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第5話 ここでは、泣いても叱られない
涙は、一度こぼれると止め方を忘れていた。
エルネスタは、それを自分の体で知った。
レナック家の食堂。古い木のテーブル。揃っていない椀。傷のある椅子。窓を叩く雨。暖炉の火。豆のスープの湯気。
その中に座っている自分が、まだ現実のものとは思えなかった。
食べる人は食卓に座るんだよ。
マルティナの声は、強くて、あっけらかんとしていて、あまりにも当然のことを当然のまま差し出してきた。だからエルネスタは、どう受け取ればいいのか分からなかった。
食卓に座る。
椀を置かれる。
スープをよそわれる。
黒パンを渡される。
ただそれだけのことが、胸の奥に深く触れてしまった。
自分は今日、二つの家から出てきた。
侯爵家の冷たい朝食室では、離縁状を前に置かれた。実家では、食堂に席がなかった。リネン室に置かれた冷めかけの食事は、食卓から外された人間に与えられるものだった。
けれどここでは、名前も事情もまだほとんど話していないのに、食卓に椅子が一つ増えた。
自分のために。
それが、恐ろしいほど温かかった。
エルネスタは、布を目元に押し当てた。
マルティナが差し出してくれた布は、柔らかかった。古いが、丁寧に洗われている。侯爵家の絹のハンカチのような滑らかさはない。けれど、頬に当てても冷たくなかった。
涙を拭くための布。
顔を拭いていいと言われた布。
それを握っているだけで、また涙があふれそうになる。
「申し訳、ございません」
エルネスタは震える声で言った。
言わずにはいられなかった。
食卓で泣くなんて、みっともない。
人前で感情を崩すなんて、迷惑だ。
温かい食事を出してもらったのに、泣いてしまうなんて失礼だ。
そう思った瞬間、喉の奥から謝罪が次々と出てきた。
「申し訳ございません。せっかく、温かいものを出していただいたのに。私、こんな」
言葉の途中で息が詰まる。
涙が落ちる。
慌てて布で押さえる。
「本当に、申し訳ございません。ご不快にさせるつもりはなくて。ただ、あの、私」
「エルネスタ」
マルティナの声がした。
責める声ではなかった。
けれど、食卓にあった小さなざわめきが、ぴたりと止まるくらいにはっきりした声だった。
エルネスタは肩を震わせた。
「はい」
「謝るのは、一回でいい」
その言葉に、エルネスタは瞬きをした。
涙で視界が揺れている。マルティナの顔が、湯気の向こうで少しぼやけて見えた。
「一回、ですか」
「そう。一回で足りる。何度も謝ると、謝っているほうも疲れるし、聞いているほうもどうしていいか分からなくなる」
マルティナはそう言いながら、自分の椀にスープを足した。
まるで、天気の話でもするような調子だった。
「もちろん、皿を割ったとか、足を踏んだとか、鍋をひっくり返したとか、そういう時は謝ればいい。でも今、あんたは泣いただけだろう」
エルネスタは、布を握ったまま小さく頷いた。
「はい」
「なら、泣いたことに対して謝るなら一回で十分。あとは泣いて、拭いて、食べればいい」
「でも、食事中に」
「食事中でも涙は出るよ。人間の目は食卓に座ったからって休業しないからね」
あまりに真顔で言われたので、ミレが台所の入口で小さく吹き出しかけた。
サナが肘で軽くつつく。
オズヴァルドは無言だった。
彼は椀を持ったまま、エルネスタを見ていた。正確には、見すぎないように見ていた。視線は彼女の顔ではなく、彼女の手元と椀のあたりに落ちている。泣いている顔を直視しないようにしているのだと、遅れて分かった。
その気遣いが、また胸に刺さる。
見ないでくれる人。
でも、放っておくわけではない人。
そんな人がいるのだと知らなかった。
「申し訳」
また言いかけて、エルネスタは自分で口を閉じた。
マルティナが片眉を上げる。
エルネスタは布の中で小さく息を吸った。
「ありがとうございます」
「うん」
マルティナは満足そうに頷いた。
「そっちのほうがいい」
オズヴァルドが何も言わずに立ち上がった。
エルネスタは、怒らせてしまったのかと思い、体をこわばらせた。
だが彼は鍋のそばへ行き、木の柄杓を手に取った。無骨な手つきでスープをすくう。椀の縁に少しこぼれそうになったが、彼は慎重に角度を変え、エルネスタの前の椀へもう一杯、温かいスープを足した。
湯気が再び立ちのぼる。
豆と根菜の匂いが、涙で塞がりかけた鼻をくすぐった。
エルネスタは目を見開いた。
「あの、私はまだ」
「冷めた」
オズヴァルドは短く言った。
「泣いている間に、椀の中が冷めた。温かいほうを食べろ」
それだけ言って、彼は自分の席へ戻った。
慰めではなかった。
なぜ泣いたのかも聞かなかった。
泣くなとも言わなかった。
ただ、冷めたから温かいものを足した。
その行為が、あまりに彼らしくて、あまりに不器用で、エルネスタは胸の奥をそっと押されたような気持ちになった。
彼は言葉で包むのが苦手なのだろう。
けれど、冷めた椀を見ている。
震える手を見ている。
食べられるかどうかを、たぶん気にしている。
エルネスタは椀を見下ろした。
足されたスープのせいで、椀はまた八分目まで満たされている。豆が柔らかく崩れ、刻まれた玉ねぎが湯気の中で透けている。小さな燻製肉が浮いていた。
食べきれないかもしれない。
そう思った瞬間、マルティナが言った。
「全部食べろとは言ってないよ」
エルネスタは顔を上げた。
「でも」
「温かいものがそこにあることと、全部食べなきゃいけないことは別だよ」
マルティナはパンをちぎりながら、当たり前のように続けた。
「食べられる分だけ食べればいい。残ったら、鍋に戻すのは行儀が悪いからオズに渡す」
「また俺か」
「残飯係は大事な役目だよ」
「言い方を考えろ」
「じゃあ、仕上げ係」
「変わっていない」
ミレが今度こそ少し笑った。
サナも肩を揺らしている。
エルネスタは、涙で濡れた目のまま、そのやり取りを見ていた。
誰も、彼女の涙だけを中心にしない。
泣いていることを、食卓のすべてにしない。
泣いている人がいても、スープは足され、パンはちぎられ、母と息子は言い合い、使用人は笑いを堪える。
それが不思議だった。
侯爵家で泣けば、おそらく場の空気を壊したと言われただろう。実家で泣けば、母が困り、父が不機嫌になり、姉が面倒そうにため息をついたはずだ。
だからエルネスタは、泣かないことを覚えた。
泣く前に飲み込む。
涙が出そうなら水を飲む。
声が震えそうなら笑う。
それでも駄目な時は、部屋に戻るまで耐える。
泣けば面倒がられる。
泣けば困らせる。
泣けば、誰かの機嫌を損ねる。
ずっと、そう思っていた。
けれど今、目の前の人たちは少しも面倒そうではなかった。
マルティナは理由を聞かない。
ミレはそっと水差しを近くに置く。
サナは「パン、柔らかいところを切りましょうか」と小声で言う。
オズヴァルドは無言でスープを足す。
泣いても、世界は壊れない。
食卓は続く。
そのことを、エルネスタは初めて知った。
彼女は布で目元を押さえ、もう一度スプーンを取った。
手はまだ震えていた。
だが、さっきほどではない。
スープをすくう。
湯気が頬に触れる。
熱い。
けれど、先ほどより飲み込める。
喉を通る時、涙で荒れた内側に温かさが染みた。
「おいしいです」
小さな声で言った。
マルティナが笑った。
「それはよかった」
オズヴァルドは何も言わなかったが、彼の肩から少し力が抜けたように見えた。
エルネスタはそれに気づき、また胸が詰まった。
自分が食べると、誰かが安心する。
そんな経験はほとんどなかった。
侯爵家では、残せば侍女が困った。食べすぎれば品がないと思われる。実家では、姉の好物が優先され、エルネスタはそれに合わせた。食べることは、自分の体のためというより、場を乱さないための行為だった。
ここでは、食べることが、ただ温まるためにある。
自分の体を戻すためにある。
それが、あまりに慣れなかった。
「エルネスタ」
マルティナが呼んだ。
エルネスタは顔を上げる。
名前を呼ばれるたび、まだ少し緊張する。
「はい」
「泣いている理由は、今言わなくていい」
エルネスタは息を止めた。
マルティナは椀の縁を布巾で拭きながら続ける。
「言いたい時が来たら言えばいい。言いたくないなら、言わなくてもいい。うちのスープは、理由を聞かないと出ない仕組みじゃないからね」
エルネスタは、スプーンを持つ手に力を入れた。
理由を聞かれない。
それが、こんなにも楽だとは思わなかった。
実家で母はいつも、泣きそうな顔をすると理由を聞いた。
けれど、その理由は母が納得する形でなければいけなかった。
寂しかったと言えば、そんなことで、と困った顔をされた。
嫌だったと言えば、我慢しなさいと言われた。
怖かったと言えば、そんなつもりではなかったのよと言われた。
だからエルネスタは、理由を言うことをやめた。
理由を持つことさえ、迷惑なのだと思うようになった。
ヴィルドリックは、理由そのものを必要としなかった。彼に必要なのは、結果と手続きと、屋敷が滞りなく回ることだった。エルネスタの悲しみには、役目がなかった。
でもマルティナは、理由を要求しない。
泣いているなら、布を差し出す。
冷めたなら、スープを足す。
それでいいと言う。
エルネスタは、布を握ったまま俯いた。
「私」
言葉が勝手にこぼれた。
マルティナもオズヴァルドも、黙っていた。
「泣くと、困らせると思っていました」
声は小さかった。
けれど食堂は静かだったから、きっと聞こえた。
「泣いたら、面倒だと。泣くくらいなら、先に謝らなければいけないと。泣いた理由をうまく説明できなければ、泣いたことも間違いになるのだと」
口にしてから、ひどく奇妙なことを言っている気がした。
だが、止められなかった。
「だから、泣かないようにしていたはずなのに。こちらに来て、温かいものを出していただいただけで、どうしてか」
喉が詰まる。
マルティナが布をもう一枚、そっと差し出した。
今度は何も言わなかった。
ただ、エルネスタの手の届く場所に置いた。
エルネスタはそれを見た瞬間、また涙がこぼれた。
理由を聞かない布。
使っていいと言われた布。
その白さが、たまらなかった。
「申し訳」
反射で出かけた言葉を、エルネスタは自分で飲み込んだ。
苦しかった。
謝罪を飲み込むのは、涙を飲み込むのと同じくらい難しい。
だが、マルティナはそれを見て、少しだけ目元を緩めた。
「よく止めた」
褒められた。
それも、泣かないことではなく、謝りすぎるのを止めたことで。
エルネスタは戸惑った。
「褒められるようなことでは」
「いいや。癖を止めるのは難しいよ。あんた、ずいぶん長くそれをやってきた顔をしている」
マルティナの声は低くなった。
責めるのではなく、見ている声だった。
エルネスタは何も言えなかった。
長く。
長くやってきた。
どのくらい長くなのか、自分でも分からない。
物心ついた頃には、もう謝っていた気がする。
姉のお菓子を食べたわけでもないのに、姉が機嫌を損ねれば謝った。
母が疲れていれば、何もしていなくても謝った。
父の書類が見つからなければ、自分が触ったわけでもないのに部屋の隅で謝った。
ヴィルドリックが黙っていれば、何か至らないことをしたのだと思い謝った。
謝れば、少なくともその場は進む。
謝らなければ、相手の不快がどこまでも広がる。
それが怖かった。
オズヴァルドが、低く言った。
「泣くことは、迷惑ではない」
エルネスタは顔を上げた。
彼は自分の椀を見ていた。
彼女の顔を見ずに言った。
「道端で倒れるほうが迷惑だ」
マルティナが呆れたように息を吐いた。
「オズ」
「何だ」
「もう少し言い方を選びな」
「選んだ」
「それでかい」
「泣くのを我慢して倒れられるより、泣いて座っているほうがましだ」
オズヴァルドは真面目な顔で言った。
マルティナは頭を押さえた。
ミレは完全に笑いを堪えきれず、台所へ逃げた。
サナは「団長らしいですねえ」と小さく呟いた。
エルネスタは、涙の残った目でオズヴァルドを見た。
やはり優しい言い方ではない。
だが、嘘ではない。
泣いて座っているほうがまし。
そう言われると、不思議と息ができた。
泣いてもいい、と甘く言われたら、きっと受け取れなかった。そんなことを信じるには、エルネスタの心はまだ硬すぎる。
けれど、泣くのを我慢して倒れるなと言われるなら、少し分かる。
体を壊すくらいなら泣け。
そういう実務的な許可。
オズヴァルドは、そういう形でしか優しさを渡せない人なのかもしれない。
「ありがとうございます」
エルネスタは言った。
オズヴァルドは少し困ったように眉を寄せた。
「礼を言われることか」
「はい」
今度ははっきり頷いた。
「私には、とても」
その先は言えなかった。
大きすぎる言葉になりそうだった。
救われました、などと言えば、この食卓には重すぎる。
だからエルネスタは、もう一度スプーンを取った。
足されたスープを、少しずつ食べる。
泣きながら食べるのは、不格好だった。
鼻の奥が熱く、喉も少し痛い。何度も布で目元を押さえる。時々、スープの味が涙で分からなくなる。
それでも、食べた。
マルティナは理由を聞かず、ただパンを小さくちぎってくれた。
オズヴァルドは何も言わず、彼女の椀が空きすぎないように見ていた。
ミレは水を足した。
サナは火を少し強くした。
そうして、食事は続いた。
泣いても、叱られなかった。
泣いても、席を立たされなかった。
泣いても、面倒そうにため息をつかれなかった。
それは、エルネスタにとって、温かいスープ以上に信じがたいことだった。
食事を終える頃には、雨音は少し弱まっていた。
屋根から落ちる水の音が規則正しく響いている。暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が小さく跳ねた。食堂には、豆のスープの残り香と、黒パンの香ばしさと、洗い物の水音が混じっていた。
エルネスタは椀を見下ろした。
全部は食べきれなかった。
だが、半分以上は食べた。
残してしまったことに胸が騒ぐ。
失礼ではないか。
せっかく足してもらったのに。
そう思った瞬間、オズヴァルドが何も言わず、彼女の椀を自分のほうへ引いた。
「え」
「もういらないんだろう」
「あ、はい。でも」
彼は木のスプーンで、残りのスープを当然のように食べ始めた。
エルネスタは目を見開く。
「そんな、私の食べ残しを」
「残すほうがもったいない」
「ですが」
「家ではこうだ」
それだけだった。
マルティナがにやりとする。
「ほら、仕上げ係だろう」
オズヴァルドは返事をしなかった。
エルネスタは、どうしていいか分からず俯いた。
恥ずかしい。
けれど、不快に思われていない。
残したことを責められていない。
食べ残しが、失敗ではなく、誰かの胃袋へ移るだけのものとして扱われている。
あまりに家庭的で、あまりに遠い光景だった。
「ごちそうさまでした」
エルネスタは静かに言った。
マルティナが笑った。
「はい、お粗末さま」
その返事を聞いた瞬間、胸にまた柔らかいものが触れた。
ごちそうさまに返事がある。
それも、形式ではなく、食べた人と作った人の間にある返事。
当たり前のことなのかもしれない。
でもエルネスタには、ひとつひとつが新しかった。
その後、マルティナは本当に詳しい事情を聞かなかった。
ただ、濡れた服は明日まで干しておくこと、借りた服は気にしなくていいこと、今夜は南側の小部屋で休むこと、熱が出るかもしれないから水を飲むことを次々に告げた。
指示は多い。
声も強い。
だが、そのすべてがエルネスタの体を中心に並んでいた。
「話は明日」
マルティナは最後に言った。
「夜に人生の大問題を考えると、たいてい悪いほうへ転がるからね。温かくして寝な」
「はい」
「それから、泣きたくなったら泣いていい。泣き声がうるさかったら、オズを見張りに立たせる」
「母さん」
オズヴァルドが低い声を出した。
「何だい。騎士団長だろう。夜番くらいできるじゃないか」
「問題はそこじゃない」
「じゃあどこだい」
オズヴァルドは少し黙った。
答えに困っているらしい。
その沈黙が、なぜか食堂を少し和ませた。
エルネスタは布を膝の上で畳みながら、ほんのわずかに目元を緩めた。
笑った、と呼ぶには小さい。
けれど、涙とは違う動きだった。
マルティナはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。
食堂から小部屋へ向かう廊下で、オズヴァルドはエルネスタの少し横を歩いた。
彼は手を貸そうとはしなかった。
けれど、いつでも支えられる距離にいた。
歩幅は明らかに遅い。普段なら、この大きな体でさっさと廊下を進むのだろう。だが今は、足を痛めたエルネスタが一歩進むたび、彼も一歩だけ進む。
古い床板がきしむ。
ぎし。
ぎし。
食堂で聞いた音と同じなのに、夜の廊下では少し違って聞こえた。
侯爵家の廊下は、夜になると音を殺していた。絨毯が厚く、足音が沈み、誰がどこにいるのか分からなくなる。実家の廊下では、音を立てないように歩く癖がついていた。見つかれば、なぜそこにいるのか問われるから。
レナック家の廊下は、歩けば鳴る。
隠れられない。
けれど、咎められない。
それがまだ不思議だった。
「足は」
オズヴァルドが聞いた。
「少し痛みます」
今度は、すぐに本当のことを言えた。
オズヴァルドは頷いた。
「明日腫れていたら、医者を呼ぶ」
「そこまででは」
言いかけたところで、彼の視線が来た。
エルネスタは言葉を変えた。
「見てから、判断いたします」
「そうしろ」
短いやり取りだった。
だが、エルネスタにとっては小さな勝利のようだった。
大丈夫です、と反射で終わらせなかった。
痛みます、と言えた。
見てから判断します、と言えた。
それだけのことなのに、少しだけ息がしやすい。
南側の小部屋の前に着くと、ミレが待っていた。
「湯たんぽを入れておきました。寝間着もこちらに。水差しも替えてあります。何かあれば呼んでください」
「ありがとうございます」
エルネスタが礼を言うと、ミレは嬉しそうに笑った。
「いいえ。あ、鍵はこちらです」
ミレが扉の内側を指した。
エルネスタは何気なく視線を向けた。
そこには、小さな金属の鍵が差さっていた。
扉の内側から、かけられる鍵。
エルネスタは、動きを止めた。
視界の端で、オズヴァルドがそれに気づいた。
「どうした」
エルネスタは答えられなかった。
鍵。
内側の鍵。
客人用の部屋なら、普通のことかもしれない。けれど彼女にとっては普通ではなかった。
侯爵家で使っていた寝室には鍵があった。
だが、内側から自由にかけられるものではなかった。形式としてはあっても、夫や侍女長が必要と判断すれば開けられる。そもそも、彼女は鍵をかける習慣を持たなかった。妻が夫を拒むように見えることは避けるべきだと、婚礼の時に遠回しに言われたからだ。
実家の子ども部屋にも鍵はなかった。
母は返事を待たずに入ってきた。侍女も、父の命令があれば入った。姉も時々、リボンや手袋を探すと言って勝手に引き出しを開けた。
リネン室には、もちろん鍵などなかった。
人を閉じ込めるための部屋ではないが、人が自分を守るための部屋でもなかった。
だから、扉の内側に鍵があることが、エルネスタには衝撃だった。
「この鍵は」
声が小さくなる。
ミレが不思議そうに言った。
「はい。内側からかけられます。古いので少し固いんですけど、こうやって」
ミレは実際に鍵を回して見せようとした。
かちり、と小さな音が鳴る。
扉が閉まる。
鍵がかかる。
その音が、エルネスタの胸を強く打った。
オズヴァルドが低く言う。
「ミレ」
ミレははっとして手を止めた。
「あ、ごめんなさい。驚かせましたか」
「いえ」
エルネスタは首を振った。
けれど、手が震えていた。
自分でも分かるほど。
マルティナが廊下の向こうからやって来た。様子を見に来たのだろう。彼女はエルネスタの顔と、扉の鍵を見て、すぐに何かを察したようだった。
「鍵は内側からかけていいよ」
マルティナは静かに言った。
先ほどの食卓での明るい声とは少し違う。
低く、柔らかい。
「夜の間、誰も勝手には入らない。朝になったら、ミレが扉の外から声をかける。返事があってから入る。返事がなければ、もう一度呼ぶ。それでも返事がなければ、オズを呼ぶ」
「そこで俺か」
「扉を壊す係だよ」
「壊す前提で話すな」
「倒れていたら壊すだろう」
「それはそうだが」
いつもの言い合いに戻りかけたが、マルティナはすぐにエルネスタへ視線を戻した。
「でも、そういうことがなければ、勝手には入らない。ここは今夜、あんたの部屋だ」
あんたの部屋。
エルネスタは、息を吸えなくなった。
今夜だけ。
おそらく、そういう意味だ。
この先どうなるか分からない。まだ事情も話していない。明日には別の場所へ行く話になるかもしれない。
それでも、今夜は。
この部屋は、彼女の部屋。
内側から鍵をかけていい。
誰かが勝手に入ってこない。
返事を待ってくれる。
眠っている間、自分の体も、自分の息も、自分の沈黙も、誰かの都合で開けられない。
そんな当たり前の権利を、エルネスタは持っていたことがなかった。
「私が、鍵を」
「かけていい」
マルティナは繰り返した。
「怖いなら、かけなくてもいい。どちらでもいいよ。内側から選べるようにしてあるだけだ」
選べる。
また、知らない言葉だった。
鍵をかけるか、かけないか。
眠る部屋に誰を入れるか、入れないか。
それを自分で選べる。
エルネスタは、扉の金具を見つめた。
小さな鍵だった。
高価なものではない。飾りもない。使い込まれて、持ち手の部分が少し黒ずんでいる。
けれど、その小さな金属片が、まるで宝石より重いものに見えた。
「ありがとうございます」
エルネスタは言った。
声が震えた。
マルティナは何も聞かなかった。
ただ、手に持っていた小さな布袋を渡してきた。
「湯たんぽが冷めたら、これを足元に入れるといい。乾かしたラベンダーだよ。眠れない時に少しはましになる」
袋から、淡い香りがした。
強い香水ではない。
乾いた花の、かすかな匂い。
「こんなに、していただいて」
「今夜は多めに甘やかされておきな」
マルティナはあっさりと言った。
「明日になったら、こっちも色々聞く。あんたも考えることがあるだろう。だったら今夜くらい、布団にくるまって泣いて寝ればいい」
泣いて寝ればいい。
泣くことが、眠ることと同じ並びに置かれた。
それが、エルネスタには信じられなかった。
「泣いても、よろしいのでしょうか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
廊下が静かになった。
ミレが目を伏せる。
オズヴァルドの表情が、少し硬くなる。
マルティナはエルネスタを見た。
叱るでも、哀れむでもなく。
「泣くのに許可はいらないよ」
その声は、火鉢の炭のように穏やかだった。
「でも、誰かに聞いてほしいなら呼びな。ひとりで泣きたいなら鍵をかけな。泣きたくないなら、泣かなくていい。全部あんたが決めることだよ」
全部あんたが決めること。
エルネスタは、胸の中でその言葉を繰り返した。
自分が決める。
泣くかどうか。
誰かを呼ぶかどうか。
鍵をかけるかどうか。
眠るかどうか。
あまりに小さなことばかりなのに、彼女には大きすぎた。
マルティナは、それ以上何も言わず、ミレを連れて廊下を戻っていった。
オズヴァルドだけが、少し残った。
彼は何か言いたそうにしていたが、言葉を探すのが下手な人らしく、眉間に皺を寄せたまま数秒黙った。
エルネスタは彼を見上げた。
「オズヴァルド様」
「何だ」
「今日、食卓で泣いてしまって」
また謝りそうになる。
だが、止める。
彼もそれに気づいたのか、黙って待っていた。
エルネスタは、少しだけ息を整えた。
「布をいただいて、スープを足していただいて、ありがとうございました」
謝罪ではなく、礼にできた。
オズヴァルドは少し目を伏せた。
「スープは母が作った」
「でも、足してくださったのはオズヴァルド様です」
「冷めていたからだ」
「はい」
エルネスタは小さく頷いた。
「冷めたものではなく、温かいものをくださって、ありがとうございました」
オズヴァルドは、ひどく困った顔をした。
褒められ慣れていないのかもしれない。
礼を受け取るのが苦手なのかもしれない。
彼は視線を廊下の床へ落とし、低く言った。
「明日、熱が出るかもしれない」
「はい」
「寒ければ呼べ」
「はい」
「鍵は、かけたいならかけろ」
「はい」
「ただし、具合が悪くなったら鍵越しでも声を出せ。聞こえなければ壊す」
扉を。
おそらくそういう意味だ。
エルネスタは、少しだけ目を瞬いた。
冗談なのか、本気なのか分からない。
たぶん本気だ。
この人なら、必要だと思えば本当に扉を壊す。
その想像が、なぜか怖いよりも少し可笑しかった。
「分かりました」
エルネスタは答えた。
オズヴァルドは頷き、今度こそ廊下を戻っていった。
彼の足音が遠ざかる。
床板が、ぎし、ぎし、と鳴る。
やがて食堂のほうから、マルティナの声が聞こえた。
「オズ、濡れた靴をそのままにしてるんじゃないよ」
「今片づける」
「あんたは騎士団長になる前に、自分の靴の団長になりな」
「何だそれは」
ミレの笑い声が続いた。
エルネスタは扉の前で立ったまま、その声を聞いていた。
廊下の向こうに生活がある。
声があり、足音があり、叱る声があり、笑いがある。
自分の部屋ではない。
自分の家ではない。
けれど今夜、その音は扉の向こうから彼女を責めなかった。
エルネスタは部屋に入った。
南側の小部屋は、先ほど見た時よりもさらに整えられていた。
寝台には厚い毛布。足元には湯たんぽ。小さな卓には水差しと杯。椅子の上には畳まれた寝間着。火鉢には新しい炭が入っている。ラベンダーの布袋を置くと、部屋の空気に淡い香りが混じった。
窓は小さいが、リネン室の窓よりもずっと手入れされていた。硝子には雨粒が流れている。外は暗く、庭の輪郭は見えない。ただ、屋根から落ちる水音だけが続いている。
エルネスタは扉の内側に向き直った。
鍵がある。
彼女は、そっと手を伸ばした。
金属は冷たかった。
指先に、小さな硬さが触れる。
鍵を回せばいい。
ただ、それだけ。
けれど手が震える。
鍵をかけることは、拒絶のように思えた。
入ってこないでください。
私は今、一人でいたいです。
そう言っているようで怖かった。
そんなことを言えば、相手は不快になるのではないか。疑われたと思うのではないか。失礼だと怒るのではないか。
だが、マルティナは言った。
かけていい。
かけなくてもいい。
選べるようにしてあるだけ。
オズヴァルドも言った。
かけたいならかけろ。
エルネスタは、ゆっくり息を吸った。
そして鍵を回した。
かちり。
小さな音だった。
けれど、その音は胸の中に大きく響いた。
扉が閉まった。
内側から。
彼女の手で。
誰かを閉じ出すためではなく、自分を守るために。
エルネスタは鍵から手を離した。
指先が震えている。
けれど、その震えは雨の街道で倒れかけた時の震えとは違った。
怖い。
でも、少しだけ温かい。
彼女は扉に背を預けた。
閉じた扉の向こうから、まだ微かに家の音が聞こえる。食器を洗う音。椅子を引く音。誰かが廊下を歩く音。マルティナの声。オズヴァルドの低い返事。
それらは鍵の向こうにある。
しかし、鍵をかけたからといって、消えてはいない。
扉一枚を隔てて、生活は続いている。
そして、その内側で、自分は眠っていい。
誰かが勝手に入ってくることを警戒しなくていい。
母が返事を待たずに扉を開けることも。
姉が勝手に引き出しを覗くことも。
侍女長が夫の都合で寝室へ入ってくることも。
今夜は、ない。
エルネスタは、そこで初めて理解した。
自分は、眠る時でさえ、ずっと誰かに許可を渡していたのだ。
起こされるかもしれない。
呼ばれるかもしれない。
入ってこられるかもしれない。
そういう可能性を抱えたまま、浅く眠っていた。
侯爵家の寝室では、いつ夫が来るか分からなかった。来ないことがほとんどだったが、それでも「来ない」と自分で決めることはできなかった。
実家では、夜でも母や姉が用件を持ち込むことがあった。エルネスタの眠りは、家族の都合より後に置かれていた。
リネン室では、鍵のない扉と冷たい寝台の中で、いつ追い出されるか分からないまま目を閉じた。
眠りすら、自分のものではなかった。
けれど、今。
かちり、と鍵をかけたこの小部屋で、彼女は初めて知った。
眠ることも、自分で選んでいいのだ。
誰にも見せない涙も。
誰にも説明しない沈黙も。
内側から閉めた扉の中で、自分のものにしていいのだ。
エルネスタは扉から離れた。
寝間着に着替える時も、何度か鍵を見た。
本当に閉まっている。
それだけで安心する。
だが同時に、不安にもなる。
鍵をかけてしまった。
失礼ではないか。
明日の朝、マルティナが不快に思わないだろうか。
オズヴァルドが、疑われたと思わないだろうか。
そう考えてしまう自分がいた。
けれど、マルティナの声が胸の中で響く。
泣くのに許可はいらないよ。
鍵は内側からかけていいよ。
エルネスタは、寝間着の紐を結び、湯たんぽの入った寝台へ入った。
足元が温かい。
毛布が重い。
その重さが、雨で濡れた外套の重さとは違った。
守るための重さだった。
ラベンダーの香りが淡く漂う。
水差しがある。
もし喉が渇いたら、自分で飲める。
もし泣きたくなったら、声を殺さず泣いてもいい。
もし誰かを呼びたくなったら、呼んでもいい。
もし一人でいたければ、鍵をかけたまま眠っていい。
選べることが多すぎて、エルネスタは少し途方に暮れた。
けれど、それは怖い途方ではなかった。
広すぎる空の下に放り出される不安ではなく、小さな部屋の中で、初めて自分の手のひらを見つけたような戸惑いだった。
彼女は毛布の中で丸くなった。
食卓で使った布を、枕元に置いていた。マルティナが「持っていきな」と言ってくれたものだ。涙を拭くための布。顔を拭いていい布。
エルネスタはそれを手に取り、目元に当てた。
涙はまた出てきた。
今度は、謝らなかった。
誰に向かっても。
自分に向かっても。
ごめんなさいと言わずに、ただ泣いた。
泣き声は小さかった。
長い間、声を出さずに泣くことだけは上手になってしまっていたから。
それでも、息が震えた。
肩が揺れた。
喉の奥から、ずっと押し込めていたものが細く漏れた。
侯爵家の朝食室。
白い離縁状。
ヴィルドリックの冷たい声。
実家の応接室。
父の眉間。
母の困った顔。
姉の「恥ずかしい」。
リネン室の古い布の匂い。
雨の街道。
泥に沈んだ膝。
死にたいのか、と降ってきた怖い声。
名前を呼ばれた瞬間。
外套の熱。
スープの湯気。
マルティナの布。
オズヴァルドが足してくれたもう一杯のスープ。
それらが、順番もなく胸の中で混ざった。
苦しい。
でも、今は苦しいと言ってもいいのかもしれない。
そう思った瞬間、また涙が出た。
エルネスタは布を握りしめた。
ここでは、泣いても叱られなかった。
泣いても面倒がられなかった。
泣いても食卓から追い出されなかった。
泣いても、温かいスープが足された。
そのことが、痛いほど優しかった。
どれほど自分が冷たい場所で生きてきたのかを、温かさによって知ってしまう。
それは救いであり、同時に傷口に触れることでもあった。
エルネスタは、嗚咽を飲み込みながら目を閉じた。
扉には鍵がかかっている。
内側から。
自分の手で。
その事実を何度も確かめるように思い出す。
かちり、という音。
小さな音。
けれど彼女にとっては、初めて自分の眠りを自分のものにした音だった。
窓の外では、雨が弱くなっていた。
屋根を打つ音も柔らかくなり、時折、雫が葉から落ちる音がする。
廊下の向こうからは、もう食堂の賑やかさは聞こえない。屋敷全体が少しずつ夜に沈んでいる。けれど、完全な静寂ではなかった。どこかで薪がはぜる。古い木材が夜の冷えで小さく鳴る。遠くで誰かが扉を閉める。
生きている家の音。
その中で、エルネスタは泣きながら眠りに落ちていった。
夢の手前で、彼女はぼんやりと思った。
ここは、まだ自分の家ではない。
明日、出ていかなければならないかもしれない。
事情を話せば、やはり迷惑だと思われるかもしれない。
それでも。
今夜、この部屋は自分に与えられた。
食卓には、自分の椀があった。
扉には、自分でかけられる鍵があった。
その三つだけで、今夜のエルネスタは、昨日より少しだけ人間に戻れた気がした。
涙が乾く前に、眠りが来た。
深くはなかった。
時々、体が震えた。
けれど、誰かの足音に怯えて目を覚ますことはなかった。
鍵は、内側からかかったままだった。
そして扉の向こうでは、誰もそれを咎めなかった。
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