでよい。誰にも信じられなくても、自分だけが覚えていれば十分だ。その記憶を、今度は死へ向かうためではなく、生へ折り返すために使えばいい。
*
午後、山道を一つ越えたところで、遠くに御陵の城が見えた。
依澄は、思わず息を呑んだ。
春霞の向こう、山の端を背にしてそびえる黒い影。高い石垣、その上に重なる屋根、風に翻る幟。記憶の中と変わらぬ姿なのに、胸へ迫ってくる重みが違った。
帰ってきた、という感覚に近いものが、一瞬だけ喉元まで上がる。
すぐに自分で打ち消した。まだ早い。まだ何も始まっていない。城がそこにあるだけで、そこに自分の居場所があるとは限らない。前世で築いた四年分の関係も、信頼も、何もかも今は失われている。あるのは記憶だけだ。
けれど、それでも。
胸は勝手に早鐘を打つ。視界の隅が熱を帯び、手綱を握る指に知らず力がこもる。
「初めて見る者は、たいてい見惚れる」
横から宗真の声がした。
依澄ははっとして姿勢を正す。
「申し訳ございません」
「謝っているわけではない。御陵の城は、そういうふうに造ってある」
宗真は前を見たまま続ける。
「ただし、見上げてばかりいると足を掬われるぞ。城も、人もな」
人も。
その一言が、依澄の胸へまっすぐ刺さった。
そうだ。見上げてばかりではいけない。前世の自分は、ずっと朔惟を見上げていた。主として、当主として、遠く高い人として。その眼差しが忠義になり、忠義の内側で恋に変わり、それでも最後まで同じ高さには立てなかった。
今も同じことをすれば、きっとまた同じ終わりへ向かう。
見上げるだけではなく、支えなければならない。守るだけではなく、変えなければならない。
依澄は城を見据えたまま、胸の内で静かに言う。
今度は、死ぬためではない。
今度は、この人の未来を変えるために来た。
門が近づく。石垣が高くなる。見張りの兵がこちらを認め、声を上げる。幟が春の風を孕み、黒漆の門がゆっくりと開き始めた。
依澄は手綱を握り直した。
屈辱もある。恐れもある。恋をしてはならないという誓いも、胸の奥でまだ鋭く立っている。
それでも、足は止まらない。
自分はもう、この門をくぐると決めている。
死を知ったまま、生を選び直すために。
そして、あの人のそばへ、今度は変えるために立つために。
春の光の中、御陵の門は静かに開いた。
依澄はその影の下へ、まっすぐ馬を進めた。
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