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第13話 北の使用人たちは、奥様候補を観察する
ノルヴァイル辺境伯邸の使用人たちは、客人に慣れていないわけではなかった。
北の要地であるこの屋敷には、軍人、使者、商人、医師、領内の有力者、王都からの視察官など、さまざまな人間が訪れる。雪で足止めされる者もいれば、国境沿いの緊急報告で深夜に転がり込む者もいる。
だから、客室を暖めることも、長旅の者に湯を出すことも、濡れた外套を乾かすことも、馬を休ませることも、彼らにとって特別な仕事ではなかった。
けれど、王都から来た元侯爵夫人となると、話は少し違った。
しかも、ただの療養客ではない。
離縁したばかり。
体調を崩している。
王都の名家の出。
元夫は侯爵。
実家はメルシュタイン家。
そして、辺境伯セヴラードが直々に玄関前で迎えた。
屋敷の使用人たちが警戒するには、十分すぎる材料だった。
最初にそれを口にしたのは、洗濯係のリーヴァだった。
彼女は三十を少し越えた働き者で、寒い水場でも平然と袖をまくる女だった。太い腕とよく笑う口元を持つが、人を見る目は鋭い。王都から来る貴婦人を何人か見たことがあり、そのたびに苦労した経験があった。
「王都のお綺麗な奥様っていうのは、布一枚にも文句を言うもんだよ」
洗濯室で、リーヴァはそう言った。
湯気が白く上がっている。大きなたらいの中では、客室用のシーツが揺れていた。外は雪混じりの風で、窓の隙間から冷気が入ってくる。洗濯室は湯を使うぶん湿っていて、寒さと熱が変な具合に混ざる場所だった。
若い侍女のネリーが、濡れた布を絞りながら目を丸くした。
「でも、昨日お見かけした感じでは、とても静かな方でしたよ。声も小さくて」
「静かな人ほど、後で細かいことを言う場合もあるの」
リーヴァは鼻を鳴らした。
「前に来た王都の伯爵夫人なんて、枕の高さが指一本分違うって朝まで眠れなかったと仰ったんだから。指一本よ。こっちは雪の中で薪運んでたってのに」
ネリーは小さく笑いかけたが、すぐ真面目な顔に戻った。
「でも、イリディア様はお具合が悪いのでしょう?」
「だから余計に気を遣うんだよ。具合の悪い貴婦人ってのは、本人より周りが大変なの。何を食べられるか、何を嫌がるか、何を言ったら傷つくか。王都言葉は綺麗すぎて、こっちには分かりにくいからね」
そこへ、家政を預かるオルガが入ってきた。
彼女が来た瞬間、洗濯室の空気がすっと整う。オルガは特別声を荒げることはないが、背筋の伸び方一つで周囲を静かにさせる女だった。
「余計な詮索はしないように」
オルガは短く言った。
リーヴァは肩をすくめる。
「分かっていますよ、奥様候補の噂なんてしません」
ネリーがぎょっとした。
「リーヴァさん」
「言葉の綾だよ。だって、お館様が玄関の外まで迎えに出たんだろう? 客人相手に、あの方が」
オルガの目が細くなった。
「軽口にしても、場所を選びなさい」
「はいはい」
「それから、候補などという言い方は慎みなさい。イリディア様は療養のために来ておられる客人です」
「分かっています」
リーヴァは今度は素直に頷いた。
だが、洗濯室の誰もが同じことを少しは思っていた。
奥様候補。
それはまだ、恋めいた期待ではなかった。
この屋敷には長く女主人がいない。セヴラードは未婚で、屋敷の運営はオルガとハルトヴィンがきっちり支えている。困っているわけではない。むしろ、ノルヴァイルの屋敷は王都の華やかな邸宅よりずっと合理的に回っている。
だが、屋敷というものには、どこかに空席がある。
晩餐の席にも。
客人を迎える玄関にも。
祝祭の日の広間にも。
領民たちが相談に来る場にも。
その空席を、使用人たちは普段あまり口にしない。
セヴラード自身が、その空席を必要としていないように見えるからだ。
けれど、王都から来た元侯爵夫人が滞在すると聞いた時、屋敷の者たちが一度は思った。
どんな人なのだろう。
この屋敷の空気に、入れる人なのだろうか。
それとも、王都の絹と香水と噂話を連れてきて、北の火をかき乱す人なのだろうか。
警戒は、その疑問の裏返しだった。
そして、最初にその警戒を解かれかけたのは、料理長のベッタだった。
ベッタは自分の厨房を城だと思っている女だった。
もちろん、実際には城ではない。けれど、冬のノルヴァイルで人が生きるには、剣と同じくらい鍋が大事だと彼女は信じていた。寒い土地では、食べない者から倒れる。倒れた者は働けない。働けない者が増えれば、屋敷も領地も回らない。
だから厨房は戦場であり、城であり、医療院の前線でもある。
そのベッタは、イリディアの最初の食事を見て、すぐに判断した。
「あの方、放っておくと食べませんね」
夕食後、厨房の大鍋をかき混ぜながら、ベッタはそう言った。
オルガが帳面に献立の記録を書きつけていた手を止める。
「食べられない、ではなく?」
「食べられないのもあります。けど、それだけじゃない」
ベッタは木匙で鍋の底をゆっくりさらった。
「食べていいと思っていない顔でした。自分のために皿が出てくることに慣れていない。食卓を見た瞬間、まず席と配膳の順番を見ていましたよ」
オルガは眉を少し上げた。
「気づきましたか」
「当然です。ああいう目は、料理よりも食卓全体を見ています。元侯爵夫人だから、女主人としての癖でしょうね。でも、違うんですよ」
「何が」
「あの方は、自分が客だと分かっていない。食堂に来た瞬間から、どこが手伝えるかを探していました」
厨房の若い下働き、トマが不思議そうに口を挟んだ。
「偉そうじゃないなら、いいことじゃないですか」
ベッタは木匙をトマへ向けた。
「違うよ、坊や。偉そうじゃないのと、自分を勘定に入れないのは別だ」
トマは慌てて背筋を伸ばした。
「すみません」
「謝るのは今じゃない。芋の皮を薄く剥きすぎた時に謝りな」
厨房に小さな笑いが起きる。
だが、ベッタの目は笑っていなかった。
「あの人は、放っておくと客のまま台所に入って、皿を運んで、寒い廊下に立って、それで倒れる。間違いない」
オルガは帳面を閉じた。
「同感です」
「でしょう?」
「明日から、イリディア様が食事中に立とうとしたら、近くの者が座っていただくように」
「料理長命令でも出しましょうか。食べるのが仕事です、と」
「それはもう言ったでしょう」
「何度でも言いますよ。ああいう方は一度では足りません」
ベッタは鍋の蓋を閉め、腕を組んだ。
「それに、あの方は味をちゃんと感じています。食べられるようになる見込みはあります。無理させなければ」
「無理させなければ」
オルガが繰り返した。
その言葉は、厨房の中で静かに重くなった。
無理させなければ。
それが、北の使用人たちの最初の合言葉になった。
翌朝、使用人たちはそれぞれの持ち場で、イリディアを観察し始めた。
ただし、じろじろ見るのではない。
ノルヴァイルの屋敷の者たちは、戦場帰りの客や負傷した兵士を世話することにも慣れている。見られていると気づかれずに状態を確認する術を、ある程度身につけていた。
廊下を歩く速度。
階段で立ち止まる回数。
食事の量。
手の震え。
窓辺に立つ時間。
暖炉の火が弱った時、自分で動こうとするか。
誰かに声をかける前に謝るか。
それらはすぐ、使用人たちの間で共有された。
「今朝、二階の東廊下で壁に手をついておられました」
若い従僕のイサークが、朝の打ち合わせで報告した。
ハルトヴィンはすぐに聞いた。
「時間は」
「七時半頃です。ミラ様が湯を取りに行っている間でした」
「一人だったのか」
「はい。ただ、立ち止まっただけで、すぐ客室へ戻られました」
ハルトヴィンは少し考えた。
「東廊下の途中に椅子を置く。休憩用だと分からぬよう、花台の隣に」
「花は香りのないものに?」
ネリーが聞く。
「当然だ」
オルガが頷く。
「針葉樹の小枝か、乾いた赤い実でよいでしょう。花は強い香りのないものだけ」
ベッタは厨房から顔を出し、手を挙げた。
「昼はスープを小さめの器で。最初から少ない量にしてください。残す罪悪感を減らしたい」
「了解しました」
給仕係の青年ユアンが答える。
ユアンはもともと口数が少ないが、観察力が高い。昨夜の食事でイリディアが皿を残す時にどれほど緊張していたかを見て、何か思うところがあったらしい。
「器を下げる時、何も言わないほうがいいですか」
「何も、ではなく」
ベッタが考えた。
「食べた分を受け取ればいい。残した分を見ない。下げる時は、次に白湯をお持ちしますか、とでも聞きな」
「はい」
オルガが淡々とまとめる。
「イリディア様が何か手伝おうとした場合、まず断る。強く言いすぎない。代わりに座れる場所か、手を温められるものを用意する」
リーヴァが手を挙げた。
「洗濯室へ来た場合は?」
全員が一瞬黙った。
来るのか。
そう思ったのだ。
だが、昨日の食堂で立ち上がろうとした様子を見れば、来ないと言い切れない。
ハルトヴィンは眉間に皺を寄せた。
「洗濯室は寒く湿っている。入れないのが望ましい」
「でも、あの方、見たら気にすると思いますよ。昨日も廊下の隅の結露に目が行っていました」
リーヴァは腕を組んだ。
「王都の奥様って、綺麗なものだけ見てるのかと思っていたけど、あの方は違う。建物の寒いところを見ている目です」
オルガが静かに頷いた。
「では、洗濯室や厨房を見られた場合、問題を隠さない。ただし、手を出させない。気づいた点を聞くだけにする」
ベッタがにやりとした。
「手を出したら、食べるのが仕事です、と言います」
「そればかりでは失礼です」
「でも効きますよ」
ハルトヴィンは小さくため息をついた。
「とにかく、イリディア様を働かせないこと」
その言葉に、使用人たちは一斉に頷いた。
働かせない。
王都の元侯爵夫人に対して、普通なら逆の警戒をする。
わがままを言わせない。
余計な命令を出させない。
屋敷のやり方を乱させない。
だが、ノルヴァイルの使用人たちの警戒は、到着二日目にして方向を変え始めていた。
この方は、命令する人ではない。
この方は、黙って自分を使ってしまう人だ。
そう見抜き始めていた。
その日の午前、イリディアはミラに支えられて屋敷の中を少し歩いた。
医師からは、無理のない範囲で短い散歩ならよいと言われていた。雪が降っているため外には出られない。代わりに、オルガが屋敷の一部を案内することになった。
廊下は広く、石壁は冷たい。だが床には厚い敷物が敷かれ、窓の下にはところどころに木製のベンチが置かれている。昨日まではなかった場所にも、小さな椅子や花台がさりげなく増えていた。
イリディアはすぐに気づいた。
「この椅子、昨日はありませんでしたね」
オルガは少しも動じなかった。
「古いものを出しました。冬場、廊下で休む者が使います」
「そうですか」
イリディアはその椅子を見つめた。
木は古いが、きちんと磨かれている。座面には厚手の布が敷かれ、隣の花台には針葉樹の小枝と赤い実が置かれていた。
明らかに、自分のためだ。
だが、そう言わせない形にしてある。
イリディアは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「古い椅子ですので」
オルガはそう答えた。
礼を受け取りつつ、恩着せがましくしない。
イリディアは、その対応に少し救われた。
廊下を進むと、厨房へ近づく。扉の向こうから、野菜を刻む音、鍋が煮える音、ベッタの大きな声が聞こえた。
「ここの厨房は、ずいぶん奥にあるのですね」
イリディアが言うと、オルガが頷いた。
「冬場の熱を逃がしすぎぬよう、中央寄りにあります。ただし、換気には気を遣います」
「換気」
イリディアは扉の下の隙間へ視線を落とした。
そこから、少し冷気が流れている。厨房の熱が廊下へ逃げているわけではない。むしろ外からの冷たい空気が一部入り込んでいるようだった。
「風向きによって、煙が戻ることがあるのですか」
オルガが少し目を見開いた。
「なぜそう思われました」
「扉の下の空気の流れが、不規則なので。王都の屋敷でも、北向きの厨房で似たことがありました。換気口の位置を変えるより、衝立を一枚置いたほうが簡単に改善しました」
ミラが少し驚いた顔をした。
オルガも数秒沈黙した。
厨房の扉が開く。
ベッタが顔を出した。
「今の、詳しく聞きたいですね」
イリディアは反射的に一歩下がった。
「あ、いえ。余計なことを」
「余計ではありませんよ。煙が戻る日は、みんな涙目で玉ねぎを切っていないのに泣く羽目になるんです」
ベッタは真剣だった。
「ただし、厨房には入りません。寒いですし、床が濡れているところがあります。こちらの椅子へどうぞ」
いつの間にか、ユアンが廊下の椅子を少し近くへ寄せていた。
イリディアはその動きに気づき、少し困ったように笑った。
「皆さん、手際がよいのですね」
ベッタは胸を張った。
「北では、倒れる前に椅子を出すのが作法です」
オルガが小さく咳払いをした。
「そのような作法はありません」
「今作りました」
ミラが口元を押さえた。
イリディアも、ほんの少し笑った。
その笑みを見て、廊下の空気が柔らかくなった。
イリディアは椅子に腰かけ、厨房の扉を少し開けた状態で、換気について話した。王都の侯爵邸で行った改善。冬場の熱を逃がさず、煙を外へ流すための衝立の置き方。配膳の時に熱い皿が冷えない導線。厨房の下働きが冷たい廊下で待たされないよう、仮置き台を暖炉寄りに移したこと。
話しているうちに、彼女の目は少しずつ生気を帯びた。
これは、得意なことなのだ。
場を整えること。
人の動きを見て、無駄な負担を減らすこと。
誰かが寒くないように、誰かが重いものを持ちすぎないように、誰かが不必要に走らなくていいように考えること。
それは、王都で彼女を縛っていた役目でもあった。
けれど本来、それは彼女の優れた能力だった。
自分を削る方向へ使わなければ、それは人を助ける力になる。
オルガはそれを見ていた。
ベッタも、ハルトヴィンも、後から廊下へ来たセヴラードも。
セヴラードは途中から、少し離れた場所で話を聞いていた。
イリディアは彼に気づくと、すぐ立ち上がろうとした。
その前に、セヴラードが言った。
「座っていろ」
もうこの屋敷で何度目かの言葉だった。
イリディアは一瞬止まり、素直に座り直した。
「はい」
その返事を見て、ハルトヴィンの目元がわずかに緩んだ。
進歩だ。
使用人たちは密かにそう思った。
セヴラードは厨房の扉と廊下を見た。
「衝立を作ればいいのか」
イリディアは少し考えた。
「仮のものでよいと思います。完全に塞ぐのではなく、風の向きを変える程度で」
「ハルトヴィン」
「手配します」
「今日中に」
「はい」
あまりに早い決定だった。
イリディアは驚いて顔を上げる。
「そんな、私の思いつきですから」
「困っていたなら、試す価値はある」
セヴラードは短く言った。
「合わなければ戻す」
それだけだった。
彼はイリディアの提案を、客人の思いつきとして軽んじなかった。かといって、褒めちぎったり、過度に持ち上げたりもしなかった。
困っていた。
試せる。
合わなければ戻す。
それだけ。
イリディアはその単純さに、少し戸惑いながらも頷いた。
午後になると、屋敷の使用人たちの間で話題はすぐ広がった。
「イリディア様、厨房の煙戻りに気づいたらしい」
「廊下の空気の流れを見ただけで?」
「王都の奥様って、そんなところ見るんですか」
「普通は見ないよ。あの方が見るんだ」
リーヴァは洗濯室でそう言い切った。
「それにね、さっき洗濯室の前を通られたんだけど、いきなり『ここは手が冷えますね』って仰ったの」
ネリーが驚いた。
「入っていないのに?」
「扉の近くの床が濡れてたのと、窓の霜を見たんだろうね。あと、私の手が赤かったからかもしれない」
「それで?」
「手袋の替えを増やせないかって。乾ききらないまま使うと、ひび割れが悪化するからって」
リーヴァは自分の手を見た。
冬の洗濯仕事で荒れた手。赤く、硬く、指先に細かな傷がある。
「王都の貴婦人に、洗濯係の手なんて見られたくないと思ってたけどね」
彼女は少しだけ困ったように笑った。
「見られて嫌じゃなかったのは、初めてかもしれない」
ネリーは黙ってそれを聞いていた。
イリディアが最初に名前を覚えたのも、ネリーだった。
朝、白湯を運んだ時のこと。
「ありがとうございます、ネリー」
そう言われた。
ネリーは驚いて、盆を落としそうになった。
名前を名乗った覚えはあったが、一度だけだった。しかも、到着した日の慌ただしい時に。王都の元侯爵夫人が、自分のような若い侍女の名前を覚えているとは思わなかった。
「お、覚えてくださったのですか」
思わずそう聞いてしまった。
イリディアは少しだけ不思議そうにして、それから静かに頷いた。
「もちろん。昨日、お茶を運んでくださったでしょう。湯気が強くならないよう、少し冷ましてくれていました」
ネリーはその時、胸の奥がむずむずした。
自分が気をつけたことに、気づいてくれていた。
たったそれだけで、廊下を戻る足が少し軽くなった。
その話を聞いた使用人たちは、さらに警戒を変えた。
王都から来た元侯爵夫人は、偉ぶらない。
むしろ、見すぎるほど見る。
人の名前を覚える。
手荒れに気づく。
厨房の寒さに気づく。
配膳の順番に気づく。
そして、気づくたびに自分が何かしようとする。
だから危ない。
夕方、使用人たちは再び短い打ち合わせをした。
場所は使用人用の食堂だった。
木の長卓に、温かい茶が置かれている。窓の外はもう薄暗く、雪が降っていた。暖炉の火が赤く、使用人たちの顔を照らしている。
ハルトヴィンが静かに言った。
「結論から言う。イリディア様は、放っておくと倒れる」
全員が深く頷いた。
異論はなかった。
ベッタが腕を組む。
「食べる量はまだ少ない。でも、自分が食べないで他人の動きを見る余裕はある。よくありません」
「廊下に椅子を増やしたのは正解でした」
ユアンが言った。
「今日、厨房前で座っていただけました」
「座っていただけました、って言い方がもうおかしいね」
リーヴァが笑う。
オルガは真面目な顔で言った。
「笑い事ではありません。イリディア様は、自分が座ることに許可が必要だと思っておられる節があります」
その場が静かになった。
誰も軽口を続けなかった。
ハルトヴィンが頷く。
「だから、こちらが先に許可を出す。食べてよい。座ってよい。休んでよい。手を出さなくてよい。そう伝える」
ベッタが木の杯を持ち上げた。
「明日の朝食は、食べるのが仕事です第二弾でいきます」
「言い方は少し考えなさい」
オルガが言った。
「でも、必要です」
ネリーが小さく手を挙げた。
「イリディア様が謝った時は、どうすれば」
少し沈黙。
それはこの屋敷の者たちも気になっていた。
イリディアはよく謝る。
椅子に座って謝る。
残して謝る。
寒くて立ち止まって謝る。
名前を呼んで謝る。
眠れなかったことを謝る。
謝罪が、癖になっている。
ハルトヴィンは考えた。
「否定しすぎると、かえって気を遣わせるかもしれない」
オルガが頷く。
「謝る必要はありません、と短く返す。その後すぐ、別の実務的な話へ移るのがよいでしょう」
「たとえば?」
「白湯を足しますか、椅子をお持ちします、火を強くします、など」
ベッタが納得したように指を鳴らした。
「謝罪を受け取らず、用事に変えるわけですね」
「そうです」
リーヴァが笑った。
「北の流儀だ。謝る暇があったら手袋を替えろ」
今度は少し笑いが起きた。
だが、その笑いは温かかった。
使用人たちの警戒は、もうほとんど別のものになっていた。
最初は、王都の元侯爵夫人が屋敷を乱さないか見ていた。
今は、彼女が自分自身を削らないか見ている。
この方は、偉ぶらない。
けれど、危うい。
優しいというより、習慣的に自分を後回しにする。
気づく力があるのに、自分の疲れには気づかないふりをする。
名前を覚えるのに、自分が呼ばれることには慣れていない。
ならば、屋敷が守る。
誰か一人が特別に守るのではない。
食事はベッタが。
部屋の温度はオルガが。
廊下の椅子はハルトヴィンが。
湯と薬はミラとネリーが。
階段の足元はユアンとイサークが。
洗濯物と手袋はリーヴァが。
少しずつ、屋敷全体がイリディアを守る方向へ動き出した。
その夜、セヴラードは執務室でハルトヴィンから報告を受けていた。
机の上には領内の報告書が積まれている。雪による街道の遅れ、国境警備の交代、薪の備蓄量、医療院からの要請。そこへ、イリディアに関する短い報告も加わった。
「厨房の換気について、イリディア様より有益なご指摘がありました」
「聞いた」
セヴラードは書類から顔を上げずに言った。
「衝立は」
「本日中に仮のものを設置しました。効果がありそうです」
「そうか」
ハルトヴィンは続けた。
「また、洗濯室の手袋の替えを増やす件も」
「必要なら増やせ」
「はい」
短いやり取り。
しかし、ハルトヴィンはその後、少しだけ言葉を選んだ。
「旦那様」
「何だ」
「イリディア様は、非常によく見ておられます」
「そうだな」
「ですが、ご自分の消耗には鈍い」
セヴラードの手が止まった。
炎のような感情が出るわけではない。だが、青灰色の目が少しだけ静かに重くなる。
「倒れそうか」
「すぐには。ただ、無理をする癖が深いようです」
「屋敷で見ろ」
「すでに皆で」
「そうか」
セヴラードは短く頷いた。
それだけだった。
しかしハルトヴィンには、それで十分だった。
セヴラードは長々と心配を口にしない。だが、見ると言ったら見る。必要だと判断すれば、屋敷の動線も人員もすぐ動かす。
ハルトヴィンは少しだけ目を伏せた。
「使用人たちの間で、奥様候補などという軽口が出ております」
セヴラードが顔を上げた。
「誰が言った」
「主にリーヴァです」
「口を慎ませろ」
「オルガがすでに」
「ならいい」
セヴラードは再び書類へ目を落とした。
だが、少ししてから低く言った。
「候補などではない」
「はい」
「療養客だ」
「承知しております」
「余計な目で見るな」
ハルトヴィンは静かに頭を下げた。
「使用人たちにも、改めて徹底します」
セヴラードはそれ以上言わなかった。
だがハルトヴィンは、主人が何を嫌がっているのか分かっていた。
イリディアを、また役目に押し込めること。
奥様候補という言葉で、彼女を別の椅子へ座らせようとすること。
侯爵夫人をやめたばかりの人間を、次の女主人として見始めること。
それは、彼女の療養にはならない。
セヴラードは不器用だが、その線だけは分かっている。
ハルトヴィンは静かに安堵した。
この屋敷は、イリディアを守る方向へ動き出している。
ただし、それは新しい役目を与えるためではない。
今は、ただ休ませるためだ。
翌朝、イリディアが目を覚ますと、窓辺に小さな椅子が置かれていた。
昨日まではなかったものだ。
そこには厚い毛布が畳まれ、隣の小さな台には白湯と、香りの薄い薬草茶が置かれている。花はない。代わりに、針葉樹の小枝と赤い実が小さな器に入っていた。
ミラがカーテンを開けながら言った。
「オルガ様が、朝の光を見るならこちらのほうが冷えにくいと」
イリディアは椅子を見つめた。
胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
「皆さん、気を遣いすぎではないかしら」
ミラは微笑んだ。
「奥様が今まで、ご自分に遣わなすぎた分かもしれません」
イリディアは言葉を失った。
窓の外では雪がやんでいた。
庭は白く、空は淡い青灰色。針葉樹の枝に残った雪が、朝の光を受けてきらきらしている。
イリディアは椅子へ座った。
毛布を膝にかける。
白湯を両手で包む。
何もしない朝。
誰の役にも立っていない朝。
けれど、誰かが自分のために椅子を置いてくれた朝。
「……あとで、オルガ様にお礼を言わないと」
イリディアが言うと、ミラは少しだけ困ったように笑った。
「きっと、当然のことです、と返されます」
「そうね」
「ベッタ様には、食べるのが仕事ですと言われます」
「それも、そうね」
イリディアは白湯を飲んだ。
温かさが喉を通る。
その時、扉の外からネリーの声がした。
「イリディア様、朝食をお持ちしました」
イリディアは顔を上げた。
名前を呼ばれた。
奥様ではなく、イリディア様。
まだ少し慣れない呼び方だった。
けれど、その響きには役目が少なかった。
「どうぞ」
扉が開く。
ネリーが盆を持って入ってくる。小さな器の粥、薄いスープ、焼いた林檎の欠片。量は多くない。食べきれなくてもよい量だった。
ネリーは盆を置き、にこりと笑った。
「今日のお仕事をお持ちしました」
イリディアは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
使用人たちは、こうして屋敷ぐるみで彼女を座らせ、食べさせ、休ませるつもりなのだ。
警戒されているのかもしれない。
保護されているのかもしれない。
観察されているのかもしれない。
でも、それは王都で浴びた視線とは違った。
値踏みではない。
噂でもない。
役目を押しつけるための期待でもない。
この人を放っておくと倒れる。
だから、倒れる前に椅子を出す。
北の使用人たちは、そう判断したのだ。
イリディアは匙を取った。
「では、仕事をします」
ネリーが嬉しそうに頷いた。
ミラは窓辺で静かに笑った。
遠くの厨房では、ベッタの大きな声が響いている。廊下ではユアンが足音を抑えて通り過ぎ、階段の踊り場には新しい椅子が置かれている。洗濯室ではリーヴァが替えの手袋を干し、オルガは香りの強い花を客室から遠ざける指示を出している。ハルトヴィンは帳面に、東廊下の隙間風対策と厨房の衝立の調整を書きつけている。
屋敷全体が、少しずつ動いていた。
イリディアを働かせるためではない。
イリディアが働かずに済むように。
そのことを、彼女はまだ完全には知らない。
けれど、温かい粥を一口飲み込んだ時、胸の奥にほんの小さな安心が灯った。
自分が倒れる前に、誰かが気づいてくれる場所。
そんな場所があるのかもしれない。
北の屋敷の使用人たちは、今日も彼女を観察している。
奥様候補としてではなく。
まずは、守るべき療養客として。
そしてその観察は、冷たい値踏みではなく、暖炉に薪を足す前に火の弱り具合を見るような、静かで実用的な優しさを帯び始めていた。
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14歳から積み上げた3年間の信頼は、
ヘンリエッタ様の「嘘泣き」でゴミ箱に捨てられた。
いいですよ、どうぞお二人でお幸せに。
でも忘れないで。あなたが今守っているその席は、
「生きて帰ってきた」お兄様のものなんですよ。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
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※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。
綺麗なイラストまでつけていただき感無量です。
これまで応援いただき、本当にありがとうございました。
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https://www.regina-books.com/extra/login
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