「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第5話 ここでは、泣いても叱られない


 涙は、一度こぼれると止め方を忘れていた。

 エルネスタは、それを自分の体で知った。

 レナック家の食堂。古い木のテーブル。揃っていない椀。傷のある椅子。窓を叩く雨。暖炉の火。豆のスープの湯気。

 その中に座っている自分が、まだ現実のものとは思えなかった。

 食べる人は食卓に座るんだよ。

 マルティナの声は、強くて、あっけらかんとしていて、あまりにも当然のことを当然のまま差し出してきた。だからエルネスタは、どう受け取ればいいのか分からなかった。

 食卓に座る。

 椀を置かれる。

 スープをよそわれる。

 黒パンを渡される。

 ただそれだけのことが、胸の奥に深く触れてしまった。

 自分は今日、二つの家から出てきた。

 侯爵家の冷たい朝食室では、離縁状を前に置かれた。実家では、食堂に席がなかった。リネン室に置かれた冷めかけの食事は、食卓から外された人間に与えられるものだった。

 けれどここでは、名前も事情もまだほとんど話していないのに、食卓に椅子が一つ増えた。

 自分のために。

 それが、恐ろしいほど温かかった。

 エルネスタは、布を目元に押し当てた。

 マルティナが差し出してくれた布は、柔らかかった。古いが、丁寧に洗われている。侯爵家の絹のハンカチのような滑らかさはない。けれど、頬に当てても冷たくなかった。

 涙を拭くための布。

 顔を拭いていいと言われた布。

 それを握っているだけで、また涙があふれそうになる。

「申し訳、ございません」

 エルネスタは震える声で言った。

 言わずにはいられなかった。

 食卓で泣くなんて、みっともない。

 人前で感情を崩すなんて、迷惑だ。

 温かい食事を出してもらったのに、泣いてしまうなんて失礼だ。

 そう思った瞬間、喉の奥から謝罪が次々と出てきた。

「申し訳ございません。せっかく、温かいものを出していただいたのに。私、こんな」

 言葉の途中で息が詰まる。

 涙が落ちる。

 慌てて布で押さえる。

「本当に、申し訳ございません。ご不快にさせるつもりはなくて。ただ、あの、私」

「エルネスタ」

 マルティナの声がした。

 責める声ではなかった。

 けれど、食卓にあった小さなざわめきが、ぴたりと止まるくらいにはっきりした声だった。

 エルネスタは肩を震わせた。

「はい」

「謝るのは、一回でいい」

 その言葉に、エルネスタは瞬きをした。

 涙で視界が揺れている。マルティナの顔が、湯気の向こうで少しぼやけて見えた。

「一回、ですか」

「そう。一回で足りる。何度も謝ると、謝っているほうも疲れるし、聞いているほうもどうしていいか分からなくなる」

 マルティナはそう言いながら、自分の椀にスープを足した。

 まるで、天気の話でもするような調子だった。

「もちろん、皿を割ったとか、足を踏んだとか、鍋をひっくり返したとか、そういう時は謝ればいい。でも今、あんたは泣いただけだろう」

 エルネスタは、布を握ったまま小さく頷いた。

「はい」

「なら、泣いたことに対して謝るなら一回で十分。あとは泣いて、拭いて、食べればいい」

「でも、食事中に」

「食事中でも涙は出るよ。人間の目は食卓に座ったからって休業しないからね」

 あまりに真顔で言われたので、ミレが台所の入口で小さく吹き出しかけた。

 サナが肘で軽くつつく。

 オズヴァルドは無言だった。

 彼は椀を持ったまま、エルネスタを見ていた。正確には、見すぎないように見ていた。視線は彼女の顔ではなく、彼女の手元と椀のあたりに落ちている。泣いている顔を直視しないようにしているのだと、遅れて分かった。

 その気遣いが、また胸に刺さる。

 見ないでくれる人。

 でも、放っておくわけではない人。

 そんな人がいるのだと知らなかった。

「申し訳」

 また言いかけて、エルネスタは自分で口を閉じた。

 マルティナが片眉を上げる。

 エルネスタは布の中で小さく息を吸った。

「ありがとうございます」

「うん」

 マルティナは満足そうに頷いた。

「そっちのほうがいい」

 オズヴァルドが何も言わずに立ち上がった。

 エルネスタは、怒らせてしまったのかと思い、体をこわばらせた。

 だが彼は鍋のそばへ行き、木の柄杓を手に取った。無骨な手つきでスープをすくう。椀の縁に少しこぼれそうになったが、彼は慎重に角度を変え、エルネスタの前の椀へもう一杯、温かいスープを足した。

 湯気が再び立ちのぼる。

 豆と根菜の匂いが、涙で塞がりかけた鼻をくすぐった。

 エルネスタは目を見開いた。

「あの、私はまだ」

「冷めた」

 オズヴァルドは短く言った。

「泣いている間に、椀の中が冷めた。温かいほうを食べろ」

 それだけ言って、彼は自分の席へ戻った。

 慰めではなかった。

 なぜ泣いたのかも聞かなかった。

 泣くなとも言わなかった。

 ただ、冷めたから温かいものを足した。

 その行為が、あまりに彼らしくて、あまりに不器用で、エルネスタは胸の奥をそっと押されたような気持ちになった。

 彼は言葉で包むのが苦手なのだろう。

 けれど、冷めた椀を見ている。

 震える手を見ている。

 食べられるかどうかを、たぶん気にしている。

 エルネスタは椀を見下ろした。

 足されたスープのせいで、椀はまた八分目まで満たされている。豆が柔らかく崩れ、刻まれた玉ねぎが湯気の中で透けている。小さな燻製肉が浮いていた。

 食べきれないかもしれない。

 そう思った瞬間、マルティナが言った。

「全部食べろとは言ってないよ」

 エルネスタは顔を上げた。

「でも」

「温かいものがそこにあることと、全部食べなきゃいけないことは別だよ」

 マルティナはパンをちぎりながら、当たり前のように続けた。

「食べられる分だけ食べればいい。残ったら、鍋に戻すのは行儀が悪いからオズに渡す」

「また俺か」

「残飯係は大事な役目だよ」

「言い方を考えろ」

「じゃあ、仕上げ係」

「変わっていない」

 ミレが今度こそ少し笑った。

 サナも肩を揺らしている。

 エルネスタは、涙で濡れた目のまま、そのやり取りを見ていた。

 誰も、彼女の涙だけを中心にしない。

 泣いていることを、食卓のすべてにしない。

 泣いている人がいても、スープは足され、パンはちぎられ、母と息子は言い合い、使用人は笑いを堪える。

 それが不思議だった。

 侯爵家で泣けば、おそらく場の空気を壊したと言われただろう。実家で泣けば、母が困り、父が不機嫌になり、姉が面倒そうにため息をついたはずだ。

 だからエルネスタは、泣かないことを覚えた。

 泣く前に飲み込む。

 涙が出そうなら水を飲む。

 声が震えそうなら笑う。

 それでも駄目な時は、部屋に戻るまで耐える。

 泣けば面倒がられる。

 泣けば困らせる。

 泣けば、誰かの機嫌を損ねる。

 ずっと、そう思っていた。

 けれど今、目の前の人たちは少しも面倒そうではなかった。

 マルティナは理由を聞かない。

 ミレはそっと水差しを近くに置く。

 サナは「パン、柔らかいところを切りましょうか」と小声で言う。

 オズヴァルドは無言でスープを足す。

 泣いても、世界は壊れない。

 食卓は続く。

 そのことを、エルネスタは初めて知った。

 彼女は布で目元を押さえ、もう一度スプーンを取った。

 手はまだ震えていた。

 だが、さっきほどではない。

 スープをすくう。

 湯気が頬に触れる。

 熱い。

 けれど、先ほどより飲み込める。

 喉を通る時、涙で荒れた内側に温かさが染みた。

「おいしいです」

 小さな声で言った。

 マルティナが笑った。

「それはよかった」

 オズヴァルドは何も言わなかったが、彼の肩から少し力が抜けたように見えた。

 エルネスタはそれに気づき、また胸が詰まった。

 自分が食べると、誰かが安心する。

 そんな経験はほとんどなかった。

 侯爵家では、残せば侍女が困った。食べすぎれば品がないと思われる。実家では、姉の好物が優先され、エルネスタはそれに合わせた。食べることは、自分の体のためというより、場を乱さないための行為だった。

 ここでは、食べることが、ただ温まるためにある。

 自分の体を戻すためにある。

 それが、あまりに慣れなかった。

「エルネスタ」

 マルティナが呼んだ。

 エルネスタは顔を上げる。

 名前を呼ばれるたび、まだ少し緊張する。

「はい」

「泣いている理由は、今言わなくていい」

 エルネスタは息を止めた。

 マルティナは椀の縁を布巾で拭きながら続ける。

「言いたい時が来たら言えばいい。言いたくないなら、言わなくてもいい。うちのスープは、理由を聞かないと出ない仕組みじゃないからね」

 エルネスタは、スプーンを持つ手に力を入れた。

 理由を聞かれない。

 それが、こんなにも楽だとは思わなかった。

 実家で母はいつも、泣きそうな顔をすると理由を聞いた。

 けれど、その理由は母が納得する形でなければいけなかった。

 寂しかったと言えば、そんなことで、と困った顔をされた。

 嫌だったと言えば、我慢しなさいと言われた。

 怖かったと言えば、そんなつもりではなかったのよと言われた。

 だからエルネスタは、理由を言うことをやめた。

 理由を持つことさえ、迷惑なのだと思うようになった。

 ヴィルドリックは、理由そのものを必要としなかった。彼に必要なのは、結果と手続きと、屋敷が滞りなく回ることだった。エルネスタの悲しみには、役目がなかった。

 でもマルティナは、理由を要求しない。

 泣いているなら、布を差し出す。

 冷めたなら、スープを足す。

 それでいいと言う。

 エルネスタは、布を握ったまま俯いた。

「私」

 言葉が勝手にこぼれた。

 マルティナもオズヴァルドも、黙っていた。

「泣くと、困らせると思っていました」

 声は小さかった。

 けれど食堂は静かだったから、きっと聞こえた。

「泣いたら、面倒だと。泣くくらいなら、先に謝らなければいけないと。泣いた理由をうまく説明できなければ、泣いたことも間違いになるのだと」

 口にしてから、ひどく奇妙なことを言っている気がした。

 だが、止められなかった。

「だから、泣かないようにしていたはずなのに。こちらに来て、温かいものを出していただいただけで、どうしてか」

 喉が詰まる。

 マルティナが布をもう一枚、そっと差し出した。

 今度は何も言わなかった。

 ただ、エルネスタの手の届く場所に置いた。

 エルネスタはそれを見た瞬間、また涙がこぼれた。

 理由を聞かない布。

 使っていいと言われた布。

 その白さが、たまらなかった。

「申し訳」

 反射で出かけた言葉を、エルネスタは自分で飲み込んだ。

 苦しかった。

 謝罪を飲み込むのは、涙を飲み込むのと同じくらい難しい。

 だが、マルティナはそれを見て、少しだけ目元を緩めた。

「よく止めた」

 褒められた。

 それも、泣かないことではなく、謝りすぎるのを止めたことで。

 エルネスタは戸惑った。

「褒められるようなことでは」

「いいや。癖を止めるのは難しいよ。あんた、ずいぶん長くそれをやってきた顔をしている」

 マルティナの声は低くなった。

 責めるのではなく、見ている声だった。

 エルネスタは何も言えなかった。

 長く。

 長くやってきた。

 どのくらい長くなのか、自分でも分からない。

 物心ついた頃には、もう謝っていた気がする。

 姉のお菓子を食べたわけでもないのに、姉が機嫌を損ねれば謝った。

 母が疲れていれば、何もしていなくても謝った。

 父の書類が見つからなければ、自分が触ったわけでもないのに部屋の隅で謝った。

 ヴィルドリックが黙っていれば、何か至らないことをしたのだと思い謝った。

 謝れば、少なくともその場は進む。

 謝らなければ、相手の不快がどこまでも広がる。

 それが怖かった。

 オズヴァルドが、低く言った。

「泣くことは、迷惑ではない」

 エルネスタは顔を上げた。

 彼は自分の椀を見ていた。

 彼女の顔を見ずに言った。

「道端で倒れるほうが迷惑だ」

 マルティナが呆れたように息を吐いた。

「オズ」

「何だ」

「もう少し言い方を選びな」

「選んだ」

「それでかい」

「泣くのを我慢して倒れられるより、泣いて座っているほうがましだ」

 オズヴァルドは真面目な顔で言った。

 マルティナは頭を押さえた。

 ミレは完全に笑いを堪えきれず、台所へ逃げた。

 サナは「団長らしいですねえ」と小さく呟いた。

 エルネスタは、涙の残った目でオズヴァルドを見た。

 やはり優しい言い方ではない。

 だが、嘘ではない。

 泣いて座っているほうがまし。

 そう言われると、不思議と息ができた。

 泣いてもいい、と甘く言われたら、きっと受け取れなかった。そんなことを信じるには、エルネスタの心はまだ硬すぎる。

 けれど、泣くのを我慢して倒れるなと言われるなら、少し分かる。

 体を壊すくらいなら泣け。

 そういう実務的な許可。

 オズヴァルドは、そういう形でしか優しさを渡せない人なのかもしれない。

「ありがとうございます」

 エルネスタは言った。

 オズヴァルドは少し困ったように眉を寄せた。

「礼を言われることか」

「はい」

 今度ははっきり頷いた。

「私には、とても」

 その先は言えなかった。

 大きすぎる言葉になりそうだった。

 救われました、などと言えば、この食卓には重すぎる。

 だからエルネスタは、もう一度スプーンを取った。

 足されたスープを、少しずつ食べる。

 泣きながら食べるのは、不格好だった。

 鼻の奥が熱く、喉も少し痛い。何度も布で目元を押さえる。時々、スープの味が涙で分からなくなる。

 それでも、食べた。

 マルティナは理由を聞かず、ただパンを小さくちぎってくれた。

 オズヴァルドは何も言わず、彼女の椀が空きすぎないように見ていた。

 ミレは水を足した。

 サナは火を少し強くした。

 そうして、食事は続いた。

 泣いても、叱られなかった。

 泣いても、席を立たされなかった。

 泣いても、面倒そうにため息をつかれなかった。

 それは、エルネスタにとって、温かいスープ以上に信じがたいことだった。

 食事を終える頃には、雨音は少し弱まっていた。

 屋根から落ちる水の音が規則正しく響いている。暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が小さく跳ねた。食堂には、豆のスープの残り香と、黒パンの香ばしさと、洗い物の水音が混じっていた。

 エルネスタは椀を見下ろした。

 全部は食べきれなかった。

 だが、半分以上は食べた。

 残してしまったことに胸が騒ぐ。

 失礼ではないか。

 せっかく足してもらったのに。

 そう思った瞬間、オズヴァルドが何も言わず、彼女の椀を自分のほうへ引いた。

「え」

「もういらないんだろう」

「あ、はい。でも」

 彼は木のスプーンで、残りのスープを当然のように食べ始めた。

 エルネスタは目を見開く。

「そんな、私の食べ残しを」

「残すほうがもったいない」

「ですが」

「家ではこうだ」

 それだけだった。

 マルティナがにやりとする。

「ほら、仕上げ係だろう」

 オズヴァルドは返事をしなかった。

 エルネスタは、どうしていいか分からず俯いた。

 恥ずかしい。

 けれど、不快に思われていない。

 残したことを責められていない。

 食べ残しが、失敗ではなく、誰かの胃袋へ移るだけのものとして扱われている。

 あまりに家庭的で、あまりに遠い光景だった。

「ごちそうさまでした」

 エルネスタは静かに言った。

 マルティナが笑った。

「はい、お粗末さま」

 その返事を聞いた瞬間、胸にまた柔らかいものが触れた。

 ごちそうさまに返事がある。

 それも、形式ではなく、食べた人と作った人の間にある返事。

 当たり前のことなのかもしれない。

 でもエルネスタには、ひとつひとつが新しかった。

 その後、マルティナは本当に詳しい事情を聞かなかった。

 ただ、濡れた服は明日まで干しておくこと、借りた服は気にしなくていいこと、今夜は南側の小部屋で休むこと、熱が出るかもしれないから水を飲むことを次々に告げた。

 指示は多い。

 声も強い。

 だが、そのすべてがエルネスタの体を中心に並んでいた。

「話は明日」

 マルティナは最後に言った。

「夜に人生の大問題を考えると、たいてい悪いほうへ転がるからね。温かくして寝な」

「はい」

「それから、泣きたくなったら泣いていい。泣き声がうるさかったら、オズを見張りに立たせる」

「母さん」

 オズヴァルドが低い声を出した。

「何だい。騎士団長だろう。夜番くらいできるじゃないか」

「問題はそこじゃない」

「じゃあどこだい」

 オズヴァルドは少し黙った。

 答えに困っているらしい。

 その沈黙が、なぜか食堂を少し和ませた。

 エルネスタは布を膝の上で畳みながら、ほんのわずかに目元を緩めた。

 笑った、と呼ぶには小さい。

 けれど、涙とは違う動きだった。

 マルティナはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。

 食堂から小部屋へ向かう廊下で、オズヴァルドはエルネスタの少し横を歩いた。

 彼は手を貸そうとはしなかった。

 けれど、いつでも支えられる距離にいた。

 歩幅は明らかに遅い。普段なら、この大きな体でさっさと廊下を進むのだろう。だが今は、足を痛めたエルネスタが一歩進むたび、彼も一歩だけ進む。

 古い床板がきしむ。

 ぎし。

 ぎし。

 食堂で聞いた音と同じなのに、夜の廊下では少し違って聞こえた。

 侯爵家の廊下は、夜になると音を殺していた。絨毯が厚く、足音が沈み、誰がどこにいるのか分からなくなる。実家の廊下では、音を立てないように歩く癖がついていた。見つかれば、なぜそこにいるのか問われるから。

 レナック家の廊下は、歩けば鳴る。

 隠れられない。

 けれど、咎められない。

 それがまだ不思議だった。

「足は」

 オズヴァルドが聞いた。

「少し痛みます」

 今度は、すぐに本当のことを言えた。

 オズヴァルドは頷いた。

「明日腫れていたら、医者を呼ぶ」

「そこまででは」

 言いかけたところで、彼の視線が来た。

 エルネスタは言葉を変えた。

「見てから、判断いたします」

「そうしろ」

 短いやり取りだった。

 だが、エルネスタにとっては小さな勝利のようだった。

 大丈夫です、と反射で終わらせなかった。

 痛みます、と言えた。

 見てから判断します、と言えた。

 それだけのことなのに、少しだけ息がしやすい。

 南側の小部屋の前に着くと、ミレが待っていた。

「湯たんぽを入れておきました。寝間着もこちらに。水差しも替えてあります。何かあれば呼んでください」

「ありがとうございます」

 エルネスタが礼を言うと、ミレは嬉しそうに笑った。

「いいえ。あ、鍵はこちらです」

 ミレが扉の内側を指した。

 エルネスタは何気なく視線を向けた。

 そこには、小さな金属の鍵が差さっていた。

 扉の内側から、かけられる鍵。

 エルネスタは、動きを止めた。

 視界の端で、オズヴァルドがそれに気づいた。

「どうした」

 エルネスタは答えられなかった。

 鍵。

 内側の鍵。

 客人用の部屋なら、普通のことかもしれない。けれど彼女にとっては普通ではなかった。

 侯爵家で使っていた寝室には鍵があった。

 だが、内側から自由にかけられるものではなかった。形式としてはあっても、夫や侍女長が必要と判断すれば開けられる。そもそも、彼女は鍵をかける習慣を持たなかった。妻が夫を拒むように見えることは避けるべきだと、婚礼の時に遠回しに言われたからだ。

 実家の子ども部屋にも鍵はなかった。

 母は返事を待たずに入ってきた。侍女も、父の命令があれば入った。姉も時々、リボンや手袋を探すと言って勝手に引き出しを開けた。

 リネン室には、もちろん鍵などなかった。

 人を閉じ込めるための部屋ではないが、人が自分を守るための部屋でもなかった。

 だから、扉の内側に鍵があることが、エルネスタには衝撃だった。

「この鍵は」

 声が小さくなる。

 ミレが不思議そうに言った。

「はい。内側からかけられます。古いので少し固いんですけど、こうやって」

 ミレは実際に鍵を回して見せようとした。

 かちり、と小さな音が鳴る。

 扉が閉まる。

 鍵がかかる。

 その音が、エルネスタの胸を強く打った。

 オズヴァルドが低く言う。

「ミレ」

 ミレははっとして手を止めた。

「あ、ごめんなさい。驚かせましたか」

「いえ」

 エルネスタは首を振った。

 けれど、手が震えていた。

 自分でも分かるほど。

 マルティナが廊下の向こうからやって来た。様子を見に来たのだろう。彼女はエルネスタの顔と、扉の鍵を見て、すぐに何かを察したようだった。

「鍵は内側からかけていいよ」

 マルティナは静かに言った。

 先ほどの食卓での明るい声とは少し違う。

 低く、柔らかい。

「夜の間、誰も勝手には入らない。朝になったら、ミレが扉の外から声をかける。返事があってから入る。返事がなければ、もう一度呼ぶ。それでも返事がなければ、オズを呼ぶ」

「そこで俺か」

「扉を壊す係だよ」

「壊す前提で話すな」

「倒れていたら壊すだろう」

「それはそうだが」

 いつもの言い合いに戻りかけたが、マルティナはすぐにエルネスタへ視線を戻した。

「でも、そういうことがなければ、勝手には入らない。ここは今夜、あんたの部屋だ」

 あんたの部屋。

 エルネスタは、息を吸えなくなった。

 今夜だけ。

 おそらく、そういう意味だ。

 この先どうなるか分からない。まだ事情も話していない。明日には別の場所へ行く話になるかもしれない。

 それでも、今夜は。

 この部屋は、彼女の部屋。

 内側から鍵をかけていい。

 誰かが勝手に入ってこない。

 返事を待ってくれる。

 眠っている間、自分の体も、自分の息も、自分の沈黙も、誰かの都合で開けられない。

 そんな当たり前の権利を、エルネスタは持っていたことがなかった。

「私が、鍵を」

「かけていい」

 マルティナは繰り返した。

「怖いなら、かけなくてもいい。どちらでもいいよ。内側から選べるようにしてあるだけだ」

 選べる。

 また、知らない言葉だった。

 鍵をかけるか、かけないか。

 眠る部屋に誰を入れるか、入れないか。

 それを自分で選べる。

 エルネスタは、扉の金具を見つめた。

 小さな鍵だった。

 高価なものではない。飾りもない。使い込まれて、持ち手の部分が少し黒ずんでいる。

 けれど、その小さな金属片が、まるで宝石より重いものに見えた。

「ありがとうございます」

 エルネスタは言った。

 声が震えた。

 マルティナは何も聞かなかった。

 ただ、手に持っていた小さな布袋を渡してきた。

「湯たんぽが冷めたら、これを足元に入れるといい。乾かしたラベンダーだよ。眠れない時に少しはましになる」

 袋から、淡い香りがした。

 強い香水ではない。

 乾いた花の、かすかな匂い。

「こんなに、していただいて」

「今夜は多めに甘やかされておきな」

 マルティナはあっさりと言った。

「明日になったら、こっちも色々聞く。あんたも考えることがあるだろう。だったら今夜くらい、布団にくるまって泣いて寝ればいい」

 泣いて寝ればいい。

 泣くことが、眠ることと同じ並びに置かれた。

 それが、エルネスタには信じられなかった。

「泣いても、よろしいのでしょうか」

 気づけば、そんなことを聞いていた。

 廊下が静かになった。

 ミレが目を伏せる。

 オズヴァルドの表情が、少し硬くなる。

 マルティナはエルネスタを見た。

 叱るでも、哀れむでもなく。

「泣くのに許可はいらないよ」

 その声は、火鉢の炭のように穏やかだった。

「でも、誰かに聞いてほしいなら呼びな。ひとりで泣きたいなら鍵をかけな。泣きたくないなら、泣かなくていい。全部あんたが決めることだよ」

 全部あんたが決めること。

 エルネスタは、胸の中でその言葉を繰り返した。

 自分が決める。

 泣くかどうか。

 誰かを呼ぶかどうか。

 鍵をかけるかどうか。

 眠るかどうか。

 あまりに小さなことばかりなのに、彼女には大きすぎた。

 マルティナは、それ以上何も言わず、ミレを連れて廊下を戻っていった。

 オズヴァルドだけが、少し残った。

 彼は何か言いたそうにしていたが、言葉を探すのが下手な人らしく、眉間に皺を寄せたまま数秒黙った。

 エルネスタは彼を見上げた。

「オズヴァルド様」

「何だ」

「今日、食卓で泣いてしまって」

 また謝りそうになる。

 だが、止める。

 彼もそれに気づいたのか、黙って待っていた。

 エルネスタは、少しだけ息を整えた。

「布をいただいて、スープを足していただいて、ありがとうございました」

 謝罪ではなく、礼にできた。

 オズヴァルドは少し目を伏せた。

「スープは母が作った」

「でも、足してくださったのはオズヴァルド様です」

「冷めていたからだ」

「はい」

 エルネスタは小さく頷いた。

「冷めたものではなく、温かいものをくださって、ありがとうございました」

 オズヴァルドは、ひどく困った顔をした。

 褒められ慣れていないのかもしれない。

 礼を受け取るのが苦手なのかもしれない。

 彼は視線を廊下の床へ落とし、低く言った。

「明日、熱が出るかもしれない」

「はい」

「寒ければ呼べ」

「はい」

「鍵は、かけたいならかけろ」

「はい」

「ただし、具合が悪くなったら鍵越しでも声を出せ。聞こえなければ壊す」

 扉を。

 おそらくそういう意味だ。

 エルネスタは、少しだけ目を瞬いた。

 冗談なのか、本気なのか分からない。

 たぶん本気だ。

 この人なら、必要だと思えば本当に扉を壊す。

 その想像が、なぜか怖いよりも少し可笑しかった。

「分かりました」

 エルネスタは答えた。

 オズヴァルドは頷き、今度こそ廊下を戻っていった。

 彼の足音が遠ざかる。

 床板が、ぎし、ぎし、と鳴る。

 やがて食堂のほうから、マルティナの声が聞こえた。

「オズ、濡れた靴をそのままにしてるんじゃないよ」

「今片づける」

「あんたは騎士団長になる前に、自分の靴の団長になりな」

「何だそれは」

 ミレの笑い声が続いた。

 エルネスタは扉の前で立ったまま、その声を聞いていた。

 廊下の向こうに生活がある。

 声があり、足音があり、叱る声があり、笑いがある。

 自分の部屋ではない。

 自分の家ではない。

 けれど今夜、その音は扉の向こうから彼女を責めなかった。

 エルネスタは部屋に入った。

 南側の小部屋は、先ほど見た時よりもさらに整えられていた。

 寝台には厚い毛布。足元には湯たんぽ。小さな卓には水差しと杯。椅子の上には畳まれた寝間着。火鉢には新しい炭が入っている。ラベンダーの布袋を置くと、部屋の空気に淡い香りが混じった。

 窓は小さいが、リネン室の窓よりもずっと手入れされていた。硝子には雨粒が流れている。外は暗く、庭の輪郭は見えない。ただ、屋根から落ちる水音だけが続いている。

 エルネスタは扉の内側に向き直った。

 鍵がある。

 彼女は、そっと手を伸ばした。

 金属は冷たかった。

 指先に、小さな硬さが触れる。

 鍵を回せばいい。

 ただ、それだけ。

 けれど手が震える。

 鍵をかけることは、拒絶のように思えた。

 入ってこないでください。

 私は今、一人でいたいです。

 そう言っているようで怖かった。

 そんなことを言えば、相手は不快になるのではないか。疑われたと思うのではないか。失礼だと怒るのではないか。

 だが、マルティナは言った。

 かけていい。

 かけなくてもいい。

 選べるようにしてあるだけ。

 オズヴァルドも言った。

 かけたいならかけろ。

 エルネスタは、ゆっくり息を吸った。

 そして鍵を回した。

 かちり。

 小さな音だった。

 けれど、その音は胸の中に大きく響いた。

 扉が閉まった。

 内側から。

 彼女の手で。

 誰かを閉じ出すためではなく、自分を守るために。

 エルネスタは鍵から手を離した。

 指先が震えている。

 けれど、その震えは雨の街道で倒れかけた時の震えとは違った。

 怖い。

 でも、少しだけ温かい。

 彼女は扉に背を預けた。

 閉じた扉の向こうから、まだ微かに家の音が聞こえる。食器を洗う音。椅子を引く音。誰かが廊下を歩く音。マルティナの声。オズヴァルドの低い返事。

 それらは鍵の向こうにある。

 しかし、鍵をかけたからといって、消えてはいない。

 扉一枚を隔てて、生活は続いている。

 そして、その内側で、自分は眠っていい。

 誰かが勝手に入ってくることを警戒しなくていい。

 母が返事を待たずに扉を開けることも。

 姉が勝手に引き出しを覗くことも。

 侍女長が夫の都合で寝室へ入ってくることも。

 今夜は、ない。

 エルネスタは、そこで初めて理解した。

 自分は、眠る時でさえ、ずっと誰かに許可を渡していたのだ。

 起こされるかもしれない。

 呼ばれるかもしれない。

 入ってこられるかもしれない。

 そういう可能性を抱えたまま、浅く眠っていた。

 侯爵家の寝室では、いつ夫が来るか分からなかった。来ないことがほとんどだったが、それでも「来ない」と自分で決めることはできなかった。

 実家では、夜でも母や姉が用件を持ち込むことがあった。エルネスタの眠りは、家族の都合より後に置かれていた。

 リネン室では、鍵のない扉と冷たい寝台の中で、いつ追い出されるか分からないまま目を閉じた。

 眠りすら、自分のものではなかった。

 けれど、今。

 かちり、と鍵をかけたこの小部屋で、彼女は初めて知った。

 眠ることも、自分で選んでいいのだ。

 誰にも見せない涙も。

 誰にも説明しない沈黙も。

 内側から閉めた扉の中で、自分のものにしていいのだ。

 エルネスタは扉から離れた。

 寝間着に着替える時も、何度か鍵を見た。

 本当に閉まっている。

 それだけで安心する。

 だが同時に、不安にもなる。

 鍵をかけてしまった。

 失礼ではないか。

 明日の朝、マルティナが不快に思わないだろうか。

 オズヴァルドが、疑われたと思わないだろうか。

 そう考えてしまう自分がいた。

 けれど、マルティナの声が胸の中で響く。

 泣くのに許可はいらないよ。

 鍵は内側からかけていいよ。

 エルネスタは、寝間着の紐を結び、湯たんぽの入った寝台へ入った。

 足元が温かい。

 毛布が重い。

 その重さが、雨で濡れた外套の重さとは違った。

 守るための重さだった。

 ラベンダーの香りが淡く漂う。

 水差しがある。

 もし喉が渇いたら、自分で飲める。

 もし泣きたくなったら、声を殺さず泣いてもいい。

 もし誰かを呼びたくなったら、呼んでもいい。

 もし一人でいたければ、鍵をかけたまま眠っていい。

 選べることが多すぎて、エルネスタは少し途方に暮れた。

 けれど、それは怖い途方ではなかった。

 広すぎる空の下に放り出される不安ではなく、小さな部屋の中で、初めて自分の手のひらを見つけたような戸惑いだった。

 彼女は毛布の中で丸くなった。

 食卓で使った布を、枕元に置いていた。マルティナが「持っていきな」と言ってくれたものだ。涙を拭くための布。顔を拭いていい布。

 エルネスタはそれを手に取り、目元に当てた。

 涙はまた出てきた。

 今度は、謝らなかった。

 誰に向かっても。

 自分に向かっても。

 ごめんなさいと言わずに、ただ泣いた。

 泣き声は小さかった。

 長い間、声を出さずに泣くことだけは上手になってしまっていたから。

 それでも、息が震えた。

 肩が揺れた。

 喉の奥から、ずっと押し込めていたものが細く漏れた。

 侯爵家の朝食室。

 白い離縁状。

 ヴィルドリックの冷たい声。

 実家の応接室。

 父の眉間。

 母の困った顔。

 姉の「恥ずかしい」。

 リネン室の古い布の匂い。

 雨の街道。

 泥に沈んだ膝。

 死にたいのか、と降ってきた怖い声。

 名前を呼ばれた瞬間。

 外套の熱。

 スープの湯気。

 マルティナの布。

 オズヴァルドが足してくれたもう一杯のスープ。

 それらが、順番もなく胸の中で混ざった。

 苦しい。

 でも、今は苦しいと言ってもいいのかもしれない。

 そう思った瞬間、また涙が出た。

 エルネスタは布を握りしめた。

 ここでは、泣いても叱られなかった。

 泣いても面倒がられなかった。

 泣いても食卓から追い出されなかった。

 泣いても、温かいスープが足された。

 そのことが、痛いほど優しかった。

 どれほど自分が冷たい場所で生きてきたのかを、温かさによって知ってしまう。

 それは救いであり、同時に傷口に触れることでもあった。

 エルネスタは、嗚咽を飲み込みながら目を閉じた。

 扉には鍵がかかっている。

 内側から。

 自分の手で。

 その事実を何度も確かめるように思い出す。

 かちり、という音。

 小さな音。

 けれど彼女にとっては、初めて自分の眠りを自分のものにした音だった。

 窓の外では、雨が弱くなっていた。

 屋根を打つ音も柔らかくなり、時折、雫が葉から落ちる音がする。

 廊下の向こうからは、もう食堂の賑やかさは聞こえない。屋敷全体が少しずつ夜に沈んでいる。けれど、完全な静寂ではなかった。どこかで薪がはぜる。古い木材が夜の冷えで小さく鳴る。遠くで誰かが扉を閉める。

 生きている家の音。

 その中で、エルネスタは泣きながら眠りに落ちていった。

 夢の手前で、彼女はぼんやりと思った。

 ここは、まだ自分の家ではない。

 明日、出ていかなければならないかもしれない。

 事情を話せば、やはり迷惑だと思われるかもしれない。

 それでも。

 今夜、この部屋は自分に与えられた。

 食卓には、自分の椀があった。

 扉には、自分でかけられる鍵があった。

 その三つだけで、今夜のエルネスタは、昨日より少しだけ人間に戻れた気がした。

 涙が乾く前に、眠りが来た。

 深くはなかった。

 時々、体が震えた。

 けれど、誰かの足音に怯えて目を覚ますことはなかった。

 鍵は、内側からかかったままだった。

 そして扉の向こうでは、誰もそれを咎めなかった。

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