「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第31話 戻らない理由を、説明しなくてもいい


 エルネスタは、その朝、いつもより早く机に向かっていた。

 新しい生成りのカーテンを通した冬の光が、まだ薄い色で小部屋に満ちている。深緑の縁取りは朝の中では少し柔らかく見えた。窓の隙間は塞がれていて、机の上の紙が風で震えることはない。

 北風は塞いだ。

 オズヴァルドの角ばった字を思い出すたびに、胸の奥は少しだけ温かくなる。

 それでも、今日の手は冷えていた。

 生成りの手袋をつけている。

 リダと布屋の女主人がくれた、薬草の葉の刺繍入りの手袋。

 その上から筆を持つのは少し難しい。けれど、今日はどうしても外したくなかった。手袋の感触がなければ、胸の奥から込み上げる不安に、指先ごと飲み込まれてしまいそうだった。

 机の上には、帳面が三冊あった。

 一冊目は、事実の記録。

 二冊目は、感情の記録。

 三冊目は、昨日から作り始めた、ヴァルディーン家へ渡すための控えだった。

 来客の好み。

 茶葉。

 季節の贈答。

 使用人の配置。

 母ロザリアの薬草茶。

 姉ベアトリスの衣装小物の保管場所。

 父が嫌う応接室の花の種類。

 年末に送るべき手紙。

 冬の終わりに確認する帳簿。

 自分が覚えていることを、エルネスタは一つずつ書き出していた。

 戻るためではない。

 それは、昨日ベアトリスへ伝えた。

 必要な記録は渡す。

 けれど、戻るためではない。

 その境界線を引いたつもりだった。

 それでも、紙へ向かううちに、胸の中に別の思いが生まれてしまう。

 これだけ丁寧に書けば、分かってもらえるだろうか。

 戻らないのは、意地ではない。

 家族を嫌っているからだけではない。

 自分の部屋がなかったこと。

 戻ればまた壊れること。

 父の命令が怖いこと。

 母の涙で罪悪感に沈むこと。

 姉の言葉に傷ついたこと。

 ヴィルドリックの屋敷に戻れば、自分はまた便利な役割として使われること。

 そういうことを、順序立てて書けば。

 感情を荒らさず、事実として整理すれば。

 父も、母も、姉も、少しは理解してくれるのではないか。

 無理に戻れと言うのをやめてくれるのではないか。

 エルネスタは、そう思ってしまった。

 だから、三冊目の帳面の最後に、別紙を挟んでいた。

 表題は、まだ決められていない。

 戻らない理由。

 そう書こうとして、筆を止めた。

 あまりに強い言葉に見えた。

 家族へ向けて書くには、冷たい気がした。

 では、今後について。

 それは曖昧すぎる。

 父なら、再婚の話と解釈するかもしれない。

 エルネスタは何度も紙を替え、ようやくこう書いた。

 私が現在ヴァルディーン家へ戻らない理由について。

 硬い。

 でも、事実に近い。

 彼女は小さく息を吐いた。

 筆先を整え、ゆっくり書き始める。

 私は、現在ヴァルディーン伯爵家へ戻ることを望んでおりません。

 その理由は、一時の感情や家族への憎しみだけではありません。

 まず、離縁後に伯爵家へ戻った際、私の部屋、食器、生活の場が残されておらず、私は自分が戻れる場所を持っていないのだと感じました。

 次に、父上から再婚先を探すというお話がありましたが、私は現時点で再婚を望んでおりません。

 また、母上とお会いすると、母上の涙を前にして自分の意思を保つことが難しく、戻らなければならないという罪悪感に強く囚われます。

 姉上には、ヴァルディーン家で私が行っていた実務の一部をお渡ししますが、それは私が家へ戻ることを意味しません。

 私は、家族を害したいのではありません。

 ただ、今は距離が必要です。

 そう書いたところで、手が止まった。

 今は距離が必要です。

 母に言った言葉。

 その言葉は、今も胸に残っている。

 間違っていないと思う。

 けれど、紙に書くと、ひどく冷たく見える。

 母が読んだら泣くだろうか。

 父が読んだら怒るだろうか。

 姉が読んだら、また「言えばよかったのよ」と言うだろうか。

 ヴィルドリックなら、説明責任という言葉でねじ伏せようとするかもしれない。

 エルネスタは、筆を置いた。

 胸が苦しい。

 説明しようとすればするほど、自分が悪いことをしているような気持ちになっていく。

 なぜ戻らないのか。

 なぜ会いたくないのか。

 なぜ許せないのか。

 なぜ役目をもう担えないのか。

 何度も何度も自分に問う。

 そのたび、過去の傷を自分の手で開いているようだった。

 小部屋の扉が軽く叩かれた。

 こん、と控えめな音。

 エルネスタは顔を上げる。

「はい」

「入っていいかい」

 マルティナさんの声だった。

 エルネスタは慌てて紙を隠そうとして、それから止めた。

 ここでは、隠さなくていい。

 少なくとも、見られたくないならそう言えばいい。

 エルネスタは息を整えて答えた。

「はい。お願いします」

 扉が開き、マルティナさんが顔を出した。

 膝を冷やさないよう厚手のショールをまとっている。手には薬草茶のカップがあった。

「朝から根を詰めてると思ってね」

 そう言いながら部屋へ入る。

 エルネスタは立ち上がろうとしたが、マルティナさんが片手で止めた。

「座ってな」

「ありがとうございます」

 机に薬草茶が置かれる。

 湯気が立つ。

 蜂蜜は入っていないようで、薬草の青い香りがまっすぐに立ち上っていた。

 マルティナさんは、机の上の紙を見た。

 読んではいない。

 けれど、何を書いているかは察したようだった。

「実家へ渡す記録かい」

「はい」

 エルネスタは頷いた。

「それと、戻らない理由を、少し」

 マルティナさんの目が細くなる。

「理由」

「はい」

 エルネスタは、紙へ視線を落とした。

「私がなぜ戻らないのか、きちんと説明すれば、少しは分かっていただけるかもしれないと思って」

 言いながら、自分の声がどんどん小さくなるのが分かった。

 マルティナさんは、すぐには否定しなかった。

 椅子を引き、机の横へ座る。

「書いて、楽になるなら書けばいい」

「はい」

「でも、書いて苦しくなるだけなら、少し休みな」

 エルネスタは、薬草茶のカップを両手で包んだ。

 温かい。

 けれど、胸はまだ冷えている。

「分かってほしいのです」

 ぽつりと、言葉がこぼれた。

 自分でも驚くほど、子どものような声だった。

「父にも、母にも、お姉様にも。私が意地を張っているわけではないこと。怒らせたいわけではないこと。家を困らせたいわけではないこと。戻れない理由があるのだと」

 マルティナさんは、静かに聞いている。

 エルネスタは続けた。

「でも、何を書いても足りない気がします。父なら感傷だと言うかもしれません。母なら、お母様もつらかったのに、と泣くかもしれません。お姉様なら、なら先に言えばよかったのに、と言うかもしれません」

 自分で言いながら、胸が痛む。

 彼らの反応を、もう想像できてしまう。

 それがつらい。

 なぜなら、何度も実際にそうされたからだ。

「説明すればするほど、私はまた、分かってもらえないことを確かめているような気がします」

 マルティナさんは、少しだけ息を吐いた。

「そうだね」

 優しい同意だった。

「分かってほしい相手に分かってもらえないのは、しんどい」

 その一言で、エルネスタの目に涙が浮かんだ。

 分かってほしい。

 自分はまだ、そう思っているのだ。

 父にも。

 母にも。

 姉にも。

 ひどいことを言われた。

 居場所をなくされた。

 戻れば壊れると分かっている。

 それでも、どこかでまだ、分かってほしいと思っている。

 そのことが、情けなくて、苦しかった。

 マルティナさんは、彼女の背中を撫でなかった。

 ただ隣に座っていた。

 その距離が、今はありがたい。

「今日の分は、無理に出さなくていい」

「でも、ベアトリスお姉様に、数日時間をくださいと」

「数日は数日だ。今日全部やれって意味じゃない」

「はい」

「それに、実務の控えと、あんたの傷の説明は別物だよ」

 エルネスタは顔を上げた。

「別物」

「そう。茶葉の好みや贈答の記録は、渡したいなら渡せばいい。でも、あんたがどれだけ傷ついたかを、相手が納得するまで差し出す必要はない」

 その言葉が、胸へ落ちた。

 けれど、まだ飲み込めない。

 エルネスタは俯いた。

「でも、説明しなければ、分かってもらえません」

 マルティナさんは、少しだけ悲しそうに笑った。

「説明しても、分かろうとしない人もいる」

 その言葉は、静かで、痛かった。

 エルネスタは黙り込んだ。

 分かっている。

 もう何度も経験している。

 父に、私の部屋はもうあの家にはありませんと言った。

 父は、感傷で物を言うなと言った。

 母に、今は会いたくありませんと言った。

 母は、家族なのよと言った。

 姉に、戻りませんと言った。

 姉は、家族でしょうと言った。

 ヴィルドリックに、妻ではありませんと言った。

 彼は、離縁していようと夫婦だった事実は消えないと言った。

 こちらが言った言葉は、届く前に別の形へ変えられる。

 感傷。

 意地。

 混乱。

 家族。

 責任。

 説明責任。

 彼らは、自分たちに都合のいい言葉へ置き換える。

 エルネスタは、カップを包む手に力を込めた。

「それでも」

 言いかけたところで、階下からミレの声がした。

「マルティナ様。オズヴァルド様がお戻りです。それと、使いの方が」

 使い。

 エルネスタの肩が跳ねた。

 マルティナさんの表情が引き締まる。

「どこの使いだい」

 階下のミレが少し間を置いて答える。

「グランセル侯爵家です」

 グランセル。

 ヴィルドリック。

 エルネスタの胸が、冷たくなる。

 マルティナさんは、すぐに立ち上がった。

「降りなくていい」

「でも」

「降りなくていい。まず私とオズが聞く」

 マルティナさんはそう言って、小部屋を出た。

 扉が閉まる。

 エルネスタは、一人残された。

 手の中のカップが震えている。

 薬草茶の水面が、細かく揺れていた。

 グランセル侯爵家の使い。

 屋敷の管理記録。

 説明責任。

 第29話でヴィルドリックがそう考えていたことを、エルネスタは知らない。

 けれど、嫌な予感はした。

 ほどなくして、足音が戻ってきた。

 今度は、マルティナさんだけではなかった。

 オズヴァルドも一緒だった。

 彼は小部屋の扉の前で止まり、低く言った。

「入っていいか」

「はい」

 エルネスタは答えた。

 二人が入ってくる。

 オズヴァルドの顔はいつも以上に険しい。

 けれど、彼はすぐに言った。

「今は怒っていない」

 エルネスタは一瞬だけ目を瞬いた。

 昨日の約束。

 怒っていない時は、怒っていないと言う。

 こんな時でも、彼は守ってくれている。

 胸が痛いほど温かくなった。

「ありがとうございます」

「ただ、使いの内容には苛立っている」

 正確に付け足された。

 マルティナさんが低く息を吐く。

「グランセル家からだよ。前侯爵夫人として、屋敷の管理記録について説明責任がある。来客控えや贈答記録について、直接確認したい。そう言ってきた」

 説明責任。

 やはり。

 エルネスタは、カップを置いた。

 手が震えている。

「私が、説明しなければ」

「しなくていい」

 オズヴァルドが即座に言った。

 声は低い。

 だが、はっきりしていた。

 エルネスタは顔を上げる。

「でも、私が管理していた記録です。使用人の方々も困っているかもしれません。オルフェリア様、いえ、新しい婚約者候補の方も」

「しなくていい」

 オズヴァルドは、もう一度言った。

 その言葉に、エルネスタの胸は揺れた。

 しなくていい。

 でも。

 困っている人がいるかもしれない。

 自分が覚えていることが役に立つかもしれない。

 説明しなければ、また無責任だと言われるかもしれない。

 逃げたと思われるかもしれない。

 エルネスタは、机の上の紙を見た。

 私が現在ヴァルディーン家へ戻らない理由について。

 そこへ、今度はグランセル家への説明責任が加わる。

 父へ。

 母へ。

 姉へ。

 元夫へ。

 どこへ向けても、説明しなければならない気がする。

 自分がなぜ戻らないのか。

 なぜ会わないのか。

 なぜ役目を放棄するのか。

 なぜ記録だけ渡して自分は戻らないのか。

 説明して、説明して、説明して。

 それでも、また読み替えられる。

 意地。

 感傷。

 責任逃れ。

 家族不孝。

 妻だった事実。

 前侯爵夫人としての義務。

 エルネスタの呼吸が浅くなる。

「分かってもらわなければ」

 小さく言った。

「分かってもらわなければ、私はずっと、悪い娘で、悪い妻で、無責任な人間のままになってしまいます」

 言った瞬間、涙がこぼれた。

 自分でも、その言葉がどれほど自分を縛っていたかを初めて知った。

 悪い娘。

 悪い妻。

 無責任な人間。

 そう思われたくない。

 だから、説明し続けようとしていた。

 戻らない理由を、理解してもらおうとしていた。

 自分が悪くないと証明したかった。

 オズヴァルドは、しばらく黙っていた。

 その沈黙に、エルネスタの体が少し強ばる。

 だが、彼は気づいたようにすぐ言った。

「怒っていない」

 エルネスタは、泣きながら少しだけ息を吐いた。

 オズヴァルドは続ける。

「言葉を探している」

 それも、説明だった。

 彼の沈黙に、形が与えられる。

 怖さが少しだけ薄くなる。

 彼は、ゆっくり言った。

「納得させる必要はない」

 その言葉が、小部屋に落ちた。

 エルネスタは、動けなかった。

 納得させる必要はない。

 あまりに短い言葉。

 けれど、胸の奥の固く結ばれた糸を、静かに切るようだった。

「でも」

 反射的に言いかける。

 オズヴァルドは、彼女の言葉を奪わず、待った。

 エルネスタは、自分で続きを言った。

「でも、納得してもらえなければ、拒絶したことにならないのでは」

 声が震える。

 これが、自分の中にあった恐怖だった。

 相手が分かってくれないなら。

 相手が認めてくれないなら。

 自分の拒絶は無効なのではないか。

 戻りませんと言っても、父が感傷だと言えば。

 会いたくありませんと言っても、母が家族なのよと言えば。

 妻ではありませんと言っても、ヴィルドリックが夫婦だった事実は消えないと言えば。

 戻りませんと言っても、姉が戻ればいいじゃないと言えば。

 自分の拒絶は、まだ足りないのではないか。

 もっと説明しなければ。

 もっと正しい理由を並べなければ。

 もっと相手が納得する言葉を探さなければ。

 そう思っていた。

 オズヴァルドは、まっすぐエルネスタを見た。

「拒絶は、相手が理解した時だけ有効になるものじゃない」

 エルネスタの涙が止まった。

 いや、止まったのではなく、落ちることを忘れたようだった。

 その言葉が、胸の奥へ深く入る。

 拒絶は、相手が理解した時だけ有効になるものじゃない。

 マルティナさんも、静かに頷いた。

「そうだよ。嫌だと言ったら嫌だ。戻らないと言ったら戻らない。相手が納得しようがしまいが、それはあんたの意思だ」

 エルネスタは、唇を震わせた。

「でも、父は」

「父親が感傷だと言っても、戻りたくないは戻りたくない」

 マルティナさんが言う。

「母親が泣いても、今は会いたくないは会いたくない」

 オズヴァルドが続ける。

「ヴィルドリックが妻と呼んでも、妻ではない」

 マルティナさんがさらに言う。

「姉が戻ればいいと言っても、戻らない」

 言葉が、一つずつ並べられていく。

 エルネスタがこれまで言ってきた拒絶。

 震えながら出した声。

 泣きそうになりながら守った境界。

 それらが、相手に理解されたかどうかではなく、すでに有効なのだと示されていく。

 エルネスタは、胸を押さえた。

 苦しい。

 でも、その苦しさの奥に、少しずつ息が入ってくる。

「説明しなくても」

 声がかすれる。

「よいのですか」

 オズヴァルドは答えた。

「必要な説明はしていい」

 マルティナさんが付け加える。

「渡したい記録も渡していい」

 オズヴァルドは、少しだけ目を細めた。

「だが、納得させるために自分を削る必要はない」

 その言葉で、涙がまた溢れた。

 今度の涙は、少し違った。

 ずっと握りしめていた荷物を、少しだけ床へ置けたような涙だった。

 エルネスタは、顔を覆った。

「私、ずっと、分かってもらおうとしていました」

「うん」

 マルティナさんが静かに相槌を打つ。

「分かってもらえたら、戻らないことを許してもらえると思っていました」

「許可をもらわなくていい」

 オズヴァルドの声。

 短い。

 けれど、胸に届く。

「戻らないことに、許可はいらない」

 エルネスタは泣いた。

 声を上げて泣くほどではない。

 けれど、涙は止まらなかった。

 説明し続けなくていい。

 分かってもらえなくても、拒絶は拒絶になる。

 相手が納得しなくても、境界は引いていい。

 その言葉が、今まで何度も自分を縛っていた縄を、一本ずつほどいていくようだった。

 机の上の紙が、涙で少し滲んだ。

 私が現在ヴァルディーン家へ戻らない理由について。

 エルネスタは、その紙を見た。

 丁寧に書いた文章。

 何度も言葉を選んだ説明。

 それを見て、胸が痛む。

 この紙が悪いわけではない。

 書いたことは事実だ。

 でも、この紙で相手を納得させなければならないと思う必要はない。

 エルネスタは、ゆっくり紙を手に取った。

 破ることはできなかった。

 そこには、自分の傷が書いてある。

 だから、捨てたくはない。

 けれど、送る必要もない。

「これは」

 涙声で言う。

「出しません」

 マルティナさんの目が柔らかくなる。

「うん」

「実務の控えは、書きます。お姉様へ、必要なものを渡します。グランセル家へは、渡せる記録の写しだけを、必要最低限で」

 オズヴァルドが頷く。

「それでいい」

「でも、戻らない理由の説明は」

 エルネスタは紙を見つめた。

 指が震える。

 それでも、言えた。

「もう、送らないことにします」

 言った瞬間、胸の奥で何かが大きくほどけた。

 怖い。

 もちろん怖い。

 父は怒るだろう。

 母は泣くだろう。

 姉は苛立つかもしれない。

 ヴィルドリックはまた別の口実を持ってくるかもしれない。

 それでも。

 説明し続けることを、今日はやめる。

 エルネスタは、初めてその選択をした。

 マルティナさんが立ち上がった。

「よし。じゃあ、その紙は感情の帳面に挟んでおきな。送るものじゃなく、自分が何を感じたかを忘れないための紙にする」

「はい」

 エルネスタは頷いた。

 オズヴァルドは、机の上の三冊の帳面を見た。

「記録の写しは、俺も確認する」

「オズヴァルド様が」

「相手に利用されそうな書き方があれば直す」

 エルネスタは、少しだけ目を瞬いた。

 彼は真面目だった。

「ありがとうございます」

「今は怒っていない」

 また付け足された。

 エルネスタは、涙の中で少しだけ笑った。

「はい」

「ただ、グランセル家には苛立っている」

「はい」

 マルティナさんが肩を揺らして笑った。

「説明が細かくなってきたねえ」

 オズヴァルドは眉間に皺を寄せる。

「必要だと言われた」

 その言い方が昨日と同じで、エルネスタはまた少し笑った。

 泣いて、笑う。

 忙しい顔だと思う。

 でも、この部屋ではそれでいい。

 午後、エルネスタは机を整え直した。

 三冊目の帳面から、戻らない理由を書いた紙を外す。

 それを感情の記録の帳面に挟む。

 送るためではなく、自分のために。

 その代わり、実務の控えを淡々と書く。

 ベアトリスへ渡すもの。

 茶葉。

 贈答。

 小物箱。

 母の薬草茶。

 使用人の配置。

 グランセル家へ渡すものは、さらに少なくする。

 前侯爵夫人としての個人的な記録は渡さない。

 屋敷に残してきた共有記録の所在と、必要な分類だけ。

 感情は入れない。

 謝罪も入れない。

 戻る意思がないことは、短く一文だけ。

 私はグランセル侯爵家へ戻る意思はありません。

 以上。

 理由は書かない。

 その一文を書く時、手は震えた。

 けれど、書いた。

 理由を書かないことが、これほど怖いとは思わなかった。

 でも、同時に、少し自由だった。

 夕方、食堂へ降りると、サナが根菜のスープを温めていた。

 ミレは薬草飴の包み紙を切りながら、エルネスタを見るなり聞いた。

「大丈夫ですか」

 エルネスタは少し考えた。

 昨日の約束が胸に浮かぶ。

 大丈夫ではない時は、できるだけ言う。

「少し、疲れています」

 ミレの顔がぱっと真剣になる。

「では、椅子を」

「はい。ありがとうございます」

 それだけで、ミレは嬉しそうに椅子を引いた。

 サナが薬草茶を置く。

「今日は薄めです。頭を使いすぎた時用です」

 マルティナさんが椅子に座りながら言った。

「説明疲れには薄い茶がいいね」

 エルネスタは、小さく笑った。

「説明疲れ」

「そう。あんたは今日、ずいぶん説明を背負ってた顔をしてた」

 オズヴァルドが向かいに座る。

「下ろしたか」

 エルネスタは、少しだけ胸に手を当てた。

「少しだけ」

「ならいい」

 短い言葉。

 今は怖くない沈黙。

 食卓には、根菜のスープ、黒パン、薄い薬草茶、そして小さく切った林檎が出た。

 蜂蜜はほんの少し。

 エルネスタは一口食べた。

 優しい甘さだった。

「おいしいです」

 そう言うと、サナが静かに頷いた。

 ミレが嬉しそうにする。

 マルティナさんが茶を飲みながら言った。

「分かってもらうために全部話さなくても、こうして飯は食える。眠る部屋もある。明日の仕事もある」

 エルネスタは、淡い緑の椀を見つめた。

 そうだ。

 父母や姉や元夫を納得させなくても、この食卓はある。

 この椀はある。

 この部屋はある。

 食料庫の鍵も、薬草畑も、子どもたちの文字紙片もある。

 自分の拒絶は、彼らの理解を待たなくても、自分の中で有効でいい。

 夜、小部屋へ戻ると、机の上に紙が置かれていた。

 マルティナさんの字。

 説明を一つ下ろした人は、今日は早く寝ること。

 その下に、ミレの丸い字。

 理由を全部話さなくても、エルネスタ様の言葉は本物です。

 サナの整った字。

 必要な記録と、渡さなくていい傷は分けましょう。

 そして、オズヴァルドの角ばった字。

 納得されなくても、戻らないは戻らない。

 エルネスタは、その一行を見つめた。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。

 納得されなくても、戻らないは戻らない。

 あまりに簡潔。

 あまりにオズヴァルドらしい。

 けれど、今日の彼女には、何より必要な言葉だった。

 エルネスタは紙を胸に当てた。

 それから、帳面を開く。

 感情の頁へ書く。

 今日は、戻らない理由を説明し続けることをやめた。

 父も母も姉もヴィルドリック様も、私の言葉を自分たちの都合のよい形に変える。

 分かってもらえないことは悲しい。

 でも、分かってもらえなくても、私の拒絶は消えない。

 納得されなくても、戻らないは戻らない。

 私は、説明しなくてもいい理由まで、説明しようとしていた。

 もう、全部はしない。

 書きながら、涙が落ちた。

 でも、今日の涙は少し静かだった。

 苦しみだけではなく、救われた時にも涙は出るのだと、エルネスタは知った。

 彼女は、戻らない理由を書いた紙を、感情の帳面へ挟んだ。

 封筒には入れない。

 誰にも送らない。

 これは、自分のための紙。

 自分がどれだけ苦しかったかを、自分が忘れないための紙。

 それでいい。

 エルネスタは生成りの手袋を机の上に置き、小部屋の扉に内側から鍵をかけた。

 かちり。

 その音が、今夜はいつもよりはっきり響いた。

 扉の外の誰かに説明し続けるためではなく。

 扉の内側の自分を守るための音。

 新しいカーテンが、夜の冷気を柔らかくしている。

 北風は塞がれている。

 机の上には、今日の紙がある。

 納得されなくても、戻らないは戻らない。

 エルネスタは寝台へ入り、毛布を引き寄せた。

 父は納得しないかもしれない。

 母も、姉も、ヴィルドリックも。

 それでも、今夜の彼女は知っている。

 拒絶は、相手の理解を待たなくていい。

 戻らない理由を、説明し続けなくていい。

 私は戻りません。

 その一文は、もうそれだけで立っていていい。

 エルネスタは胸に手を当て、ゆっくり目を閉じた。

 説明をやめた夜は、思っていたより静かだった。

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