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第14話 返事をしない、という返事
返事を書かないと決めた夜、エルネスタは眠れなかった。
小部屋の扉には、いつものように内側から鍵がかかっている。
かちり、と鳴った音は、もう彼女を怯えさせるだけのものではなくなっていた。眠りを守る音。自分の沈黙を守る音。誰かが返事を待たずに入ってこないことを約束してくれる、小さな鉄の音。
それでも、その夜の鍵は、少し頼りなく感じられた。
机の上には、食料庫の鍵を入れた布袋が置いてある。
その横に、マルティナさんが書いてくれた紙があった。
夜は返事を書かないこと。
返事を書かないと決めた日は、ちゃんと寝ること。
太く、少し勢いのある字。
エルネスタは何度もそれを読んだ。
読むたび、胸の奥が少し温かくなった。
けれど、温かさは不安を完全には追い払ってくれなかった。
寝台に入って、毛布をかぶって、湯たんぽに足を寄せても、目が冴えていた。
窓の外は暗い。
庭の薬草畑は見えない。昼間なら、カミツレの細い葉や、タイムの小さな緑や、ラベンダーの灰緑色が見えるはずだ。オズヴァルドが刺してくれた「水は少なめ」の木片も、夜の中に沈んでいる。
屋敷は静かだった。
遠くで木材が小さく鳴る。
風が窓硝子を撫でる。
どこかの部屋で、灰が崩れるかすかな音がする。
レナック家の夜は、完全な無音ではなかった。
生きている家の音がある。
その音に包まれていれば、いつもなら少しずつ眠りへ落ちていける。
けれど、その夜は違った。
目を閉じるたび、白い便箋が浮かんだ。
上質な紙。
黒い封蝋。
グランセル侯爵家の紋章。
ヴィルドリックの整った字。
君にも立場があるだろう。
その一文だけが、何度も頭の中で繰り返される。
返事を書かない。
自分でそう選んだ。
マルティナさんは、それでいいと言った。
オズヴァルドも、分かったと言った。
ミレもサナも、責めなかった。
手紙はマルティナさんの私室の棚にしまわれた。写しはオズヴァルドが取ってくれた。原本も封筒も封蝋の欠片も、今は自分の手元にはない。
それなのに、手紙はまだ彼女の中にあった。
返事を書かない。
それは、本当に許されることなのだろうか。
手紙を受け取ったのに返さない。
求められたのに応じない。
戻れと言われたのに戻らない。
それは、無礼ではないのか。
わがままではないのか。
相手を怒らせるのではないか。
侯爵家を怒らせたらどうなるのか。
ヴァルディーン家に知られたら。
父はきっと眉間に皺を寄せる。
母は困った顔で言うだろう。
「どうして波風を立てるの」
姉は笑うかもしれない。
「離縁されたうえに返事もしないなんて、本当に恥ずかしいわね」
ヴィルドリックは。
彼は、怒鳴らないだろう。
怒鳴るよりも、もっと静かに、もっと冷たく眉をひそめる。
エルネスタ。
低い声で名を呼ぶ。
君は、自分の立場を理解していないのか。
その幻の声だけで、胸が縮んだ。
エルネスタは毛布の中で体を丸めた。
呼吸が浅い。
手が冷えている。
昼間、オズヴァルドが温めた石を持たせてくれた時の熱は、もう消えている。指先はまた冷たく、爪の先まで血が届いていないようだった。
寝返りを打つ。
湯たんぽが足に触れる。
温かい。
けれど、胸の奥は冷たいままだ。
彼女は、何度も自分に言い聞かせた。
返事を書かないと決めた。
戻りたくないと言えた。
手紙は残すと選んだ。
それでいいと言われた。
それなのに、体はまだ別のことを覚えている。
求められたら応じる。
呼ばれたら行く。
聞かれたら答える。
命じられたら従う。
手紙が来たら返す。
黙っていることは悪いこと。
待たせることは失礼。
相手を怒らせる前に、自分から動く。
それが、エルネスタの体に染みついていた。
理屈ではなく、癖だった。
胸が苦しくなって、エルネスタはゆっくり起き上がった。
水が飲みたい。
喉が乾いている。
枕元の水差しには水が入っている。ミレが夕方に替えてくれたものだ。だから、本当は部屋を出る必要はなかった。
けれど、小部屋の中に一人でいると、手紙の文字ばかりが大きくなっていく気がした。
少しだけ廊下へ出たい。
台所の水を飲めば、落ち着くかもしれない。
そう思った。
迷う。
夜中に廊下へ出るのは、迷惑ではないだろうか。
誰かを起こしてしまうかもしれない。
けれど、水を飲むだけだ。
音を立てずに行けばいい。
エルネスタは寝台から降りた。
毛布の温かさが離れた途端、夜の冷気が足元に触れる。彼女はショールを肩にかけ、静かに扉へ向かった。
内側の鍵に手をかける。
少し迷ってから、鍵を外す。
かちり。
今夜は、その音がやけに大きく聞こえた。
扉をそっと開ける。
廊下は暗かった。
壁にかけられた小さなランプだけが、薄い橙色の光を落としている。床板の傷が、その光の中に細く浮かび上がっていた。
エルネスタは息を潜めて歩き出した。
ぎし。
すぐに床が鳴る。
足を止める。
誰か起きただろうか。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
もう一歩。
ぎし。
レナック家の床は、やはり隠れさせてくれない。
けれど、今夜はその音が責めているようには聞こえなかった。
歩いている。
ここにいる。
そう知らせる音に近かった。
エルネスタは、ゆっくり台所へ向かった。
夜の台所は、昼とはまるで違う場所だった。
昼間は、火の音、水の音、包丁の音、ミレの声、サナの静かな注意、マルティナさんの指示で満ちている。湯気が立ち、鍋が鳴り、パンの匂いや煮込みの香りが混ざる。
夜の台所は、火が落とされていた。
炉の奥に、赤い炭がわずかに残っている。灰の匂い。冷えた鉄鍋の匂い。洗われた木の器の湿った匂い。乾燥させた薬草の青い匂い。
窓の外は真っ暗で、硝子には部屋の影がうっすら映っている。
エルネスタは水差しを探した。
台所の棚の上に、陶器の水差しがあった。昼間よく使われているものだ。隣には木の杯も伏せてある。
彼女は水差しを持ち上げ、静かに杯へ注いだ。
水の音がした。
とく、とく、とく。
その音が、夜の台所にやけに響く。
エルネスタは杯を両手で持ち、ゆっくり水を飲んだ。
冷たい。
喉を通る。
胸の中の熱とも冷たさとも違う、ただの水の冷たさ。
少しだけ、呼吸が戻る。
もう一口飲む。
手の震えはまだある。
けれど、部屋で一人でいた時よりは少しだけましだった。
その時、背後の廊下で床板が鳴った。
ぎし。
エルネスタは杯を落としそうになった。
振り返る。
台所の入口に、オズヴァルドが立っていた。
夜着ではない。
昼間より簡素な上着を羽織り、髪は少し乱れている。どうやら完全に眠っていたわけではないらしい。片手には小さなランプを持っていた。灯りに照らされた顔は、いつもより少しだけ眠たげで、それでも目はすぐにエルネスタの姿を捉えていた。
彼女は反射的に立ち上がろうとした。
「あ、あの、申し訳ございません。勝手に台所へ」
「水か」
オズヴァルドは短く聞いた。
叱る声ではなかった。
エルネスタは杯を握りしめたまま、小さく頷く。
「はい」
「飲め」
彼はそれだけ言った。
エルネスタは戸惑った。
「でも」
「飲みに来たんだろう」
「はい」
「なら飲め」
その理屈は、相変わらずまっすぐだった。
エルネスタは、少しだけ肩の力を抜いた。
杯に口をつけ、残りの水を飲む。
オズヴァルドは入口のそばに立ったままだった。
近づきすぎない。
だが、去りもしない。
エルネスタが水を飲み終えるのを待っている。
夜の台所で、二人の間に静かな空気が落ちた。
炭の匂い。
水の冷たさ。
ランプの灯り。
廊下から入る夜気。
エルネスタは杯を置いた。
「起こしてしまいましたか」
「起きていた」
オズヴァルドは答えた。
「報告書を書いていた」
そう言われて、エルネスタは彼の手元を見た。
確かに、指に少し墨の跡がある。
マルティナさんに夜の報告書を叱られそうだと思い、こんな状況なのに少しだけ胸が緩みそうになった。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
オズヴァルドが、静かに尋ねたからだ。
「眠れないのか」
エルネスタは、すぐに答えられなかった。
眠れない。
そう言うことは、何か弱さを差し出すようで怖い。
けれど、もう隠してもきっと分かっている。
夜中に台所で水を飲んでいる時点で、十分答えになっている。
エルネスタは、杯の縁を指でなぞった。
「はい」
短く認める。
それだけで、胸が少し痛んだ。
オズヴァルドは責めなかった。
「手紙か」
エルネスタは頷いた。
喉が詰まる。
「返事を書かないと、決めました」
「ああ」
「でも」
声が揺れた。
「眠ろうとすると、どうしても考えてしまいます。手紙を受け取ったのに返事をしないなんて、許されるのかと。怒られるのではないかと。もっと悪いことになるのではないかと」
言葉にしてしまうと、胸の奥に押し込んでいた不安が形を持った。
止められなくなる。
「今まで、求められたら応じるしかありませんでした。父に呼ばれたら行きました。母に頼まれたら断れませんでした。姉に何か言われたら譲りました。侯爵家でも、手紙が来れば返事を書き、招待が来れば都合を整え、夫に必要だと言われれば」
言葉が切れる。
必要だと言われれば。
どれほど自分の気持ちがなくても、その場所へ行った。
その服を着た。
その顔を作った。
その言葉を言った。
「応じないことが、怖いです」
やっと言えた。
台所の空気が、少しだけ重くなる。
オズヴァルドは、ランプを近くの台に置いた。
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙に、エルネスタは以前ほど怯えなかった。
彼が言葉を探しているのだと分かっているから。
やがて、オズヴァルドは低く言った。
「返事をしない権利もある」
エルネスタは顔を上げた。
言葉の意味が、すぐには胸に入らなかった。
「権利」
かすれた声で繰り返す。
「ああ」
「返事をしない、権利」
「ある」
オズヴァルドは、当然のように言った。
エルネスタは、立ち尽くした。
返事をしない権利。
そんな言葉を、今まで一度も考えたことがなかった。
返事は義務だと思っていた。
呼ばれたら応じるもの。
問われたら答えるもの。
求められたら差し出すもの。
特に、相手が家族や夫や立場の上の者なら。
沈黙は無礼。
無視は反抗。
返さないことは罪。
そう思っていた。
けれど、オズヴァルドは言った。
返事をしない権利もある、と。
エルネスタは杯を握ったまま、何度もその言葉を頭の中で繰り返した。
返事をしない権利。
返事をしないことが、ただの逃げや失礼ではなく、自分を守るための権利になる。
そんな考え方があるのか。
「でも、相手は」
エルネスタは言った。
「元夫で、侯爵家で」
「離縁したんだろう」
オズヴァルドの声は静かだった。
エルネスタは息を止めた。
「はい」
「なら、もう夫ではない」
その言葉は、当たり前だった。
けれど、エルネスタには衝撃だった。
もう夫ではない。
紙の上ではそうだ。
離縁状に署名した。
侯爵家を出た。
名もグランセルではなくなった。
それでも、彼女の体はまだヴィルドリックを夫のように恐れていた。
あの人の手紙に応じなければ。
あの家の都合を優先しなければ。
そう思っていた。
オズヴァルドは続ける。
「侯爵家だろうが、元夫だろうが、手紙に返事をするかどうかは受け取った側が決めることだ」
「受け取った側が」
「ああ」
「私が、決めること」
「そうだ」
エルネスタの胸の中で、何かが大きく揺れた。
私が決める。
返事を書くか。
書かないか。
戻るか。
戻らないか。
燃やすか。
残すか。
それは、昨日も言われたことだ。
でも今夜、権利という言葉で言われると、まるで別の扉が開くようだった。
選んでもいい、ではなく。
選ぶ権利がある。
その違いは大きかった。
許可ではない。
誰かが優しくしてくれるから、特別に選ばせてもらえるのではない。
元から、自分にもあるもの。
返事をしない権利。
応じない権利。
エルネスタは、唇を震わせた。
「そんなものが、私にあるのでしょうか」
オズヴァルドの眉間に皺が寄った。
怒りではない。
たぶん、彼にはその問い自体が痛かったのだ。
「ある」
彼は短く言った。
「誰かが求めたら、必ず応じなければならないわけじゃない」
「でも、応じなければ」
「怒る相手もいる」
オズヴァルドは遮らず、しかし曖昧にもせず言った。
エルネスタは彼を見る。
「怒る相手はいる。圧をかける相手もいる。次の手紙を送ってくる相手もいるだろう」
胸が少し冷える。
でも、彼はそこで終わらなかった。
「だからといって、全部に応じる必要はない」
ランプの光が、彼の横顔を照らしている。
目元に影が落ちていた。
声は低く、夜の台所に静かに響いた。
「相手が怒らないように動くことと、自分がどうするか決めることは別だ」
マルティナさんに似た言い方だと、エルネスタはぼんやり思った。
怖かったことと、相手に悪意がなかったことは別。
心配しているからといって、何を言ってもいいわけじゃない。
この家の人たちは、混ざってしまったものを分けるのが上手い。
エルネスタの中でいつも一つに潰れていたものを、これはこれ、それはそれ、と分けてくれる。
相手が怒るかもしれない。
それは事実。
でも、だからといって応じなければならないわけではない。
別。
エルネスタは、手の中の杯を見つめた。
「返事を書かないことも、返事になるのでしょうか」
オズヴァルドは少し考えた。
「ああ」
短く答える。
「少なくとも、今は応じないという意思にはなる」
今は応じない。
その言葉が、胸に落ちる。
戻りません、と書かなくても。
言い訳を並べなくても。
滞在先を知らせなくても。
返事を出さないこと自体が、今はその求めに応じないという意思になる。
無言ではない。
空白ではない。
それも一つの返事。
返事をしない、という返事。
エルネスタの視界が滲んだ。
「私は」
声が震える。
「今まで、何かを求められた時に、応じないという選択をしたことがほとんどありませんでした」
「ああ」
「応じないと、もっと悪いことになると思っていました」
「そう思わせる相手もいる」
オズヴァルドは低く言った。
「だが、それは相手の都合だ」
相手の都合。
エルネスタは、その言葉を胸の中で受け止めた。
ヴィルドリックの手紙。
王都の噂。
家同士の秩序。
君にも立場があるだろう。
それは、彼の都合だ。
侯爵家の都合。
ヴァルディーン家の都合。
王都の人々の視線。
そのすべてが存在することは否定できない。
でも、それがエルネスタの気持ちを消していい理由にはならない。
応じないことを禁じる理由にもならない。
「怖いです」
エルネスタは、もう一度言った。
「返事を書かないと決めたのに、怖いです」
「怖くていい」
オズヴァルドは即座に言った。
昨日、薬草畑でも似たことを言ってくれた。
怖くなくなる必要はない。
怖くても、選べたならそれでいい。
エルネスタは、胸の奥が震えるのを感じた。
「怖くても」
「選べたなら、それでいい」
彼は同じ言葉を繰り返した。
その声は、夜の台所で少しだけ柔らかく聞こえた。
エルネスタは、とうとう涙をこぼした。
一粒だけ。
頬を伝って落ちる。
彼女は慌てて拭おうとしたが、布を持っていなかった。
すると、オズヴァルドが台所の棚から清潔な布を一枚取って、彼女のほうへ差し出した。
近づきすぎず。
手に触れない距離で。
エルネスタはそれを受け取った。
「ありがとうございます」
「ああ」
彼は視線を少し逸らした。
泣いている顔を見すぎないように。
それも、もう分かる。
エルネスタは布で目元を押さえた。
泣くのに許可はいらない。
マルティナさんの声が胸に浮かぶ。
返事をしない権利もある。
オズヴァルドの声が重なる。
権利。
許可。
選択。
鍵。
最近、彼女の世界には、知らなかった言葉が増えている。
泣いていい。
残していい。
鍵をかけていい。
座っていい。
選んでいい。
戻らなくていい。
返事をしなくていい。
どれも、エルネスタが今まで持っていなかったものだった。
けれど、もしかすると、持っていなかったのではなく、持っていないと思わされていただけなのかもしれない。
その考えが、胸の奥で小さく光った。
まだ弱い光だ。
すぐ不安に隠れてしまう。
でも、確かにあった。
台所の炉の奥で、炭がぱち、と鳴った。
オズヴァルドが炉を見た。
「冷えたな」
そう言って、彼は湯を沸かすための小鍋を手に取った。
エルネスタは驚いた。
「あの、水だけで大丈夫です」
「眠れないなら、温かいもののほうがいい」
彼は水差しから小鍋へ水を入れ、炉の残り火を少し起こした。
手つきはぎこちないが、慣れていないわけではない。騎士団で夜番をする時、こうして湯を沸かすことがあるのかもしれない。
エルネスタは、台所の椅子に座ったまま、それを見ていた。
不思議な光景だった。
夜更けの台所。
元夫の手紙の不安で眠れなくなった自分。
その前で、騎士団長が無言で湯を沸かしている。
侯爵家では考えられない。
実家でもあり得ない。
誰かが夜中の台所で自分のために湯を沸かす。
それは、温かい牛乳を扉の前に置かれた夜と似ている。
言葉ではなく、火と水と手の動きで差し出されるもの。
しばらくして、小鍋の水が小さく揺れ始めた。
オズヴァルドは棚を見た。
「喉用の草はどれだ」
エルネスタは思わず少し笑った。
「眠り用ではなく?」
彼は一瞬止まった。
「眠り用か」
「はい。今は喉より、眠れないほうなので」
「そうだな」
真面目に頷く。
その反応が彼らしくて、エルネスタの涙が少しだけ引っ込んだ。
彼女は棚の小箱を指差した。
「月の印が眠り用です」
食料庫の小箱と同じ印を、台所用にもつけたばかりだった。ミレが描いた少し丸い月の印。完璧ではないが、分かりやすい。
オズヴァルドは月の印の小箱を開け、少量の薬草を指でつまんだ。
「これくらいか」
「少し多いです。半分で」
彼は言われた通り半分戻した。
そして湯に入れる。
ふわりと香りが立った。
ラベンダーに似た柔らかい匂いと、少し青い草の匂い。
エルネスタは、香りを吸い込んだ。
胸の奥に絡まっていた不安が、完全にほどけるわけではない。けれど、少し隙間ができた。
オズヴァルドはカップへ注ぎ、エルネスタの前に置いた。
「熱い」
「はい」
「飲めなければ残せ」
その言葉に、エルネスタは目を伏せた。
また、あの言葉。
けれど今夜は、牛乳ではなく眠り用の薬草茶。
飲めなければ残せ。
その一言が、返事を書かない権利の話と重なった。
飲み干さなくていい。
応じきらなくていい。
全部受け取らなくていい。
残すことも、返さないことも、自分を守るための選択になる。
エルネスタはカップを両手で包んだ。
温かい。
さっきの水とは違う熱が、指先へ伝わる。
「ありがとうございます」
「ああ」
薬草茶を一口飲む。
少し苦い。
でも香りは穏やかだった。
喉を通ると、胃のあたりがじんわり温まる。
オズヴァルドは向かいではなく、少し離れた椅子に座った。
近すぎない距離。
けれど、ひとりではないと分かる距離。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
夜の台所に、薬草茶の香りが広がる。
エルネスタはカップを見つめながら、小さく言った。
「返事を書かないことが、返事になるなら」
オズヴァルドがこちらを見る。
「私は、初めてあの人に応じなかったことになります」
「ああ」
「それは、とても怖いです」
「ああ」
「でも」
エルネスタは、カップを少し強く包んだ。
「少しだけ、息ができます」
その言葉を言った瞬間、本当に胸の奥が少し広がった。
ヴィルドリックの手紙に、すぐ返さない。
彼の求めに応じない。
王都へ戻らない。
それは怖い。
でも、呼吸ができる。
自分が自分の内側に戻ってくる感じがする。
オズヴァルドは、短く言った。
「なら、それでいい」
その声には、いつもの無骨さがある。
けれど、エルネスタには十分だった。
それでいい。
今日の夜には、その一言が必要だった。
薬草茶は半分ほどで十分だった。
エルネスタは、以前なら無理に飲み干していただろう。
作ってもらったのだから。
残すのは失礼だから。
夜中に迷惑をかけたのだから。
でも、今夜はカップを置いた。
「少し残します」
自分から言った。
オズヴァルドは頷いた。
「分かった」
それだけ。
怒らない。
咎めない。
残ったカップを見ても、眉をひそめない。
分かった、と言う。
エルネスタは、その短い返事に胸が静かになるのを感じた。
台所の片づけは、オズヴァルドがした。
エルネスタが立とうとすると、
「今日は座っていろ」
と言われた。
「でも、私が使った杯です」
「俺も使った」
「オズヴァルド様は飲んでいません」
「湯を沸かした」
「それは使ったと言うのでしょうか」
「言う」
あまりに真顔で言うので、エルネスタは少しだけ笑ってしまった。
オズヴァルドは、手を止めてこちらを見る。
「何だ」
「いえ」
「また俺らしいか」
覚えていたのか。
庭での会話を。
エルネスタは、少しだけ目を丸くした後、頷いた。
「はい。少し」
彼は、納得していない顔をした。
しかし、それ以上追及しなかった。
片づけを終えると、オズヴァルドはランプを手に取った。
「部屋まで送る」
「大丈夫です」
反射で出た言葉だった。
彼は黙って見る。
エルネスタは、すぐに言い直した。
「……送っていただけると、助かります」
オズヴァルドの表情が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「分かった」
二人は廊下へ出た。
夜の屋敷は静かだった。
床板が鳴る。
ぎし。
ぎし。
ランプの灯りが、二人の足元だけを照らす。
エルネスタは、少し前を歩くオズヴァルドの背中を見た。
広い背中。
町で商人の言葉から庇ってくれた背中。
庭で土を耕していた背中。
今は、夜の廊下で小さな灯りを持って歩く背中。
守られている。
でも、今日は守られるだけではなかった。
返事を書かないことを、自分で選んだ。
怖いと認めた。
権利があると知った。
部屋の前で、オズヴァルドは立ち止まった。
「鍵をかけろ」
いつものように短く言う。
エルネスタは、少しだけ微笑んだ。
「はい」
「眠れなければ」
彼はそこで言葉を止めた。
少し考えてから、言い直す。
「また水を飲みに来てもいい」
エルネスタは胸が温かくなった。
「はい」
「ただし、暗いからランプを持て」
「はい」
「薬草茶は半分でいい」
その言葉に、エルネスタはまた少し笑った。
「分かりました」
オズヴァルドは、少しだけ不思議そうにした。
自分がなぜ笑われたのか、分からないらしい。
けれど、今夜はそれを聞かなかった。
「寝ろ」
「はい。おやすみなさい、オズヴァルド様」
「ああ。おやすみ」
短い挨拶。
けれど、返ってくる。
エルネスタは部屋に入り、扉を閉めた。
内側から鍵をかける。
かちり。
今夜の鍵の音は、さっきより少しだけ強く聞こえた。
返事を書かない権利。
その言葉が胸にある。
鍵は、外から来るものすべてを完全に止めるわけではない。
手紙は届く。
噂も届く。
不安も夜に忍び込む。
けれど、鍵をかけることはできる。
返事をしないこともできる。
応じないこともできる。
エルネスタは机の前に座った。
マルティナさんの紙を取り出す。
夜は返事を書かないこと。
返事を書かないと決めた日は、ちゃんと寝ること。
その下に、エルネスタは小さく、自分の字で書き足した。
返事をしない権利もある。
書いた文字は少し震えていた。
けれど、確かに自分の字だった。
それを見て、胸の奥が少しだけ落ち着く。
彼女は紙を帳面に挟み、食料庫の鍵の布袋をそっと机の端へ置いた。
寝台に入る。
湯たんぽはまだ温かい。
薬草茶の香りが、かすかに手元に残っている。
目を閉じると、手紙の文字はまだ浮かんだ。
君にも立場があるだろう。
けれど、その隣に別の言葉が浮かぶ。
返事をしない権利もある。
怖くても、選べたならそれでいい。
返事を書かないという返事。
それは、ヴィルドリックに見せるための言葉ではない。
王都に示すための態度でもない。
まず、自分に向けた境界だった。
今夜、私は応じない。
今夜、私は書かない。
今夜、私は眠る。
エルネスタは、毛布を胸元まで引き上げた。
まだ不安は消えない。
明日になっても、きっとまた怖くなる。
次の手紙が来るかもしれない。
誰かが屋敷へ来るかもしれない。
けれど今夜、彼女は一つ知った。
求められたら必ず差し出さなければならないわけではない。
沈黙もまた、自分のものにしていい。
応じないことも、意思になる。
その新しい言葉を胸に抱えたまま、エルネスタは目を閉じた。
眠りはすぐには来なかった。
けれど、さっきより呼吸は深かった。
古い屋敷のどこかで木が小さく鳴る。
台所のほうで、炭が最後にぱちりと音を立てる。
廊下の向こうには、誰かがいる。
扉の内側には、自分がいる。
そして机の中には、返事を書かないという小さな決意が、震える字で残っている。
その夜、エルネスタは、明け方近くになってようやく眠った。
浅い眠りだった。
それでも、夢の中で彼女は、白い便箋に追いかけられなかった。
かわりに、小さな鍵の音がした。
かちり。
扉を閉める音。
そして、自分の沈黙を守る音だった。
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