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第21話 妻ではありません、もう
ヴィルドリックが去った翌朝、レナック家の食堂には、焼き林檎の香りが戻っていた。
約束通りだった。
昨夜、扉の下から差し込まれていた紙に、オズヴァルドの角ばった字で書かれていた。
焼くなら明日。
その「明日」が来たのだ。
朝食のあと、エルネスタが食料庫の蜂蜜の量を確認していると、ミレが台所からそっと顔を出した。
「エルネスタ様、林檎を一つ使ってもいいですか」
声が妙に弾んでいた。
エルネスタは、帳面から顔を上げる。
「林檎ですか」
「はい。今日の分です」
今日の分。
その言葉だけで、エルネスタは昨夜の紙を思い出して頬を熱くした。
隣でサナが平静な顔をしている。
「蜂蜜は控えめにします」
「そうですね。残量を見ると、少し控えめにしたほうが」
「でも焦げ目は控えめにしないほうがいいですよね」
ミレが真顔で言った。
エルネスタは何を返せばいいのか分からなくなる。
サナが静かに言う。
「ミレ。からかいすぎです」
「でも、エルネスタ様の好物ですから」
好物。
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
蜂蜜入りの焼き林檎。
少し焦げた端。
安心する。嬉しい。
帳面に書いたその文字は、今も鮮やかに残っている。
自分の好きな味が一つ見つかったことは、思っていた以上にエルネスタの中に根を張っていた。好きと言えるものがある。その味を、誰かが覚えてくれている。そのことは、冬の朝の湯たんぽみたいに、小さくても確かな熱を持っていた。
「焦げすぎないように、でも少し香ばしく」
エルネスタは、恥ずかしさをごまかすように実務的な声で答えた。
ミレが嬉しそうに頷く。
「了解しました。団長にも伝えます」
「オズヴァルド様が焼かれるのですか」
「ご本人が、林檎は俺が見る、と」
ミレは口元を押さえて笑った。
サナは、蜂蜜の小瓶を手に取りながら、ほんの少しだけ目元を緩めている。
エルネスタは食料庫の棚を見つめた。
日常用。
騎士団用。
客人用。
緊急用。
赤い糸、生成りの糸、オズヴァルドの字で書かれた騎士団用の札。
ここへ来たばかりの頃は、鍵一つ持つことに震えていた。
今も鍵は重い。
けれど、その重さは恐怖だけではない。
蜂蜜の残量を考える。
薬草飴の量を調整する。
焼き林檎に使う分を少しだけ分ける。
そういう小さな判断の一つひとつが、彼女をこの家の暮らしへ結びつけていく。
昼前、町の子どもたちに教える紙片を作った。
冬。
水。
火。
木。
市。
リダ、トマ、ピム。
それから、エルネ。
最後の文字は、子どもたちが勝手に書きたがるかもしれないと思って用意したものだ。エルネスタはその紙片を見て、少しだけ笑った。
エルネさん。
町の子どもたちは、彼女をそう呼ぶ。
奥様でも、元侯爵夫人でも、離縁された女でもない。
エルネさん。
薬草飴を半分に割ってくれる人。
水の字を教えてくれる人。
名前を書けたら、本当によくできたと褒めてくれる人。
その呼び名は、エルネスタの中に新しい場所を作っていた。
ヴィルドリックは、それも知らない。
昨日、彼はレナック家の食堂で、彼女を妻と呼んだ。
エルネスタは言った。
私は、あなたの妻ではありません。
声は震えた。
でも、聞こえた。
オズヴァルドがそう言った。
エルネスタは、その言葉を心の中でそっと撫でる。
聞こえた。
戻りませんも。
妻ではありませんも。
震えていても、聞こえた。
だから今日、少しだけ息がしやすい。
そう思っていた。
だが、ヴィルドリックは一度で諦める人間ではなかった。
午後、食堂には焼き林檎の匂いが漂っていた。
昼食のあと、エルネスタは帳面を閉じ、子どもたち用の紙片を紐でまとめていた。マルティナさんは膝掛けをかけて椅子に座り、ミレは台所で蜂蜜の小瓶を磨き、サナは薬草茶の小箱を整理していた。
オズヴァルドは暖炉のそばに立っていた。
焼き林檎の皿を見張るようにしている。
林檎は、半分に切られ、芯をくり抜かれ、蜂蜜を少しだけ落として焼かれていた。昨日より焦げ目は控えめだが、端にはちゃんと香ばしい色がついている。
エルネスタは、その皿を見るたびに視線を逸らした。
嬉しい。
でも、恥ずかしい。
その二つが胸の中で小さくぶつかり合っている。
そんな時だった。
屋敷の前で、馬車の音がした。
昨日と同じ音。
整いすぎた車輪の音。
王都の馬具の音。
エルネスタの手から、紙片の束が滑り落ちた。
ばらり、と床に広がる。
冬。
水。
火。
エルネ。
文字たちが床へ散った。
ミレが息を呑む。
サナが静かに立ち上がる。
マルティナさんの目が細くなる。
オズヴァルドは、焼き林檎の皿から視線を外し、玄関の方を見た。
その横顔が、一瞬で騎士団長のものへ変わる。
エルネスタの喉が固くなった。
昨日、彼は帰った。
ヴィルドリックは帰ったはずだった。
今日は来ないはずだった。
少なくとも、今日くらいは。
胸の奥で、小さな期待が砕ける。
玄関の扉が叩かれた。
こん、こん。
昨日と同じ、礼儀正しく冷たい音。
オズヴァルドが歩き出す。
「俺が出る」
マルティナさんは、今度も止めなかった。
ただ、エルネスタのそばへ来た。
「座るかい」
エルネスタは、散らばった紙片を見つめた。
自分の字。
子どもたちへ教えるための字。
それが床に落ちている。
拾わなければ。
そう思ったが、指が動かない。
「立っています」
昨日と同じ答えだった。
けれど、昨日より声はかすれていた。
マルティナさんは頷いた。
「なら、立ってな。倒れそうなら座らせるよ」
「はい」
玄関の方から、オズヴァルドの低い声がした。
そして、すぐにヴィルドリックの声が聞こえた。
「昨日の話が途中だった」
途中。
エルネスタの胸が冷えた。
彼にとって、昨日の「妻ではありません」は終わりではなかったのだ。
彼女が言葉を尽くしても、拒絶しても、彼の中ではまだ話が途中になっている。
ヴィルドリックは、オズヴァルドの案内を待たずに入ってきたようだった。足音が廊下を進んでくる。
オズヴァルドはすぐ後ろにいた。
彼の顔は、昨日よりさらに険しい。
食堂へ現れたヴィルドリックは、昨日とほとんど同じ装いだった。濃い色の上着。整えられた髪。上質な手袋。けれど、その目には昨日よりもはっきりした苛立ちがあった。
そして、その苛立ちは、食堂の空気を見た瞬間さらに強くなった。
暖炉の前の焼き林檎。
床に散らばった子ども用の紙片。
マルティナさんの膝掛け。
ミレとサナの気配。
エルネスタの素朴な服。
彼が想像した「惨めな元妻」の姿は、ここにはない。
だが同時に、彼にとっては理解しがたい生活が広がっていた。
侯爵家の奥方だった女が、地方騎士家の食堂で、子どもに文字を教える紙を作り、焼き林檎の香りの中に立っている。
その光景が、ヴィルドリックの神経を逆撫でしたのだろう。
「……ずいぶん、馴染んでいるようだな」
彼は言った。
昨日の「思ったより元気そうだな」と同じ種類の言葉だった。
安堵ではない。
嫌味。
エルネスタは、床の紙片を見ていた。
エルネ。
自分の字。
町の子どもたちが呼ぶ名前。
それを見て、ほんの少しだけ胸を支える。
「ご用件は、何でしょうか」
昨日と同じ問いを、彼女は繰り返した。
声は震えた。
でも、出た。
ヴィルドリックの目が冷える。
「用件など、最初から一つだ。君をこのままにはしておけない」
「私は」
エルネスタは息を吸った。
「昨日、お伝えしました」
「昨日は感情的だった」
即座に返された。
その言葉に、胸が痛む。
まただ。
彼女の言葉は、彼の中で感情的なものにされる。
拒絶ではなく。
意思ではなく。
一時の乱れ。
ヴィルドリックは、まっすぐ彼女を見た。
「エルネスタ。君は、自分が何をしているか分かっていない。離縁された女が、実家にも戻らず、元夫からの連絡にも応じず、地方騎士家に居続ける。噂がどうなるか、少し考えれば分かるだろう」
少し考えれば。
それは、彼が昔よく使った言い方だった。
少し考えれば分かるはずだ。
つまり、分からない君が悪い。
そういう響き。
エルネスタの背中が冷たくなる。
かつてなら、ここで黙っていた。
そうですね、と頷いた。
申し訳ございません、と謝った。
自分の胸がどう痛むかより、相手の機嫌を整えることを優先した。
だが、今は。
今は、足元に紙片が散っている。
エルネさん、と書いた紙。
冬、と書いた紙。
それは、彼女がここで得たものの一部だった。
ヴィルドリックは続ける。
「君のためでもある」
その言葉は、滑らかだった。
整っていた。
貴族らしく、もっともらしく、聞く者によっては思いやりに聞こえたかもしれない。
だが、エルネスタには、空っぽに聞こえた。
君のため。
その中に、彼女の顔はない。
彼女の恐怖もない。
レナック家でようやく息ができるようになったこともない。
蜂蜜入りの焼き林檎が好きだと知ったこともない。
子どもたちに字を教えることもない。
ただ、彼の都合を、彼女のためという衣で包んだだけの言葉。
空っぽ。
胸に響かない。
エルネスタは、ゆっくり顔を上げた。
ヴィルドリックの顔を見る。
怖い。
まだ怖い。
けれど、前より少しだけ、彼の言葉の中身が見える。
空っぽだと分かる。
それだけでも、昔とは違う。
「私のため、とおっしゃるなら」
声は細かった。
だが、食堂に落ちた。
ヴィルドリックがわずかに眉を動かす。
「私がどうしたいかを、一度でも聞いてくださいましたか」
言った瞬間、食堂の空気が変わった。
マルティナさんの目が鋭くなる。
ミレが唇を押さえる。
サナが静かに息を止める。
オズヴァルドは何も言わない。
ただ、そこにいる。
ヴィルドリックは、少しだけ言葉に詰まった。
「君は今、冷静ではない」
「私は、聞いています」
エルネスタは続けた。
「私のためだとおっしゃるなら、私がどうしたいかを、なぜ聞かないのですか」
ヴィルドリックの顔に、明らかな苛立ちが浮かぶ。
「君がどうしたいかではなく、どうすべきかの話をしている」
その一言で、エルネスタの胸の中にあった小さな期待が完全に消えた。
やはり。
彼は聞かない。
彼女のしたいことを。
彼女の怖いことを。
彼女の戻りたくない理由を。
彼にとって大事なのは、どうすべきか。
それも、彼と王都と家の秩序にとっての「すべき」だ。
エルネスタは、目を伏せそうになった。
その時、足元の紙片が目に入った。
エルネ。
少し曲がった自分の字。
子どもたちに渡すための字。
彼女は、その紙を見て、小さく息を吸った。
顔を上げる。
今度は、しっかりと。
「私はもう、あなたの妻ではありません」
言った。
昨日も言った。
だが、今日は違った。
昨日は、ヴィルドリックの「妻」という言葉に押され、オズヴァルドの「離縁は成立している」に支えられ、自分でもようやく言った言葉だった。
今日は、自分から言った。
彼が再び当然のように命じる前に。
彼が「君のため」という空っぽの言葉で包み込もうとする前に。
私はもう、あなたの妻ではありません。
ヴィルドリックの顔が、初めてはっきり怒りに染まった。
「何度も言わせるな」
声が低くなる。
「離縁していようと、君が私の家にいた事実は消えない。私は君の状況を整える責任がある」
「責任」
エルネスタは繰り返した。
その言葉の空洞が、また胸へ触れる。
「婚姻の役目は終わったとおっしゃったのは、あなたです」
ヴィルドリックの目が鋭くなる。
「それは」
「実家へ戻ればいいとおっしゃったのも、あなたです」
「だから今、その後始末を」
「後始末」
エルネスタは、小さくその言葉を口にした。
後始末。
自分は、後始末なのか。
彼が終わらせた婚姻の、乱れた噂の、王都での見え方の、後始末。
かつてなら、その言葉で傷ついて、黙って、従ったかもしれない。
けれど今、傷つくより先に、胸の奥が静かに冷えた。
後始末として扱われるために、戻るつもりはない。
「私は、あなたの後始末ではありません」
エルネスタは言った。
声は震えた。
だが、まっすぐだった。
ヴィルドリックは唇を引き結んだ。
「随分と、この家で吹き込まれたようだな」
その視線が、オズヴァルドへ向く。
初めて、彼の怒りが明確にオズヴァルドを刺した。
「地方の騎士家が、侯爵家の事情に口を出すとは」
オズヴァルドは動かない。
だが、食堂の空気が一段冷えた。
ヴィルドリックはオズヴァルドを見下すように続けた。
「あなたには分からないだろう。王都の家同士の関係、貴族社会での立場、噂の重さ。剣と馬だけで片づく話ではない」
その言葉は、丁寧な侮辱だった。
レナック家を小さく見るだけではない。
オズヴァルド自身を、王都の事情を知らない地方騎士として見下している。
ミレの顔が赤くなる。
サナの目が冷える。
マルティナさんが椅子の肘掛けを強く握った。
オズヴァルドは、静かだった。
ただ、彼の目は、剣を抜かずに刃を置いたような鋭さを持っていた。
エルネスタは、その一歩後ろに下がりかけた。
怖かった。
ヴィルドリックの怒り。
オズヴァルドへの侮辱。
食堂の張り詰めた空気。
このままオズヴァルドの後ろに隠れれば、きっと彼が返してくれる。
彼は、離縁は成立していると言ってくれた。
強要だと受け取ると言ってくれた。
退去を命じてくれた。
きっと今も、言ってくれる。
けれど。
マルティナさんの声が胸の奥で響く。
言うなら、あの子が言うんだよ。
毎回、自分で言わなくてもいい。
オズヴァルドはそう言ってくれた。
でも、今は。
今、ヴィルドリックはオズヴァルドを見下している。
エルネスタがここで完全に後ろへ隠れれば、彼はきっと思う。
この男に言わされているのだ。
この家に吹き込まれたのだ。
エルネスタ自身の意思ではないのだ。
それは嫌だった。
怖い。
でも、嫌だ。
エルネスタは、一歩踏み出した。
オズヴァルドの後ろではなく。
横へ。
完全に並ぶほどではない。
けれど、彼の影から出る位置へ。
足が震えた。
床板が小さく鳴った。
ヴィルドリックの視線が彼女へ戻る。
オズヴァルドも、少しだけ彼女を見る。
止めない。
前へ出すぎるなとも言わない。
ただ、横にいる。
エルネスタは、自分の足で立った。
素朴な服。
震える指。
喉の奥に残る恐怖。
それでも、立つ。
「オズヴァルド様は、私に何かを吹き込んだのではありません」
声はまだ細い。
けれど、はっきりした。
「私は、自分で言っています」
ヴィルドリックの目が揺れた。
エルネスタは続けた。
「あなたの妻ではありません、と。戻りません、と。私のためだという言葉が空っぽに聞こえる、と」
最後の言葉で、ヴィルドリックの顔が強ばった。
「空っぽ?」
「はい」
エルネスタは頷いた。
怖い。
でも、もう言った。
だから続ける。
「私がどうしたいかを聞かず、私のためだと言われても、私には空っぽに聞こえます」
食堂が静まり返る。
ヴィルドリックは、信じられないものを見るような目をしていた。
彼はおそらく、エルネスタが自分の言葉を「空っぽ」と評する日が来るとは思っていなかったのだろう。
エルネスタ自身も、少し前なら思わなかった。
でも今は、分かる。
温かい言葉は、体温を持っている。
マルティナさんの「食べる人は食卓に座るんだよ」。
オズヴァルドの「飲めなければ残せ」。
サナの「声は震えていても、届いていました」。
ミレの「エルネスタ様、すごかったです」。
町の子どもたちの「エルネさん」。
そういう言葉は、胸のどこかに残る。
ヴィルドリックの「君のため」は、残らない。
形だけで、温度がない。
それに気づけるようになったのだ。
ヴィルドリックは、怒りを抑えた声で言った。
「君は、自分が誰に向かってそんな口を利いているか分かっているのか」
昔なら、そこで終わっていた。
父にも、夫にも、そう言われれば終わりだった。
誰に向かって。
分を弁えろ。
立場を考えろ。
けれど、エルネスタは今、別の問いを知っている。
どうしたい?
戻りたいのか?
食べられるか?
好きな味は?
返事をするか、しないか?
燃やすか、残すか?
その問いを重ねられてきた今、ヴィルドリックの言葉は、以前ほど絶対ではなかった。
「分かっています」
エルネスタは答えた。
「私を離縁した方です」
ヴィルドリックの息が止まったように見えた。
「もう、私の夫ではない方です」
続ける。
言葉は、ゆっくり。
でも、折れなかった。
「ですから、私はもう、あなたの妻ではありません」
もう。
その一語を、最後に置いた。
妻ではありません、もう。
それは、これまでの言葉より少しだけ深かった。
今だけではない。
書類上だけではない。
心も、暮らしも、席も、呼び名も、少しずつ離れている。
もう。
ヴィルドリックは、唇を引き結んだ。
彼の怒りは、今にも言葉になりそうだった。
だが、その前にオズヴァルドが静かに言った。
「聞こえただろう」
その声は低く、冷たかった。
「本人が言った。これ以上、妻と呼ぶな」
ヴィルドリックはオズヴァルドを睨んだ。
「あなたに命じられる筋合いはない」
「この家で、客人を侮辱する呼び方を続けるなら退去を命じる」
「客人」
ヴィルドリックは、その言葉を鼻で笑うように繰り返した。
「客人という名目で、どこまで置いておくつもりだ」
「本人が望むまで」
オズヴァルドは即答した。
エルネスタの胸が、どくんと鳴る。
本人が望むまで。
その言葉は、あまりにまっすぐだった。
ヴィルドリックは冷たく言う。
「それが彼女のためだと?」
「少なくとも、望まない馬車へ乗せるよりはましだ」
オズヴァルドの声は変わらない。
だが、そこには揺るがない怒りがあった。
ヴィルドリックは、しばらく二人を見比べた。
エルネスタ。
オズヴァルド。
その距離を。
エルネスタが完全に後ろに隠れていないことを。
オズヴァルドが彼女の言葉を奪っていないことを。
彼は、認めたくないものを見るような顔をした。
エルネスタが、自分の支配下にいない。
それだけではない。
彼女は別の誰かに支配されているわけでもない。
自分の足で立ち、震えながらも自分で言葉を出している。
それが、ヴィルドリックには一番理解しづらいことだったのかもしれない。
「後悔する」
彼は昨日と同じ言葉を言った。
しかし、昨日よりも声に怒りが混じっていた。
「王都での立場を失い、実家にも戻れず、この家にすがるしかなくなる。その時に、今日の言葉を後悔することになる」
エルネスタの胸は痛んだ。
実家にも戻れず。
その言葉は、まだ傷に触れる。
けれど、彼女は完全には崩れなかった。
なぜなら、すがる、という言葉が違うと分かったからだ。
レナック家は、彼女をすがらせるために置いているのではない。
椅子を出し、食事を出し、鍵を預け、声を待ってくれた。
それは、すがらせることではない。
息をさせることだ。
「後悔するかどうかも、私が知ります」
昨日と同じ言葉。
けれど、今日は少しだけ静かに言えた。
「あなたに決めていただくことではありません」
ヴィルドリックの顔から、余裕が消えた。
怒り。
屈辱。
理解できなさ。
それらが混ざった顔だった。
彼は、もう一度オズヴァルドを見た。
「この件は、これで済むと思わないことだ」
オズヴァルドは微動だにしなかった。
「脅しなら記録する」
「脅しではない」
「なら、用件は終わりだ」
短い。
切るような言葉。
マルティナさんが椅子からゆっくり立ち上がった。
「お帰りはあちらだよ。うちの焼き林檎が冷める」
その場に似つかわしくない言葉だった。
だが、エルネスタはその一言で息が少し戻った。
焼き林檎。
冷める。
そうだ。
暖炉のそばに、彼女の好物がある。
ヴィルドリックが何を言っても、食堂には焼き林檎がある。
ミレが思わず小さく吹き出しそうになり、サナが目だけでたしなめた。
ヴィルドリックは、マルティナさんを睨んだ。
だが、それ以上は何も言わなかった。
彼は踵を返した。
今度も、オズヴァルドが玄関まで送った。
見送りではなく、退去の確認として。
馬車の扉が閉まる音。
蹄の音。
車輪の音。
それらが遠ざかっていく。
エルネスタは、しばらく立ったままだった。
足が震えている。
指も震えている。
喉が痛い。
でも、立っている。
オズヴァルドの後ろではなく。
自分の足で。
玄関の扉が閉まり、オズヴァルドが戻ってきた。
彼は食堂に入ると、まずエルネスタを見た。
「座れ」
短い。
命令のような声。
でも、その中に心配があると分かる。
エルネスタは素直に椅子へ座った。
座った瞬間、力が抜けた。
マルティナさんが隣に座り、ミレが布を持ってくる。サナは薬草茶を用意する。
いつもの流れ。
泣いてもいい時の流れ。
エルネスタは布を受け取った。
「……怖かったです」
声がかすれていた。
マルティナさんが頷く。
「うん」
「でも、後ろに隠れませんでした」
「見てたよ」
ミレが力強く頷いた。
「見てました。エルネスタ様、ちゃんと立ってました」
サナも静かに言う。
「声も、届いていました」
オズヴァルドは、少し離れたところから言った。
「聞こえた」
また、その言葉。
エルネスタは、涙が出そうになりながら笑った。
「オズヴァルド様は、いつもそれですね」
彼は少しだけ眉を動かす。
「事実だからだ」
「はい」
エルネスタは布で目元を押さえた。
「聞こえたなら、よかったです」
マルティナさんが暖炉の方を見る。
「で、焼き林檎は?」
ミレが慌てて振り返る。
「少し冷めました」
サナが皿を確認する。
「でも、食べやすい温度です」
オズヴァルドは暖炉の前へ行き、皿を持ってきた。
無言で、エルネスタの前に置く。
半分の焼き林檎。
蜂蜜は控えめ。
端は少しだけ焦げている。
騒動のせいで、湯気はほとんど消えていた。
でも、香りは残っている。
林檎の酸味。
蜂蜜の甘さ。
焦げた端の香ばしさ。
エルネスタは、それを見つめた。
胸がいっぱいだった。
ヴィルドリックの言葉は、まだ痛い。
後悔する。
この家にすがるしかなくなる。
そう言われた痛みは消えない。
けれど、目の前には焼き林檎がある。
彼女の好きな味。
彼女が自分で好きだと書いた味。
誰かが覚えていてくれた味。
「食べられなければ残せ」
オズヴァルドが言った。
エルネスタは、スプーンを手に取った。
「食べたいです」
その言葉に、オズヴァルドが一瞬だけ黙った。
マルティナさんの目尻が下がる。
ミレが嬉しそうにする。
サナが静かに茶を置いた。
エルネスタは焼き林檎を一口食べた。
少し冷めている。
けれど、おいしい。
焦げた端は、今日も好きだった。
エルネスタは、ゆっくり飲み込んだ。
「おいしいです」
オズヴァルドは視線を逸らした。
「そうか」
「今日の焦げ具合も、好きです」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
けれど、取り消さなかった。
好きなものを好きと言う。
妻ではないと言う。
戻らないと言う。
それらは、どれも彼女にとって、自分の内側を取り戻す言葉だった。
夜、小部屋へ戻ると、机の上には紙が置かれていた。
マルティナさんの字。
妻ではありません、もう、と言えた人は早く寝ること。
その下にミレの丸い字。
今日もちゃんと聞こえました。
サナの字。
明日は冬の字の紙片を作り直しましょう。
そして、オズヴァルドの角ばった字。
後ろに隠れていなかった。
エルネスタは、その一行を見た瞬間、涙がこぼれた。
隠れたかった。
本当は、とても隠れたかった。
でも、隠れなかった。
自分の足で立った。
それを、見ていてくれた。
彼女は紙を胸に当てた。
しばらく、そのまま立っていた。
それから帳面を開く。
今日の記録を書く。
ヴィルドリック、再訪。
君のためでもある、と言った。
空っぽに聞こえた。
私はもう、あなたの妻ではありません、と言った。
オズヴァルド様の後ろに隠れず、横に立った。
後ろに隠れていなかった、と書いてもらった。
書きながら、涙が落ちた。
文字が少し滲む。
でも、読めた。
エルネスタは、最後に一行を足した。
私は、自分の足で立てた。
震えていた。
怖かった。
それでも、立てた。
小部屋の扉に内側から鍵をかける。
かちり。
今夜の鍵の音は、彼女の足元を支えるように響いた。
ヴィルドリックは、まだ来るかもしれない。
父も、また何かを言ってくるかもしれない。
王都の噂も、簡単には消えない。
怖さは消えない。
それでも、今日のエルネスタは知っている。
空っぽの「君のため」に、従わなくていい。
妻と呼ばれても、違うと言っていい。
誰かを見下す言葉の後ろに隠れず、自分の足で立っていい。
そして、そんな日の終わりにも、焼き林檎はおいしい。
エルネスタは寝台に入り、毛布を引き寄せた。
胸の中には、まだヴィルドリックの怒った顔が残っている。
でも、その隣に、オズヴァルドの字もある。
後ろに隠れていなかった。
その一行を思い出しながら、エルネスタは目を閉じた。
妻ではありません、もう。
その言葉は、まだ震えている。
けれど、確かに彼女の中で息をしていた。
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一方、レティシアを失った王都では、妹と元婚約者による“華やかな政治”が破綻を始めていた。
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今さら「戻ってきてほしい」と言われても、もう遅い。
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やがて滅びかけた王国と大陸の秩序そのものを塗り替えていく、
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