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第30話 姉は初めて、妹の仕事を知る
ヴァルディーン伯爵家の屋敷は、静かに乱れていた。
外から見れば、それはまだ伯爵家らしい佇まいを保っている。
門扉は磨かれ、庭木は整えられ、玄関前の石段には落ち葉ひとつない。来客が馬車から降りれば、使用人は頭を下げ、決められた言葉で迎える。客間には花が置かれ、茶器も並び、家の紋章が入った布はきちんと掛けられている。
けれど、屋敷の中に長くいる者なら分かった。
何かが、少しずつ噛み合っていない。
茶会の返礼状が一日遅れる。
父の書斎に置くべき来客名簿が、母の私室に紛れ込む。
姉ベアトリスの外出用手袋が、出発の直前まで見つからない。
母ロザリアが頼んだ薬草茶の補充が切れている。
冬の贈答品の控えが古いままで、同じ相手に同じ品を二度送ろうとして、寸前で侍女が気づく。
使用人たちは忙しく動いている。
だが、動いているのに整わない。
誰も怠けているわけではない。
むしろ、以前よりも慌ただしく働いている。
それなのに、細かなところが抜け落ちる。
廊下の花が一日長く置かれる。
来客用の膝掛けが冬物に替えられていない。
手紙の返事に、相手の家の最近の事情が反映されていない。
誰かが見ていた場所を、誰も見ていなかった。
その誰かの名を、屋敷の者たちは口にしない。
けれど、皆が心のどこかで気づき始めていた。
エルネスタがいなくなったのだ、と。
それを一番認めたくなかったのは、姉のベアトリスだった。
ベアトリス・ヴァルディーンは、朝から苛立っていた。
薄桃色のドレスは美しく仕立てられている。髪も侍女によって完璧に結い上げられ、首元には真珠の飾りが光っていた。鏡の中の彼女は、相変わらず華やかで、伯爵家の長女として人目を引く姿をしている。
けれど、その美しさを整えるまでに、今日はいつもの倍近く時間がかかった。
「このリボンではないと言ったでしょう」
ベアトリスは、侍女に向かって低く言った。
侍女は青ざめて頭を下げる。
「申し訳ございません。冬の訪問用の淡い銀糸のリボンは、まだ見つかっておらず」
「まだ?」
ベアトリスは鏡越しに侍女を睨んだ。
「昨日もそう言ったわね。たかがリボン一つ、どうして見つからないの」
「以前は、エルネスタお嬢様が季節ごとに小物箱を分けておられまして」
侍女はそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
空気が固まる。
ベアトリスの表情が冷たくなる。
「何」
「いえ。申し訳ございません」
侍女は深く頭を下げた。
ベアトリスは何も言わなかった。
けれど、胸の奥に不快なものが落ちる。
また、エルネスタ。
最近、屋敷のどこにいてもその名前が出る。
直接口にされなくても、気配だけがある。
薬草茶の補充は、エルネスタお嬢様が。
贈答品の控えは、エルネスタお嬢様が。
来客用の茶葉の好みは、エルネスタお嬢様が。
奥様の頭痛の前兆は、エルネスタお嬢様が気づいて。
お嬢様の衣装小物は、エルネスタお嬢様が季節ごとに。
どこもかしこも、妹の名が隠れている。
ベアトリスは、ずっと思っていた。
エルネスタは地味な妹だと。
目立たず、控えめで、面白味がなく、父や母の前でいつも静かにしている妹。
嫁ぎ先でも、きっと同じように影のように過ごしていたのだろうと思っていた。
姉である自分の方が華やかで、社交向きで、伯爵家の顔にふさわしい。
エルネスタは、家にいてもいなくても大差ない。
そう思っていた。
けれど、いなくなってから、屋敷は少しずつ不便になった。
不便。
最初は、その程度の言葉で片づけられると思った。
少し気が利かない。
少し遅れる。
少し乱れる。
けれど、その少しが毎日積み重なると、苛立ちは確かな重さを持つ。
母は、エルネスタに会ってからさらに沈み込んでいた。
父は怒りを隠さず、使用人たちは顔色をうかがいながら動く。
ヴィルドリック・グランセルとの件も、王都でさらに妙な噂になっているらしい。
その余波はヴァルディーン家にも届いていた。
誰もが、エルネスタの名を避けながら、エルネスタの不在で困っている。
それが、ベアトリスには腹立たしかった。
どうして。
いなくなった妹の方が、まるで重要だったように扱われるのか。
そんなはずはない。
エルネスタは、ただ地味な妹だった。
誰かが言ったことに従い、誰かの後ろで黙っているだけの妹だった。
そう思いたかった。
けれど、手元のリボン一つ見つけられない現実が、その思い込みをじりじりと削っていく。
ベアトリスは椅子から立ち上がった。
「もういいわ」
「お嬢様」
「今日はこのままで行く」
「どちらへ」
侍女が恐る恐る尋ねた。
ベアトリスは鏡の中の自分を見た。
美しく整っている。
けれど、目だけが少し苛立っている。
「レナック家よ」
侍女は息を呑んだ。
「レナック家へ、でございますか」
「そう」
ベアトリスは手袋をはめた。
銀糸のリボンではないことが気に入らなかったが、今はそれよりも確かめたいことがあった。
エルネスタが何をしていたのか。
本当に、あの妹がいなければ屋敷が回らないのか。
そして。
戻れば、すべて少しはましになるのか。
馬車は冬の道を進んだ。
王都から外れ、レナック家のある町へ向かうにつれ、景色は少しずつ素朴になる。
広い石畳は細い道に変わり、商家の看板は少なくなり、畑と低い家並みが見えるようになる。空は灰色で、風は冷たかった。
ベアトリスは馬車の中で、膝の上に手を重ねていた。
彼女は、自分がエルネスタを心配しているわけではないと思っていた。
ただ、屋敷の混乱を収めるため。
母の涙を止めるため。
父の怒りを少しでも静めるため。
そして、自分の生活を元に戻すため。
そう言い聞かせた。
エルネスタに謝るためではない。
謝る必要などない。
あの時、離縁された妹が実家にいるなんて恥ずかしいと言ったこと。
急に戻られても困るという母の言葉を止めなかったこと。
父が世間体を気にしているのを見て黙っていたこと。
それらは、確かに少し言いすぎだったかもしれない。
けれど、あの時は急だった。
誰だって驚く。
エルネスタが勝手に傷つきすぎただけ。
そう思おうとした。
だが、馬車の揺れの中で、別の声が胸の奥から出てくる。
本当に?
本当に、あの時、エルネスタが勝手に傷ついただけ?
ベアトリスは、その声を押し込めた。
謝るためではない。
話をしに行くだけ。
戻ればいいのだと言うだけ。
馬車は、レナック家の屋敷の前で止まった。
ベアトリスは窓から屋敷を見た。
古い。
王都の貴族家に比べれば、小さい。
壁も新しくはなく、門も控えめで、庭も整えられてはいるが華美ではない。
けれど、荒れてはいなかった。
玄関前には、冬の花ではなく、薬草らしき鉢が置かれている。窓には厚手の布が見え、屋敷の中には暖炉の火の気配があった。
古くても、手入れされている。
それが、少し意外だった。
ベアトリスは馬車を降り、玄関へ向かった。
扉を叩く。
しばらくして、若い使用人が出た。
ミレだった。
彼女はベアトリスを見ると、一瞬だけ目を見開いた。
しかしすぐに表情を整え、礼をした。
「いらっしゃいませ。どちら様でしょうか」
ベアトリスは、少し眉を上げた。
自分を知らない。
いや、知っていても名乗らせるのが礼儀なのだろう。
彼女は少し顎を上げて言った。
「ベアトリス・ヴァルディーンよ。エルネスタの姉です」
ミレの表情が、わずかに固くなった。
その反応に、ベアトリスの胸も少し固くなる。
歓迎されていない。
それは分かった。
「妹に会いに来たの。取り次いでちょうだい」
ミレは、すぐには頷かなかった。
その代わり、静かに言った。
「少々お待ちください」
扉を閉める前に、彼女はこう付け加えた。
「エルネスタ様に、お会いになるか確認いたします」
確認。
ベアトリスは、唇を引き結んだ。
姉が妹に会うのに、確認がいるのか。
そう言いかけて、飲み込んだ。
父も母も似たようなことを言ったのだろう。
それでも拒まれた。
ここで同じことを言えば、会う前に追い返されるかもしれない。
少しして、扉が開いた。
今度はマルティナが立っていた。
年配の女性。
背筋がまっすぐで、目が強い。
質素な服装だが、屋敷の女主人としての落ち着きがある。
「ヴァルディーン家のお嬢さんだね」
マルティナは言った。
ベアトリスは礼をした。
「突然の訪問、失礼いたします」
「本当に突然だね」
遠慮のない返しだった。
ベアトリスは一瞬言葉に詰まった。
マルティナは、彼女をじっと見た。
「エルネスタは会うと言ってる。ただし、長くは無理だ。嫌になったらすぐ切り上げる。それでよければ入りな」
その条件に、ベアトリスは胸の中で反発した。
なぜ、そんなに妹の都合ばかり。
だが、口には出さなかった。
「分かりました」
食堂へ案内された。
ベアトリスは、そこでまた少し驚いた。
豪華ではない。
不揃いな椅子。
古い木のテーブル。
淡い緑の椀。
暖炉。
窓辺に積まれた布。
台所から漂う根菜の匂い。
それだけなら、王都の屋敷に比べれば確かに質素だ。
けれど、寒々しくはなかった。
人が暮らしている匂いがある。
スープの湯気。
焼いた黒パンの香ばしさ。
薬草茶の青い香り。
暖炉の薪の匂い。
ベアトリスは、思わず食堂の中を見渡した。
そして、エルネスタを見つけた。
妹は、窓辺の近くに立っていた。
昔より少し痩せている。
それは変わらない。
だが、顔色は思っていたほど悪くない。素朴な服を着て、肩には柔らかそうなショールをかけ、手には生成りの手袋を持っている。
髪は複雑に結われていない。
けれど乱れてはいない。
派手ではない。
しかし、奇妙なほど落ち着いて見えた。
ベアトリスは、胸の奥で何かが小さく軋むのを感じた。
離縁された妹。
田舎騎士の家にいる妹。
泣いて、すがって、帰りたがっているはずの妹。
そう思っていた。
けれど、目の前のエルネスタは違った。
不安そうではある。
姉を前にして、指先が少し震えている。
でも、完全に崩れてはいない。
彼女の背後にはマルティナがいて、少し離れたところにサナとミレがいる。さらに、食堂の入口にはオズヴァルド・レナックが立っていた。
背の高い騎士団長。
無口そうな男。
彼は何も言わずにベアトリスを見ていた。
その視線に、ベアトリスは少し居心地の悪さを覚えた。
まるで、何かをしたらすぐ止めると告げられているようだった。
「エルネスタ」
ベアトリスは妹の名を呼んだ。
エルネスタは、小さく息を吸った。
「お姉様」
昔と同じ呼び名。
その響きに、ベアトリスの胸が少し揺れる。
けれど彼女はすぐに顎を上げた。
「元気そうね」
最初の言葉は、それだった。
もっと違うことを言うべきだったかもしれない。
大丈夫だったの。
会えてよかった。
つらかったでしょう。
そんな言葉が、一瞬頭をよぎった。
でも、口から出たのは、元気そうね、だった。
エルネスタは、少しだけ目を伏せた。
「はい。おかげさまで」
おかげさまで。
誰のおかげか。
ベアトリスには分かった。
この家の人間たちのおかげだ。
そのことが、なぜか面白くなかった。
「ずいぶん、馴染んでいるのね」
言った瞬間、自分でも少し意地悪な響きだと思った。
だが取り消せない。
エルネスタは静かに答えた。
「よくしていただいています」
「そう」
会話が途切れた。
以前なら、エルネスタはもっとすぐに謝った。
気まずくなると、姉の機嫌を取ろうとした。
お姉様のお茶を、と言ったり、席を勧めたり、話題を探したりした。
今は、それをしない。
椅子を勧めたのはマルティナだった。
「座るなら座りな。立ったまま言い合うと疲れる」
ベアトリスは少し顔をこわばらせたが、促されて椅子に座った。
エルネスタも、向かいの椅子へ座る。
淡い緑の椀が、彼女の前に置かれている。
それが、どうやら彼女のものらしいことに、ベアトリスは気づいた。
妹専用の食器。
この家には、それがある。
実家には、なかった。
その事実が胸の中をざらりと撫でた。
サナが茶を置いた。
「温かい薬草茶です」
ベアトリスは、香りに少し驚いた。
青く、苦みがあり、でも蜂蜜がほんの少し入っている。
王都の茶会で出るような洗練された茶ではない。
けれど、体が温まりそうな匂いだった。
ベアトリスは、カップを手に取りながら言った。
「実家は混乱しているわ」
エルネスタの手が少し止まる。
ベアトリスは、それを見て続けた。
「お父様は怒っているし、お母様は泣いてばかり。使用人は何をすればいいか分からなくなっているし、手紙の返事も遅れている。来客の好みも分からない。贈答品の記録もどこにあるのか分からない。小物箱も整理されていない」
言いながら、胸の奥に溜まっていた苛立ちが声に混じる。
「あなたがいなくなってから、屋敷中が不便なの」
不便。
その言葉に、エルネスタのまつげが少し震えた。
ベアトリスは気づいた。
今の言い方は、きっと良くなかった。
でも、他にどう言えばいいのか分からない。
エルネスタが困ったように俯く。
「それは」
小さな声。
「申し訳ありません」
反射のような謝罪だった。
その瞬間、食堂の空気が変わった。
オズヴァルドの目が少し鋭くなる。
マルティナが静かにエルネスタを見た。
エルネスタ自身も、言ってから気づいたように唇を結んだ。
ベアトリスは、その反応に戸惑う。
謝ったのはエルネスタなのに、なぜ周囲が止めるような空気になるのか。
マルティナが低く言った。
「反射で謝ったね」
エルネスタは、少し頬を白くした。
「すみませ」
また言いかけて、止めた。
ベアトリスは、その様子を見て胸が妙に落ち着かなくなる。
この家では、エルネスタの謝罪まで見られている。
不用意に謝ることを、止めてもらえる。
そんな場所がある。
「別に、謝ってほしいわけではないわ」
ベアトリスは少し早口で言った。
その言葉は半分だけ本当だった。
謝ってほしいわけではない。
けれど、困っていることは分かってほしい。
戻ってほしい。
屋敷を元に戻してほしい。
その気持ちはある。
彼女はカップを置いた。
「ただ、分かったのよ」
声が少し硬くなる。
「あなたが、何もしていなかったわけではないって」
エルネスタが顔を上げる。
ベアトリスは、その目をまっすぐ見られなかった。
視線を少し横へずらす。
「前は、あなたが何をしているのか、よく分からなかった。いつも静かで、目立たなくて、父や母や私の後ろにいるだけだと思っていた」
言葉にすると、残酷だった。
けれど、それが本音だった。
「でも、あなたがいなくなってから、家の中の小さなことが崩れたわ。小さなことよ。茶葉の好みとか、贈り物の控えとか、季節の布とか、薬草茶とか、使用人の配置とか」
ベアトリスは、唇を噛んだ。
「小さなことなのに、それがないと毎日がうまく回らないの」
エルネスタは、何も言わなかった。
ただ、膝の上の手袋を握っている。
ベアトリスは、続けるしかなかった。
「あなた、そういうのを見ていたのね」
やっと言えた。
認めたくなかったこと。
妹は何もしていなかったのではない。
見えないところで、家を支えていた。
父も母も、姉である自分も、見ようとしなかっただけ。
言った瞬間、胸が少し痛んだ。
謝るべきだ。
そう思った。
けれど、言葉が出なかった。
ごめんなさい。
たったそれだけが、どうしても出てこない。
なぜなら、それを言ってしまえば、自分が間違っていたことになる。
エルネスタを見下していたことを認めることになる。
あの日、離縁された妹を恥ずかしいと言った自分を、真正面から見なければならなくなる。
それが怖かった。
ベアトリスは、代わりに言った。
「だから、戻ればいいじゃない」
食堂が静まり返った。
言った瞬間、自分でも分かった。
違う。
今言うべき言葉ではなかった。
でも、出てしまった。
戻ればいいじゃない。
まるで、屋敷の壊れた仕組みを元に戻すための部品を呼ぶような言い方。
エルネスタの顔から、少し血の気が引いた。
ミレが小さく息を呑む。
サナの目が静かに冷える。
マルティナの表情が厳しくなる。
オズヴァルドは、何も言わない。
だが、その沈黙は、ベアトリスにも分かるほど重かった。
エルネスタは、しばらく黙っていた。
怒鳴らなかった。
泣かなかった。
ただ、静かにベアトリスを見た。
その目は、昔と違っていた。
弱々しいわけではない。
けれど、強がっているわけでもない。
傷ついている。
それでも、自分の場所から逃げない目だった。
エルネスタは、ゆっくり首を振った。
「戻りません」
声は静かだった。
震えてはいた。
けれど、聞こえた。
ベアトリスの胸が、ぎゅっと詰まる。
「どうして」
思わず言った。
「家が困っているのよ。お父様もお母様も、皆、あなたが戻れば」
「私が戻れば」
エルネスタは、静かに繰り返した。
「屋敷は便利になるかもしれません」
その言葉に、ベアトリスは息を呑んだ。
便利。
自分が言ったわけではない。
でも、心の底にあった言葉を、妹が口にした気がした。
エルネスタは続ける。
「手紙も、贈り物も、茶葉も、小物箱も、薬草茶も、少しずつ整うかもしれません。私が覚えていることもあります。帳面に残していることもあります」
「なら」
「でも」
エルネスタの声が、ほんの少しだけ強くなった。
「私は、戻ればまた壊れます」
ベアトリスは言葉を失った。
壊れる。
その言葉が、思ったより重く響いた。
エルネスタは、膝の上の生成りの手袋を見た。
「お父様は、私を再婚の駒として戻そうとしました。お母様は、家族なんだから許してと言いました。ヴィルドリック様は、私を妻と呼びました。皆、私に戻れと言います」
彼女は顔を上げる。
「でも、誰も、私が戻りたいかを聞いてはくれませんでした」
ベアトリスは、何か言おうとして、言えなかった。
自分もそうだった。
戻ればいいじゃない。
今、そう言った。
エルネスタの気持ちを聞く前に。
エルネスタは、さらに静かに言った。
「お姉様も、今、家が困っているから戻ればいいとおっしゃいました」
「私は」
ベアトリスは言いかける。
何を言えばいいのか分からなかった。
違う、と言いたい。
でも、本当に違うのか。
エルネスタが戻れば、自分が困らなくて済む。
母が泣かなくて済む。
父の怒りが少し静まる。
屋敷が回る。
そう思って来たのではないか。
ベアトリスは、膝の上で手を握った。
「だって」
言い訳がこぼれる。
「家族でしょう」
言った瞬間、エルネスタの表情がわずかに揺れた。
マルティナが静かに目を細める。
家族なんだから。
その言葉が、この場に持つ重さを、ベアトリスは知らない。
いや、知らなかった。
エルネスタは、深く息を吸った。
「家族だから、戻らなければならないとは思いません」
ベアトリスは、妹を見た。
エルネスタがこんなことを言う日が来るとは思わなかった。
家族に逆らう妹。
父にも、母にも、姉にも、戻らないと言う妹。
それは、ベアトリスの知っているエルネスタではない。
けれど、この家にいるエルネスタは、確かにそう言っている。
「私は」
エルネスタは、手袋を握りしめた。
「実家のことを、全部忘れたいわけではありません。お父様やお母様やお姉様を、何もかも嫌いになったわけでもありません」
その言葉に、ベアトリスの胸が痛む。
完全に嫌われているわけではない。
そのことに少し安堵してしまう自分がいる。
同時に、それでも戻らないと言われることが、余計に痛い。
「でも、戻れません」
エルネスタは言った。
「私の部屋は、あの家にはありません」
ベアトリスは口を閉じた。
父にも言ったのだろうか。
その言葉を。
私の部屋は、もうあの家にはありません。
ベアトリスの脳裏に、空になった妹の部屋が浮かんだ。
実家に戻ってきた日のエルネスタ。
荷物を抱え、青白い顔で立っていた妹。
その時、あの部屋はもう片づけられていた。
客用の箱が置かれ、母の季節外の布が収納されていた。
エルネスタの机も、本も、食器も、そこにはなかった。
ベアトリスはそれを知っていた。
知っていて、何も言わなかった。
離縁された妹が家にいるなんて恥ずかしい。
そう言った。
胸の奥が、今さら痛んだ。
謝らなければ。
今なら、言えるかもしれない。
ごめんなさい。
あの時、私はひどいことを言った。
あなたの仕事を見ていなかった。
あなたの居場所を奪っていた。
けれど、口が動かない。
喉が固くなる。
ベアトリスは、代わりにひどく拙い言葉を出した。
「……あなたも、言えばよかったのよ」
言った瞬間、自分で後悔した。
違う。
これも違う。
エルネスタのせいにしている。
妹が黙っていたから見えなかったのだと、責任を戻している。
エルネスタは、少しだけ目を伏せた。
責めることはしなかった。
けれど、その沈黙が、ベアトリスを責めるよりも苦しかった。
オズヴァルドが低く言った。
「言える家だったのか」
短い問い。
ベアトリスは、彼を見る。
答えられなかった。
言える家だったのか。
エルネスタが、寒い、つらい、苦しい、戻りたくない、と言える家だったのか。
答えは、分かっている。
違う。
少なくとも、そういう家ではなかった。
ベアトリスは唇を噛んだ。
「あなたには関係ないでしょう」
反射的に出た言葉だった。
オズヴァルドの目がわずかに冷える。
しかし、彼は怒鳴らなかった。
「ある」
低い声。
「今、エルネスタはうちにいる」
うち。
その言葉に、ベアトリスの胸がまたざらついた。
エルネスタは、隣で少しだけ肩を震わせた。
うれしかったのだろうか。
分からない。
でも、その言葉を否定しなかった。
ベアトリスは、妹を見る。
この家には、妹の椅子がある。
淡い緑の椀がある。
生成りの手袋がある。
きっと、部屋もあるのだろう。
実家にはなかったものが、ここにはある。
その事実が、胸を冷たくした。
「あなた」
ベアトリスは、声を少し落とした。
「本当に、戻るつもりはないの」
エルネスタは、静かに首を振った。
「ありません」
「少しだけでも?」
「今は、戻りません」
「今は、ということは」
希望のように聞き返してしまう。
エルネスタは、少し考えてから答えた。
「いつか、話せる日が来るかもしれません。許せることも、あるかもしれません。でも、戻ることとは違います」
親を許すことと、親に戻ることは同じじゃない。
マルティナの言葉が、エルネスタの中にあるのだと、ベアトリスには分かった。
妹は、ここで言葉をもらっている。
自分たちの家では与えなかった言葉を。
ベアトリスは、茶のカップを見つめた。
薬草茶は冷めかけていた。
それでも、香りはまだある。
「屋敷の帳面」
エルネスタが静かに言った。
ベアトリスは顔を上げる。
「必要なら、覚えている範囲で書き出します」
「え」
「来客の茶の好み、季節の贈答、母の薬草茶、使用人の担当、小物箱の場所。全てではありませんが、覚えていることはあります」
ベアトリスは、一瞬だけ明るくなりかけた。
それなら。
戻らなくても、書いてもらえば。
けれど、エルネスタはすぐに続けた。
「ただし、戻るためではありません」
ベアトリスの胸が沈む。
「家の混乱を少し整えるためです。私がいた頃にしていたことを、必要な範囲でお渡しします。でも、私自身は戻りません」
線を引かれた。
はっきりと。
手伝うことと、戻ることは違う。
許すことと、戻ることが違うように。
ベアトリスは、その線の前で立ち尽くしたような気持ちになった。
「そんな、他人みたいな言い方」
「他人ではありません」
エルネスタは言った。
「でも、私はもう、家の中で黙って全部を整える人には戻りません」
ベアトリスは、何も言えなかった。
その言葉は、静かだが強かった。
昔のエルネスタなら、絶対に言わなかった。
でも、今のエルネスタは言う。
自分の役割に戻らない、と。
ベアトリスは、胸の奥が苦しくなるのを感じた。
謝れない。
戻ってほしいとも、もう強く言えない。
けれど、認めるしかない。
妹は、ここで変わっている。
いや、もともとあったものが、ここで見えるようになったのかもしれない。
ベアトリスは、ゆっくり立ち上がった。
「……今日は帰るわ」
エルネスタも立ち上がろうとしたが、マルティナが手で制した。
「座ってな」
その自然な保護に、ベアトリスの胸がまたちくりとした。
自分たちは、エルネスタに座っていていいと言ったことがあっただろうか。
ベアトリスは、妹を見た。
「帳面のことは」
「数日、時間をください」
エルネスタは答えた。
「事実だけを整理します」
事実。
その言い方も、以前の妹とは違う。
感情に流されないように、自分を守るための言葉なのだろう。
ベアトリスは頷いた。
「分かったわ」
それだけ言って、扉へ向かう。
本当は、何か言うべきだった。
ありがとう。
ごめんなさい。
気づかなかった。
あなたがそんなに苦しかったなんて。
けれど、どの言葉も喉を通らない。
玄関へ向かう途中、ベアトリスはふと廊下の先に目をやった。
小さな階段。
その先に、部屋の扉がある。
扉の近くには、生成りのカーテンの端が少し見えた。
誰かの部屋。
おそらく、エルネスタの部屋。
実家にはもうなかった妹の部屋が、この小さな騎士家にはある。
ベアトリスは、胸がぎゅっと痛むのを感じた。
マルティナが玄関の扉を開ける。
「気をつけて帰りな」
その声には、冷たさはなかった。
だが、簡単に受け入れる温かさもなかった。
線がある。
ベアトリスは、その線を感じた。
「失礼しました」
彼女は礼をして、外へ出た。
冬の空気が頬に触れる。
馬車へ乗り込む前、ベアトリスは一度だけ振り返った。
レナック家の屋敷。
古く、小さく、王都の家ほど立派ではない。
けれど、窓の内側に暖かい色が見えた。
あの中に、妹がいる。
客人ではなく、たぶん、この家の誰かとして。
ベアトリスは、唇を強く結んだ。
馬車が動き出す。
帰り道、彼女は何度も言葉を探した。
ごめんなさい。
ありがとう。
戻ってきてほしい。
戻らなくてもいい。
どれも、うまく形にならなかった。
ただ一つだけ、どうしても消えない事実があった。
エルネスタは、何もしていなかったのではない。
見えないところで、家を支えていた。
そして、その支えを自分たちは当然のように踏んでいた。
その事実は、冬の曇り空より重く、ベアトリスの胸に残った。
レナック家の食堂では、ベアトリスが去ったあともしばらく沈黙が続いていた。
エルネスタは椅子に座ったまま、膝の上の手袋を見つめていた。
戻ればいいじゃない。
姉の言葉は、胸に刺さっている。
けれど、それだけではなかった。
あなたが何もしていなかったわけではないって、分かったのよ。
そう言われた。
遅すぎる言葉。
謝罪ではない言葉。
それでも、少しだけ、自分のしてきたことが見えた瞬間だった。
エルネスタは、ゆっくり息を吐いた。
「私」
声が小さく出る。
マルティナさんが隣へ座った。
「うん」
「お姉様に、戻りませんと言えました」
「言えたね」
「でも、帳面は書こうと思います」
マルティナさんは頷く。
「いいんじゃないかい」
「戻るためではなく」
「うん」
「私がしていたことを、事実として渡すために」
オズヴァルドが、食堂の入口から低く言った。
「境界を引けているなら、それでいい」
エルネスタは彼を見る。
彼は、いつものように無口で、表情もあまり変わらない。
けれど、今はそれが拒絶ではないと知っている。
彼は言った。
「今は怒っていない」
不意に追加された一言に、エルネスタは少しだけ笑った。
「はい」
ミレが目を潤ませながら、布を差し出した。
「エルネスタ様、すごかったです」
サナも静かに茶を置く。
「薬草茶です。今日は少し濃いめにしました。気持ちが疲れた時用です」
「ありがとうございます」
エルネスタはカップを包んだ。
温かい。
姉に会った疲れが、少しずつ体に降りてくる。
午後、エルネスタは小部屋へ戻った。
生成りのカーテンが、曇り空の光を柔らかくしている。
机に向かい、帳面を開く。
事実の記録。
ベアトリス来訪。
実家の混乱について話す。
贈答、茶葉、小物箱、使用人配置、薬草茶などが崩れている。
私が何もしていなかったわけではないと認めた。
謝罪はなかった。
戻ればいいじゃない、と言った。
私は戻りませんと答えた。
必要な記録は書き出すが、戻るためではないと伝えた。
次に、感情の頁。
お姉様に認められて、少しだけ胸が痛んだ。
嬉しいのか、悔しいのか、分からない。
謝ってほしかった。
でも謝られたら、私はもっと揺れたかもしれない。
戻ればいいじゃない、は痛かった。
それでも、静かに首を振れた。
私は、家を支えていた。
でも、支えるために戻る必要はない。
書きながら、涙が一粒落ちた。
エルネスタは布で押さえる。
文字は少し滲んだが、読めた。
しばらくして、扉の下から紙が差し込まれた。
彼女は拾い上げた。
マルティナさんの字。
見えない仕事をしていた人は、今日は早く寝ること。
その下にミレの丸い字。
エルネスタ様の仕事、ちゃんとここでは見えています。
サナの整った字。
記録を渡すことと、戻ることは別です。
そして、オズヴァルドの角ばった字。
首を振れていた。
エルネスタは、その一行を見つめて、胸がいっぱいになった。
首を振れていた。
姉の前で。
戻ればいいじゃない、と言われて。
静かに。
でも、確かに。
エルネスタは紙を胸に当てた。
実家では見えなかった仕事。
見ようとされなかった仕事。
それが今になって、少しだけ見えた。
けれど、もうその場所へ戻るためではない。
自分の価値を、便利な支えとして証明するためでもない。
ただ、事実として。
自分がしていたことを、自分でも知るために。
エルネスタは、生成りの手袋を机の上に置き、ゆっくり息を吐いた。
夜になれば、食堂で淡い緑の椀が待っている。
この部屋には新しいカーテンがある。
窓の隙間は塞がれている。
姉が何を言っても、父や母が何を望んでも、ヴィルドリックが何を企んでも、今のエルネスタにはここで眠る部屋がある。
彼女は帳面の最後に、一行だけ書き足した。
私は戻らない。
でも、私がしてきた仕事は、なかったことにはしない。
書き終えると、胸の奥が少しだけ静かになった。
姉は初めて、妹の仕事を知った。
けれど、エルネスタもまた、初めて自分の仕事の重さを知った。
それは、誰かに戻るための鎖ではなく、自分が確かに生きて、支えて、耐えてきた証だった。
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