離縁した元夫が毎日のように押しかけてきますが、もう私は辺境伯家の妻です

なつめ

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第39話 あなたの妻だった私は、もう死にました


 王都の夜会は、光が多すぎた。

 大広間の天井からは硝子の灯りが幾重にも吊られ、金色の炎が磨かれた床に映っている。壁際には季節外れの花が飾られ、白百合と薔薇の香りが重く漂っていた。銀の盆を持った給仕が音もなく動き、薄い硝子の杯が触れ合うたび、涼やかな音が広間のざわめきに紛れていく。

 王都らしい夜だった。

 美しく、息苦しい夜。

 イリディアは、セヴラードの隣に立っていた。

 淡い青灰色のドレスは、王都のきらびやかな衣装の中では控えめに見えた。だが、銀糸で刺繍された雪明かり草の模様が、灯りを受けるたびに静かに光る。胸元には小さな銀の鍵飾り。ノルヴァイル家の色と、北で得た自分の居場所を、王都の大広間の中で確かに示すものだった。

 視線は、ずっと感じている。

 扇の陰から。
 杯の向こうから。
 笑顔の奥から。
 装飾された柱の影から。

 あれが、元レーヴェニア侯爵夫人。

 今はノルヴァイル辺境伯夫人。

 噂の人。

 社交界は、直接には何も言わない。

 少なくとも最初は。

 誰もが礼儀正しく微笑む。誰もが祝いの言葉を形だけ整える。けれど、その目は好奇心に濡れていた。真実を知りたいというより、どちらの物語がより面白いかを確かめたい目だった。

 イリディアは、息を細く吐いた。

 香水の匂いが強い。

 白百合の香りが、遠い昔の部屋を思い出させる。

 メルシュタイン家の客間。
 レーヴェニア侯爵邸の晩餐室。
 リゼリットの寝室。
 白い鈴蘭。
 白いリボン。
 銀器の冷たさ。

 けれど、今、隣にはセヴラードがいる。

 彼はイリディアを前へ押し出さない。彼女を後ろへ隠しもしない。挨拶を受ける時は、必要な場では先に言葉を発するが、イリディアが答えられる場では黙って待つ。誰かがイリディアだけを値踏みするような視線を向ければ、立ち位置をほんの少し変え、その視線を受け止める。

 それでも、彼女の代わりにすべてを遮ることはしない。

 隣にいる。

 ただ、それだけで足元が少し現実へ戻る。

 公爵夫人への挨拶は終えていた。

 老公爵夫人は、王都の古い社交界を知り尽くした女性だった。皺のある手でイリディアの手を取り、静かな声で言った。

「遠いところをよくお越しくださいました、ノルヴァイル辺境伯夫人」

 夫人。

 その呼び方を、公の場で、正しく。

 それだけで、周囲の空気が少し揺れた。

 公爵夫人は、噂を知っている。

 知ったうえで、イリディアをノルヴァイル辺境伯夫人として迎えた。

 それは、社交界に向けた小さな宣言でもあった。

 だが、王都の噂はそれだけで消えるほど素直ではない。

 挨拶の後、何人かの貴族が近づいてきた。

 北の暮らしはいかがですか。

 辺境の冬はお体に障りませんか。

 王都へ戻られて、懐かしくお感じでしょう。

 言葉は柔らかい。

 しかし、その下には別の問いが隠れている。

 本当に辺境伯家で幸せなのか。
 レーヴェニア侯爵とは何があったのか。
 噂は本当なのか。
 あなたはどんな女なのか。

 イリディアは、ひとつずつ答えた。

「北は寒い土地ですが、屋敷の方々がよく気遣ってくださいます」

「王都とは違う暮らしですが、静かで、よく息ができます」

「懐かしさもあります。ただ、今の私の家はノルヴァイルです」

 そのたびに、相手の目がわずかに動く。

 今の私の家はノルヴァイル。

 この言葉を言うたび、胸の奥の鍵が小さく鳴るようだった。

 少し離れた場所で、ハルトヴィンが動きを見ている。ミラは壁際で、必要になればすぐ来られる位置にいた。オルガは旧邸に残り、後の対応を整えている。ベッタの包みは馬車にある。退席した後には、甘いものと塩気が待っている。

 そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。

 夜会の音楽が変わった。

 弦の音が、明るい曲から少しゆるやかな曲へ移る。踊る者たちが広間の中央へ進み、裾の揺れる音が波のように広がった。イリディアは踊るつもりはなかった。今夜は挨拶が目的であり、必要以上に目立つつもりはない。

 しかし、目立たずに済む夜ではなかった。

 ざわめきが、広間の端から細く走った。

 小さな音。

 扇が止まる音。

 誰かが息を呑む気配。

 イリディアは、その空気の変化を肌で感じた。

 見る前に分かった。

 ダリオンが来たのだ。

 セヴラードも、同じ方向へ視線を向けた。

 広間の入口近くに、ダリオン・レーヴェニアが立っていた。

 黒に近い濃紺の礼装。レーヴェニア侯爵家の紋章を控えめに入れた留め具。髪は整えられ、顔色は化粧でいくらか隠されているが、目の下の疲れまでは消せていない。

 彼は、まっすぐイリディアを見た。

 かつての夫。

 彼女を妻と呼んだ人。

 彼女の隣にいたはずなのに、何度も別の場所へ行った人。

 門前で花束を持ち、銀の栞を持ち、昔の思い出を語った人。

 そして、彼女にこう言われた人。

 あなたが覚えている私は、もういません。

 ダリオンは、広間の視線を受けながら歩いてきた。

 誰も止めない。

 むしろ、多くの者が期待していた。

 噂の元夫と、再婚した元妻。

 公の場で何が起きるのか。

 社交界は、上品な顔をして残酷な見世物を待つ。

 イリディアの指先が、扇の骨を握った。

 ハルトヴィンと決めた合図。

 退席したくなれば、扇を閉じて胸元へ一度当てる。

 今は、まだしない。

 セヴラードが低く言った。

「会わなくていい」

 声はイリディアにだけ届くほど小さい。

「分かっています」

「止めるか」

 イリディアは、ダリオンを見たまま答えた。

「いいえ」

 怖い。

 胸の奥は、確かに冷えている。

 けれど、逃げたくはなかった。

 ここは王都。

 噂の中で、自分の名前を歪められた場所。

 その王都の夜会で、ダリオンが近づいてくる。

 なら、ここで言うべきことがあるのかもしれない。

 ダリオンは、イリディアの数歩前で足を止めた。

 礼をする。

 かつての夫としてではなく、貴族として。

「ノルヴァイル辺境伯閣下」

 まず、セヴラードへ。

 セヴラードは短く頷く。

「レーヴェニア侯爵」

 ダリオンの顔が少しだけ強張った。

 名ではなく、爵位。

 親しい呼び方ではない。

 それからダリオンは、イリディアへ視線を向けた。

「イリディア」

 その名が広間に落ちた瞬間、周囲のざわめきがさらに薄くなった。

 今の彼女を、夫人でも、ノルヴァイルでもなく、イリディアと呼んだ。

 イリディアは静かに答えた。

「レーヴェニア侯爵」

 ダリオンの顔色が、わずかに変わった。

 呼び返さない。

 親しさの道を開かない。

「少し、話せないだろうか」

 彼は言った。

 声は抑えていた。

 だが、周囲には十分聞こえる大きさだった。

 イリディアはセヴラードを見なかった。

 自分で答えた。

「この場でなら」

 ダリオンの眉が動く。

「できれば、人目のないところで」

「人目のないところで話すことはありません」

 広間の空気が、かすかに震えた。

 扇の陰で、誰かが息を呑む。

 ダリオンは唇を結んだ。

 彼は一瞬、セヴラードを見た。

 まるで、彼が何か言うことを期待したように。

 だがセヴラードは黙っていた。

 イリディアの隣に立ったまま、口を挟まない。

 ダリオンは再びイリディアを見る。

「では、この場で言わせてほしい」

 嫌な予感がした。

 彼の声に、覚悟のようなものがあったから。

 だがそれは、イリディアのための覚悟ではない。

 多くの貴族が見ている前で、何かを語るための覚悟だった。

「私は、君にひどいことをした」

 ダリオンは言った。

 広間がさらに静かになる。

 音楽だけが、遠くで続いていた。

「夫でありながら、君を見ていなかった。君がどれほど我慢していたのか、気づかなかった。妹君を優先し、君の優しさに甘え、君が何も言わないことを、納得しているのだと思っていた」

 社交界の視線が、熱を帯びる。

 後悔する元夫。

 公の場で謝罪する侯爵。

 人々は、こういう場面を好む。

 美しい懺悔。

 失った妻への未練。

 もしここでイリディアが涙を浮かべれば、王都はそれを新しい物語にするだろう。

 元夫の誠実な謝罪に揺れる女。
 辺境伯と元夫の間で揺れる女。
 やはり、何かあったのではないか。

 イリディアは、指先に力を入れた。

 ダリオンは続ける。

「私は後悔している。心から。君がいなくなって初めて、私は自分が何を失ったのか知った。君の静けさも、微笑みも、屋敷を整えてくれていた手も、何もかも当然ではなかった」

 その言葉の一つ一つが、以前なら胸を揺らしたかもしれない。

 聞きたかった言葉だから。

 見てほしかったから。

 私がどれほど我慢していたか、気づいてほしかったから。

 けれど今、その後悔は遅すぎた。

 遅いだけではない。

 この場で語られること自体が、イリディアをまた物語の中へ引き戻そうとしている。

 ダリオンは、一歩だけ近づいた。

 セヴラードの目が冷える。

 だが、彼はまだ動かない。

 ダリオンは言った。

「イリディア。もし、少しでも私の言葉が届くなら」

 声が震えた。

 周囲の何人かが、真剣な顔で聞いている。

「もう一度、私と話してほしい。やり直せるとは、今すぐには言わない。だが、私は変わる。今度こそ君を見て、君を大切にする。だから」

 イリディアの胸の奥で、何かが静かに冷えた。

 今度こそ。

 また、その言葉。

 今度こそ君を見て。

 今度こそ大切にする。

 ダリオンの声は、たしかに後悔していた。

 けれど、その後悔の先に、まだイリディアの返答を求めている。

 彼が苦しい。
 彼が後悔している。
 彼が変わりたい。
 だから、彼女に受け止めてほしい。

 門前で聞いた時と、形は違っても同じだった。

 イリディアは、ゆっくり扇を閉じた。

 周囲が、退席の合図かと思って少しざわめく。

 だが彼女は、その扇を胸に当てなかった。

 かわりに、手元で静かに握った。

 逃げるためではなく、立つために。

「レーヴェニア侯爵」

 イリディアは言った。

 声は大きくない。

 だが、広間の静けさの中でよく通った。

「あなたが語っているのは、あなたの後悔です」

 ダリオンが息を止めた。

「それは、あなたのものです。私が受け取らなければならないものではありません」

 広間の空気が変わる。

 謝罪を受け止める美しい場面になると思っていた者たちが、視線を鋭くする。

 ダリオンはかすれた声で言った。

「私は、君に謝りたいだけだ」

「謝罪は、相手に返事を迫るものではありません」

 イリディアは静かに返した。

 セヴラードが隣で動かない。

 彼は彼女に任せている。

 そのことが、背中を支えた。

「あなたは先ほど、私の微笑みや静けさを失ったとおっしゃいました」

 イリディアは続けた。

「けれど、それらはあなたの所有物ではありませんでした」

 ダリオンの顔色が少し変わる。

「イリディア」

「私の微笑みは、あなたが失った装飾ではありません。私の静けさは、あなたの屋敷を整えるための道具ではありません。私の我慢は、あなたの愛情の証ではありませんでした」

 誰かが小さく息を呑んだ。

 扇の陰の視線が、さらに集まる。

 ダリオンは、痛みに耐えるような顔をした。

「分かっている。だからこそ、私は」

「いいえ」

 イリディアは、初めて彼の言葉をはっきり遮った。

「あなたは、まだ分かっていません」

 広間の空気が凍った。

 公の場で、元妻が元夫の後悔を否定する。

 王都の人々にとって、これほど刺激的な場面はない。

 けれど、イリディアはその好奇の視線を、もう完全に恐れてはいなかった。

 怖い。

 もちろん怖い。

 だが、自分の言葉を飲み込むほどではない。

「あなたは、私にやり直す余地があるかのように話します」

 彼女は言った。

「けれど、あなたの妻だった私は、もういません」

 ダリオンの目が揺れる。

 イリディアは、静かに息を吸った。

 あの夜の痛みが、胸の奥から上がってくる。

 冷たい廊下。
 呼び鈴の音。
 腹部の痛み。
 寒気。
 ミラの泣きそうな顔。
 老医師の重い沈黙。
 失われた小さな命。
 翌朝のダリオンの戸惑った顔。

 そして、彼の言葉。

 また授かればいい。

 その一言が、イリディアの中で何を終わらせたのか。

 今なら、言える。

 イリディアはダリオンを見た。

「あなたの妻だった私は、あの夜に死にました」

 大広間の音楽が、遠くなった。

 誰かの扇が、手から落ちる音がした。

 ダリオンの顔から、一気に血の気が引いた。

「何を」

 彼は掠れた声で言った。

「イリディア、それは」

「流産した夜です」

 イリディアは言った。

 その言葉が広間に落ちた瞬間、空気が完全に変わった。

 流産。

 誰もが知りたかった空白。

 噂の中で意図的に抜かれていた事実。

 それが、本人の口から出た。

 人々の視線が、興味から衝撃へ変わる。

 ダリオンは動けなかった。

「私は、あなたを呼びました」

 イリディアの声は、震えていた。

 けれど、崩れてはいなかった。

「体調が悪く、腹部の痛みがありました。私は妊娠の兆しを知っていました。あなたに伝えようとして、ずっと言葉を選んでいました。でも、その夜、あなたは私のもとへは来ませんでした」

 ダリオンの唇が震える。

「リゼリットが」

「ええ」

 イリディアは静かに頷いた。

「リゼリットが不安で眠れないからと、あなたは妹のもとへ行きました」

 広間の中で、ざわめきが起きかけた。

 セヴラードがほんの少し視線を動かす。

 それだけで、近くの者たちは声を落とした。

 イリディアは続ける。

「私は、その夜、授かったばかりの命を失いました」

 言葉にすると、胸が裂けるようだった。

 だが、裂けた場所から血を流しながらも、彼女は立っていた。

 北で何度も支えられ、火を足され、食事を出され、鍵を渡され、席を守られた自分が、今ここに立っている。

 ダリオンは、何か言おうとして口を開いた。

 だが言葉が出なかった。

 イリディアは、彼のために沈黙を埋めなかった。

「翌朝、あなたは戻ってきました」

 彼女は言った。

「そして、私に言いました」

 大広間は静まり返っている。

 今や誰も、ただの噂話として聞いてはいなかった。

 イリディアは、一語ずつはっきり告げた。

「また授かればいい、と」

 ダリオンの顔色が、完全に変わった。

 青ざめる、という言葉では足りない。

 彼は一瞬、足元が崩れたように見えた。手袋をした手が震え、唇は血の気を失う。

 周囲がざわめいた。

 今度は抑えきれなかった。

「まあ」

「そんな」

「レーヴェニア侯爵が」

「では、噂は」

「流産を伏せていたのか」

 扇の陰の囁きが、矢のように広がる。

 さっきまでイリディアを値踏みしていた目が、今はダリオンへ向く。

 ダリオンは、ようやく声を出した。

「違う」

 掠れた声。

「違う、私は……そんな意味で言ったわけでは」

「そうでしょう」

 イリディアは静かに答えた。

「あなたは、そういう意味で言ったつもりではなかったのでしょう」

 その言葉は、かつて何度も聞いた。

 悪気はなかった。
 そんなつもりではなかった。
 仕方がなかった。
 リゼリットが不安定だった。

 けれど。

「でも、私はその言葉で死にました」

 イリディアの目に涙はなかった。

 泣けば、この場の誰かは彼女を可哀想な女として見るだろう。

 泣かなくても、痛みは本物だった。

「あなたの妻として、あなたの隣で、いつか見てもらえるかもしれないと待っていた私は、あの時に死にました」

 ダリオンは、目を見開いたままイリディアを見ている。

 彼は、初めてその言葉の重さを理解したのかもしれない。

 いや、本当に理解できたかは分からない。

 だが少なくとも、公の場で逃げられない形で突きつけられた。

「ですから」

 イリディアは、胸元の銀の鍵飾りにそっと触れた。

「あなたがやり直したいと願っている相手は、もういません」

 ダリオンの喉が動く。

「イリディア」

「今ここにいる私は、ノルヴァイル辺境伯夫人です」

 彼女は言った。

「セヴラード様に誘惑されてここに立っているのではありません。私が自分で選びました。私は、私が息をできる家を選びました」

 セヴラードが、隣でほんのわずかに動いた。

 イリディアは彼を見なかった。

 今は、王都の視線の中で言い切る必要があった。

「私が離縁したのは、誰かに誘惑されたからではありません。私が再婚したのは、実家を辱めるためでも、あなたを傷つけるためでもありません」

 大広間の人々へも、言葉が届いていく。

「私は、失うだけの場所から出たのです」

 静かな声。

 しかし、どんな叫びよりもよく響いた。

「そして、私を妻としてではなく、人として扱ってくれる家を選びました」

 ダリオンは、もう言い返せなかった。

 彼の後悔の言葉は、今や広間の中央で崩れている。

 イリディアは、最後に彼へ向けて言った。

「あなたの謝罪を、今ここで受け取ることはしません」

 ダリオンの顔が歪む。

「いつか受け取る日が来るかもしれません。来ないかもしれません。それは、私が決めます」

 以前、門前で告げた言葉。

 今度は王都の夜会で、はっきりと。

「ですが、復縁を求める言葉は、今後一切受け取りません」

 その一文が落ちた瞬間、何かが終わった。

 少なくとも、王都社交界の前で。

 ダリオン・レーヴェニアの後悔する夫という物語は、イリディアの言葉によって解体された。

 残ったのは、妻の流産の夜に妹のもとへ行き、翌朝「また授かればいい」と言った男。

 そして、その妻がもう戻らないという事実だった。

 セヴラードが一歩だけ前に出た。

 前へ出すぎない。

 だが、これ以上ダリオンが近づけない位置へ。

「話は終わりだ」

 低い声だった。

 ダリオンは、セヴラードを見ることもできなかった。

 彼の視線はイリディアに固定されていた。

 だが、もう先ほどのように復縁を迫る力はない。

「私は」

 ダリオンは声を絞り出した。

「私は、本当に」

 イリディアは首を横に振った。

「もう、結構です」

 その言葉は丁寧だった。

 だが、扉を閉める音がした。

 ダリオンは、それ以上何も言えなかった。

 公爵夫人が、静かに家令へ合図をした。

 音楽が一度止まり、別の穏やかな曲へ移る。給仕たちが動き、場の空気を整えようとする。社交界は残酷だが、同時に形式を保つことに長けている。

 ダリオンは、数人の知人に支えられるようにして広間の端へ下がった。

 誰も大きな声では何も言わない。

 しかし、噂はもう走り始めていた。

 今度は、イリディアを責める噂ではない。

 伏せられていた事実が、王都の光の中へ出た。

 イリディアは、その場に立ったまま息を吐いた。

 足が震える。

 今頃になって、体が自分のしたことの大きさを理解し始めている。

 流産のことを、公の場で言った。

 あの夜の言葉を、王都の貴族たちの前で明かした。

 胸は痛い。

 痛くて、少し息が浅い。

 でも、倒れなかった。

 セヴラードが低く聞く。

「退くか」

 イリディアは、扇を胸元へ当てた。

 今度は、合図として。

「少し、休みたいです」

「分かった」

 彼はすぐに動いた。

 前に出しすぎず、後ろに隠しすぎず。

 自然にイリディアの隣へ立ち、彼女を広間の端へ導く。ミラがすぐに近づき、ハルトヴィンが公爵夫人の家令へ短く伝える。

 公爵夫人は、遠くからイリディアへ一度だけ深く頷いた。

 非難ではない。

 理解でも、安易な同情でもない。

 敬意に近い頷きだった。

 控え室へ入った瞬間、イリディアの膝から力が抜けた。

 セヴラードが支える。

 今度は、触れる。

 倒れないために。

 ミラが椅子を引き、イリディアはそこへ座った。

 室内には暖炉があり、香水の匂いは薄かった。代わりに、薪の匂いがする。窓の外には王都の夜の灯りが見えた。

 イリディアは胸元を押さえた。

 呼吸が浅い。

 セヴラードが膝をつくようにして、視線を合わせた。

「息」

「できます」

「浅い」

「浅いです」

「それでいい。ゆっくり」

 彼の声が低く、静かに響く。

 ミラが温かい茶を差し出す。

 手が震えているため、最初はうまく持てなかった。セヴラードが杯の底を支え、イリディアは一口飲む。

 温かい。

 喉に落ちる。

 胸の痛みは消えない。

 でも、今ここに自分の体があることを思い出せる。

「言いました」

 イリディアは小さく言った。

「言えました」

「ああ」

 セヴラードは短く答えた。

「よく言った」

 その一言で、涙が出た。

 さっき広間では出なかった涙だった。

 静かに、頬を伝う。

 ミラが口元を押さえ、泣きそうになっている。

 イリディアは、泣きながら言った。

「怖かったです」

「ああ」

「でも、黙っていたら、また私のことを誰かが勝手に語ると思いました」

「ああ」

「私の赤ちゃんのことも、私の痛みも、なかったことにされると思いました」

 セヴラードの目が、深く痛む。

 怒りではなく、悲しみに近いもの。

 彼はイリディアの手を、許可を待つように見た。

 イリディアは、自分から手を差し出した。

 セヴラードが握る。

 大きく、温かい手。

「なかったことにはしない」

 彼は言った。

 低い声だった。

「誰にも」

 イリディアは涙をこぼしながら頷いた。

 控え室の扉の外では、まだ夜会の音楽が続いている。

 王都は、きっと今夜の出来事を噂にする。

 だが、今度は違う。

 イリディアが自分の口で語った。

 誰かの作った物語ではなく。

 自分の痛みを、自分の言葉で。

 それは傷を晒すことでもあった。

 痛みをもう一度開くことでもあった。

 けれど同時に、奪われていた真実を取り戻すことでもあった。

 少しして、ベッタの包みが運ばれてきた。

 ハルトヴィンが用意していたのだろう。

 薄焼きパンと、蜂蜜を挟んだ小さな菓子。

 ミラが泣きながら笑った。

「ベッタさん、こうなることを分かっていたみたいですね」

 イリディアは涙の残る顔で、小さく笑った。

「嘘を聞いた日は、甘いものと塩気の両方でしたね」

 セヴラードが言った。

「食べろ」

「はい」

 イリディアは小さな菓子を一口食べた。

 甘い。

 けれど、痛みを消す甘さではない。

 痛みがある体に、戻ってきていいと告げる甘さだった。

 その夜、イリディアは王都の大広間で、過去の妻を葬った。

 あなたの妻だった私は、あの夜に死にました。

 その言葉は、ダリオンを罰するためだけのものではなかった。

 自分自身へ告げる言葉でもあった。

 もう戻らない。

 あの夜に死んだ妻の席へは、戻らない。

 今ここにいるのは、イリディア・ノルヴァイル。

 傷を持ったまま、北で得た鍵を胸に、王都の夜を立って歩く女だった。

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