離縁した元夫が毎日のように押しかけてきますが、もう私は辺境伯家の妻です

なつめ

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第26話 元夫、毎朝門前に立つ


 婚礼の翌朝、ノルヴァイルの屋敷はいつもより少しだけ静かだった。

 祝宴の余韻は、まだあちこちに残っている。

 食堂の長卓には、昨夜片づけきれなかった針葉樹の枝と赤い実が小さな器に残されていた。礼拝堂の壁には、領民たちが持ち寄ってくれた青い花と薄紫の花がまだ飾られている。厨房では、ベッタが祝いの残りの南瓜をどう使うか、鍋の前で真剣に考えていた。

 イリディアの書斎にも、婚礼の日の花があった。

 ニカがくれた青い花。

 ヤンが持ってきた赤い実。

 手袋屋の女性が添えてくれた銀色の葉。

 大輪ではない。香りも強くない。けれど、北の冬の中で確かに息をしている花々だった。

 イリディアは、その花を見ながら白湯を飲んでいた。

 彼女はもう、レーヴェニア侯爵夫人ではない。

 今日から、ノルヴァイル辺境伯の妻だ。

 その事実は、胸の中でまだ少し不思議な形をしていた。

 怖さは消えていない。

 妻という言葉は、今も完全には柔らかくなっていない。奥様と呼ばれるたび、心のどこかが一瞬だけ身構える。それでも昨日、ニカに「奥様」と呼ばれた時、イリディアはその呼び名を受け取れた。

 痛みだけではなかった。

 温かさもあった。

 そのことが、今朝になっても胸に残っている。

 机の上には、ノルヴァイル家の鍵束が置かれていた。重く、古く、実際に扉を開ける鍵。隣には、彼女の書斎の鍵。小さな真鍮の鍵。

 家の鍵と、自分の場所を守る鍵。

 その二つが並んでいるのを見るたび、イリディアは少しだけ息が深くなった。

 扉が叩かれる。

「イリディア様」

 ミラだった。

「どうぞ」

 ミラはいつも通り、温かい薬草茶を持って入ってきた。だが、盆を置く手がほんの少し硬い。

 イリディアはすぐに気づいた。

「何かあったの?」

 ミラは一瞬だけ目を伏せた。

 その間が、答えだった。

「……門前に、ダリオン様が」

 イリディアの指が、白湯の杯の縁で止まった。

 胸が冷える。

 けれど、以前ほど一瞬で凍るような感覚ではなかった。

「今日も?」

「はい」

 今日も。

 婚礼の翌朝に。

 彼は来た。

 イリディアはゆっくり杯を置いた。

「何と」

「お祝いを言いたいと。あとは、直接謝罪をしたいと」

 ミラの声には、怒りを押さえた硬さがあった。

 イリディアは窓の方を見た。

 この書斎の窓からは門前は見えない。見ようと思えば北側の窓へ行く必要がある。

 昨日までなら、見たいと思ったかもしれない。

 自分の過去がどんな顔で門前に立っているのか、確かめたいと思ったかもしれない。

 けれど今朝、イリディアの体は動かなかった。

 見たくない、というより。

 見に行くほどの力を、彼に使いたくない。

 そう思った。

「セヴラード様は?」

「もう向かわれました。ハルトヴィンさんも」

「そう」

 イリディアは、息を吐いた。

 ダリオンが来た。

 でも、門は開かないだろう。

 セヴラードは、彼女に確認していない。昨日の婚礼で疲れていることを知っているから、まず門前で止めるつもりなのだろう。

 それは勝手に決めているのではない。

 先日、イリディアはすでに言った。

 会いたくない、と。

 そしてセヴラードは言った。

 今日の答えが、明日の答えを縛るわけではない。

 けれど、今朝のイリディアははっきり分かっていた。

 今日も会いたくない。

 イリディアはミラへ顔を向けた。

「会いません」

「はい」

 ミラはすぐに頷いた。

「セヴラード様にも、そうお伝えします」

「いいえ」

 イリディアは少し考えた。

「セヴラード様は、分かっていると思うわ。でも、念のためハルトヴィンさんへ。私は今日は誰にも会いません、と」

「かしこまりました」

 ミラは一礼し、すぐに出て行った。

 扉が閉まる。

 部屋に静けさが戻る。

 イリディアは白湯の杯をもう一度手に取った。

 温かい。

 指先は少し冷えているが、震えてはいない。

 胸は痛い。

 でも、恐怖ではない。

 婚礼の翌朝にまで来たことへの驚きと、呆れと、重さ。

 そして、静かな疲労。

 またなのだ。

 そう思った。

 ダリオンは、また自分の気持ちを持って門前に立っている。

 謝りたい。
 会いたい。
 祝いたい。
 やり直したい。
 話したい。

 彼の気持ちは、いつも彼の側からやってくる。

 イリディアの朝がどうであろうと。

 婚礼の翌朝であろうと。

 体が疲れていようと。

 心がようやく少し落ち着いていようと。

 彼は来る。

 そのことに、イリディアはもう怯えよりも疲れを覚えた。

 門前では、ダリオンが昨日よりさらに整えた姿で立っていた。

 濃い外套。手袋。王都の貴族らしい帽子。顔色は悪いが、身支度はきちんとしている。手には何も持っていなかった。最初の日のような花束はない。

 彼は門の内側に立つセヴラードを見て、礼をした。

「昨日は婚礼だったと聞いた」

 セヴラードは短く答えた。

「ああ」

「直接祝いを言いたい。せめて、それくらいは」

「必要ない」

 ダリオンの顔がわずかに歪む。

「あなたが決めることではない」

「イリディアは会わない」

「聞いたのか」

「今日も会わないと伝言があった」

 セヴラードの横に立つハルトヴィンが、静かに補足した。

「イリディア様は本日どなたともお会いになりません。昨日の婚礼でお疲れです」

 ダリオンは、その言葉に一瞬目を伏せた。

 婚礼。

 その単語が、彼にどう刺さったのか、表情だけでは分からない。

「疲れているなら、なおさら短く済ませる」

 彼は言った。

「祝福と謝罪だけだ」

 セヴラードの目が冷えた。

「お前の短く済ませるという言葉を、こちらが信じる理由はない」

「私は」

「帰れ」

 それだけだった。

 ダリオンは唇を引き結ぶ。

「私は、彼女の元夫だ」

「だから会わせない」

「元夫だからこそ、話すべきことが」

「今はない」

 セヴラードの声は低く、動かない。

 門番たちは背筋を伸ばし、余計な口を挟まない。

 ダリオンはしばらく門の鉄柵を見ていた。

 やがて、低く言った。

「明日、また来る」

 セヴラードの眉がわずかに動いた。

「来ても通さない」

「彼女が会うと言うまで来る」

「それは謝罪ではなく、圧力だ」

 ダリオンは返事をしなかった。

 馬車へ戻る。

 雪を踏む足音が、門前に乾いた音を残した。

 その朝、門は開かなかった。

 そして翌朝、彼は本当にまた来た。

 今度は花束を持っていた。

 白と薄紫の花ではない。

 淡い青い花を中心に束ねたものだった。

 ノルヴァイルの市でイリディアが淡い青のドレスを着たことを、どこかで聞いたのかもしれない。領都の花屋で用意したのだろう。北の冬に生きる花ではなく、温室から運ばれた花だった。花びらは美しいが、空気に馴染んでいない。

 門番の一人、若いトールがそれを見て、無意識に眉を寄せた。

 隣の年配の門番マッズが、小声で言う。

「顔に出すな」

「出てますか」

「出てる」

「だって、昨日追い返されたばかりですよ」

「だから顔に出すな」

 マッズも、内心ではうんざりしていた。

 門を守るのは仕事だ。

 望まれない客を止めるのも仕事だ。

 しかし、王都から来た元夫が毎朝のように現れ、違う理由を掲げて会わせろと言うのは、想像以上に神経を使う。

 しかも相手は侯爵だ。

 無下に扱いすぎれば外交的な問題になる。かといって、弱く出れば門前に居座られる。言葉を選び、門を開けず、しかし無用な挑発も避ける。

 それを毎朝。

 マッズは心の中で深くため息をついた。

 その日も、セヴラードが自ら門前へ出た。

 ハルトヴィンも横に立つ。

 ダリオンは花束を持ち上げた。

「昨日は失礼した。今日は、花だけでも渡してほしい」

「受け取らない」

 セヴラードは即答した。

「花に罪はない」

「花を使って罪を薄めようとするな」

 門番のトールが、思わず目を見開いた。

 マッズが肘で軽く小突く。

 顔に出すな、という合図だった。

 ダリオンは花束を握る手に力を入れた。

「私は、ただ」

「ただ、とは言うな」

 セヴラードは言った。

「お前のただは、いつもイリディアに反応を求める」

 ダリオンは黙った。

「花を受け取るかどうか。礼を言うかどうか。返事をするかどうか。許すかどうか。すべて、彼女に処理させることになる」

 セヴラードの声は、冷えた門前によく通った。

「受け取らない」

 ダリオンは数秒、何も言わなかった。

 それから花束を下ろし、かすれた声で言った。

「では、門前に置いていく」

「置けば処分する」

「花を捨てるのか」

「イリディアに見せないためなら」

 ダリオンの顔が、怒りとも痛みともつかない色に歪んだ。

 セヴラードは動かなかった。

 結局、ダリオンは花束を持ったまま帰った。

 その花束が雪の道の向こうへ消えるのを見送りながら、マッズはまた心の中でため息をついた。

 屋敷の中では、その日から小さな防衛が始まった。

 オルガは朝の時間帯、北側廊下の窓のカーテンを半分閉めるよう指示した。

 ネリーはイリディアの書斎へ向かう途中に、門前が見える窓の前へ花台を置いた。

 リーヴァは洗濯物を干す場所を一時的に変えた。窓の外に馬車が見えて、イリディアの目に入らないようにするためだった。

 ベッタは、毎朝の白湯と朝食の時間を少しだけ早めた。

「門前の騒ぎが始まる前に、胃へ温かいものを入れます」

 そう宣言した。

 ハルトヴィンは、使用人たちへ明確な指示を出した。

「門前の来訪について、イリディア様へ不用意に伝えないこと。ただし完全に隠すな。奥様が尋ねられた場合は、事実だけを短く伝える。感情的な言葉を添えない」

 奥様。

 ハルトヴィンがそう呼ぶと、ネリーの目が少しだけ潤んだ。

 婚礼からまだ数日。

 屋敷の者たちは、イリディアを奥様と呼ぶたび、少し緊張し、少し嬉しそうにした。

 けれど今は、その奥様を守るために全員が静かに動いている。

 イリディアは、最初はその動きに気づかなかった。

 気づかなかったというより、気づかされないようにされていた。

 朝の書斎にはいつも通り火が入っている。

 茶は温かい。

 花は新しく替えられている。

 ミラは穏やかに微笑む。

 ネリーは少しだけ声が明るすぎる日もあるが、いつものように盆を置く。

 それでも、三日目になると分かった。

 屋敷の空気が、朝だけ少し硬くなる。

 遠くの廊下で足音が増える。

 ハルトヴィンの声が低く響く。

 セヴラードが朝食の席を少し早く立つ。

 門番たちの交代が、普段より慎重になる。

 そして、北側の窓のカーテンがいつもより長く閉められている。

 イリディアは、南向きの書斎で帳面を開きながら、ペンを止めた。

 尋ねるべきか。

 尋ねずにいたほうが、皆は楽なのか。

 そう考えた瞬間、苦笑しそうになった。

 また、自分以外の負担を先に考えている。

 これは昔の癖だ。

 でも今は、自分のために聞いていい。

 知らないまま守られることが、かえって疲れる時もある。

 イリディアはミラを呼んだ。

 ミラはすぐに来た。

「はい、イリディア様」

「ダリオン様は、今日も来ているの?」

 ミラの表情が少しだけこわばった。

 だが、彼女は嘘をつかなかった。

「はい」

「今日は、何を」

「小さな箱をお持ちです。中身はまだ分かりません。セヴラード様とハルトヴィンさんが対応されています」

「そう」

 イリディアは、ペンを置いた。

 恐怖はなかった。

 胸は少し冷えた。

 けれど、あの門前に初めて彼を見た時のような、指先の奥まで凍る感覚はない。

 代わりに、疲れた。

 深く、静かに。

 また来たのだ。

 花束の次は、小さな箱。

 今日は何を持ってきたのだろう。

 思い出の品。

 そう直感した。

 ダリオンは、自分の後悔の形を次々に外へ置いている。謝罪、花、思い出。彼なりに考えているのかもしれない。自分にできることを探しているのかもしれない。

 けれどそれは、どれもイリディアの朝を乱すものだった。

 彼が何かを持ってくれば、屋敷の者たちが対応する。

 セヴラードが門前に立つ。

 ハルトヴィンが言葉を選ぶ。

 門番たちが神経を使う。

 使用人たちがイリディアへ見せないように動く。

 そしてイリディアは、自分のために誰かが毎朝門前で疲れていくことを知る。

 それがまた、疲れる。

「中身が分かったら、教えて」

 イリディアは言った。

 ミラは少し驚いた。

「よろしいのですか」

「知りたいというより、知らないまま想像するほうが疲れるの」

「……かしこまりました」

 ミラは深く頷いた。

 その日の門前で、ダリオンが持ってきたのは、小さな銀の栞だった。

 結婚して最初の年、ダリオンがイリディアへ贈ったものだった。

 菫の模様が細く彫られている。

 イリディアが当時よく本を読んでいたことを、ダリオンは一度だけ褒めたことがある。王都の若い妻たちが宝石やドレスを望む中で、君は本を読むのだな、と。少し珍しがるような声だったが、悪意はなかった。

 その後、彼がそれを覚えていて、銀の栞を贈った。

 イリディアは嬉しかった。

 その時は、本当に。

 夫が自分を少し見てくれたのだと思った。

 だが、侯爵邸を出る時、その栞は置いてきた。持ち出す余裕もなかったし、持っていく気にもなれなかった。

 ダリオンは、その栞を持ってきたのだ。

「これは、イリディアのものだ」

 門前で、ダリオンは箱を開けた。

 銀の栞が、薄い布の上に置かれている。

 雪の光を受けて、冷たく光った。

「返したい。いや、渡したい。彼女がこれを覚えているかは分からないが」

 セヴラードは栞を見た。

 手を伸ばさない。

「持ち帰れ」

「これは彼女のものだ」

「持ち帰れ」

「あなたには関係ない」

「関係ある」

 セヴラードの声が低くなる。

「俺は今、イリディアの夫だ」

 ダリオンの顔が硬くなった。

 門番のトールは、今度こそ顔を引き締めるのに苦労した。マッズは横目で彼を睨む。

 ダリオンは栞を握りしめた。

「夫なら、妻の過去ごと受け入れるべきではないのか」

「過去を押しつけるな」

 セヴラードは即座に言った。

「その品が必要かどうかはイリディアが決める。だが、毎朝門前で何かを持ってくるお前の行動は、彼女の回復を削っている」

「私は回復を願って」

「なら来るな」

 門前の空気が、さらに冷えた。

 ダリオンは栞の箱を閉じた。

「彼女は、これを大切にしていた」

「そうか」

「あなたは知らないだろう」

「知らない」

 セヴラードは認めた。

「だが、今のイリディアがそれを見ることを望むかは別だ」

 ダリオンは黙った。

 その沈黙には、苛立ちと痛みが混じっていた。

「彼女に聞け」

「今日は聞かない」

「なぜ」

「昨日も一昨日も来たからだ」

 セヴラードは言った。

「これ以上、毎朝お前の存在を彼女へ渡さない」

 ダリオンは声を低くした。

「彼女は私から逃げ続けるのか」

「違う」

 セヴラードは答えた。

「お前が追い続けている」

 その言葉に、ダリオンの表情がわずかに崩れた。

 マッズは、その瞬間だけ少しだけ目を伏せた。

 王都の侯爵が傷ついた顔をしている。

 だが、それでも門を開ける理由にはならない。

 セヴラードは最後に言った。

「明日から、先触れがあっても朝の来訪は受けない。用件があるなら文書でハルトヴィンへ出せ。イリディアへ直接渡すものは受け取らない」

「彼女の夫として命じるのか」

「屋敷の主として告げている」

「夫としては?」

 ダリオンが、皮肉とも痛みともつかない声で言った。

 セヴラードは一瞬だけ黙り、答えた。

「夫としては、今すぐ領都へ帰れと言いたい」

 ダリオンは箱を閉じ、馬車へ戻った。

 その日の夕方、イリディアは書斎で報告を受けた。

 セヴラードではなく、ハルトヴィンが来た。

 彼は淡々と、余計な感情を混ぜずに話した。

「本日、ダリオン様がお持ちになったのは、銀の栞でした。菫の模様があるものです」

 イリディアは、すぐに思い出した。

 胸の奥が、かすかに痛む。

 あの時、嬉しかった。

 その事実まで否定するつもりはない。

 ダリオンとの結婚生活のすべてが地獄だったわけではない。小さな喜びもあった。優しさに見えた瞬間もあった。だからこそ、長く離れられなかったのかもしれない。

 イリディアは膝の上で手を重ねた。

「受け取りません」

 ハルトヴィンは頷いた。

「旦那様も、そう判断されました」

「見たいとも、今は思いません」

「承知しました」

「燃やすほどの怒りはありません。でも、戻すほどの懐かしさもありません」

 そう言いながら、イリディアは自分の胸の中を確かめていた。

 恐怖ではない。

 怒りも強くない。

 悲しみも、思ったほど深くない。

 ただ、疲れている。

 昔の小さな思い出まで持ち出され、自分の心を動かそうとされることに。

 自分が今いる家の門前で、過去を毎朝並べられることに。

 「分かりました」

 ハルトヴィンは静かに言った。

「明日以降、門前の対応はさらに絞ります。イリディア様へ直接お伝えする必要のないものは、こちらで止めます」

「全部隠す必要はありません」

 イリディアは言った。

 ハルトヴィンが顔を上げる。

「私は、知りたい時には聞きます。知らないで休みたい時は、そう言います。皆さんが私に見せないように動いてくださっていることも、分かっています。ありがたいです。でも、皆さんだけが疲れていくのは嫌です」

 ハルトヴィンの目元が、わずかに動いた。

「奥様」

 その呼び方に、イリディアは小さく息を吸った。

 痛みは少し。

 でも、嫌ではない。

 ハルトヴィンは続けた。

「守られることを、負担に思いすぎないでください」

 イリディアは黙った。

「門を守るのは門番の仕事です。来客を整理するのは家令の仕事です。屋敷の奥様へ無用な負担を通さないのは、屋敷全体の仕事です」

 声は静かだった。

「私どもは、奥様のためだけに疲れているのではありません。この家を守るために働いています。奥様は、すでにこの家の方ですから」

 この家の方。

 イリディアの胸が震えた。

 迷惑をかけているのではない。

 自分だけのために皆が犠牲になっているのではない。

 家が、家の一員を守っている。

 そう言われたようだった。

「……ありがとう」

 イリディアは小さく言った。

「受け取ります」

 ハルトヴィンは、ほんの少しだけ微笑んだ。

「それでよろしいかと」

 その夜、セヴラードが書斎へ来た。

 イリディアは帳面を開いていたが、まだ何も書いていなかった。

 彼はいつものように暖炉を見る。

 火は十分。

 それから、イリディアを見る。

「疲れている」

 セヴラードは言った。

 問いではなかった。

 イリディアは頷いた。

「はい」

「怖いか」

 少し考える。

「怖くないわけではありません。でも、それより疲れています」

 セヴラードは黙って聞いていた。

 イリディアは続ける。

「ダリオン様が来るたび、私が何かしなければならない気がします。会うか会わないか。見るか見ないか。受け取るか受け取らないか。返事をするかしないか。毎朝、その選択を差し出されるようで」

 彼女は机の端に置いた書斎の鍵を見た。

「選べることは、大切です。でも、望んでもいない選択を毎朝置かれるのは、疲れます」

 セヴラードの目が静かに冷えた。

 怒りがまた灯っている。

 けれど、今のイリディアはその怒りを怖がらなかった。

「明日から、門前で止める」

 彼は言った。

「お前へ毎朝渡さない」

「でも、私が知るべきことは」

「ハルトヴィンが整理する。必要なら俺が言う。お前が聞きたいと言えば伝える」

 イリディアは頷いた。

「お願いします」

「分かった」

 短い返事。

 それで十分だった。

 イリディアはペンを取った。

「今日のことを書いても?」

「書け」

 セヴラードは少し離れて立った。

 イリディアは帳面へゆっくり書き始めた。

『再婚を知ったダリオン様が、毎朝門前に来るようになった。最初は謝罪。次は花束。その次は、昔贈られた銀の栞。私は、それを見たいとは思わなかった。怖いというより、疲れた。毎朝、過去が門前に立つことに疲れた。』

 そこで一度、手を止める。

 セヴラードが黙って見守っている。

 イリディアは続けた。

『でも、門は開かなかった。門番たちも、ハルトヴィンさんも、オルガ様も、ミラも、ベッタさんも、ネリーも、私に見せないように動いてくれていた。私は迷惑をかけていると思ったけれど、ハルトヴィンさんは、この家を守る仕事だと言った。私は、もうこの家の人なのだと思った。』

 書き終えると、胸の奥が静かに震えた。

 この家の人。

 イリディアは、まだその言葉に慣れていない。

 でも、嫌ではなかった。

 セヴラードが低く言った。

「明日は、朝食をゆっくり食べろ」

 イリディアは顔を上げた。

「門前に来ても?」

「来ても」

「気にならないでしょうか」

「気になるなら、言え」

「はい」

「だが、朝食を抜く理由にはするな」

 その言い方がセヴラードらしくて、イリディアは少しだけ笑った。

「ベッタさんと同じことをおっしゃいますね」

「ベッタが正しい時もある」

「多いと思います」

「否定はしない」

 二人の間に、小さな沈黙が落ちた。

 甘いというより、静かな生活の音のような沈黙。

 外では雪が降っている。

 門の外には、明日もダリオンが来るかもしれない。

 けれど、イリディアは今、書斎の中にいる。

 鍵がある。

 火がある。

 この家の人たちがいる。

 そして、自分の疲れを疲れだと言っていい場所がある。

 その夜、イリディアは恐怖ではなく、静かな疲れを抱えたまま眠った。

 疲れは喜ばしいものではない。

 けれど、恐怖ではないと分かったことは、ひとつの変化だった。

 ダリオンの存在は、もう彼女を一瞬で王都へ引き戻す絶対の力ではなくなりつつある。

 それはただ、毎朝門前に立つ過去だった。

 そして過去は、門を開けなければ家の中へ入ってこられない。

 そのことを、イリディアは少しずつ覚え始めていた。

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