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第5話 その夜、夫は妹の部屋にいた
その日の朝、イリディアは目覚めた瞬間から、体の奥に小さな違和感を覚えていた。
痛み、というにはまだ遠い。
けれど、ただの疲れとも違う。
腹部の奥に、細い糸をゆっくり引かれるような感覚があった。きゅう、と微かに縮むような、鈍い重さ。息を止めてしまうほどではない。立てないほどでもない。けれど、確かにそこにある。
イリディアは寝台の上でしばらく天蓋を見つめていた。
薄い布越しに、朝の光が滲んでいる。冬の終わりの光は白く、まだ温度を持っていない。暖炉の火は夜の間に弱まり、灰の中で赤い小さな芯だけが残っていた。部屋の空気は冷え、寝具から出した指先がすぐに冷たくなる。
彼女はそっと腹部に手を置いた。
まだ何も変わらない。
見た目には、何も。
けれど、そこにいるかもしれない。
そう思うだけで、心臓のあたりが柔らかく震えた。
エルマン医師は「ご懐妊の可能性が高い」と言った。まだ確定ではない。日を置いてもう一度診る必要がある。無理は禁物。夜会や長時間の外出は避けること。
その言葉を、イリディアは何度も思い返していた。
昨日、ダリオンには話せなかった。
話しかけたところで、メルシュタイン家からの使いが来た。リゼリットが舞踏会の件で不安になり、眠れないと言っているから来てほしい、と。ダリオンは謝りながらも出て行った。夜遅く戻ったが、イリディアを起こさないようにと言い、自分の書斎へ入ってしまった。
優しさだったのかもしれない。
だが、その優しさは扉を開けなかった。
イリディアの言葉は、また喉の奥に残された。
「今日こそ」
小さく呟く。
声は寝室の冷えた空気に吸い込まれた。
今日こそ、夫へ伝えなければ。
子を授かったかもしれないこと。
医師から安静を勧められたこと。
舞踏会への出席は難しいかもしれないこと。
リゼリットの支度や控え室の手配は、別の者に任せたいこと。
言葉に並べると、どれも当然のことに思える。
けれど実際にダリオンを前にすると、イリディアはいつも言葉を選びすぎてしまう。
忙しい時に言ってはいけない。
機嫌の悪い時に言ってはいけない。
リゼリットの話題が出ている時に言ってはいけない。
母から手紙が来た日は避けたほうがいい。
確定ではないなら、余計な期待を持たせてはいけない。
そうやって、言うべきことはいつも後ろへ下がる。
けれど今は違う。
自分ひとりの問題ではない。
イリディアはゆっくり身を起こした。腹部の奥に、また微かな違和感が走る。眉を寄せ、しばらく動きを止めた。
痛い。
今度は、そう思った。
ほんの小さく。けれど確かに。
「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」
ミラの声が扉の外から聞こえた。
「ええ。入って」
侍女が洗面の湯を持って入ってくる。湯気が白く立ちのぼり、冷えた部屋の中で柔らかく揺れた。ミラはイリディアの顔を見るなり、すぐ表情を曇らせた。
「奥様。お加減が」
「少し、重いだけよ」
「お腹ですか」
その言葉に、イリディアは目を伏せた。
ミラにはもう隠せない。彼女は昨日、医師の診察にも立ち会っている。
「少しだけ」
「すぐにエルマン先生を」
「まだ大丈夫。朝食のあとで様子を見て、必要なら呼んで」
「でも」
「今日、ダリオン様にお話しするわ。だから、それまでは」
イリディアは言いかけて、口を閉じた。
だから、それまでは何なのだろう。
いつも通りに振る舞いたいのか。
夫に心配をかけたくないのか。
それとも、夫に話す前に大事にしたくないだけなのか。
ミラは洗面器を置き、そっと近づいた。
「奥様。旦那様にお話しする前でも、お体がつらい時はお休みになってよいのです」
よいのです。
その言い方が、胸に沁みた。
許しのように聞こえた。
「分かっているわ」
イリディアは小さく頷いた。
「でも、今日こそ伝えたいの。先延ばしにしたくない」
「では、旦那様がお戻り次第、私からお声をかけます」
「お願い」
ミラはそれ以上強く言わなかった。ただ、朝の支度はいつもよりずっと慎重だった。香りの強い石鹸は避け、髪もゆるくまとめ、体を締めつけない室内着を選ぶ。淡い灰青色の布が、イリディアの白い肌をいっそう薄く見せた。
「今日は書斎ではなく、こちらのお部屋で書類を」
「そうね。必要なものだけ運んでちょうだい」
少し前までなら、イリディアは書斎へ行くと言っただろう。
それをしなかった自分に、彼女自身が少し驚いた。
腹部に手を当てる。
守るためなら、休むことを選べるのかもしれない。
その事実が、かすかな希望のように感じられた。
午前のうち、イリディアは寝室に続く小さな居間で書類を確認した。
窓際の机には、舞踏会の手配書が広げられている。リゼリット用の控え室、当日の軽食、医師の待機、馬車の位置、使うべき花、避けるべき香。彼女が出席する前提で組まれた細かな配慮が、紙の上に整然と並んでいた。
その中央に、祖母の首飾りのことも書かれている。
菫色の首飾りに合わせる髪飾りは、銀細工か白真珠。
首元を隠さない髪型。
ドレスの胸元は開きすぎないこと。
夜気で体を冷やさぬよう、同系色の肩掛けを用意。
自分で書いた文字なのに、読むたびに胸が痛んだ。
祖母の首飾りは、まだ戻ってきていない。
リゼリットが「当日まで預かる」と言い、母もダリオンもそれを当然のように受け入れた。舞踏会が終われば返すと言われている。だがその首飾りはすでに、リゼリットの晴れ姿を飾るものとして語られ始めていた。
イリディアの思い出は、いつの間にか妹の装いの一部になっている。
彼女は手配書を閉じた。
今日はこれ以上見たくなかった。
代わりに、ミラが昨夜持ってきてくれた小さな白い布を手元に置いた。まだ産着にはなっていない。型を取っただけの、柔らかな布切れ。けれど指先で触れると、胸の奥が少し温かくなる。
その布だけが、今はイリディアのためのものに思えた。
誰かに譲るためではない。
誰かを飾るためでもない。
誰かの機嫌を取るためでもない。
まだ見ぬ命のため。
そして、その命を守りたいと願う自分のため。
昼近くになって、ダリオンから使いが戻った。
彼は朝早くから外出していた。リゼリットの髪飾りを選ぶため、メルシュタイン家と宝石商の店へ向かったのだと聞いている。
従僕が扉の外で報告する。
「旦那様は昼過ぎにはお戻りとのことでございます。ただ、メルシュタイン家より妹君もご一緒にこちらへいらっしゃるかもしれないと」
イリディアは一瞬、目を閉じた。
「リゼリットも?」
「はい。舞踏会の当日の動きについて、奥様にご相談されたいそうで」
相談。
その言葉は、もはや頼み事とほとんど同じ意味だった。
イリディアは腹部の奥に、また細い痛みを感じた。今朝より少し強い。椅子の肘掛けを握り、呼吸を浅くする。
ミラがすぐに気づいた。
「奥様」
「大丈夫……ではないわね」
イリディアは言い直した。
その言い直しだけで、少しだけ自分を裏切らずに済んだ気がした。
「少し痛むわ。でも、まだ」
「エルマン先生を」
「ダリオン様がお戻りになったら、すぐに話す。リゼリットには会わないわ。今日は無理だと伝えて」
「はい」
ミラの返事ははっきりしていた。
「従僕にも、そのように」
「お願い」
昼を過ぎても、ダリオンは戻らなかった。
痛みは、波のように来るようになった。
ずっと強いわけではない。静まる時もある。だが、ふとした瞬間に腹部の奥がきゅっと縮み、腰のあたりへ重さが広がる。そのたびにイリディアは息を止めた。布を握る指先に力が入る。
ミラはもう迷わなかった。
「奥様、エルマン先生をお呼びします」
「まだ、ダリオン様に」
「旦那様をお待ちしている間に悪くなってはなりません」
その声には、侍女としての礼儀を越えた強さがあった。
イリディアは少しだけ頷いた。
「……そうね。お願い」
自分でも、その返事ができたことに驚いた。
ミラはすぐに従僕を走らせた。
老医師はすぐには来られない。街の向こう側に往診へ出ているらしい。それでも使いを出しただけで、ミラの表情は少し引き締まった。何かを待つことができる。誰かを呼んだ。奥様はもうひとりではない。そう自分に言い聞かせているようだった。
だが、午後の光が傾く頃、ダリオンの馬車がようやく戻った。
玄関の方で馬車の車輪が止まる音がした。従僕たちの声。扉の開く音。誰かの軽やかな笑い声。
リゼリットの声だった。
イリディアは寝台の上で身を起こした。
ミラが慌てて支える。
「奥様、起き上がっては」
「ダリオン様が戻ったのね」
「私が呼んでまいります。奥様はそのまま」
ミラが部屋を出ようとした、その時。
廊下の向こうから、リゼリットの声が聞こえた。
「ダリオン様、本当にこちらで休んでもいいの?」
「もちろんだ。イリディアも許すだろう。顔色が悪いなら、少し休んでから帰ればいい」
「でも、お姉様のお邪魔では」
「気にしすぎだ。イリディアはそういうことを言う女じゃない」
イリディアは唇を閉じた。
そういうことを言う女じゃない。
また、夫が勝手に自分を決める。
気にしない女。
許す女。
譲る女。
何も言わない女。
腹部に痛みが走った。
「っ……」
思わず体を折る。
ミラが駆け寄った。
「奥様!」
「呼んで……ダリオン様を」
声が掠れた。
「すぐに」
ミラが扉を開け、廊下へ出た。
イリディアは寝台の端に座ったまま、片手で腹部を押さえた。冷たい汗が背中に浮かぶ。暖炉の火が入っているのに、体が寒い。指先が凍ったように冷たく、唇の感覚が薄い。
廊下でミラの声がする。
「旦那様。奥様がお呼びです。お加減が大変悪く」
ダリオンの声。
「イリディアが?」
足音が近づく。
扉が開いた。
ダリオンが入ってきた。外出着のまま、手袋も片方だけ外している。少し驚いた顔をしていたが、深刻さはまだ分かっていないようだった。
「イリディア。どうした」
その声を聞いた瞬間、イリディアは胸の奥が少し緩んだ。
来てくれた。
それだけで、情けないほど安心しかけた。
「ダリオン様」
「顔色が悪いな。まだ体調が戻っていないのか」
「違います。私……お話ししたいことが」
言葉を続けようとした時、また痛みが来た。
今度は強かった。
腹部の奥を固い手で握られるような痛み。腰から背中にかけて冷たい重さが広がる。イリディアは声にならない息を漏らし、寝台の縁を掴んだ。
「イリディア?」
ダリオンの顔色が少し変わる。
ミラが横から言った。
「旦那様、エルマン先生をお呼びしております。奥様は昨日、先生より」
その時、廊下からリゼリットの声がした。
「ダリオン様……?」
細く、不安げな声。
ダリオンの視線が扉へ動いた。
イリディアは、その動きを見た。
たった一瞬。
けれど、見てしまった。
夫の心が、自分から妹へ引っ張られる瞬間を。
「リゼリット?」
彼は扉の方へ顔を向けた。
リゼリットが顔を覗かせる。淡い菫色の外出着。首元には、あの首飾りはなかった。まだ舞踏会当日ではないからだろう。けれど彼女の髪には、今日選んだのか、白真珠の小さな髪飾りがついていた。
彼女はイリディアを見て、目を見開く。
「お姉様、具合が悪いの?」
「妹君、今は」
ミラが止めようとする。
しかしリゼリットはもう泣きそうな顔になっていた。
「私のせい? 私が来たから? ごめんなさい、お姉様。私、また迷惑を」
声が震える。
ダリオンは反射的にそちらへ向かった。
「リゼリット、落ち着け。お前のせいじゃない」
「でも、お姉様がこんなに苦しそうで……私、どうしたら」
リゼリットの呼吸が乱れた。
彼女は胸元を押さえ、よろめくように壁へ手をつく。
ダリオンがすぐに支えた。
「リゼリット!」
イリディアは寝台の上で、夫の背を見ていた。
痛みがある。
寒気がある。
体が明らかにおかしい。
それでも夫は、まず妹を支えた。
リゼリットは本当に不安定なのかもしれない。人前で取り乱しやすいのは確かだ。舞踏会を前に緊張しているのもあるだろう。
けれど。
けれど、今は。
「ダリオン様」
イリディアは声を絞り出した。
夫が振り返る。
「そばに……いてください」
その言葉を口にするのに、どれほどの勇気が要ったか。
イリディアは自分でも分かっていなかった。
頼る。
引き止める。
自分を優先してほしいと言う。
ずっとできなかったことを、痛みと寒気の中でようやく言った。
ダリオンの顔に迷いが浮かんだ。
その迷いが、イリディアの胸をひどく冷たくした。
「イリディア、医師は呼んでいるんだな」
彼はミラを見た。
「はい。すぐにこちらへ」
「なら、医師が来るまで休んでいろ。俺はリゼリットを客間へ」
「旦那様!」
ミラが思わず声を上げた。
ダリオンは苛立ったように眉を寄せる。
「リゼリットもこの状態だ。放っておけないだろう」
「奥様は」
「イリディアにはお前がついている。医師も来る。リゼリットは今、不安で息が乱れているんだ」
リゼリットはダリオンの腕の中で、震えるように息をしていた。
「ダリオン様、私、怖いの。お姉様が私を恨んでいるのではって。舞踏会も、首飾りも、私がわがままを言ったから」
「そんなことはない。イリディアはそんなことでお前を恨まない」
また。
また、勝手に言う。
恨まない女。
怒らない女。
傷つかない女。
イリディアは腹部を押さえたまま、呼吸を整えようとした。
痛みがゆっくり引いていく。だが、引いたあとに残る重さが先ほどより強い。腰が冷たい。寝具の上に座っているのに、冬の石床へ直接座っているようだった。
「ダリオン様」
もう一度呼ぶ。
声はかすれていた。
「行かないで」
夫は動きを止めた。
リゼリットも涙に濡れた顔を上げる。
部屋の空気が固まった。
イリディアはその視線に耐えた。
恥ずかしかった。
自分がこんなふうに縋ることが。
夫を妹から奪うように見えることが。
それでも、今だけは言わなければならないと思った。
「お願いです。そばにいてください。私、今……」
言いかけた。
子を授かっているかもしれないのです。
そう言おうとした。
だがその瞬間、リゼリットが小さく崩れ落ちた。
「リゼリット!」
ダリオンが彼女を抱きとめる。
リゼリットは完全に意識を失ったわけではない。けれど力が抜けたように彼の腕へ寄りかかり、苦しそうに目を閉じた。
「息が……うまく」
「分かった。すぐに横にさせる」
ダリオンはイリディアへ振り返った。
「すぐ戻る。リゼリットを客間に寝かせるだけだ」
イリディアは、夫の目を見た。
そこに悪意はなかった。
それが余計に残酷だった。
彼は本気で、すぐ戻るつもりなのだろう。
ほんの少し妹を落ち着かせるだけだと。
妻には侍女がいるから大丈夫だと。
医師も呼んでいるから問題ないと。
そう信じている。
自分の選択が、どれほど重い線を越えようとしているのか、まったく気づいていない。
「ダリオン様」
イリディアの声は、もうほとんど息だった。
「私の話を、聞いて」
「あとで聞く」
彼は言った。
そして、リゼリットを支えながら部屋を出て行った。
扉が閉まる。
廊下に足音が遠ざかる。
イリディアは、それを聞いていた。
ミラがすぐに駆け寄る。
「奥様、横に。お願いです、横になってください」
イリディアはミラに支えられて寝台へ戻った。
寒い。
ひどく寒い。
歯が鳴りそうになるのを必死に抑える。ミラが毛布を重ね、暖炉の火を強くし、温かい布を用意する。けれど寒気は体の外からではなく、内側から湧いてきた。
腹部の痛みは、また波を打ち始めた。
先ほどより強い。短い間隔で来る。痛みのたびに、体が小さく丸まろうとする。
「呼び鈴を」
イリディアは言った。
ミラがすぐに寝台脇の呼び鈴を取る。
「旦那様をもう一度」
「はい」
鈴が鳴った。
澄んだ音が、部屋の中に響く。
りん、と小さく。
それだけだった。
廊下は一瞬、静かになったように思えた。だが誰も来ない。
ミラはもう一度鳴らした。
今度は強く。
りん、りん。
音は扉の向こうへ抜け、冷えた廊下へ広がっていく。
虚しいほど綺麗な音だった。
イリディアは天井を見ていた。
呼び鈴の音が遠くなる。
戻ってこない足音。
開かない扉。
冷えた廊下。
客間へ向かった夫。
夫は妹の部屋にいる。
その事実が、痛みよりも鋭く胸に刺さった。
「もう一度」
ミラが従僕を呼びに走ろうとした時、イリディアは彼女の袖を掴んだ。
「行かないで」
ミラは振り返った。
イリディア自身、自分が何を言ったか一瞬分からなかった。
夫を呼んでほしい。
医師を呼んでほしい。
誰かを呼んでほしい。
でも、ミラに離れられるのも怖かった。
今、この部屋で自分の手を握ってくれている唯一の人だった。
「ここにいて」
イリディアは言った。
「お願い」
ミラの顔が歪んだ。
「はい。おります。ここにおります」
彼女は寝台のそばに膝をつき、イリディアの手を握った。
その手は温かかった。
イリディアの指先が冷え切っているせいで、痛いほど温かく感じる。
「エルマン先生は、もうすぐです。必ず」
ミラが何度も言う。
必ず。
その言葉に縋りたかった。
痛みの波がまた来た。
イリディアは息を詰め、ミラの手を握り返した。背中が汗で湿っている。額にも冷たい汗が滲む。吐き気がこみ上げ、喉の奥が酸っぱくなる。体の奥で何かが剥がれ落ちるような、言葉にしがたい恐怖があった。
だめ。
まだ。
まだ、何も始まっていない。
誰にも言っていない。
ダリオンにも。
この子に名前もない。
産着だって、布を切っただけ。
まだ抱いていない。
まだ笑ってもいない。
まだ。
「奥様、息を。ゆっくり」
ミラの声が震えている。
イリディアは呼吸しようとした。だが、吸うたび腹部が痛む。吐くたびに寒気が強くなる。
時間の感覚が曖昧になった。
どれほど経ったのか分からない。
呼び鈴は何度か鳴らされた。従僕が一度だけ顔を出し、青ざめて医師の到着を確認しに走った。ダリオンを呼びに行くと言ったが、戻ってこなかった。
後から思えば、客間ではリゼリットが泣き続けていたのだろう。
不安で眠れない。
お姉様に嫌われたかもしれない。
舞踏会が怖い。
首飾りを返したほうがいいのかもしれない。
そんな言葉で夫を縛っていたのだろう。
けれどその時のイリディアには、廊下の向こうのことなど分からなかった。
分かるのは、自分の部屋の寒さだけ。
ミラの手の温かさだけ。
腹部の痛みだけ。
そして、夫が来ないことだけだった。
やがて、エルマン医師が駆け込んできた。
外套に冷たい夜気をまとったまま、白髪を少し乱している。普段は落ち着いた老医師の顔が、部屋に入った瞬間、険しくなった。
「奥様」
ミラが泣きそうな声で言う。
「痛みが、寒気も。旦那様をお呼びしたのですが」
「今は奥様を」
エルマンは短く言い、すぐに診察へ入った。
脈を取る。顔色を見る。腹部の状態を確かめる。彼の手つきは慎重だったが、その目の奥に焦りが浮かんでいるのを、イリディアはぼんやり見ていた。
「奥様、聞こえますかな」
「はい」
声は掠れていた。
「痛みはいつから」
「朝から……少し。午後から、強く」
「出血は」
ミラが息を飲む。
イリディアは答えようとして、言葉が出なかった。
自分でも分かっていた。
何かが、もう戻らないところへ向かっている。
「温かい布を。湯を多めに。人をもう一人呼びなさい。静かに、急いで」
エルマンの声が低く飛ぶ。
ミラが動く。別の侍女が呼ばれる。部屋の中が慌ただしくなる。けれど、その慌ただしさは遠かった。厚い硝子の向こうで起きていることのように感じた。
イリディアは天蓋を見つめていた。
白い布が揺れている。
そういえば、小さな産着の布はどこに置いたのだろう。
さっきまで手元にあったはずだ。
あの柔らかな白い布。
まだ何者にもなっていない布。
彼女はそれを探そうとして、指を動かした。
ミラがすぐに気づく。
「奥様?」
「布……」
「布?」
「白い、布」
ミラの顔が歪んだ。
それでも彼女はすぐに机の上から小さな布を取ってきた。イリディアの手元へそっと置く。
柔らかい。
指先で触れると、かろうじてその感触が分かった。
イリディアは布を握った。
この子のために、と思った布。
まだ生まれてもいない。
まだ名もない。
まだ誰にも祝福されていない。
でも、確かに願った。
守りたいと。
「ダリオン様は」
イリディアは呟いた。
ミラが答えに詰まる。
エルマン医師が険しい顔で作業を続ける。
誰も答えない。
それが答えだった。
夫は、妹の部屋にいる。
あるいは客間かもしれない。
リゼリットの寝台のそばかもしれない。
彼女の手を握り、眠るまでそばにいると言っているのかもしれない。
その夜、イリディアが腹部の痛みに耐えている間。
夫は妹の部屋にいた。
その事実が、静かに、確実に、イリディアの中で何かを壊した。
痛みの波がまた来た。
今度は深かった。
声が漏れる。自分のものとは思えない、弱い声。ミラが手を握り、何度も名前を呼ぶ。エルマンが指示を出す。暖炉の火が赤く揺れる。窓の外では、風が強くなっていた。枝が硝子をかすめ、かり、と乾いた音を立てる。
イリディアは目を閉じた。
お腹の中へ、心の中で呼びかける。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
まだ、誰にも言ってあげられなかった。
あなたがいるかもしれないと、ちゃんと声にして守ってあげられなかった。
お父様にも言えなかった。
お母様になるかもしれない私は、まだ何もできなかった。
ごめんなさい。
ミラの手が震えている。
エルマン医師の声が低くなる。
「奥様、しっかりなさい。意識を手放してはいけません」
意識。
手放したいわけではない。
けれど体が冷たい。
寒い。
痛みの合間に、ひどい眠気のようなものが来る。落ちてしまえば少し楽になるかもしれない。そう思ってしまうほど、体が遠い。
だが、イリディアは布を握った。
この布を離したら、本当に何も残らない気がした。
「ミラ」
「はい、奥様。ここにおります」
「私……」
息が途切れる。
「この子に、気づいていたわ」
ミラの涙が、イリディアの手の甲に落ちた。
温かい雫だった。
「はい。奥様は気づいておられました」
「誰も……知らなくても」
「はい」
「私だけは」
「はい。奥様だけは、ちゃんと」
ミラは泣きながら、それでもはっきり答えた。
それで少し救われた。
誰にも知られなかった命。
けれど、完全に誰にも気づかれなかったわけではない。
イリディアは気づいていた。
ミラも知ってくれていた。
エルマン医師も、可能性を言葉にしてくれた。
それだけで足りるはずはない。
けれど、何もなかったことにはしたくなかった。
痛みが遠のいた。
不思議なほど、静かになった。
その静けさが、逆に怖かった。
エルマン医師の顔が、視界の端で沈む。
ミラの嗚咽が聞こえる。
誰かが湯を替える音。布を絞る音。暖炉の薪が崩れる音。呼び鈴が、寝台脇で寂しく揺れている音。
そして、扉の外から遠く響く声。
ダリオンの声だった。
「イリディアはどうだ」
遅い。
その一言が、イリディアの胸に浮かんだ。
遅い。
あまりにも。
扉が開いた。
ダリオンが入ってきた時、彼の顔にはようやく本物の焦りがあった。リゼリットを置いてきたのか、外套もなく、髪も乱れている。
「イリディア」
彼は寝台へ近づこうとした。
ミラが振り返った。
その顔を見て、ダリオンは足を止めた。
泣いている侍女。
険しい顔の老医師。
血の気を失った妻。
妻の手に握られた、小さな白い布。
彼はまだ分かっていない。
けれど、何か取り返しのつかないことが起きたことだけは分かったのだろう。顔から色が消えていく。
「何が……」
エルマン医師が低く言った。
「旦那様。今は奥様を休ませることが先です」
「何があった」
ダリオンの声が震えた。
イリディアは夫を見た。
不思議だった。
ついさっきまで、あれほど来てほしかった。
そばにいてほしかった。
話を聞いてほしかった。
なのに今、彼の顔を見ても、胸の奥がほとんど動かない。
寒さが強すぎると、痛みを感じなくなるように。
心も、あるところを越えると静かになるのかもしれない。
「ダリオン様」
イリディアは呼んだ。
彼はすぐに寝台のそばへ来た。
「イリディア。何だ。どうしたんだ。医師は何を」
彼の手が、イリディアの手へ伸びる。
だが、イリディアは無意識に白い布を握りしめた。
ダリオンの手は、その少し手前で止まった。
「私」
声が掠れる。
「あなたに、話したかったことがありました」
「聞く。今聞く。だから」
「昨日も、今日も」
「すまない。リゼリットが」
リゼリット。
その名前が出た瞬間、イリディアは目を閉じた。
まだ彼は、そこから始めるのだ。
謝罪の前に。
妻の痛みを聞く前に。
何が起きたかを知る前に。
妹の名前が出る。
もう、何も言わなくていい気がした。
けれど、これだけは言わなければならなかった。
この子がいたことを。
少なくとも、夫には。
「子を」
ダリオンの顔が固まった。
「授かっていたかもしれません」
部屋が静まり返った。
暖炉の音すら遠くなる。
「かも、しれない?」
「エルマン先生が、可能性が高いと」
ダリオンはゆっくり医師を見た。
エルマン医師は重く頷いた。
「昨日、診察いたしました。まだ早い段階でしたが、ご懐妊の兆しは濃かった。安静が必要だと申し上げました」
ダリオンの唇が震えた。
「なぜ……なぜ俺に」
言わなかった。
そう言いかけたのだろう。
イリディアは、かすかに笑った。
笑ったつもりはなかった。けれど、唇が少しだけ動いた。
「聞いて、いただけませんでした」
ダリオンの顔が歪む。
「俺は」
「昨日も、今日も」
「リゼリットが不安定で」
「はい」
イリディアは静かに頷いた。
「リゼリットが、不安定でした」
その言葉に、責める響きはほとんどなかった。
ただ事実だった。
ダリオンはリゼリットを選んだ。
いつものように。
そしてその間に、イリディアはひとり、授かったばかりの命を失った。
ダリオンは膝から崩れるように寝台の脇へ手をついた。
「イリディア、俺は知らなかった」
「はい」
「知っていたら」
イリディアは夫を見た。
知っていたら。
その言葉は、あまりに遅かった。
知ろうとしなかったのではないのか。
聞く前に出て行ったのではないのか。
呼び鈴が鳴っても戻らなかったのではないのか。
だが、イリディアはもうその問いを口にする力がなかった。
「寒いです」
彼女はただ、そう言った。
ミラがすぐに毛布をかけ直す。
ダリオンも手を伸ばそうとしたが、ミラの動きのほうが早かった。
その一瞬に、奇妙な沈黙が落ちた。
夫より先に、侍女が妻の寒さを知っている。
夫より先に、侍女が妻の手を握っている。
夫より先に、侍女が失われた命を泣いている。
ダリオンの顔がさらに青ざめた。
「イリディア」
彼は震える声で呼ぶ。
イリディアは白い布を見つめた。
小さな産着になるはずだった布。
もう、誰も着ない。
けれど捨てられない。
これは確かに、願いだった。
ほんの短い間だけ胸に灯った、イリディア自身の願いだった。
「この布を」
彼女はミラへ言った。
「しまっておいて」
「はい」
「捨てないで」
「はい。絶対に」
ミラは泣きながら頷いた。
ダリオンはそのやり取りを、ただ見ていた。
自分の知らないところで、妻と侍女の間にだけ存在していた命の時間を、初めて目の当たりにしている顔だった。
「俺は」
彼が言う。
「俺は、どうすれば」
イリディアは目を閉じた。
どうすれば。
その問いにも、もう答えられない。
今さら何をしても、戻らない。
夫がそばにいたとしても、失われたかもしれない。医師が間に合ったとしても、救えなかったかもしれない。まだ早い段階だった。誰のせいとも言い切れない部分もあるのだろう。
けれど。
それでも。
この夜、イリディアが痛みに耐えていた時、夫が妹のそばにいた事実は消えない。
呼び鈴の音が廊下に虚しく響いたことも。
行かないでと言った妻を置いて、彼が部屋を出たことも。
子のことを告げる前に、すべてが遅くなったことも。
消えない。
「休ませてください」
イリディアは言った。
ダリオンが息を呑む。
「今は、誰にも会いたくありません」
「イリディア」
「お願いします」
その声は弱かったが、はっきりしていた。
ダリオンは何か言いたげに唇を開いた。だが、エルマン医師が低く告げる。
「旦那様。奥様には安静が必要です」
ミラも、涙を拭いながら立ち上がった。
「旦那様。どうか」
出て行ってください。
そう言葉にしなくても、伝わる声音だった。
ダリオンは妻を見た。
イリディアは目を閉じていた。
その手は白い布を握りしめたまま。
夫の手ではなく。
ダリオンはゆっくり立ち上がった。
「……分かった」
扉の方へ歩く。
足音が重い。
彼が出て行く直前、廊下の向こうからリゼリットの声が聞こえた。
「ダリオン様? お姉様は……?」
ダリオンの足音が止まった。
イリディアは目を閉じたまま、その沈黙を聞いた。
彼が何と答えたのかは分からなかった。
扉が閉まる音だけがした。
部屋には、ようやく静けさが戻った。
けれど、それは安らぎではなかった。
何かを失った後の、白い静けさだった。
エルマン医師が処置を終え、低い声で今後の注意をミラに伝えている。体を冷やさないこと。しばらくは絶対に無理をしないこと。心身の負担を避けること。再度、夜明けに診ること。
言葉は聞こえる。
けれど、イリディアの意識はどこか遠かった。
白い布。
小さな手。
まだ見ぬ子。
誰にも祝福されなかった命。
それらが胸の中で、静かに沈んでいく。
涙は出なかった。
出ればよかったのかもしれない。
泣き叫べば、誰かがイリディアの痛みに気づいたかもしれない。
けれど、彼女の涙はやはり凍っていた。
代わりに、ミラが泣いてくれた。
ミラの涙が、握りしめたイリディアの手に落ちる。
温かい。
その温かさだけが、今夜の中で唯一、確かなものだった。
「奥様」
ミラが囁く。
「お休みください。ここにおります」
イリディアは、ほんの少しだけ頷いた。
「ミラ」
「はい」
「あの子は」
声が震えた。
「いたのよね」
ミラは迷わず答えた。
「はい。いらっしゃいました」
「短くても」
「はい」
「誰も知らなくても」
「奥様が知っておられました。私も、エルマン先生も。確かに、いらっしゃいました」
イリディアは布を握ったまま、深く息を吸った。
胸が痛い。
腹部も痛い。
寒い。
けれど、その言葉だけは、ほんの少し胸に残った。
確かに、いた。
それだけは誰にも消させない。
ダリオンにも。
リゼリットにも。
母にも。
この屋敷の静かな無関心にも。
イリディアは目を閉じた。
意識が沈んでいく。
その深い暗がりの中で、呼び鈴の音がまだ微かに鳴っているような気がした。
りん、と。
冷えた廊下へ響いて、誰にも届かなかった音。
その夜、夫は妹の部屋にいた。
そしてイリディアは、ひとりではないとミラに言われながら、それでも心の一番深いところでは、どうしようもなくひとりだった。
授かったばかりの命を失った夜。
彼女の中で、妻として夫を待ち続けていた何かもまた、静かに息を止めた。
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