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第24話 冬祭りの夜、手を取られる
冬祭りの夜、町はいつもより少しだけ明るかった。
王都の夜会のような眩しさではない。
磨き上げられた大広間の燭台でも、銀器に映る光でも、絹の衣擦れでもない。
広場の柱に渡された赤と深緑の布。
小さな鈴。
子どもたちが作った紙飾り。
焚き火の橙色。
焼き菓子屋から漂う蜂蜜と香辛料の匂い。
薬師の店先で湯気を立てる、味の遠慮を知らない薬湯。
それらが、冬の暗さの中で寄り添うように光っていた。
空気は冷たい。
息を吐くたび、白くなる。
頬に当たる風は鋭く、手袋の中の指先まで冷えが忍び込んでくる。
それでも、広場には人が集まっていた。
子どもたちは走り回り、大人たちは焚き火の近くで手を温め、若者たちは鈴のついた柱のそばで笑い合っている。古い楽器を持った男が弦を鳴らし、笛を持った少女が音を合わせるたび、広場の空気が小さく跳ねた。
エルネスタは、レナック家の馬車を降りて、しばらくその光景を見つめていた。
冬祭り。
そう呼ぶには素朴で、王都の祝祭と比べればずっと小さい。
けれど、そこには確かに人の手があった。
布を渡した手。
紙を切った手。
鈴を吊るした手。
焚き火へ薪をくべた手。
焼き菓子を並べた手。
薬草飴を包んだ手。
そして、子どもたちが自分で書いた「冬」の字。
広場の一角に吊るされた紙飾りの中に、ピムの小さな冬があった。
少し線が曲がっている。
けれど、ちゃんと読める。
その隣には、リダの丁寧な冬。
そのさらに横には、トマの大きすぎる、吹雪の冬。
エルネスタは、それを見つけて思わず口元を緩めた。
「トマの冬は、やっぱりはみ出してるねえ」
隣でマルティナさんが笑う。
膝に無理が出ないよう、今日は杖を使っていた。毛織りの厚いショールを肩にかけ、表情はいつもより少し誇らしげだ。
「でも、勢いがあります」
エルネスタが言うと、ミレがすかさず頷いた。
「団長評価ですね。勢いがある」
サナが静かに言う。
「読めるかどうかも大事です」
「読めます。たぶん」
「たぶん」
ミレが笑い、エルネスタも少し笑った。
その笑いは、寒い空気に白く溶けていった。
噂は、まだ消えていない。
それは分かっている。
広場のどこかには、王都から流れてきた言葉を聞いた人もいるだろう。
田舎騎士に囲われている。
一時の感情で家を出た娘。
侯爵家と伯爵家を困らせる元妻。
そんな悪意ある形にされた言葉は、簡単には消えない。
けれど今夜、広場に入ったエルネスタへ向けられた視線は、第22話の頃とは違っていた。
遠巻きに探る視線も、まだ少しある。
でも、それだけではない。
「あ、エルネさん!」
真っ先に走ってきたのはピムだった。
丸い頬を赤くして、両手に紙飾りを持っている。
「見て。冬、吊った」
「見えました。とてもよく書けています」
「ピムの冬、雪が落ちてる」
「はい。きれいな雪ですね」
ピムは満足そうに頷く。
その後ろからリダが来て、礼儀正しく頭を下げた。
「こんばんは、エルネさん。母が、あとで布飾りのところを見てほしいって言ってました。結び目が少し緩いみたいです」
「分かりました。あとで伺います」
トマは木の棒を持って現れた。
「エルネさん、僕の冬、広場で一番強いだろ」
「強さを競う字ではありませんが、とても勢いがあります」
「よし」
トマは満足した。
子どもたちの声が、エルネスタの周りに集まる。
エルネさん。
エルネさん。
薬草飴ある?
冬の字、今度は雪も書きたい。
名前、もう一回書けるようになった。
その一つひとつが、彼女の足元を温めてくれるようだった。
町の大人たちも声をかけてくる。
「エルネさん、薬草飴のおかげで喉が助かったよ」
「帳簿、今年はちゃんと合いそうだ」
「リダが家中の紙に名前を書くようになっちゃってねえ」
笑い声が起きる。
エルネスタは、最初こそ少し肩を固くしていたが、声をかけられるたびに、少しずつ表情がほどけていった。
彼女はここで何かをした。
薬草を分けた。
子どもに字を教えた。
帳簿を整えた。
冬祭りの支度を手伝った。
その積み重ねが、今夜、広場の中に小さく残っている。
噂より遅い。
けれど、残る。
オズヴァルドの言葉を思い出し、エルネスタは胸の奥でそっと息をした。
広場の焚き火が、ぱちりと音を立てた。
乾いた薪が割れる音。
赤い火の粉が夜空へ小さく舞い、すぐに消えていく。
焚き火の匂いは、レナック家の暖炉の匂いと少し似ていた。
けれど、広場の焚き火にはもっと外の匂いが混じっている。
土。
冬草。
人の靴についた泥。
焼き菓子の香辛料。
薬草湯の苦い湯気。
子どもたちの笑い声。
その全部が混ざって、冬祭りの匂いになっていた。
エルネスタは、そっとショールの端を握った。
素朴な服。
暖かいショール。
王都の夜会に出る姿ではない。
けれど今夜、彼女はそのことを恥ずかしいと思わなかった。
絹のドレスではない。
宝石もない。
夫の隣に立つための装いでもない。
でも、この服で薬草飴を配れる。
子どもの紙飾りを直せる。
焚き火のそばで手を温められる。
それが、今の彼女には大切だった。
その時、広場の向こうで楽器の音が変わった。
弦の音が少し速くなり、笛が明るい調子を乗せる。
町の若者たちが歓声を上げた。
「踊りだ!」
「輪を作れ!」
子どもたちが飛び跳ね、大人たちも笑いながら広場の中央へ集まっていく。
冬祭りの踊り。
エルネスタは、見たことがなかった。
王都の舞踏会のように、決められた相手と優雅に踊るものではないらしい。人々は手を取り合い、輪になり、音に合わせて左右へ歩き、時々くるりと回る。年配の者も、子どもも、若者も混じっていた。
足取りは揃っているようで、揃っていない。
誰かが間違えると、周りが笑う。
笑われた人も、怒らずに笑う。
そこには、完璧さを求める空気がなかった。
エルネスタは、その輪を少し離れたところから見ていた。
楽しそうだと思う。
同時に、とても怖いと思う。
踊り。
彼女が知っている踊りは、間違えてはいけないものだった。
王都の夜会で、夫の隣に立ち、楽団の音に合わせ、決まった歩幅で動く。笑みは控えめに、視線は下げすぎず、背筋はまっすぐ、裾は乱さず、相手の足を踏まないように。
ひとつでも間違えれば、あとで誰かに見られていたかもしれないと思う。
恥。
失敗。
家の品位。
そういう言葉が、踊りにはつきまとっていた。
だから、楽しそうな輪を見ても、足が動かなかった。
リダが気づいて駆け寄ってくる。
「エルネさんも踊ろう」
エルネスタは驚いて首を振った。
「私は、踊りは」
「簡単だよ。右に行って、左に行って、回るだけ」
トマが横から言う。
「僕もできる」
「トマはさっき転んだ」
リダが冷静に言った。
「転んだけどできる」
「それはできるって言うのかな」
子どもたちが笑う。
ピムがエルネスタの手を見上げた。
「エルネさん、こわい?」
その言葉に、エルネスタは動けなくなった。
こわい?
子どもは、まっすぐ聞く。
遠回しにしない。
エルネスタは、少しだけ息を吸った。
「少し、怖いです」
正直に言った。
ピムは真剣に頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
なんて単純で、優しい理屈だろう。
怖いなら、やらないではなく。
怖いなら、ちょっとだけ。
エルネスタは困ってしまった。
「でも、本当に踊り方が分からなくて」
「誰かと踊ればいいよ」
リダが言った。
「団長!」
トマが大声で呼んだ。
エルネスタの心臓が跳ねた。
広場の少し離れた場所で、オズヴァルドは鍛冶屋の男と何か話していた。冬祭りの警備と、焚き火の位置について確認していたのだろう。トマの声で振り返る。
相変わらず、黒っぽい外套がよく似合っている。
夜の中でも彼の姿はすぐに分かった。
背が高く、肩幅があり、立っているだけで周囲の空気が少し引き締まる。子どもたちは慣れているが、知らない子なら少し怖がるかもしれない。
彼は眉間に皺を寄せながら近づいてきた。
「何だ」
トマが胸を張って言う。
「エルネさんが踊り方分からないって」
「トマ」
エルネスタは慌てた。
「私は、別に」
リダが真面目に補足する。
「怖いって言ってた。でも、ちょっとだけならいいと思う」
ピムも頷く。
「ちょっとだけ」
オズヴァルドの視線がエルネスタへ向いた。
まっすぐに。
責めない。
急かさない。
ただ、確認するような目。
エルネスタは、その目を見ると、言い訳が少しずつ解けていくのを感じた。
「踊りの輪に誘われました」
小さく言う。
「でも、王都の踊りとは違うようで。足を間違えたら」
言いながら、自分で気づく。
足を間違えたら。
それが怖いのだ。
笑われることではなく。
笑われた後に、恥だと責められることが怖い。
オズヴァルドは、広場の輪を見た。
ちょうど、鍛冶屋の若者が足をもつれさせて転びかけ、隣の女に腕を引かれて笑われているところだった。本人も笑っている。周りも笑っている。誰も責めていない。
「間違えてもいい踊りだ」
オズヴァルドは言った。
それだけ。
エルネスタは、瞬きをした。
「間違えても」
「ああ」
「よいのですか」
「誰も数えていない」
その言い方が彼らしくて、エルネスタは少しだけ笑いそうになった。
誰も数えていない。
王都では、誰かが数えているような気がしていた。
歩幅も、笑みも、視線も、失敗も。
でも、この広場では、誰も数えていないのかもしれない。
オズヴァルドはしばらく彼女を見ていた。
そして、何も言わずに手を差し出した。
手袋をした大きな手。
剣を持つ手。
薪を割る手。
土を耕した手。
食料庫の重い籠を取り上げる手。
焼き林檎の皿を無言で置いた手。
その手が、今、エルネスタの前にある。
言葉はない。
踊るか、とも聞かない。
無理に引かない。
ただ、差し出されている。
選ぶ余地を残した手。
エルネスタの胸が、ゆっくり高鳴った。
怖い。
でも、嫌ではない。
むしろ、その手を取りたいと思った。
自分でそう思ったことに、少し驚いた。
エルネスタは、手袋の上へそっと手を重ねた。
オズヴァルドの手は温かかった。
冬の夜なのに。
手袋越しでも、確かな熱があった。
「少しだけ」
エルネスタは言った。
「ああ」
オズヴァルドは短く答えた。
トマが歓声を上げる。
「団長が踊る!」
その声に、広場の何人かが振り返った。
マルティナさんが焚き火の近くで目を丸くし、それからおかしそうに笑った。
「へえ。オズがねえ」
ミレは両手で口元を押さえている。
サナは静かに目を細めた。
子どもたちはすでに大騒ぎだった。
エルネスタは、急に恥ずかしくなる。
「やっぱり」
「行くぞ」
オズヴァルドは、逃げる隙を与えないほど短く言った。
けれど、手は強く引かなかった。
彼はエルネスタの歩幅に合わせて、ゆっくり輪の端へ向かった。
踊りの輪に入ると、音が近くなった。
弦の響き。
笛の音。
鈴の小さな震え。
人々の笑い声。
足元の土を踏む音。
焚き火のぱちぱちという音。
全てが混ざって、エルネスタの体を包んだ。
冷たい空気が頬を刺す。
焚き火の熱が横顔を撫でる。
オズヴァルドの手が、彼女の手を支える。
踊りは、本当に簡単だった。
右へ二歩。
左へ二歩。
手をつないだまま少し回る。
隣の人と入れ替わる。
また戻る。
けれど、簡単なはずなのに、エルネスタは最初の一歩で迷った。
右か、左か。
音に合わせるのか、人に合わせるのか。
裾は大丈夫か。
足を踏まないか。
胸が焦る。
すると、オズヴァルドが低く言った。
「俺を見るな。足元も見るな」
「では、どこを」
「前」
「前」
「歩くだけだ」
踊りを歩くだけと言う人を、エルネスタは初めて見た。
けれど、その言葉で少しだけ力が抜けた。
歩くだけ。
右。
左。
少し回る。
オズヴァルドは、彼女の歩幅に合わせていた。
周りの人たちより、ほんの少し遅い。
本来の彼なら、大股で動いたほうが楽なはずだ。けれど今は、エルネスタが一歩踏み出すのを待ち、彼女が迷うとわずかに手の角度を変えて教えてくれる。
強く引かない。
押さない。
支える。
間違えそうになると、彼が半歩だけ前に出て、道を作る。
エルネスタは、息を吸った。
土の匂い。
焚き火の匂い。
蜂蜜菓子の甘い匂い。
薬草湯の苦い匂い。
オズヴァルドの外套についた冷たい外気の匂い。
それらが一緒になって、胸の中へ入ってくる。
また一歩。
少し回る。
エルネスタは、うまく回れなかった。
足が少し遅れ、オズヴァルドの靴の先を踏みそうになる。
「あ」
思わず声が出た。
体が固まる。
謝らなければ。
そう思った瞬間、オズヴァルドが低く言った。
「踏んでない」
「でも」
「踏んでから謝れ」
あまりにも真顔で言うので、エルネスタは一瞬何を言われたのか分からなかった。
それから、こらえきれずに笑ってしまった。
小さな笑いではなかった。
息が漏れ、肩が揺れ、目元が緩む。
踊りの途中で笑うなんて、王都なら失礼だったかもしれない。
でも、ここでは周囲も笑っていた。
トマが叫ぶ。
「団長、踏まれそうだった!」
「踏まれていない」
オズヴァルドが返す。
リダが笑う。
「団長、真面目!」
ピムが手を叩く。
広場の笑い声が、焚き火の火の粉みたいに夜へ散った。
エルネスタは、笑ったあとに自分が恥ずかしさで縮こまっていないことに気づいた。
恥ずかしい。
少しは。
でも、嫌な恥ずかしさではない。
ここにいる自分を、恥ずかしいとは思わなかった。
素朴な服で。
完璧ではない踊りで。
足を間違えかけて。
町の人に笑われて。
それでも、今ここにいる自分が、惨めだとは思わなかった。
離縁された女として見られているのではない。
田舎騎士に囲われている女として立っているのでもない。
エルネさんとして。
レナック家の食卓に席がある人として。
冬祭りの準備を手伝った人として。
薬草飴を配った人として。
子どもたちに冬の字を教えた人として。
そして今、オズヴァルドに手を取られて、ぎこちなく踊っている人として。
ここにいる。
エルネスタは、胸がいっぱいになった。
オズヴァルドが小さく聞く。
「疲れたか」
「少し」
「抜けるか」
輪はまだ続いている。
音楽も、笑い声も。
エルネスタは、一度だけ周囲を見た。
焚き火。
赤と緑の布。
紙飾り。
鈴。
子どもたち。
マルティナさんが焚き火のそばで見ている。
ミレが手を振っている。
サナが静かに微笑んでいる。
そして、オズヴァルドの手。
エルネスタは首を振った。
「もう少しだけ」
オズヴァルドの目が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ああ」
もう少し。
その言葉を許してくれる。
無理をさせるのではなく、やめる選択も残したまま、もう少しを一緒に歩いてくれる。
エルネスタは、また一歩踏み出した。
今度は、少しだけ音に合わせられた。
右へ。
左へ。
回る。
冷たい空気の中で、頬が熱い。
手の中の温度が、妙にはっきりしている。
オズヴァルドは踊りが得意というわけではなかった。
足取りは正確だが、どこか硬い。
笑顔もない。
周囲の人々が楽しそうに跳ねる中で、彼だけ少し真面目すぎる。
でも、彼はエルネスタの歩幅から決して離れなかった。
それが、どんな上手な踊りよりも、彼女には安心だった。
曲が終わると、広場に拍手と笑い声が広がった。
エルネスタは息を弾ませていた。
胸が上下し、指先は冷えているのに手のひらだけ温かい。
オズヴァルドは手を離そうとして、ほんの一瞬だけ止まった。
それに気づいたのは、たぶんエルネスタだけだった。
彼はすぐに手を離した。
「座るか」
いつもの低い声。
エルネスタは、少しだけ名残惜しいと思った。
その感情に気づいて、胸が小さく跳ねる。
「はい。少し」
オズヴァルドは頷き、焚き火の近くの長椅子へ彼女を案内した。
そこにはマルティナさんが待っていた。
「見事にぎこちなかったねえ」
第一声がそれだった。
エルネスタは顔を赤くする。
「やはり、そうでしたか」
「でも楽しそうだったよ」
マルティナさんは、そこだけとても優しく言った。
ミレが駆け寄ってくる。
「エルネスタ様、かわいかったです!」
「かわいい、では」
サナが後ろから薬草茶を差し出す。
「温かいものをどうぞ。踊ると冷えます」
「ありがとうございます」
エルネスタはカップを受け取った。
指先に熱が戻る。
薬草茶の湯気の向こうで、広場の輪はまた動き始めていた。
人々は笑っている。
誰かが足を踏み、誰かが転びそうになり、誰かが支える。
その全部が、祭りの一部になっている。
エルネスタはカップを両手で包み、静かに言った。
「恥ずかしく、ありませんでした」
マルティナさんが彼女を見る。
「うん」
「上手ではなかったと思います。何度も間違えそうになりました。皆さんにも笑われました」
「笑ってたね」
「でも」
エルネスタは、焚き火を見つめた。
火の粉が夜へ上がる。
「ここにいる自分を、恥ずかしいと思いませんでした」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が震えた。
それは、とても大きなことだった。
離縁された自分。
実家に居場所がなかった自分。
噂を流された自分。
素朴な服で、町の祭りで、ぎこちなく踊る自分。
その自分を、恥ずかしいと思わない。
そんな日が来るとは思わなかった。
マルティナさんは、少しだけ目を潤ませたように見えた。
けれど、いつものように強く笑った。
「それはいい夜だね」
「はい」
エルネスタは頷いた。
「とても」
オズヴァルドは、少し離れたところでその言葉を聞いていた。
彼は焚き火の反対側に立ち、広場全体を見渡している。騎士団長として、火の位置や酔った者の様子、子どもたちの動きにも気を配っていた。
だが、彼の視線は何度もエルネスタへ戻った。
彼女は長椅子に座り、薬草茶を両手で包んでいる。
頬は寒さと踊りで赤く、髪は少し乱れていた。王都の夜会に立つ夫人としては、きっと乱れすぎている。けれど今の彼女は、以前よりずっと生きている顔をしていた。
笑っている。
マルティナと話して、小さく笑う。
ミレに何か言われて、困ったように笑う。
サナから茶を受け取り、安心したように息を吐く。
子どもたちが呼べば、顔を上げて応える。
その笑顔を見ていると、オズヴァルドの胸の奥に、言葉にならないものが積もっていった。
最初は、守らなければと思った。
雨の街道で倒れかけていた女。
謝り続ける女。
食卓で泣いてしまう女。
手紙を読んで震える女。
戻りませんと言うたびに壊れそうになる女。
守るべきだと思った。
それは今も変わらない。
けれど、今夜、踊りの輪の中で手を取った時、彼は別のことに気づき始めていた。
守りたいのは、ただ彼女の安全だけではない。
彼女が笑う時の、あの空気。
周囲まで柔らかくなるような笑み。
自分の好きな味を見つけた時の、小さな驚き。
子どもに字を教える時の真面目な声。
怖いと言いながら、それでも一歩出る横顔。
間違えそうになって笑った、冬祭りの夜の顔。
それを、守りたい。
誰かに消されたくない。
ヴィルドリックの言葉にも。
ヴァルディーン家の体面にも。
王都の噂にも。
彼女自身の自責にも。
奪わせたくない。
そう思った。
オズヴァルドは、自分の手を見た。
さっきまで、エルネスタの手を取っていた手。
小さく、冷えていて、それでも少しずつ力を返してきた手。
彼女が「もう少しだけ」と言った時、その手は逃げていなかった。
自分で選んで、もう少し踊ると決めた手だった。
胸の奥に、鈍く温かいものが広がる。
彼は恋だとか、愛だとか、そういう言葉をすぐに当てる男ではなかった。
けれど、守りたいと思った。
それだけは、はっきりしていた。
彼女の笑顔を。
彼女が恥じずにここにいる時間を。
オズヴァルドは、焚き火の向こうで笑うエルネスタを見つめた。
その視線に気づいたのか、エルネスタがふと顔を上げる。
目が合った。
彼女は少し驚き、それから小さく微笑んだ。
ただ、それだけ。
それだけで、オズヴァルドは視線を逸らすのが少し遅れた。
マルティナさんが、それを見逃すはずもなかった。
「オズ」
低く呼ばれる。
オズヴァルドは母を見る。
「何だ」
「顔が少し面白いよ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だね」
マルティナさんはにやりと笑った。
オズヴァルドは眉間に皺を寄せたが、何も言い返さなかった。
その沈黙で、マルティナさんはますます楽しそうにした。
冬祭りは夜が深くなるまで続いた。
焼き菓子屋の試作品は、少し香辛料が強かったが評判はよかった。
薬師の薬湯は、予想通り不評だった。
けれど、体は温まると言われ、結局何人も飲んでいた。
子どもたちは、紙飾りに自分の名前を書き足した。
リダは丁寧に。
トマは大きく。
ピムはゆっくり。
エルネスタは、それを一つずつ褒めた。
噂を知っている人も、まだいる。
遠巻きに見る人もいる。
けれど、今夜のエルネスタの周りには、それだけではない声があった。
エルネさん。
こっち見て。
飴、ありがとう。
帳簿、助かったよ。
踊り、また次もね。
その言葉が、彼女の中に少しずつ積もっていく。
雪のように。
冷たいのではなく、音を吸って静かに世界を変える雪のように。
帰り際、布屋の女主人がエルネスタへ小さな包みを渡した。
「これ、残った布で作った手袋だよ。祭りの手伝いの礼」
エルネスタは驚いた。
「そんな、いただけません」
「受け取っておくれ。リダが選んだ布だ」
包みを開けると、生成りの手袋だった。
飾りは少ないが、手首のところに深緑の糸で小さな葉の模様が縫われている。
不格好ではない。
むしろ、素朴で温かい。
「とても、きれいです」
エルネスタが言うと、リダが少し照れたように笑った。
「エルネさん、薬草の人だから、葉っぱ」
胸がぎゅっと温かくなる。
「ありがとうございます」
エルネスタは、手袋を胸に抱いた。
薬草の人。
そんな呼ばれ方をする日が来るとは思わなかった。
でも、嫌ではなかった。
帰りの馬車の中で、エルネスタはその手袋を膝の上に置いていた。
疲れていた。
踊ったからだけではない。
人の中に立ち、声を受け取り、笑い、怖さを抱えたまま祭りを過ごしたからだ。
でも、嫌な疲れではなかった。
マルティナさんが向かいで言った。
「いい夜だったね」
「はい」
エルネスタは頷いた。
言葉を探す。
けれど、うまく見つからない。
「私は」
少し迷ってから続ける。
「今日、ここにいてもいいのだと、少し思えました」
マルティナさんは、静かに微笑んだ。
「少しで十分だよ」
「はい」
エルネスタは窓の外を見た。
町の灯りが少しずつ遠ざかる。
広場の焚き火は、まだ小さく見えた。
赤と緑の布も、夜風の中で揺れているはずだ。
そのどこかに、子どもたちの冬の字が吊るされている。
彼女の手も、その祭りの中に少しだけ残っている。
レナック家へ戻ると、屋敷は静かだった。
けれど、冷たくはなかった。
サナが先に戻って湯を沸かしてくれていたらしい。食堂には薄い薬草茶が用意されていた。ミレは祭りの菓子を小皿に分け、マルティナさんは膝を温めながら椅子へ座った。
オズヴァルドは、最後に戸締まりを確認してから食堂へ入ってきた。
エルネスタは、生成りの手袋を彼に見せた。
「布屋さんとリダさんが、くださいました」
オズヴァルドは手袋を見た。
「葉か」
「はい。薬草の人だから、と」
言ってから、少し照れた。
オズヴァルドは短く頷いた。
「似合う」
あまりに短く、あまりに自然に言われたので、エルネスタは一瞬反応できなかった。
それから、顔が熱くなる。
「ありがとうございます」
オズヴァルドは、また少しだけ視線を逸らした。
マルティナさんが茶を飲みながら、実に楽しそうに目を細めていた。
その夜、小部屋へ戻ると、机の上に紙が置いてあった。
マルティナさんの字。
踊った人は、足を温めて早く寝ること。
その下にミレの丸い字。
エルネスタ様、踊りかわいかったです。
サナの整った字。
明日は足が疲れるかもしれません。無理をしないこと。
そして最後に、オズヴァルドの角ばった字。
歩幅は合っていた。
エルネスタは、その一行を見つめて、胸がいっぱいになった。
歩幅は合っていた。
上手だった、ではない。
きれいだった、でもない。
でも、彼らしい。
そして、今夜の彼女には、その言葉が一番うれしかった。
自分の歩幅に合わせてくれた人が、歩幅は合っていたと書いてくれた。
エルネスタは紙を胸に当てた。
長い一日だった。
怖かった。
緊張した。
でも、踊った。
笑った。
ここにいる自分を恥ずかしいと思わなかった。
彼女は帳面を開いた。
今日の記録を書く。
冬祭り。
町の人たちに自然に迎えられた。
リダ、トマ、ピムの冬の字が飾られた。
薬草飴、配布。
焼き菓子屋の菓子、香辛料強め。焦げた端は好き。
踊りの輪に誘われた。
オズヴァルド様が手を取ってくださった。
ぎこちなかった。
でも、歩幅を合わせてくださった。
ここにいる自分を、恥ずかしいと思わなかった。
最後の一行を書いた時、涙が一粒落ちた。
悲しい涙ではなかった。
胸の奥から静かにあふれた涙だった。
エルネスタは、布でそっと押さえた。
それから、もう一行だけ書き足した。
私は、ここにいた。
冬祭りの夜に。
自分の足で。
書き終えると、胸の中が少しだけ軽くなった。
食料庫の鍵を布袋へしまう。
生成りの手袋を机の上に置く。
小部屋の扉に内側から鍵をかける。
かちり。
その音は、今夜も彼女を守る。
けれど、もう閉じこもるだけの音ではない。
明日また扉を開けるための音。
エルネスタは寝台に入り、足元の湯たんぽへそっと足を寄せた。
踊ったせいか、少し足が疲れている。
でも、その疲れすら、今夜は愛おしかった。
窓の外では、冬の夜風が吹いている。
町の広場では、焚き火の灰がまだ微かに赤いかもしれない。
紙飾りの冬の字も、夜風に揺れているかもしれない。
エルネスタは目を閉じた。
手を取られた感触が、まだ手のひらに残っている。
大きくて、温かくて、強く引かずに支えてくれた手。
その手に導かれて、彼女は少しだけ踊った。
間違えてもいい踊りを。
誰も数えていない夜を。
そして、ここにいる自分を恥じなくていい時間を。
眠りに落ちる少し前、彼女は胸の中でそっと思った。
冬祭りの夜、私はここにいた。
そのことは、噂よりもずっと確かだった。
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全55回、6時、17時の1日2回更新です。
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