「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第27話 レナック家の客間ではなく、私の部屋


 母ロザリアが帰った翌日、エルネスタは朝から小部屋の扉を見つめていた。

 内側から鍵のかかる扉。

 細い金具は古く、鍵を回すと少しだけ硬い音がする。

 かちり。

 その音は、レナック家へ来たばかりの夜から、ずっとエルネスタを守ってくれていた。

 ここでは、自分の眠りすら自分のものなのだと知った夜。

 誰かが勝手に入ってこないこと。

 呼ばれたからといって、すぐ扉を開けなくてもいいこと。

 眠っている間まで誰かの都合に備えなくてもいいこと。

 それを教えてくれたのが、この扉だった。

 けれど今朝は、その扉を見ていると胸が苦しくなった。

 この部屋は、自分のものなのだろうか。

 それとも、ただ一時的に借りている客間なのだろうか。

 考え始めると、胸の奥が冷たくなっていった。

 父が来た。

 母も来た。

 ヴィルドリックも来た。

 ヴァルディーン家の使者も来た。

 そのたびにレナック家は、扉を開け、対応し、傷つき、評判を乱されている。

 自分がここにいるから。

 何度否定されても、その考えは完全には消えない。

 オズヴァルドは言った。

 家にいる人間のことで、家が傷つくのは当然だ。

 だから一緒に直す。

 その言葉は、今も胸の中にある。

 けれど、一緒に直すという言葉の温かさとは別に、エルネスタの中には別の恐怖もあった。

 いつまで。

 いつまで、自分はここにいていいのだろう。

 客人として迎えられた。

 雨の街道で倒れかけていたところを、オズヴァルドに助けられた。

 マルティナさんは食卓へ座らせてくれた。

 ミレとサナは温かいものを出してくれた。

 食料庫の鍵を預けられ、薬草畑を作り、町の子どもたちに字を教え、冬祭りの支度を手伝った。

 それでも、最初に与えられたこの部屋は客間だった。

 客人は、いつか帰る。

 客間は、いつか空ける。

 自分は、どこへ帰るのか。

 あの家ではない。

 父の家には、もう自分の部屋はない。

 母には今は会いたくない。

 ヴィルドリックの家には、もう妻として戻らない。

 では、ここにずっといるのか。

 そう思った瞬間、恐ろしくなる。

 ずっといていいなどと、誰が言ったのだろう。

 みんな優しい。

 だからこそ、限界が来ても言えないのではないか。

 エルネスタのために無理をしているのではないか。

 客人だから丁寧にしてくれているだけで、本当はいつ出ていくのかと思っているのではないか。

 そんな考えが、一度生まれると止まらなくなった。

 エルネスタは机の上を見た。

 生成りの手袋が置かれている。

 深緑の葉の刺繍。

 リダと布屋の女主人がくれたもの。

 その横には帳面が二冊ある。

 事実の記録。

 感情の記録。

 感情の記録には、昨夜こう書いた。

 今は会いたくない。

 会わないことも、境界。

 それを書けた自分は、少し強くなったのだと思った。

 けれど、一夜明ければまた揺れる。

 強くなったからといって、不安が消えるわけではない。

 むしろ、居場所が温かいほど、失うことが怖くなる。

 エルネスタは、生成りの手袋を手に取った。

 布はまだ少し硬い。

 でも、昨日より指に馴染む気がした。

 手袋をつけ、食料庫の鍵の布袋を持ち、小部屋を出る。

 扉を閉める時、また胸が少し痛んだ。

 この扉を、自分はいつまで閉めていいのだろう。

 食堂へ降りると、いつも通りの朝があった。

 暖炉の火。

 麦粥の湯気。

 黒パンの香ばしい匂い。

 サナの包丁の音。

 ミレが小瓶を並べる音。

 マルティナさんが椅子に座り、膝掛けを整える音。

 エルネスタは、少しだけ息を整えてから挨拶した。

「おはようございます」

 ミレがすぐに振り返る。

「おはようございます、エルネスタ様。手袋、今日もつけてくださっているんですね」

「はい。温かいので」

「葉っぱ、やっぱりかわいいです」

 ミレが嬉しそうに言う。

 サナも穏やかに目元を緩めた。

「よくお似合いです」

「ありがとうございます」

 エルネスタは、手袋を見下ろした。

 似合う。

 オズヴァルドも、冬祭りの夜にそう言ってくれた。

 思い出すと、胸の奥が少しだけ跳ねる。

 けれど、その温かさのすぐ後ろに、不安が影のようについてくる。

 似合うと言ってもらった手袋も、自分がここを出ていく日が来たら、持っていくことになるのだろうか。

 それとも、レナック家で貰ったものだから置いていくべきなのだろうか。

 そんなことまで考えてしまい、エルネスタは自分に驚いた。

 まだ何も決まっていない。

 誰にも出ていけと言われていない。

 それなのに、もう荷物のことを考えている。

「エルネスタ」

 マルティナさんが呼んだ。

 エルネスタは顔を上げる。

「はい」

「また頭の中で荷造りしてる顔だね」

 胸の奥を見透かされたようで、エルネスタは言葉を失った。

 ミレが目を瞬く。

「荷造り?」

 サナが静かにミレを見た。

「少し黙っていましょう」

「あ、はい」

 マルティナさんは、椅子から立ち上がらず、エルネスタをじっと見ていた。

 責める目ではない。

 けれど、逃げる隙間を見逃さない目だった。

「違うかい」

 エルネスタは、嘘をつけなかった。

「……考えていました」

「何を」

「いつまで、こちらにいてよいのかと」

 言葉にした瞬間、喉が痛くなった。

 言いたくなかった。

 言えば、形になってしまう。

 けれど、もう出てしまった。

「父も母も、ヴィルドリック様も、こちらへ来ました。噂もあります。布商のことも、町の方々のことも。私がいることで、レナック家にご迷惑が」

「またそこへ戻ったね」

 マルティナさんは、少しだけ眉を上げた。

 エルネスタは慌てる。

「分かっています。噂を流す方が悪いと、オズヴァルド様にも言っていただきました。でも、迷惑がかかっていることは事実です。私は客人として置いていただいていますが、客人は」

「客人は?」

 マルティナさんが促す。

 エルネスタは、膝の上で手袋の指を握った。

「いつか、帰るものです」

 食堂が静かになった。

 暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。

 ミレが唇を噛む。

 サナは、静かにエルネスタを見ている。

 マルティナさんはしばらく何も言わなかった。

 それから、何でもないことのように言った。

「今日は、あんたの部屋のカーテンを替えるよ」

 エルネスタは、意味が分からず瞬きをした。

「カーテン、ですか」

「そう」

「私の話と、何か」

「あるよ」

 マルティナさんは椅子からゆっくり立ち上がった。

「客間なら、古いままでもいい。けど、あんたが毎日眠る部屋だ。冬の光が入りすぎるし、夜は少し冷える。布屋からもらった生成りの厚手布があるだろう。あれで新しくする」

 エルネスタは言葉を失った。

 私が毎日眠る部屋。

 それは確かにそうだ。

 けれど、その言い方があまりに自然だった。

 客間、と言わなかった。

 マルティナさんはミレへ向かって言った。

「ミレ、昨日の厚手布を持っておいで。深緑の端切れも。葉の刺繍の手袋と合うだろう」

「はい!」

 ミレはぱっと顔を明るくし、走りかけた。

 サナがすぐに言う。

「走らない」

「はい、歩きます!」

 歩きますと言いながら、限りなく早歩きで去っていく。

 エルネスタは呆然としたまま、マルティナさんを見た。

「あの、本当に」

「本当に」

「でも、私がいつまで」

「だから替えるんだよ」

 マルティナさんは、当然のように言った。

「いつまでいられるか分からないから何もしない、なんて暮らし方をしていたら、ずっと仮のままだ。今日冷えるなら、今日塞ぐ。今日眩しいなら、今日布を替える。明日のことは明日考えればいい」

 エルネスタの胸が震えた。

 明日のことは明日。

 今日の寒さを、今日の布で防ぐ。

 それは、レナック家らしい考え方だった。

 大きな宣言ではない。

 でも、暮らしの根っこに触れる言葉。

「それにね」

 マルティナさんは、少しだけ笑った。

「私は、気に入った子の部屋を冷やしておく趣味はないよ」

 エルネスタは、目の奥が熱くなった。

 気に入った子。

 さらりと言われた言葉なのに、胸の中へ深く入る。

 そこへ、玄関の方からオズヴァルドが戻ってきた。

 今日は朝の巡回が短かったらしい。

 外套に冷たい風の匂いをまとい、手袋を外しながら食堂へ入ってくる。

「何の話だ」

 ミレが布を抱えて戻ってきながら、元気に言った。

「エルネスタ様の部屋のカーテンを替える話です!」

 オズヴァルドの視線がエルネスタへ向いた。

 その顔を見て、彼は何か察したようだった。

 眉間に少しだけ皺が寄る。

「窓も見る」

 短く言った。

 エルネスタは慌てる。

「窓は、以前冬支度の時に直していただきました」

「まだ北側に隙間がある」

「でも、気にならない程度で」

「俺が気になる」

 言い切った。

 マルティナさんが笑う。

「ほら、重いもの係兼隙間係が動くよ」

「その係は増えるのか」

 オズヴァルドは不満そうに言ったが、工具箱を取りに行った。

 その自然さに、エルネスタは胸がいっぱいになった。

 自分がいつまでいられるか不安だと話した直後に、部屋のカーテンを替え、窓の隙間を直すと言われる。

 それは、言葉よりもずっと具体的だった。

 ここにいていい。

 そう直接言われたわけではない。

 けれど、今日眠る部屋を温かくするために、皆が動き出している。

 それが、胸の奥へじわじわ染みていく。

 小部屋へ向かうと、エルネスタは少し緊張した。

 自分の部屋に、皆が入る。

 そう考えた時、胸にかすかな抵抗が生まれた。

 ここは内側から鍵をかけられる場所。

 自分だけの眠りを守る場所。

 誰かに入られることが怖い。

 たとえ相手がマルティナさんやミレやサナでも。

 そう思った自分に気づいて、エルネスタは少し戸惑った。

 この部屋を自分の場所だと思い始めているからこそ、誰かが入ることに反応する。

 客間なら、こんなふうには感じなかったかもしれない。

 マルティナさんは、扉の前で立ち止まった。

「入っていいかい」

 エルネスタは驚いて彼女を見た。

 問われた。

 入っていいかと。

 この屋敷の女主人が、自分に。

「はい」

 声が少し震えた。

「お願いします」

 マルティナさんは頷いてから入った。

 ミレもサナも、布や針箱を持って続く。

 オズヴァルドは工具箱を持って、扉の外で止まった。

「俺は窓を見る。入っていいか」

 また問われた。

 エルネスタは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

「はい」

 オズヴァルドは短く頷いて入った。

 小部屋は、急に少し狭く感じた。

 寝台。

 机。

 椅子。

 小さな棚。

 窓。

 布袋に入れた食料庫の鍵。

 生成りの手袋は今、彼女の手にある。

 派手なものは何もない。

 でも、ここには彼女が少しずつ置いてきたものがある。

 帳面。

 マルティナさんたちから差し込まれた紙。

 薬草飴の試作メモ。

 子どもたちの文字紙片。

 焼き林檎の味の記録。

 冬祭りの手袋。

 この部屋は、もうただの空き部屋ではなかった。

 マルティナさんは古いカーテンを見上げた。

「やっぱり薄いね。夏ならいいけど、冬は冷える」

 ミレが布を広げる。

「この生成りの布、手袋と少し色が似ていますね」

 サナが深緑の端切れを当てる。

「裾に細く入れましょう。派手すぎず、部屋に合います」

 マルティナさんが満足そうに頷く。

「いいね。エルネの部屋らしい」

 エルネの部屋。

 その言葉が、空気の中でふわりと落ちた。

 エルネスタは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 エルネ。

 エルネさん、と町の子どもたちは呼ぶ。

 マルティナさんは普段、エルネスタと呼ぶ。

 でも今、何気なく言った。

 エルネの部屋。

 客間ではなく。

 レナック家の空き部屋でもなく。

 エルネの部屋。

 胸の奥が、一気に熱くなった。

 エルネスタは、布を持つミレの手元を見つめたまま、声が出せなかった。

 ミレも気づいたのか、ぱっと顔を明るくした。

「エルネ様の部屋、かわいくなりますね」

「ミレ、呼び方が混ざっています」

 サナが静かに言った。

「エルネスタ様か、エルネさんか、どちらかに」

「じゃあ、エルネスタ様の部屋です」

 ミレは少し考え、また笑った。

「でも、エルネさんの部屋って感じもします」

 エルネスタは、目の奥が熱くなる。

 部屋。

 自分の部屋。

 その言葉が、胸の中で何度も響いた。

 オズヴァルドは窓辺にしゃがみ、窓枠を指で押していた。

 彼は会話に加わっていないように見えた。

 だが、隙間の位置を確認しながら、何気なく言った。

「エルネの部屋は、北風が入りやすい」

 また。

 エルネの部屋。

 今度は、オズヴァルドの声で。

 低くて、いつものように短い声。

 けれど、その言葉は、エルネスタの胸を強く揺らした。

 オズヴァルドは気づいていないのだろうか。

 彼にとっては、ただ部屋を区別する言い方だったのかもしれない。

 食料庫、台所、マルティナさんの部屋、エルネの部屋。

 それくらい自然な分類。

 だからこそ、余計に胸にきた。

 エルネスタは、唇を噛んだ。

 泣きそうだった。

 でも、泣いたら作業の邪魔になると思い、息を整える。

 マルティナさんは、それに気づいていた。

 けれど何も言わない。

 ただ、カーテンの寸法を測りながら、少しだけ目尻を下げていた。

 古いカーテンを外すと、窓から冬の光が入った。

 弱い光なのに、布がなくなると部屋は急にさらけ出されたように感じる。

 エルネスタは、少し肩をすくめた。

 オズヴァルドが窓枠を見ながら言う。

「ここだ」

 細い隙間。

 以前、冬支度の時にも塞いだはずだったが、木が乾いてまた少し緩んだらしい。

 彼は工具箱から薄い木片と布を取り出した。

「寒かったか」

 エルネスタは慌てて首を振る。

「いえ。少し冷える程度で」

「冷えている」

 彼はそう言って、窓枠に木片を当てる。

「言え」

「え」

「寒いなら、言え」

 低い声。

 責めるのではなく、約束させるような声だった。

 エルネスタは、生成りの手袋を握った。

「このくらいなら、大丈夫だと思っていました」

「大丈夫で済ませるな」

 オズヴァルドは窓枠から目を離さない。

「寒い部屋で寝る必要はない」

 その言葉で、胸がまた熱くなる。

 寒い部屋で寝る必要はない。

 当たり前のようで、エルネスタにとっては当たり前ではなかった。

 実家では、部屋が寒くても言えなかった。

 侯爵家では、夜に冷えても夫や義母の手を煩わせるなど考えられなかった。

 ここでは、寒いと言っていい。

 窓の隙間を直してもらっていい。

 カーテンを替えてもらっていい。

 この部屋で眠る自分の体が、冷えないようにしてもらっていい。

 エルネスタは、小さく言った。

「次からは、言います」

 オズヴァルドは短く頷いた。

「ああ」

 マルティナさんが、布を裁ちながら言う。

「よし。じゃあ次から、寒い、暑い、眩しい、暗い、寝にくい、全部言うこと」

「全部、ですか」

「全部」

 ミレが手を挙げる。

「寂しいも入りますか?」

 エルネスタは驚いて顔を上げた。

 サナが少しだけミレを見た。

「急に踏み込みますね」

「でも大事です」

 マルティナさんが笑った。

「大事だね。寂しいも、言えたら言えばいい」

 寂しい。

 その言葉が、部屋の中で柔らかく響いた。

 エルネスタは、自分がこれまでどれだけ寂しさを飲み込んできたかを思い出す。

 実家で。

 侯爵家で。

 食卓で。

 夜の部屋で。

 でも、ここでは、寂しいと言ってもいいのだろうか。

 まだ、すぐには言えない。

 けれど、言ってもいいと言われたことだけで、胸の中に小さな灯りがともった。

 ミレとサナは、手早く新しいカーテンを縫い始めた。

 厚手の生成りの布に、深緑の細い縁取り。

 派手ではない。

 でも、落ち着いていて、温かい。

 サナの縫い目は真っすぐで美しく、ミレの縫い目は少しだけ揺れている。

 ミレはそれを気にしていた。

「私のところだけ曲がっています」

「味があります」

 エルネスタが言うと、ミレはぱっと顔を上げた。

「本当ですか」

「はい。手で作ったと分かる感じがします」

 サナが微笑む。

「よかったですね、ミレ」

「はい!」

 マルティナさんは、古いカーテンを畳んでいた。

「これは捨てずに、細く切って隙間布にしよう」

「はい」

 エルネスタは思わず答えた。

 こういうところが、レナック家らしい。

 古い布も、形を変えてまだ使う。

 捨てられたものに、別の役目が生まれる。

 エルネスタは、そのことに少しだけ自分を重ねた。

 離縁された。

 実家にも居場所がなかった。

 役目を終えたと言われた。

 でも、ここで別の役目を得ている。

 食料庫。

 薬草畑。

 町の子どもたち。

 冬祭り。

 この部屋。

 新しいカーテンが取りつけられる頃、部屋の空気はすっかり変わっていた。

 生成りの厚手布が窓辺にかかると、冬の光が柔らかくなった。

 深緑の縁取りが、手袋の葉の刺繍とよく合っている。

 部屋全体が、少し温かく見えた。

 豪華ではない。

 王都の客間のような整った美しさでもない。

 けれど、エルネスタには息がしやすかった。

 オズヴァルドは窓の隙間を塞ぎ終え、指先で風の入り具合を確かめている。

「これで冷えにくい」

 彼は言った。

 マルティナさんが、カーテンを見上げて満足そうに頷く。

「うん。いいね。エルネの部屋らしくなった」

 今度は、エルネスタも聞き逃さなかった。

 胸がいっぱいになる。

 目の奥が熱い。

 喉が震える。

 それでも、彼女は何とか言葉を出した。

「……客間では、ないのですか」

 その問いに、部屋の中が少し静かになった。

 ミレが口を押さえる。

 サナが静かに目を伏せる。

 オズヴァルドは窓辺から振り返った。

 マルティナさんは、エルネスタをまっすぐ見た。

「客間だったよ」

 過去形。

 エルネスタの胸が震える。

 マルティナさんは続けた。

「でも今は、エルネが眠って、泣いて、帳面を書いて、手袋を置いて、内側から鍵をかける部屋だ。なら、エルネの部屋だろう」

 涙がこぼれた。

 止められなかった。

 エルネスタは、両手で口元を押さえた。

 生成りの手袋越しに、自分の震える唇が分かる。

 エルネの部屋。

 眠って。

 泣いて。

 帳面を書いて。

 手袋を置いて。

 内側から鍵をかける部屋。

 それは、確かに自分の時間が積もった場所だった。

 父の家に部屋はなかった。

 でも、ここには。

 ここには、この小さな部屋がある。

 オズヴァルドが静かに言った。

「出ていくつもりで窓は直さない」

 エルネスタは、涙で滲む視界の中で彼を見た。

 彼はいつものように、少し不器用な顔をしている。

「カーテンもな」

 それだけ。

 けれど、その言葉はどんな誓いよりも彼らしかった。

 出ていくつもりで窓は直さない。

 出ていくつもりでカーテンは替えない。

 今日の寒さを防ぐために、明日の朝の光を柔らかくするために、彼らは動いた。

 つまり、明日もここで起きるエルネスタを想定している。

 そのことに、胸がいっぱいになる。

「私」

 声が震える。

「ここに、いてもよいのでしょうか」

 マルティナさんが答えるより先に、ミレが涙声で言った。

「いてください」

 サナが穏やかに付け加える。

「ただし、エルネスタ様がお望みなら」

 マルティナさんが笑う。

「そうだね。うちは檻じゃない。出ていきたい時に出ていける。けど、追い出すためにカーテンを替えたわけじゃないよ」

 エルネスタは、泣きながら笑ってしまった。

「それは、そうですね」

 マルティナさんも笑った。

 オズヴァルドは、少しだけ視線を逸らしていたが、低く言った。

「ここにいるなら、寒い時は言え」

 その言葉に、また胸が温かくなる。

 ここにいるなら。

 仮定のようで、許可のようで、約束のようだった。

「はい」

 エルネスタは頷いた。

「言います」

 昼食は、少し遅くなった。

 皆で小部屋のカーテンを替えていたからだ。

 食堂へ戻ると、サナが手早く温め直した根菜のスープを出してくれた。ミレはパンを切り、マルティナさんは膝を温めながら椅子へ座る。オズヴァルドは手を洗い、いつもの席へ着いた。

 エルネスタは、自分の淡い緑の椀を見た。

 食堂の椅子。

 この椀。

 小部屋。

 新しいカーテン。

 窓の隙間。

 それらが、別々のものではなく、一つにつながっている気がした。

 居場所とは、大きな宣言ではなく、こういうものなのかもしれない。

 椀がある。

 椅子がある。

 寒ければ言えと言われる。

 カーテンが替えられる。

 窓の隙間が直される。

 誰かが、その場所で明日も眠る自分を考えてくれる。

 エルネスタはスープを一口飲んだ。

 温かい。

 胃に落ちる。

 胸にも落ちる。

「おいしいです」

 そう言うと、サナが少しだけ微笑んだ。

「よかったです」

 ミレがすぐに聞く。

「今日のスープ、味の記録に入りますか?」

 エルネスタは少し考えた。

「安心する味です」

 ミレが嬉しそうにする。

「入りましたね」

 マルティナさんが笑い、オズヴァルドが無言でスープを飲む。

 食堂の空気は、穏やかだった。

 夜、小部屋へ戻る時、エルネスタは少し緊張した。

 自分の部屋。

 そう思って階段を上がると、胸が温かくなるのに、同時に少し怖い。

 部屋の扉の前で、彼女は一度立ち止まった。

 扉は、今朝と同じ扉だ。

 けれど、向こう側には新しいカーテンがある。

 窓の隙間も直っている。

 エルネスタは扉を開けた。

 部屋の中は、夕方の光で柔らかく染まっていた。

 生成りのカーテンが、外の冷たい光を和らげている。

 深緑の縁取りが、静かに部屋を引き締めていた。

 窓辺に立っても、以前ほど冷気が来ない。

 机の上には、いつもの紙が置かれている。

 マルティナさんの字。

 エルネの部屋は、今日は早く寝ること。

 その下にミレの丸い字。

 新しいカーテン、すごく似合っています。

 サナの整った字。

 寒ければ遠慮なく言ってください。

 そして最後に、オズヴァルドの角ばった字。

 北風は塞いだ。

 エルネスタは、その一行を見て、声を出さずに笑った。

 北風は塞いだ。

 ただの事実。

 けれど、それが愛おしかった。

 彼は、彼女の不安を全部消すとは言わない。

 過去を消すとも言わない。

 父も母もヴィルドリックも、もう来ないとは言わない。

 ただ、北風は塞いだと言う。

 今夜、この部屋で眠る彼女が冷えないように。

 それが、今のエルネスタには一番必要だった。

 彼女は帳面を開いた。

 事実の頁に書く。

 小部屋のカーテンを新しくしてもらった。

 生成りの厚手布、深緑の縁取り。

 窓の隙間をオズヴァルド様が直した。

 マルティナさん、ミレさん、サナさん、オズヴァルド様が、何気なく「エルネの部屋」と呼んだ。

 次に、感情の頁を開く。

 私は、いつまで客人なのか不安だった。

 出ていくべきか考えていた。

 でも、客間だった部屋を、私の部屋だと言ってもらった。

 泣いた。

 嬉しかった。

 怖い。

 でも、嬉しい。

 客間ではなく、私の部屋がここにある。

 最後の一行を書いた時、涙がぽたりと落ちた。

 文字が少し滲んだ。

 けれど、読めた。

 エルネスタは、帳面をそっと閉じた。

 生成りの手袋を外し、机の上に置く。

 その横に、今日の紙を挟む。

 部屋を見回す。

 寝台。

 机。

 椅子。

 棚。

 新しいカーテン。

 直された窓。

 内側から鍵をかけられる扉。

 ここは豪華ではない。

 広くもない。

 王都の部屋のように整ってもいない。

 けれど、この部屋には自分の呼吸がある。

 泣いた夜がある。

 眠れなかった夜がある。

 焼き林檎を思い出して笑った夜がある。

 母に会いたくないと書いた夜がある。

 冬祭りで踊ったことを書いた夜がある。

 そして今日、客間ではなく、自分の部屋だと知った夜がある。

 エルネスタは扉に内側から鍵をかけた。

 かちり。

 その音は、今夜、少し違って聞こえた。

 閉じ込める音ではない。

 この部屋が自分のものだと確かめる音。

 エルネスタは寝台に入り、毛布を引き寄せた。

 窓から冷たい風はほとんど入ってこない。

 新しいカーテンが、夜の気配を柔らかくしている。

 足元の湯たんぽも温かい。

 胸の中には、まだ不安がある。

 明日になれば、また揺れるかもしれない。

 父や母やヴィルドリックのことを思い出し、出ていったほうがいいのではないかと考えるかもしれない。

 でも、今夜は。

 今夜だけは、この言葉を抱いて眠ってもいい気がした。

 私の部屋。

 エルネの部屋。

 客間ではなく。

 帰る場所と呼ぶには、まだ少し怖い。

 けれど、眠る場所なら、ここにある。

 エルネスタは目を閉じた。

 北風は塞がれている。

 カーテンは新しい。

 そして、扉の鍵は内側からかかっている。

 その静かな確かさに包まれながら、彼女はゆっくり眠りへ落ちていった。


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