「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第19話 震えた声でも、拒絶は拒絶になる


 「戻りません」

 エルネスタの声は、食堂の中に落ちた。

 大きな声ではなかった。

 怒鳴ったわけでもない。

 胸を張って言えたわけでもない。

 喉の奥はこわばり、息は浅く、指先は椅子の縁を握りしめたまま白くなっていた。唇も、声も、膝も、全部が震えていた。

 けれど、その言葉は確かにあった。

 戻りません。

 それは、彼女が父の家へ向けて初めて出した拒絶だった。

 グレイルは、しばらく黙っていた。

 ヴァルディーン伯爵家の使者として整えられた礼儀正しい顔の上に、わずかな困惑が浮かぶ。まるで、花瓶が急に言葉を話したのを見たような顔だった。

 エルネスタは、その表情を見て胸が縮んだ。

 知っている。

 この顔を。

 父が時々見せた顔だ。

 エルネスタが予想と違う反応をした時。母や姉のために黙って譲らなかった時。ほんの少し、自分の希望を口にしてしまった時。

 父は怒鳴らなかった。

 まず、こういう顔をした。

 なぜ分からない。

 なぜ当然のことを受け取れない。

 なぜこちらの都合通りに動かない。

 そんな、静かな不快。

 グレイルは父ではない。

 けれど、父の家から来た人間だった。

 彼の沈黙だけで、エルネスタの体はまた昔の癖へ戻ろうとした。

 謝らなければ。

 言い直さなければ。

 困らせてはいけない。

 父の顔を潰してはいけない。

 家に迷惑をかけてはいけない。

 そう思った瞬間、隣に立つオズヴァルドの気配がした。

 何も言わない。

 動かない。

 けれど、そこにいる。

 完全に前へ出るのではなく、彼女の言葉を隠さない位置で。

 その沈黙が、エルネスタをかろうじて食堂に留めていた。

 マルティナさんは椅子に座ったまま、グレイルを見据えている。

 ミレは布を握りしめ、今にも泣きそうな顔をしていた。サナは台所の入口で、両手を前掛けに添えたまま静かに立っている。

 皆が、聞いていた。

 彼女の震えた声を。

 その声が消えないように。

 グレイルは、やがて息を整えた。

 そして、丁寧な笑みを作った。

「お嬢様」

 その呼び方だけで、エルネスタの胸の奥が冷えた。

「お気持ちが動揺しておいでなのは、理解いたします。突然のことでございますから」

 動揺。

 その言葉は、彼女の拒絶を柔らかく包むふりをして、軽くした。

 戻りません。

 それは意思ではなく、動揺。

 今だけの感情。

 落ち着けば消えるもの。

 そう扱われた。

 エルネスタの指がさらに白くなる。

 グレイルは続けた。

「ですが、これはご実家の命令です。伯爵閣下は、お嬢様のためにも一度戻るべきだとお考えでございます。ご自身のお立場を考えれば、ここで意地を張ることは決して得策ではありません」

 命令。

 意地。

 エルネスタの胸が、ぎゅっと潰された。

 戻らないと言ったことが、意地にされる。

 恐怖で震えながら、やっと口にした言葉が、子どものわがままのように扱われる。

 それが悔しいのに、悔しいと言う力が出ない。

 グレイルの声は穏やかだった。

 穏やかだからこそ、余計に逃げ場がない。

「旦那様、いえ、元侯爵閣下との離縁について、王都では多くの話が出ております。伯爵家としても、お嬢様を放置していると見なされるわけには参りません。お戻りになれば、すべて整います。部屋も用意されます。奥様も、今度は落ち着いて話をしたいとおっしゃっております」

 今度は。

 落ち着いて。

 その言葉に、エルネスタの視界が滲んだ。

 あの日、母は落ち着いていなかったのだろうか。

 困った顔で「急に帰られても」と言った母。

 姉の言葉を止めなかった母。

 父の沈黙に従った母。

 今度は落ち着いて話をしたい。

 それは、エルネスタのためではなく、世間体が乱れたからだ。

 そう分かっているのに、母という言葉が出るだけで、心の弱い場所が揺れる。

 母が呼んでいるなら。

 戻ったほうがいいのでは。

 今度こそ、少しは。

 そんな淡い期待の残骸が、胸の奥で痛んだ。

 捨てきれないのが、つらい。

 傷つけられた相手なのに。

 扉を閉ざされた家なのに。

 まだ、どこかで「今度は」と思ってしまう自分がいる。

 エルネスタは唇を噛んだ。

 声が出ない。

 また。

 せっかく一度言えたのに。

 戻りません、と言えたのに。

 次の言葉が続かない。

 グレイルは、その沈黙を勝機と見たのだろう。

 ほんの少し、声を和らげた。

「お嬢様。伯爵閣下はお怒りではありません。ただ、ご心配なのです。このような小さな騎士家に長く身を寄せていては、かえってお嬢様のお立場が悪くなります。こちらのお家にも、不要な迷惑が及びましょう」

 小さな騎士家。

 その言葉が、食堂の空気を一瞬で冷たくした。

 ミレが息を呑む。

 サナの目が静かに細くなる。

 マルティナさんの口元から笑みが消えた。

 オズヴァルドの気配が、さらに硬くなる。

 エルネスタは、胸の奥で何かが小さく燃えるのを感じた。

 自分が言われるのは、慣れている。

 役立たず。

 面白味がない。

 離縁された女。

 戻る場所のない娘。

 そう扱われることには、体が反射的に耐えようとする。

 でも、この家を軽く言われるのは。

 マルティナさんが豆のスープを出してくれた食卓を。

 オズヴァルドが土を耕してくれた庭を。

 ミレが泣きそうになりながら謝ってくれた優しさを。

 サナが温かい薬草茶を置いてくれた手を。

 淡い緑の椀を。

 食料庫の鍵を。

 焼き林檎を。

 小さな騎士家、と。

 不要な迷惑、と。

 エルネスタの喉の奥に、熱いものが込み上げた。

 怖い。

 まだ怖い。

 父の名も、実家の命令も、グレイルの丁寧な声も怖い。

 でも、それ以上に、ここを貶められるのが嫌だった。

 オズヴァルドが動きかけた。

 ほんのわずかに。

 肩が前へ出る。

 だが、マルティナさんの視線が彼を止めた。

 言葉はなかった。

 それでも、伝わった。

 まだだよ。

 あの子の声を待ちな。

 オズヴァルドは歯を食いしばるように黙った。

 エルネスタは、その沈黙を感じた。

 彼が怒っている。

 自分のために。

 レナック家のために。

 それでも、待ってくれている。

 彼女の言葉が終わるまで。

 そのことが、エルネスタの震える背骨に、細い支えを入れた。

「……小さな」

 声が出た。

 かすれた声だった。

 グレイルが眉を寄せる。

「はい?」

 エルネスタは、もう一度息を吸った。

 胸が痛い。

 怖い。

 泣きそうだ。

 でも、言う。

「小さな騎士家、ではありません」

 言葉が震えた。

 自分でも分かるほど。

 でも、止めなかった。

「ここは、レナック家です」

 グレイルは、何か言い返そうとして口を開いた。

 だが、エルネスタはその前に続けた。

「私に椅子を出してくれた家です。食事を出してくれた家です。鍵をかけて眠ることを許してくれた家です。私の話を、聞いてくれた家です」

 言いながら、涙が目に浮かぶ。

 視界が滲む。

 でも、言葉は止まらなかった。

「不要な迷惑などと、言わないでください」

 食堂が静まり返った。

 エルネスタの息が震える。

 グレイルは、驚いた顔をしていた。

 彼にとって、エルネスタがそんなふうに言葉を返すことは、想定外だったのだろう。

 彼女は、さらに震えながら言った。

「私は、戻りません」

 今度は、はっきり言った。

 声は震えていた。

 泣きそうだった。

 けれど、最初より少しだけ強く聞こえた。

「ご実家の命令です」と言われても。

 世間体だと言われても。

 母が話したいと言われても。

 レナック家へ迷惑が及ぶと脅されても。

 戻りません。

 エルネスタは、両手を握ったまま、グレイルを見た。

「父には、そうお伝えください」

 その一言が終わった瞬間だった。

 オズヴァルドが前へ出た。

 今度は、マルティナさんも止めなかった。

 彼女は静かに椅子の肘掛けへ手を置いたまま、目だけで息子に許可を与えていた。

 オズヴァルドの大きな体が、エルネスタの隣から一歩前へ出る。

 完全に彼女を隠すのではない。

 ただ、これ以上使者が言葉を重ねられない位置に立つ。

 彼の声は低かった。

「聞こえただろう」

 グレイルの喉が、小さく動いた。

「しかし」

「二度言った」

 オズヴァルドは遮った。

 怒鳴らない。

 けれど、食堂の空気が張り詰める。

「本人が戻らないと言った。これ以上同じ話を続けるなら、伝言ではなく強要と受け取る」

 グレイルの顔色が変わった。

 強要。

 その言葉は、伯爵家の使者にとって重かった。

 彼は慌てて姿勢を正す。

「そのようなつもりは」

「なら退去しろ」

 オズヴァルドが言った。

 短く、冷たい。

「レナック家の客人を侮辱し、この家を軽んじた。その時点で、これ以上話を聞く理由はない」

 グレイルは、初めてはっきりと狼狽した。

 彼の視線がマルティナさんへ向かう。

 女主人から取りなしてもらおうとしたのかもしれない。

 だが、マルティナさんは冷ややかに言った。

「うちの騎士団長が退去しろと言ったんだ。聞こえなかったのかい」

 ミレが後ろで小さく頷いた。

 サナは静かに玄関の方を見た。退出の道はそちらです、とでも言うように。

 グレイルは、もう一度エルネスタを見た。

 その目には、まだ何かを言いたげな色があった。

 だが、オズヴァルドの視線を受けて、口を閉じる。

「……承知いたしました」

 彼は硬く礼をした。

「本日の件、伯爵閣下へお伝えいたします」

「そのまま伝えろ」

 オズヴァルドが言う。

「言葉を削るな。本人は戻らないと言った。レナック家を小さな騎士家と侮る発言をした使者は退去を命じられた。それも含めて伝えろ」

 グレイルの顔がさらに強ばった。

 だが、反論はできなかった。

「……かしこまりました」

 オズヴァルドは玄関へ視線を向けた。

「送る」

 それは礼儀ではなく、見張りのような言葉だった。

 グレイルはもう一度頭を下げ、食堂を出ていった。

 オズヴァルドがその後に続く。

 足音が廊下を遠ざかる。

 玄関の扉が開く音。

 外の冷たい空気が一瞬だけ屋敷の中へ入ってくる気配。

 それから、扉が閉まる音。

 重く。

 はっきりと。

 ばたん、ではなく、きちんと閉じる音。

 エルネスタは、その音を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。

 椅子へ座ろうとしたが、膝がうまく曲がらなかった。

 マルティナさんがすぐに腕を差し出す。

「ほら、座る」

 強い手だった。

 エルネスタは椅子に座った。

 座った途端、指先の震えがひどくなった。

 今になって、体が恐怖を思い出したのだ。

 喉が痛い。

 胸が苦しい。

 目の奥が熱い。

 ミレが駆け寄って布を差し出した。

「エルネスタ様」

 泣きそうな声だった。

「すごかったです。本当に、すごかったです」

 エルネスタは、布を受け取りながら首を振った。

「すごく、ありません。声が、震えていました」

 それが恥ずかしかった。

 情けなかった。

 本当はもっと、凛として言いたかった。

 戻りません、と。

 毅然と。

 恐れず。

 相手が何を言っても揺れず。

 けれど実際の自分は、今にも泣きそうで、声は震え、椅子の縁を握らなければ立っていられなかった。

「震えてしまいました」

 エルネスタは、布を握りしめた。

「泣きそうで、声も小さくて。あんなのでは」

「聞こえたよ」

 低い声がした。

 玄関から戻ってきたオズヴァルドだった。

 外の冷気をまとって、食堂の入口に立っている。

 彼は手袋を外しながら、エルネスタを見ていた。

「聞こえた」

 もう一度、彼は言った。

 たったそれだけ。

 でも、その一言が、エルネスタの胸に深く沈んだ。

 聞こえた。

 震えていても。

 小さくても。

 泣きそうでも。

 拒絶は、聞こえた。

 マルティナさんも頷いた。

「そうだよ。拒絶ってのは、声量で決まるんじゃない」

 エルネスタは顔を上げた。

 マルティナさんは、いつものように強く、しかし温かい目をしていた。

「震えてたって、戻りませんは戻りませんだ。拒絶は拒絶になる」

 拒絶は拒絶になる。

 その言葉が、胸の奥で静かに光った。

 エルネスタは、唇を震わせた。

「でも、父の使者に、あんなふうに」

「言う必要があった」

 オズヴァルドが短く言った。

 彼はゆっくり食堂へ入り、エルネスタの少し斜め前に立つ。

「向こうは、お前の言葉を軽く扱った。だから、もう一度言う必要があった」

「軽く」

「ああ」

 オズヴァルドの目が冷たくなる。

「動揺だの、意地だのと言った。あれは拒絶を拒絶として扱っていない」

 エルネスタは、息を呑んだ。

 自分が感じていた苦しさに、名前をつけられた気がした。

 拒絶を拒絶として扱わない。

 戻りません、を、動揺にする。

 意地にする。

 子どものわがままにする。

 落ち着けば変わるものにする。

 それは、彼女の言葉を奪う行為だったのだ。

 エルネスタは、布を胸元で握った。

「私は、ちゃんと拒絶できていたのでしょうか」

 自信がなかった。

 声は震えた。

 途中で泣きそうになった。

 グレイルの言葉に揺れた。

 母という言葉に、胸が痛んだ。

 レナック家を侮られて、やっと言葉が出た。

 それでも、拒絶と言えるのか。

 オズヴァルドは、一瞬も迷わなかった。

「できていた」

 短く。

 まっすぐ。

 エルネスタの目に涙が滲んだ。

 ミレがまた泣きそうになる。

 サナが温かい薬草茶を静かに置いた。

「声が震えていても、言葉は届いていました」

 サナは言った。

「お嬢様が何を望まないのか、はっきり分かりました」

 ミレも頷く。

「戻りませんって、二回言いました。ちゃんと聞こえました」

 マルティナさんが、少し笑う。

「一回目も聞こえたけどね。二回目は、もっとよく聞こえた」

 エルネスタは、涙を布で押さえた。

 小さな勝利。

 そんな言葉が、胸の中に浮かんだ。

 大きな勝利ではない。

 父を変えたわけではない。

 実家が謝ったわけでもない。

 これで全部終わるわけでもない。

 むしろ、また手紙が来るかもしれない。

 グレイルは父へ報告する。

 父は怒るかもしれない。

 次はもっと強い言葉が来るかもしれない。

 それでも、今日の食堂で、エルネスタは二度言った。

 戻りません。

 その言葉を、軽く扱われても、もう一度言った。

 そして、言い終えた瞬間に、オズヴァルドが退去を命じてくれた。

 彼女の拒絶を、拒絶として扱ってくれた。

 それは、小さな勝利だった。

 エルネスタは薬草茶のカップを両手で包んだ。

 手はまだ震えている。

 カップの中の水面が細かく揺れる。

 それを見て、また恥ずかしくなりかけた時、オズヴァルドが低く言った。

「震えは、止めなくていい」

 エルネスタは顔を上げる。

「え」

「勝手に止まるまで待て」

 彼は、少しだけ視線を逸らした。

「無理に押さえると、余計疲れる」

 その言葉が、不器用な気遣いだと分かった。

 エルネスタは、カップを置いた。

「はい」

 震えていてもいい。

 声も、手も。

 それでも、言葉は言葉になる。

 拒絶は拒絶になる。

 マルティナさんが立ち上がった。

「今日は、予定変更だね」

「予定変更、ですか」

 エルネスタが聞くと、マルティナさんは力強く頷いた。

「冬支度も帳面も薬草も逃げない。今日はエルネスタが二回も戻りませんって言った日だ。温かいものを飲んで、甘いものを少し食べて、午後は休む」

 ミレがすぐに台所へ走りかける。

「蜂蜜菓子、あります!」

 サナが止める。

「走らない。転びます」

「でも、今こそ甘いものです」

「蜂蜜の残量を考えてください」

「今日だけ少し」

 マルティナさんが笑う。

「今日だけ少しなら許す」

 エルネスタは、そのやり取りを聞きながら、ようやく少しだけ息が深くなった。

 食堂の空気が戻ってくる。

 薪の匂い。

 薬草茶の香り。

 ミレの足音。

 サナの静かな声。

 マルティナさんの笑い。

 オズヴァルドの低い気配。

 ここはレナック家だ。

 小さな騎士家、などではない。

 彼女に椅子を出してくれた家。

 自分の声を待ってくれた家。

 拒絶を拒絶として扱ってくれた家。

 エルネスタは、もう一度薬草茶を手に取った。

 少しだけ飲む。

 温かい。

 喉に残っていた恐怖が、少しずつ溶けていくようだった。

 午後、エルネスタは本当に休むよう命じられた。

 マルティナさんに。

 オズヴァルドに。

 ミレとサナにも。

 四人にそれぞれ違う言い方で言われたので、さすがに逆らえなかった。

「今日は帳面禁止」

 マルティナさん。

「食料庫は私が見ます」

 サナ。

「薬草も私が水を見ます。水は少なめ、ですよね」

 ミレ。

「寝ろ」

 オズヴァルド。

 最後の一言はあまりに短くて、少しだけ笑ってしまった。

 小部屋へ戻る前、エルネスタは食堂の入口で立ち止まった。

 オズヴァルドが暖炉のそばに立っていた。

 彼は使者を追い返した後も、どこか怒りを残しているようだった。眉間の皺が深い。

 エルネスタは、彼に向かって小さく頭を下げた。

「ありがとうございました」

 オズヴァルドは彼女を見る。

「俺は最後に言っただけだ」

「それでも」

 エルネスタは胸の前で指を重ねた。

「私の言葉が終わるまで、待ってくださったので」

 オズヴァルドは黙った。

 それから、少しだけ低い声で言った。

「マルティナさんが止めなければ、俺は先に言っていた」

 マルティナさん、ではなく、母さんと言うところなのに。

 なぜか彼は、エルネスタが呼ぶ名を使った。

 それに気づいて、エルネスタの胸が少し温かくなる。

「でも、止まってくださいました」

「ああ」

「嬉しかったです。怖かったですけれど」

 正直に言うと、彼はわずかに眉を動かした。

「次に声が出ない時は、俺が言う」

 その言葉に、エルネスタは瞬きをした。

 オズヴァルドは続けた。

「毎回、お前が言わなければならないわけじゃない。今日は言えた。それでいい」

 胸に、じんわりと熱が広がる。

 そうか。

 今日言えたからといって、次も必ず自分一人で立たなければならないわけではない。

 成長したのだから、もう守られなくていい、ではない。

 声が出る日もある。

 出ない日もある。

 待ってもらう日もある。

 代わりに言ってもらう日もある。

 それでいい。

 エルネスタは頷いた。

「はい」

 オズヴァルドは少し視線を逸らす。

「ただし、今日のことは忘れるな」

「はい」

「震えていても、聞こえた」

 また、その言葉。

 エルネスタは目元が熱くなった。

「はい」

 小部屋へ戻ると、体の疲れが一気に出た。

 寝台に座っただけで、足から力が抜ける。

 声を出すことは、こんなに体力を使うのだろうか。

 たった数行の拒絶なのに。

 戻りません、と二回言っただけなのに。

 体はまるで長い距離を歩いた後のように重かった。

 エルネスタは机の上の帳面を見た。

 今日は帳面禁止。

 そう言われている。

 でも、記録したい。

 忘れたくない。

 彼女は少し迷い、帳面ではなく小さな紙片を取り出した。

 これなら、長く書かない。

 一行だけ。

 そう自分に言い訳をして、筆を取る。

 震えた声でも、拒絶は拒絶になる。

 書いた。

 文字は少し歪んだ。

 けれど、読める。

 その下に、もう一行。

 聞こえた、と言われた。

 エルネスタは、その二行を見つめた。

 胸の奥に、小さな灯りがともる。

 勝利というには、あまりにも小さい。

 誰かに誇るようなものではない。

 でも、彼女には大切だった。

 小さな勝利。

 彼女は紙片を帳面の間に挟み、食料庫の鍵の布袋の横へ置いた。

 それから、扉に内側から鍵をかける。

 かちり。

 今日は、その音が少し違って聞こえた。

 ただ自分を守るための音ではなく。

 自分の言葉を守る音。

 戻りません。

 その声を、外から軽く扱われないように守る音。

 エルネスタは寝台に横になった。

 毛布を引き寄せる。

 窓の隙間は塞がれていて、部屋は暖かい。

 湯たんぽはまだ入っていない時間だが、毛布だけでも十分だった。

 目を閉じると、グレイルの声がまだ少し聞こえる。

 ご実家の命令です。

 意地を張ることは得策ではありません。

 小さな騎士家。

 不要な迷惑。

 胸がまた少し冷えそうになる。

 けれど、その後に別の声が重なる。

 聞こえた。

 震えてたって、戻りませんは戻りませんだ。

 拒絶は拒絶になる。

 その声が、彼女を今の部屋へ戻してくれる。

 昼寝というには浅い眠りだった。

 けれど、エルネスタは少しだけ眠った。

 夢の中で、彼女はまた食堂に立っていた。

 グレイルが何かを言っている。

 父の名が聞こえる。

 けれど、夢の中のエルネスタは、声が震えていても口を開いた。

 戻りません。

 夢の中でも、その声は小さかった。

 でも、今度は自分にも聞こえた。

 夕方、目を覚ますと、部屋の机に新しい紙が置かれていた。

 いつの間に誰かが入ったのではない。

 内鍵はかかっている。

 おそらく、彼女が寝る前に気づかなかっただけで、扉の下から差し込まれていたのだろう。

 マルティナさんの字。

 小さな勝利の日は、焼き林檎の日にしてもいいかもしれないね。

 その下に、ミレの丸い字。

 蜂蜜は節約しながら使います。

 さらにサナの字。

 今日は半分だけにしましょう。

 そして最後に、角ばった字が一行。

 焦がしすぎない。

 エルネスタは、その字を見た瞬間、胸がいっぱいになった。

 オズヴァルドの字だ。

 以前より丁寧で、でもまだ少し角ばっている。

 焦がしすぎない。

 それだけ。

 けれど、焼き林檎を作る気でいるということだ。

 今日のために。

 戻りませんと言った日。

 震えた声でも拒絶が拒絶になった日。

 その小さな勝利に、焼き林檎を。

 エルネスタは紙を胸に当てた。

 泣きそうだった。

 でも、少し笑っていた。

 夜の食堂には、本当に焼き林檎が出た。

 半分だけ。

 蜂蜜も控えめ。

 端は少しだけ焦げていた。

 エルネスタが一口食べると、甘酸っぱい味が口に広がる。

 昼間の恐怖が消えるわけではない。

 でも、その上に、別の記憶が重なる。

 戻りません。

 聞こえた。

 焼き林檎。

 小さな勝利。

 彼女はスプーンを置き、小さく言った。

「おいしいです」

 オズヴァルドは、いつものように視線を逸らした。

「そうか」

 マルティナさんが笑う。

「焦げ具合は?」

 エルネスタは、少し恥ずかしくなりながらも答えた。

「今日のも、好きです」

 オズヴァルドの耳が、また少し赤くなった。

 ミレが口元を押さえ、サナは静かに茶を注いだ。

 食堂の空気が柔らかくなる。

 エルネスタは、その空気の中で焼き林檎を食べた。

 声は震えていた。

 手も震えた。

 泣きそうになった。

 でも、拒絶は拒絶になった。

 その事実を、蜂蜜と林檎の甘さで、ゆっくり胸の中へ溶かしていく。

 今日の勝利は小さい。

 けれど、小さいからこそ、食卓に置ける。

 半分の焼き林檎のように。

 無理なく食べられる大きさで。

 ちゃんと甘くて、少し焦げていて、忘れにくい味がした。


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常陸之介寛浩📚️書籍・本能寺から始める
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あらすじ 王太子アルベルトの婚約者として、王都の政務と社交を陰から支えてきた公爵令嬢レティシア。 だが華やかで愛らしい妹エミリアに心を奪われた王太子は、公衆の面前で婚約破棄を宣言する。 「君の役目は妹で足りる」 その言葉に、レティシアは微笑んでうなずいた。 婚約者も、地位も、名誉も、王都での役目も――すべて妹に譲って、王国最北の荒れ果てた辺境領へ去る。 誰もが彼女の没落を信じた。 辺境は痩せた土地、尽きかけた鉱脈、荒れる街道、魔物被害、疲弊した民。 とても令嬢ひとりに立て直せる土地ではない。 ……はずだった。 だが、王都で“地味な婚約者”と蔑まれていた彼女こそ、財務、兵站、外交、治水、徴税、流通、貴族調整まで一手に回していた真の実務者だった。 水路を引き、街道を繋ぎ、鉱山を再生し、魔物を退け、辺境諸族と盟約を結ぶ。 やがて小さな辺境領は、富も軍も人も集まる巨大勢力へと変貌していく。 一方、レティシアを失った王都では、妹と元婚約者による“華やかな政治”が破綻を始めていた。 崩れる財政、乱れる社交、反発する諸侯、迫る凶作、忍び寄る隣国の影。 今さら「戻ってきてほしい」と言われても、もう遅い。 これは、 すべてを奪われたはずの令嬢が辺境から国を超える力を築き、 やがて滅びかけた王国と大陸の秩序そのものを塗り替えていく、 婚約破棄から始まる超大作ファンタジー。