「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第14話 返事をしない、という返事


 返事を書かないと決めた夜、エルネスタは眠れなかった。

 小部屋の扉には、いつものように内側から鍵がかかっている。

 かちり、と鳴った音は、もう彼女を怯えさせるだけのものではなくなっていた。眠りを守る音。自分の沈黙を守る音。誰かが返事を待たずに入ってこないことを約束してくれる、小さな鉄の音。

 それでも、その夜の鍵は、少し頼りなく感じられた。

 机の上には、食料庫の鍵を入れた布袋が置いてある。

 その横に、マルティナさんが書いてくれた紙があった。

 夜は返事を書かないこと。

 返事を書かないと決めた日は、ちゃんと寝ること。

 太く、少し勢いのある字。

 エルネスタは何度もそれを読んだ。

 読むたび、胸の奥が少し温かくなった。

 けれど、温かさは不安を完全には追い払ってくれなかった。

 寝台に入って、毛布をかぶって、湯たんぽに足を寄せても、目が冴えていた。

 窓の外は暗い。

 庭の薬草畑は見えない。昼間なら、カミツレの細い葉や、タイムの小さな緑や、ラベンダーの灰緑色が見えるはずだ。オズヴァルドが刺してくれた「水は少なめ」の木片も、夜の中に沈んでいる。

 屋敷は静かだった。

 遠くで木材が小さく鳴る。

 風が窓硝子を撫でる。

 どこかの部屋で、灰が崩れるかすかな音がする。

 レナック家の夜は、完全な無音ではなかった。

 生きている家の音がある。

 その音に包まれていれば、いつもなら少しずつ眠りへ落ちていける。

 けれど、その夜は違った。

 目を閉じるたび、白い便箋が浮かんだ。

 上質な紙。

 黒い封蝋。

 グランセル侯爵家の紋章。

 ヴィルドリックの整った字。

 君にも立場があるだろう。

 その一文だけが、何度も頭の中で繰り返される。

 返事を書かない。

 自分でそう選んだ。

 マルティナさんは、それでいいと言った。

 オズヴァルドも、分かったと言った。

 ミレもサナも、責めなかった。

 手紙はマルティナさんの私室の棚にしまわれた。写しはオズヴァルドが取ってくれた。原本も封筒も封蝋の欠片も、今は自分の手元にはない。

 それなのに、手紙はまだ彼女の中にあった。

 返事を書かない。

 それは、本当に許されることなのだろうか。

 手紙を受け取ったのに返さない。

 求められたのに応じない。

 戻れと言われたのに戻らない。

 それは、無礼ではないのか。

 わがままではないのか。

 相手を怒らせるのではないか。

 侯爵家を怒らせたらどうなるのか。

 ヴァルディーン家に知られたら。

 父はきっと眉間に皺を寄せる。

 母は困った顔で言うだろう。

「どうして波風を立てるの」

 姉は笑うかもしれない。

「離縁されたうえに返事もしないなんて、本当に恥ずかしいわね」

 ヴィルドリックは。

 彼は、怒鳴らないだろう。

 怒鳴るよりも、もっと静かに、もっと冷たく眉をひそめる。

 エルネスタ。

 低い声で名を呼ぶ。

 君は、自分の立場を理解していないのか。

 その幻の声だけで、胸が縮んだ。

 エルネスタは毛布の中で体を丸めた。

 呼吸が浅い。

 手が冷えている。

 昼間、オズヴァルドが温めた石を持たせてくれた時の熱は、もう消えている。指先はまた冷たく、爪の先まで血が届いていないようだった。

 寝返りを打つ。

 湯たんぽが足に触れる。

 温かい。

 けれど、胸の奥は冷たいままだ。

 彼女は、何度も自分に言い聞かせた。

 返事を書かないと決めた。

 戻りたくないと言えた。

 手紙は残すと選んだ。

 それでいいと言われた。

 それなのに、体はまだ別のことを覚えている。

 求められたら応じる。

 呼ばれたら行く。

 聞かれたら答える。

 命じられたら従う。

 手紙が来たら返す。

 黙っていることは悪いこと。

 待たせることは失礼。

 相手を怒らせる前に、自分から動く。

 それが、エルネスタの体に染みついていた。

 理屈ではなく、癖だった。

 胸が苦しくなって、エルネスタはゆっくり起き上がった。

 水が飲みたい。

 喉が乾いている。

 枕元の水差しには水が入っている。ミレが夕方に替えてくれたものだ。だから、本当は部屋を出る必要はなかった。

 けれど、小部屋の中に一人でいると、手紙の文字ばかりが大きくなっていく気がした。

 少しだけ廊下へ出たい。

 台所の水を飲めば、落ち着くかもしれない。

 そう思った。

 迷う。

 夜中に廊下へ出るのは、迷惑ではないだろうか。

 誰かを起こしてしまうかもしれない。

 けれど、水を飲むだけだ。

 音を立てずに行けばいい。

 エルネスタは寝台から降りた。

 毛布の温かさが離れた途端、夜の冷気が足元に触れる。彼女はショールを肩にかけ、静かに扉へ向かった。

 内側の鍵に手をかける。

 少し迷ってから、鍵を外す。

 かちり。

 今夜は、その音がやけに大きく聞こえた。

 扉をそっと開ける。

 廊下は暗かった。

 壁にかけられた小さなランプだけが、薄い橙色の光を落としている。床板の傷が、その光の中に細く浮かび上がっていた。

 エルネスタは息を潜めて歩き出した。

 ぎし。

 すぐに床が鳴る。

 足を止める。

 誰か起きただろうか。

 耳を澄ます。

 何も聞こえない。

 もう一歩。

 ぎし。

 レナック家の床は、やはり隠れさせてくれない。

 けれど、今夜はその音が責めているようには聞こえなかった。

 歩いている。

 ここにいる。

 そう知らせる音に近かった。

 エルネスタは、ゆっくり台所へ向かった。

 夜の台所は、昼とはまるで違う場所だった。

 昼間は、火の音、水の音、包丁の音、ミレの声、サナの静かな注意、マルティナさんの指示で満ちている。湯気が立ち、鍋が鳴り、パンの匂いや煮込みの香りが混ざる。

 夜の台所は、火が落とされていた。

 炉の奥に、赤い炭がわずかに残っている。灰の匂い。冷えた鉄鍋の匂い。洗われた木の器の湿った匂い。乾燥させた薬草の青い匂い。

 窓の外は真っ暗で、硝子には部屋の影がうっすら映っている。

 エルネスタは水差しを探した。

 台所の棚の上に、陶器の水差しがあった。昼間よく使われているものだ。隣には木の杯も伏せてある。

 彼女は水差しを持ち上げ、静かに杯へ注いだ。

 水の音がした。

 とく、とく、とく。

 その音が、夜の台所にやけに響く。

 エルネスタは杯を両手で持ち、ゆっくり水を飲んだ。

 冷たい。

 喉を通る。

 胸の中の熱とも冷たさとも違う、ただの水の冷たさ。

 少しだけ、呼吸が戻る。

 もう一口飲む。

 手の震えはまだある。

 けれど、部屋で一人でいた時よりは少しだけましだった。

 その時、背後の廊下で床板が鳴った。

 ぎし。

 エルネスタは杯を落としそうになった。

 振り返る。

 台所の入口に、オズヴァルドが立っていた。

 夜着ではない。

 昼間より簡素な上着を羽織り、髪は少し乱れている。どうやら完全に眠っていたわけではないらしい。片手には小さなランプを持っていた。灯りに照らされた顔は、いつもより少しだけ眠たげで、それでも目はすぐにエルネスタの姿を捉えていた。

 彼女は反射的に立ち上がろうとした。

「あ、あの、申し訳ございません。勝手に台所へ」

「水か」

 オズヴァルドは短く聞いた。

 叱る声ではなかった。

 エルネスタは杯を握りしめたまま、小さく頷く。

「はい」

「飲め」

 彼はそれだけ言った。

 エルネスタは戸惑った。

「でも」

「飲みに来たんだろう」

「はい」

「なら飲め」

 その理屈は、相変わらずまっすぐだった。

 エルネスタは、少しだけ肩の力を抜いた。

 杯に口をつけ、残りの水を飲む。

 オズヴァルドは入口のそばに立ったままだった。

 近づきすぎない。

 だが、去りもしない。

 エルネスタが水を飲み終えるのを待っている。

 夜の台所で、二人の間に静かな空気が落ちた。

 炭の匂い。

 水の冷たさ。

 ランプの灯り。

 廊下から入る夜気。

 エルネスタは杯を置いた。

「起こしてしまいましたか」

「起きていた」

 オズヴァルドは答えた。

「報告書を書いていた」

 そう言われて、エルネスタは彼の手元を見た。

 確かに、指に少し墨の跡がある。

 マルティナさんに夜の報告書を叱られそうだと思い、こんな状況なのに少しだけ胸が緩みそうになった。

 けれど、その笑いはすぐに消えた。

 オズヴァルドが、静かに尋ねたからだ。

「眠れないのか」

 エルネスタは、すぐに答えられなかった。

 眠れない。

 そう言うことは、何か弱さを差し出すようで怖い。

 けれど、もう隠してもきっと分かっている。

 夜中に台所で水を飲んでいる時点で、十分答えになっている。

 エルネスタは、杯の縁を指でなぞった。

「はい」

 短く認める。

 それだけで、胸が少し痛んだ。

 オズヴァルドは責めなかった。

「手紙か」

 エルネスタは頷いた。

 喉が詰まる。

「返事を書かないと、決めました」

「ああ」

「でも」

 声が揺れた。

「眠ろうとすると、どうしても考えてしまいます。手紙を受け取ったのに返事をしないなんて、許されるのかと。怒られるのではないかと。もっと悪いことになるのではないかと」

 言葉にしてしまうと、胸の奥に押し込んでいた不安が形を持った。

 止められなくなる。

「今まで、求められたら応じるしかありませんでした。父に呼ばれたら行きました。母に頼まれたら断れませんでした。姉に何か言われたら譲りました。侯爵家でも、手紙が来れば返事を書き、招待が来れば都合を整え、夫に必要だと言われれば」

 言葉が切れる。

 必要だと言われれば。

 どれほど自分の気持ちがなくても、その場所へ行った。

 その服を着た。

 その顔を作った。

 その言葉を言った。

「応じないことが、怖いです」

 やっと言えた。

 台所の空気が、少しだけ重くなる。

 オズヴァルドは、ランプを近くの台に置いた。

 彼はすぐには答えなかった。

 その沈黙に、エルネスタは以前ほど怯えなかった。

 彼が言葉を探しているのだと分かっているから。

 やがて、オズヴァルドは低く言った。

「返事をしない権利もある」

 エルネスタは顔を上げた。

 言葉の意味が、すぐには胸に入らなかった。

「権利」

 かすれた声で繰り返す。

「ああ」

「返事をしない、権利」

「ある」

 オズヴァルドは、当然のように言った。

 エルネスタは、立ち尽くした。

 返事をしない権利。

 そんな言葉を、今まで一度も考えたことがなかった。

 返事は義務だと思っていた。

 呼ばれたら応じるもの。

 問われたら答えるもの。

 求められたら差し出すもの。

 特に、相手が家族や夫や立場の上の者なら。

 沈黙は無礼。

 無視は反抗。

 返さないことは罪。

 そう思っていた。

 けれど、オズヴァルドは言った。

 返事をしない権利もある、と。

 エルネスタは杯を握ったまま、何度もその言葉を頭の中で繰り返した。

 返事をしない権利。

 返事をしないことが、ただの逃げや失礼ではなく、自分を守るための権利になる。

 そんな考え方があるのか。

「でも、相手は」

 エルネスタは言った。

「元夫で、侯爵家で」

「離縁したんだろう」

 オズヴァルドの声は静かだった。

 エルネスタは息を止めた。

「はい」

「なら、もう夫ではない」

 その言葉は、当たり前だった。

 けれど、エルネスタには衝撃だった。

 もう夫ではない。

 紙の上ではそうだ。

 離縁状に署名した。

 侯爵家を出た。

 名もグランセルではなくなった。

 それでも、彼女の体はまだヴィルドリックを夫のように恐れていた。

 あの人の手紙に応じなければ。

 あの家の都合を優先しなければ。

 そう思っていた。

 オズヴァルドは続ける。

「侯爵家だろうが、元夫だろうが、手紙に返事をするかどうかは受け取った側が決めることだ」

「受け取った側が」

「ああ」

「私が、決めること」

「そうだ」

 エルネスタの胸の中で、何かが大きく揺れた。

 私が決める。

 返事を書くか。

 書かないか。

 戻るか。

 戻らないか。

 燃やすか。

 残すか。

 それは、昨日も言われたことだ。

 でも今夜、権利という言葉で言われると、まるで別の扉が開くようだった。

 選んでもいい、ではなく。

 選ぶ権利がある。

 その違いは大きかった。

 許可ではない。

 誰かが優しくしてくれるから、特別に選ばせてもらえるのではない。

 元から、自分にもあるもの。

 返事をしない権利。

 応じない権利。

 エルネスタは、唇を震わせた。

「そんなものが、私にあるのでしょうか」

 オズヴァルドの眉間に皺が寄った。

 怒りではない。

 たぶん、彼にはその問い自体が痛かったのだ。

「ある」

 彼は短く言った。

「誰かが求めたら、必ず応じなければならないわけじゃない」

「でも、応じなければ」

「怒る相手もいる」

 オズヴァルドは遮らず、しかし曖昧にもせず言った。

 エルネスタは彼を見る。

「怒る相手はいる。圧をかける相手もいる。次の手紙を送ってくる相手もいるだろう」

 胸が少し冷える。

 でも、彼はそこで終わらなかった。

「だからといって、全部に応じる必要はない」

 ランプの光が、彼の横顔を照らしている。

 目元に影が落ちていた。

 声は低く、夜の台所に静かに響いた。

「相手が怒らないように動くことと、自分がどうするか決めることは別だ」

 マルティナさんに似た言い方だと、エルネスタはぼんやり思った。

 怖かったことと、相手に悪意がなかったことは別。

 心配しているからといって、何を言ってもいいわけじゃない。

 この家の人たちは、混ざってしまったものを分けるのが上手い。

 エルネスタの中でいつも一つに潰れていたものを、これはこれ、それはそれ、と分けてくれる。

 相手が怒るかもしれない。

 それは事実。

 でも、だからといって応じなければならないわけではない。

 別。

 エルネスタは、手の中の杯を見つめた。

「返事を書かないことも、返事になるのでしょうか」

 オズヴァルドは少し考えた。

「ああ」

 短く答える。

「少なくとも、今は応じないという意思にはなる」

 今は応じない。

 その言葉が、胸に落ちる。

 戻りません、と書かなくても。

 言い訳を並べなくても。

 滞在先を知らせなくても。

 返事を出さないこと自体が、今はその求めに応じないという意思になる。

 無言ではない。

 空白ではない。

 それも一つの返事。

 返事をしない、という返事。

 エルネスタの視界が滲んだ。

「私は」

 声が震える。

「今まで、何かを求められた時に、応じないという選択をしたことがほとんどありませんでした」

「ああ」

「応じないと、もっと悪いことになると思っていました」

「そう思わせる相手もいる」

 オズヴァルドは低く言った。

「だが、それは相手の都合だ」

 相手の都合。

 エルネスタは、その言葉を胸の中で受け止めた。

 ヴィルドリックの手紙。

 王都の噂。

 家同士の秩序。

 君にも立場があるだろう。

 それは、彼の都合だ。

 侯爵家の都合。

 ヴァルディーン家の都合。

 王都の人々の視線。

 そのすべてが存在することは否定できない。

 でも、それがエルネスタの気持ちを消していい理由にはならない。

 応じないことを禁じる理由にもならない。

「怖いです」

 エルネスタは、もう一度言った。

「返事を書かないと決めたのに、怖いです」

「怖くていい」

 オズヴァルドは即座に言った。

 昨日、薬草畑でも似たことを言ってくれた。

 怖くなくなる必要はない。

 怖くても、選べたならそれでいい。

 エルネスタは、胸の奥が震えるのを感じた。

「怖くても」

「選べたなら、それでいい」

 彼は同じ言葉を繰り返した。

 その声は、夜の台所で少しだけ柔らかく聞こえた。

 エルネスタは、とうとう涙をこぼした。

 一粒だけ。

 頬を伝って落ちる。

 彼女は慌てて拭おうとしたが、布を持っていなかった。

 すると、オズヴァルドが台所の棚から清潔な布を一枚取って、彼女のほうへ差し出した。

 近づきすぎず。

 手に触れない距離で。

 エルネスタはそれを受け取った。

「ありがとうございます」

「ああ」

 彼は視線を少し逸らした。

 泣いている顔を見すぎないように。

 それも、もう分かる。

 エルネスタは布で目元を押さえた。

 泣くのに許可はいらない。

 マルティナさんの声が胸に浮かぶ。

 返事をしない権利もある。

 オズヴァルドの声が重なる。

 権利。

 許可。

 選択。

 鍵。

 最近、彼女の世界には、知らなかった言葉が増えている。

 泣いていい。

 残していい。

 鍵をかけていい。

 座っていい。

 選んでいい。

 戻らなくていい。

 返事をしなくていい。

 どれも、エルネスタが今まで持っていなかったものだった。

 けれど、もしかすると、持っていなかったのではなく、持っていないと思わされていただけなのかもしれない。

 その考えが、胸の奥で小さく光った。

 まだ弱い光だ。

 すぐ不安に隠れてしまう。

 でも、確かにあった。

 台所の炉の奥で、炭がぱち、と鳴った。

 オズヴァルドが炉を見た。

「冷えたな」

 そう言って、彼は湯を沸かすための小鍋を手に取った。

 エルネスタは驚いた。

「あの、水だけで大丈夫です」

「眠れないなら、温かいもののほうがいい」

 彼は水差しから小鍋へ水を入れ、炉の残り火を少し起こした。

 手つきはぎこちないが、慣れていないわけではない。騎士団で夜番をする時、こうして湯を沸かすことがあるのかもしれない。

 エルネスタは、台所の椅子に座ったまま、それを見ていた。

 不思議な光景だった。

 夜更けの台所。

 元夫の手紙の不安で眠れなくなった自分。

 その前で、騎士団長が無言で湯を沸かしている。

 侯爵家では考えられない。

 実家でもあり得ない。

 誰かが夜中の台所で自分のために湯を沸かす。

 それは、温かい牛乳を扉の前に置かれた夜と似ている。

 言葉ではなく、火と水と手の動きで差し出されるもの。

 しばらくして、小鍋の水が小さく揺れ始めた。

 オズヴァルドは棚を見た。

「喉用の草はどれだ」

 エルネスタは思わず少し笑った。

「眠り用ではなく?」

 彼は一瞬止まった。

「眠り用か」

「はい。今は喉より、眠れないほうなので」

「そうだな」

 真面目に頷く。

 その反応が彼らしくて、エルネスタの涙が少しだけ引っ込んだ。

 彼女は棚の小箱を指差した。

「月の印が眠り用です」

 食料庫の小箱と同じ印を、台所用にもつけたばかりだった。ミレが描いた少し丸い月の印。完璧ではないが、分かりやすい。

 オズヴァルドは月の印の小箱を開け、少量の薬草を指でつまんだ。

「これくらいか」

「少し多いです。半分で」

 彼は言われた通り半分戻した。

 そして湯に入れる。

 ふわりと香りが立った。

 ラベンダーに似た柔らかい匂いと、少し青い草の匂い。

 エルネスタは、香りを吸い込んだ。

 胸の奥に絡まっていた不安が、完全にほどけるわけではない。けれど、少し隙間ができた。

 オズヴァルドはカップへ注ぎ、エルネスタの前に置いた。

「熱い」

「はい」

「飲めなければ残せ」

 その言葉に、エルネスタは目を伏せた。

 また、あの言葉。

 けれど今夜は、牛乳ではなく眠り用の薬草茶。

 飲めなければ残せ。

 その一言が、返事を書かない権利の話と重なった。

 飲み干さなくていい。

 応じきらなくていい。

 全部受け取らなくていい。

 残すことも、返さないことも、自分を守るための選択になる。

 エルネスタはカップを両手で包んだ。

 温かい。

 さっきの水とは違う熱が、指先へ伝わる。

「ありがとうございます」

「ああ」

 薬草茶を一口飲む。

 少し苦い。

 でも香りは穏やかだった。

 喉を通ると、胃のあたりがじんわり温まる。

 オズヴァルドは向かいではなく、少し離れた椅子に座った。

 近すぎない距離。

 けれど、ひとりではないと分かる距離。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 夜の台所に、薬草茶の香りが広がる。

 エルネスタはカップを見つめながら、小さく言った。

「返事を書かないことが、返事になるなら」

 オズヴァルドがこちらを見る。

「私は、初めてあの人に応じなかったことになります」

「ああ」

「それは、とても怖いです」

「ああ」

「でも」

 エルネスタは、カップを少し強く包んだ。

「少しだけ、息ができます」

 その言葉を言った瞬間、本当に胸の奥が少し広がった。

 ヴィルドリックの手紙に、すぐ返さない。

 彼の求めに応じない。

 王都へ戻らない。

 それは怖い。

 でも、呼吸ができる。

 自分が自分の内側に戻ってくる感じがする。

 オズヴァルドは、短く言った。

「なら、それでいい」

 その声には、いつもの無骨さがある。

 けれど、エルネスタには十分だった。

 それでいい。

 今日の夜には、その一言が必要だった。

 薬草茶は半分ほどで十分だった。

 エルネスタは、以前なら無理に飲み干していただろう。

 作ってもらったのだから。

 残すのは失礼だから。

 夜中に迷惑をかけたのだから。

 でも、今夜はカップを置いた。

「少し残します」

 自分から言った。

 オズヴァルドは頷いた。

「分かった」

 それだけ。

 怒らない。

 咎めない。

 残ったカップを見ても、眉をひそめない。

 分かった、と言う。

 エルネスタは、その短い返事に胸が静かになるのを感じた。

 台所の片づけは、オズヴァルドがした。

 エルネスタが立とうとすると、

「今日は座っていろ」

 と言われた。

「でも、私が使った杯です」

「俺も使った」

「オズヴァルド様は飲んでいません」

「湯を沸かした」

「それは使ったと言うのでしょうか」

「言う」

 あまりに真顔で言うので、エルネスタは少しだけ笑ってしまった。

 オズヴァルドは、手を止めてこちらを見る。

「何だ」

「いえ」

「また俺らしいか」

 覚えていたのか。

 庭での会話を。

 エルネスタは、少しだけ目を丸くした後、頷いた。

「はい。少し」

 彼は、納得していない顔をした。

 しかし、それ以上追及しなかった。

 片づけを終えると、オズヴァルドはランプを手に取った。

「部屋まで送る」

「大丈夫です」

 反射で出た言葉だった。

 彼は黙って見る。

 エルネスタは、すぐに言い直した。

「……送っていただけると、助かります」

 オズヴァルドの表情が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

「分かった」

 二人は廊下へ出た。

 夜の屋敷は静かだった。

 床板が鳴る。

 ぎし。

 ぎし。

 ランプの灯りが、二人の足元だけを照らす。

 エルネスタは、少し前を歩くオズヴァルドの背中を見た。

 広い背中。

 町で商人の言葉から庇ってくれた背中。

 庭で土を耕していた背中。

 今は、夜の廊下で小さな灯りを持って歩く背中。

 守られている。

 でも、今日は守られるだけではなかった。

 返事を書かないことを、自分で選んだ。

 怖いと認めた。

 権利があると知った。

 部屋の前で、オズヴァルドは立ち止まった。

「鍵をかけろ」

 いつものように短く言う。

 エルネスタは、少しだけ微笑んだ。

「はい」

「眠れなければ」

 彼はそこで言葉を止めた。

 少し考えてから、言い直す。

「また水を飲みに来てもいい」

 エルネスタは胸が温かくなった。

「はい」

「ただし、暗いからランプを持て」

「はい」

「薬草茶は半分でいい」

 その言葉に、エルネスタはまた少し笑った。

「分かりました」

 オズヴァルドは、少しだけ不思議そうにした。

 自分がなぜ笑われたのか、分からないらしい。

 けれど、今夜はそれを聞かなかった。

「寝ろ」

「はい。おやすみなさい、オズヴァルド様」

「ああ。おやすみ」

 短い挨拶。

 けれど、返ってくる。

 エルネスタは部屋に入り、扉を閉めた。

 内側から鍵をかける。

 かちり。

 今夜の鍵の音は、さっきより少しだけ強く聞こえた。

 返事を書かない権利。

 その言葉が胸にある。

 鍵は、外から来るものすべてを完全に止めるわけではない。

 手紙は届く。

 噂も届く。

 不安も夜に忍び込む。

 けれど、鍵をかけることはできる。

 返事をしないこともできる。

 応じないこともできる。

 エルネスタは机の前に座った。

 マルティナさんの紙を取り出す。

 夜は返事を書かないこと。

 返事を書かないと決めた日は、ちゃんと寝ること。

 その下に、エルネスタは小さく、自分の字で書き足した。

 返事をしない権利もある。

 書いた文字は少し震えていた。

 けれど、確かに自分の字だった。

 それを見て、胸の奥が少しだけ落ち着く。

 彼女は紙を帳面に挟み、食料庫の鍵の布袋をそっと机の端へ置いた。

 寝台に入る。

 湯たんぽはまだ温かい。

 薬草茶の香りが、かすかに手元に残っている。

 目を閉じると、手紙の文字はまだ浮かんだ。

 君にも立場があるだろう。

 けれど、その隣に別の言葉が浮かぶ。

 返事をしない権利もある。

 怖くても、選べたならそれでいい。

 返事を書かないという返事。

 それは、ヴィルドリックに見せるための言葉ではない。

 王都に示すための態度でもない。

 まず、自分に向けた境界だった。

 今夜、私は応じない。

 今夜、私は書かない。

 今夜、私は眠る。

 エルネスタは、毛布を胸元まで引き上げた。

 まだ不安は消えない。

 明日になっても、きっとまた怖くなる。

 次の手紙が来るかもしれない。

 誰かが屋敷へ来るかもしれない。

 けれど今夜、彼女は一つ知った。

 求められたら必ず差し出さなければならないわけではない。

 沈黙もまた、自分のものにしていい。

 応じないことも、意思になる。

 その新しい言葉を胸に抱えたまま、エルネスタは目を閉じた。

 眠りはすぐには来なかった。

 けれど、さっきより呼吸は深かった。

 古い屋敷のどこかで木が小さく鳴る。

 台所のほうで、炭が最後にぱちりと音を立てる。

 廊下の向こうには、誰かがいる。

 扉の内側には、自分がいる。

 そして机の中には、返事を書かないという小さな決意が、震える字で残っている。

 その夜、エルネスタは、明け方近くになってようやく眠った。

 浅い眠りだった。

 それでも、夢の中で彼女は、白い便箋に追いかけられなかった。

 かわりに、小さな鍵の音がした。

 かちり。

 扉を閉める音。

 そして、自分の沈黙を守る音だった。

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