「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第35話 私は、戻りません


 王都の空は、灰色だった。

 雲は低く垂れ込め、ヴァルディーン伯爵家別邸の屋根の上に重く乗っているように見えた。朝から降りそうで降らない雨の匂いが、石畳の間にこもっている。馬車の車輪が門前で止まった時、エルネスタは膝の上で手を重ねたまま、しばらく動けなかった。

 生成りの手袋。

 深緑の葉の刺繍。

 その下で、指先が冷えている。

 でも、震えは以前より小さかった。

 隣に、オズヴァルドがいたからだ。

 黒に近い濃紺の礼装用の上着を着て、背筋を伸ばし、いつものように無駄な言葉を口にせずに座っている。けれど、沈黙は拒絶ではない。怒りでもない。エルネスタはもう、それを知っていた。

 馬車の中には、薬草飴の小袋と、必要な記録の控えと、言うことを書いた紙があった。

 言わないことを書いた紙もある。

 戻らない理由を、相手が納得するまで説明し続けない。

 父の怒りに謝罪しない。

 母の涙に呑まれない。

 ヴィルドリックの「妻だった事実」に巻き戻されない。

 姉の「家族でしょう」に沈まない。

 助けてほしい時は、隣にいてくださいと言う。

 声が出ない時は、手袋の葉を握る。

 その紙を何度も読んだ。

 それでも、いざ王都の別邸を前にすると、胸の奥は細く凍る。

 ここは実家そのものではない。

 けれど、ヴァルディーン家の空気がある。

 門番の制服。

 整えられた植え込み。

 白い石段。

 磨かれた扉。

 そのどれもが、エルネスタに「戻れ」と言っているように見えた。

 馬車の外で、御者が扉を開ける音がした。

 冷たい空気が流れ込む。

 オズヴァルドが先に降りた。

 彼は振り返り、手を差し出した。

 冬祭りの夜と同じ、無言の手。

 強く引かない。

 選ばせる手。

 エルネスタは、一度だけ息を吸った。

 深い青緑のドレスは、胸を締めつけない。質素だが品があり、歩きやすい。王都の華美な装いの中では目立たないかもしれないが、鏡の前で見た時、たしかに「私だ」と思えた服だった。

 この服なら、声が出る。

 そう信じて、彼女はオズヴァルドの手を取った。

 馬車を降りると、石畳の冷たさが靴底から伝わった。

 空気は湿っている。

 庭の冬薔薇は美しく手入れされていたが、匂いはほとんどしなかった。むしろ、濡れた土と石の匂いの方が強い。

 玄関の前には、ヴァルディーン家の執事が立っていた。

 昔からいる男だ。

 エルネスタが幼い頃、父の書斎へ呼ばれるたびに扉を開けていた人。彼は一瞬だけエルネスタの姿を見て、目を伏せた。

「エルネスタ様。お待ちしておりました」

 その声に、過去が少しだけ胸へ戻る。

 エルネスタ様。

 ヴァルディーン家の娘としての呼び名。

 レナック家での「エルネさん」や「エルネの部屋」とは違う響き。

 エルネスタは、静かに頷いた。

「案内をお願いします」

 執事の目が、隣のオズヴァルドへ向く。

「レナック騎士団長も、ご同席とのことで」

「はい」

 エルネスタは答えた。

「私の同行者です」

 同行者。

 護衛でも、代理人でも、代弁者でもない。

 隣にいる人。

 言葉を待ってくれる人。

 執事は一瞬迷ったようだったが、礼をして扉を開けた。

 中へ入った瞬間、暖かい空気が顔を撫でた。

 だが、レナック家の食堂の暖かさとは違う。

 よく整えられた暖房の熱。

 磨かれた廊下。

 香油の匂い。

 乾いた花の匂い。

 遠くから聞こえる食器の音。

 すべてが丁寧に整っているのに、エルネスタには息がしづらかった。

 この家は、きれいだ。

 けれど、彼女が眠る部屋ではない。

 彼女の淡い緑の椀はない。

 生成りのカーテンもない。

 北風を塞いだ窓もない。

 そう思うことで、少しだけ足元が固まった。

 案内されたのは、別邸の大きな応接室だった。

 扉の前で、執事が一度立ち止まる。

 中から声が聞こえた。

 父の低い声。

 母のすすり泣くような声。

 姉ベアトリスの抑えた声。

 そして、ヴィルドリックの声。

 心臓が強く鳴った。

 エルネスタは、手袋の葉の刺繍を握る。

 隣で、オズヴァルドが低く言った。

「いる」

 たった二文字。

 でも、十分だった。

 エルネスタは頷いた。

「はい」

 扉が開く。

 視線が一斉に向けられた。

 部屋には、長い楕円形のテーブルが置かれていた。中央には白い花が飾られ、銀の燭台が左右に並んでいる。壁には重い絵画がかかり、暖炉には火が入っていた。

 席には、ヴァルディーン伯爵。

 母ロザリア。

 姉ベアトリス。

 親族の叔父夫婦。

 伯母。

 グランセル侯爵家の代理人。

 そして、ヴィルドリック。

 彼は黒に近い灰色の上着を着て、きちんと髪を整えていた。顔色は悪くない。けれど、目の奥には苛立ちが残っている。

 エルネスタが入ると、ヴィルドリックの視線はまず彼女のドレスへ向かった。

 豪華ではない服。

 だが、みすぼらしくはない。

 派手さはないが、背筋の伸びる服。

 彼はわずかに眉を動かした。

 父も同じように、彼女の装いを見た。

 母は、顔を見た瞬間に目に涙を溜めた。

 ベアトリスは、何か言いたげに唇を引き結んだ。

 親族たちの視線が、静かに刺さる。

 離縁された娘。

 実家に戻らない娘。

 元夫の家にも戻らない女。

 小さな騎士家に身を寄せている女。

 そういう札が、彼らの目の中に見えた。

 けれど、エルネスタは部屋の入口で立ち止まらなかった。

 オズヴァルドが隣にいる。

 彼は前に出ない。

 彼女の半歩後ろでもない。

 隣。

 エルネスタは、用意された席へ向かった。

 父が低く言う。

「ようやく来たか」

 その声だけで、背中が冷たくなる。

 だが、エルネスタは座る前に一礼した。

「本日は、お招きに応じて参りました」

 声は少し震えた。

 でも、部屋に届いた。

 オズヴァルドが隣の席に立つ。

 父の目が鋭くなった。

「レナック騎士団長。これは親族会議だ。あなたの同席は本来」

 エルネスタは、父の言葉が終わる前に静かに口を開いた。

「オズヴァルド様は、私の同行者です」

 父の視線が彼女へ向く。

 息が詰まりそうになる。

 だが、エルネスタは続けた。

「本日、私は一人では参りません。私が話すために、隣にいていただきます」

 父の顔に不快が浮かぶ。

「お前は自分一人で話もできないのか」

 その言葉は、予想していた。

 紙には書かなかったが、心の中で何度も練習した。

 エルネスタは、手袋の葉を握った。

「話します」

 静かに答える。

「だから、隣にいていただきます」

 部屋に沈黙が落ちた。

 父は不快そうに息を吐いたが、それ以上は言わなかった。

 ヴィルドリックが椅子から少し身を乗り出す。

「始めよう。ここへ来た以上、ようやく冷静に話す気になったのだろう」

 冷静に。

 その言葉が、胸に触れる。

 けれど、もうすぐには傷つかない。

 エルネスタは椅子に座った。

 オズヴァルドも隣に座る。

 彼は何も言わない。

 だが、沈黙は拒絶ではない。

 エルネスタは知っている。

 父が書類を手元に置いた。

「まず確認する。お前は、現在レナック家に滞在している。だが、正式な身分としてはヴァルディーン伯爵家の娘であることに変わりはない」

「はい」

「グランセル侯爵家との離縁後、本来であれば速やかに実家へ戻り、今後の処遇を親族間で相談すべきだった」

 処遇。

 人ではなく、荷物のような言葉。

 エルネスタは、心の中で小さく息をした。

 言わないこと。

 父の言葉にすぐ反論し続けない。

 言うこと。

 私は戻りません。

 父は続けた。

「にもかかわらず、お前は勝手に家を出て、地方騎士家に身を寄せた。王都では不名誉な噂が立っている。伯爵家にとっても、グランセル家にとっても看過できない」

 母がハンカチを握りしめる。

「エルネスタ。お母様、本当に心配していたのよ」

 ベアトリスは視線を逸らしたまま、黙っている。

 親族の伯母がため息をつく。

「娘が親族に断りもなく他家へ入り浸るなど、たしかに体裁が悪いわね」

 入り浸る。

 その言葉に、エルネスタの胸が痛む。

 だが、今は説明し続けない。

 ヴィルドリックが言った。

「私は、君に一時的な感情の乱れがあったと見ている。離縁の件で傷ついたのは理解する。しかし、いつまでも周囲を巻き込むのは君らしくない」

 君らしくない。

 その言葉が、過去の鎖のように響いた。

 彼にとっての「君らしい」は、黙って従うことだ。

 それを、エルネスタは今なら分かる。

 父が机を指で叩いた。

「今回の会議では、三点を決める。お前の実家への帰還。グランセル家との記録整理。今後の再婚を含む身の振り方」

 決める。

 自分抜きで。

 それが、あまりにも自然に言われた。

 エルネスタは、自分の膝の上で手袋の葉を握った。

 声が一瞬出なくなりそうになる。

 オズヴァルドを見た。

 彼は、こちらを見ていなかった。

 会議の場を見ている。

 だが、彼の手が、テーブルの下でほんの少しだけエルネスタの方へ寄った。

 触れない。

 けれど、そこにあると分かる距離。

 隣にいる。

 言葉は待つ。

 エルネスタは、息を吸った。

「決める前に」

 声は小さかった。

 しかし、部屋に落ちた。

 父が眉を寄せる。

「何だ」

「私の意思を、お伝えします」

 ヴィルドリックが目を細める。

「そのための会議だ」

 エルネスタは、彼を見た。

 恐怖はある。

 けれど、真正面から見た。

「私は、ヴァルディーン伯爵家へ戻りません」

 最初の一文。

 部屋の空気が止まった。

 母が小さく息を呑む。

 父の顔が赤くなる。

 ベアトリスの目が揺れる。

 エルネスタは続けた。

「グランセル侯爵家へも戻りません」

 ヴィルドリックの表情が冷えた。

「私は再婚を望んでいません」

 伯母が唇を開きかけたが、言葉は出なかった。

「私の今後について、私の意思を抜きに決めないでください」

 四つの文。

 紙に書いた通りの言葉。

 震えている。

 でも、言えた。

 父が机を強く叩いた。

 乾いた音が部屋に響く。

「何を勝手なことを言っている!」

 母が涙をこぼす。

「エルネスタ、どうしてそんなことを言うの。家族なのよ」

 ヴィルドリックは、冷たく言った。

「やはり一時の感情だな。君は自分の立場を正しく見ていない」

 親族の叔父が咳払いをする。

「若い女性が感情的になるのは分からなくもないが、今後の生活を考えれば」

 いくつもの声が重なる。

 怒り。

 涙。

 説得。

 体面。

 家族。

 責任。

 言葉が、エルネスタへ向かって降ってくる。

 昔なら、この時点で顔を伏せていた。

 謝っていた。

 父の怒りを鎮めようとしていた。

 母の涙を止めようとしていた。

 ヴィルドリックの言葉に、そうですねと頷いていた。

 でも、今は違う。

 エルネスタは、黙ってその声を聞いた。

 手袋の葉を握る。

 深く息を吸う。

 このドレスは、息を邪魔しない。

 だから、声が出る。

 彼女は静かに言った。

「一時の感情だと、おっしゃいましたね」

 ヴィルドリックの言葉が止まる。

 父の怒声も、少しだけ途切れた。

 エルネスタは、ヴィルドリックを見た。

「何度も、そう言われました。冷静ではない。感情的だ。一時の乱れだと」

 ヴィルドリックは眉をひそめる。

「事実だ。君は今、感情で動いている」

「はい」

 エルネスタは、静かに頷いた。

 部屋の空気が少し揺れた。

 肯定するとは思われていなかったのだろう。

「私は感情があります」

 彼女は言った。

「怖いと思います。嫌だと思います。悲しいと思います。戻りたくないと思います。会いたくないと思う時もあります」

 母が泣きながら首を振る。

「そんな……家族に向かって」

 エルネスタは、母の方を見た。

 声を荒らさない。

 泣き崩れない。

 丁寧に。

 しかし確実に。

「お母様。私はずっと、一時の感情すら許されずに生きてきました」

 母の涙が止まったように見えた。

 父が顔をしかめる。

 エルネスタは、続けた。

「怒ってはいけない。悲しんではいけない。傷ついた顔をしてはいけない。家族なのだから許しなさい。妻なのだから黙りなさい。娘なのだから従いなさい。そうして、私は自分の感情を、いつも後回しにしてきました」

 部屋が静かになる。

 暖炉の火が、ぱちりと鳴った。

「離縁状を朝食の前に置かれた日も、私は泣きませんでした。怒りませんでした。怒っていいのかも、泣いていいのかも分からなかったからです」

 ヴィルドリックの顔が硬くなる。

 あの日を、彼も思い出したのだろう。

 冷たい食堂。

 離縁状。

 婚姻の役目は終わった。

 実家へ戻ればいい。

 彼にとっては、終わらせた朝。

 エルネスタにとっては、帰る場所を失った朝。

「実家へ戻った日、私の部屋はありませんでした。私の食器も、席もありませんでした。けれど、私は怒りませんでした。傷ついたと言うこともできませんでした」

 ベアトリスの顔が白くなる。

 母がハンカチを握りしめる。

 父は、まだ険しい顔をしている。

「私は、感情を出すことが許されていなかったのです」

 エルネスタは、ゆっくり言葉を置いた。

「ですから、今、ようやく戻りたくないという感情を持てたことを、一時の感情だからと軽く扱わないでください」

 誰も、すぐには言わなかった。

 親族の伯母が、目を伏せる。

 叔父夫婦も、互いに視線を交わした。

 ヴィルドリックは、冷静さを保とうとした声で言う。

「それは、君が傷ついたという話だ。だが、現実には屋敷の管理記録があり、侯爵家には支障が出ている。君には前侯爵夫人としての責任が」

「必要な記録の写しは持参しました」

 エルネスタは、机の上の封筒を差し出した。

 サナと一緒に整え、オズヴァルドにも確認してもらったものだ。

「来客控え、贈答記録、共有してよい範囲の使用人配置、季節ごとの注意事項です。私個人の記録や、私の感情を書いたものは含めていません」

 ヴィルドリックの目が、封筒へ向く。

 エルネスタは続けた。

「これをお渡しします。ですが、私はグランセル侯爵家へ戻りません」

 ヴィルドリックの顔が歪む。

「記録だけ渡して済むと思っているのか」

「はい」

 エルネスタは答えた。

 はっきりと。

「私が担っていた実務の一部は、記録として渡せます。でも、私自身は戻りません」

「君は」

「私は、あなたの後始末ではありません」

 その言葉に、部屋がまた静まった。

 第21話で言った言葉。

 今度は、親族たちの前で言った。

 ヴィルドリックの唇が引き結ばれる。

「君は、私がどれほど屋敷のことで困っているか」

「困っていることと、私が戻ることは別です」

 エルネスタの声は、まだ震えている。

 けれど、切れない。

「記録は渡します。必要なら、書面で追加の確認に応じます。ですが、直接呼び出されて何度も説明し続けることはしません。私は戻りません」

 ヴィルドリックが、机に手を置いた。

「それは責任逃れだ」

 胸が痛む。

 でも、エルネスタは息を吸った。

 納得させる必要はない。

 オズヴァルドの言葉が胸にある。

「そう思われるなら、それ以上の説明はしません」

 ヴィルドリックの目がわずかに見開かれる。

 エルネスタは静かに言った。

「私は、あなたを納得させるために、これ以上自分を削りません」

 その言葉は、部屋に深く落ちた。

 親族の一部が沈黙する。

 伯母が、初めてエルネスタをまっすぐ見た。

 叔父は何か言いかけて、やめた。

 父が怒りを押し殺した声で言う。

「お前は、実家への不義理をどう考えている」

 エルネスタは父を見る。

 やはり怖い。

 喉が固くなる。

 父の声は、まだ身体の奥へ響く。

 けれど、今はオズヴァルドが隣にいる。

 彼は何も言わない。

 エルネスタの言葉を待っている。

「不義理とおっしゃるなら」

 エルネスタは言った。

「私は、離縁された日に一度、実家へ戻りました」

 父の顔が固くなる。

 母の肩が震える。

 「その時、私の部屋はありませんでした。私の食器もありませんでした。私を迎える席もありませんでした」

 ベアトリスが俯く。

 エルネスタは、姉を責める目では見なかった。

 ただ、事実を置く。

「私は、その日に知りました。私の帰る場所は、もうあの家にはないのだと」

 父が低く唸るように言った。

「急なことで準備が整っていなかっただけだ」

「そうかもしれません」

 エルネスタは、否定しなかった。

「でも、その後にお父様は、私を再婚の駒として戻そうとしました。お母様は家族なんだから許してと言いました。お姉様は、家が困っているから戻ればいいと言いました」

 母が泣き出す。

「そんな言い方はしていないわ。お母様は、あなたを心配して」

「心配してくださったのだと思います」

 エルネスタは、母へ静かに言った。

「でも、お母様の涙を見ると、私は自分が悪いのだと思ってしまいます。戻らなければならないと思ってしまいます。だから今は、距離が必要です」

「家族なのよ」

 母の声は弱い。

 以前なら、その声だけで揺らいだ。

 けれど、今は言える。

「家族でも、距離が必要なことはあります」

 ロザリアは涙をこぼし続けたが、反論できなかった。

 ベアトリスが小さく口を開く。

「エルネスタ」

 その声は、いつもの高慢さより少し弱かった。

「実家の記録は」

「まとめています」

 エルネスタは答えた。

「数日中に、写しをお送りします。お姉様へも、必要なものを分けてお渡しします」

 ベアトリスの唇が震えた。

「でも、戻らないのね」

「戻りません」

 静かな首振り。

 ベアトリスは、今度は何も言わなかった。

 その沈黙は、諦めではないかもしれない。

 理解でもないかもしれない。

 でも、少なくとも「戻ればいいじゃない」は出てこなかった。

 父が耐えかねたように立ち上がった。

「認められん!」

 怒声が部屋を打つ。

 エルネスタの体がびくりと震えた。

 その瞬間、オズヴァルドが静かに立ち上がった。

 椅子が床をこする音が、父の怒声よりも低く響く。

 彼は前へ出ない。

 エルネスタの言葉を奪わない。

 ただ、立った。

 それだけで、父の怒りが一瞬止まる。

 オズヴァルドは低く言った。

「声を荒げるな」

 父の目が怒りに燃える。

「部外者が」

「エルネスタの同行者だ」

 オズヴァルドは、短く返した。

「彼女の言葉が最後まで届くようにいる」

 エルネスタの胸が震えた。

 守る、とは言わない。

 代わりに言う、とも言わない。

 彼女の言葉が最後まで届くようにいる。

 それが、今の彼の役割だった。

 父は睨みつけた。

 だが、親族たちの前でこれ以上怒鳴ることはできなかったのだろう。ゆっくり椅子へ戻る。

 エルネスタは、オズヴァルドを見た。

 彼は一度だけ彼女を見る。

 大丈夫か、とは言わない。

 言葉を待つ目だった。

 エルネスタは小さく頷いた。

 自分で言う。

 最後まで。

「お父様」

 父の視線が彼女へ戻る。

 エルネスタは背筋を伸ばした。

「認めていただけなくても、私は戻りません」

 父の顔が硬くなる。

「お母様」

 母が涙で濡れた目を向ける。

「泣かれても、私は今、戻りません。お母様を憎んでいるからではありません。私が壊れないためです」

 母は口元を押さえた。

「お姉様」

 ベアトリスが、静かに顔を上げる。

「家の記録はお送りします。でも、私はその仕事を続けるために戻りません」

 ベアトリスは唇を引き結び、かすかに頷いた。

 ほんの小さな動きだった。

 だが、頷きだった。

 最後に、ヴィルドリックを見る。

「ヴィルドリック様」

 彼の表情は険しい。

 エルネスタは、震える声を整えた。

「私はもう、あなたの妻ではありません。あなたの屋敷へ戻りません。あなたのために、私が再びあの場所を整えることはありません」

 ヴィルドリックの目が冷える。

「それが君の結論か」

「はい」

 エルネスタは、静かに言った。

「私は、戻りません」

 その言葉は、最初より少しだけはっきりした。

 部屋の空気が、ゆっくり変わった。

 父は怒っている。

 母は泣いている。

 ヴィルドリックは納得していない。

 姉は苦しそうに黙っている。

 親族たちも、完全に理解したわけではないだろう。

 けれど、誰もすぐには言葉を返せなかった。

 エルネスタの拒絶が、場に残ったからだ。

 相手が認めたからではない。

 相手が納得したからでもない。

 ただ、彼女自身の言葉として、そこに立った。

 親族の伯母が、ぽつりと言った。

「……少なくとも、本人の意思は明確ね」

 父が睨む。

 伯母はそれ以上言わなかった。

 けれど、その一言は小さな楔のように場へ残った。

 グランセル家の代理人が、封筒を手に取る。

「記録の写しについては、こちらで確認します」

 ヴィルドリックは不満そうだったが、すぐには反論しなかった。

 父は怒りを飲み込むように深く息をした。

「今日のところは、これで終わりにはできない」

 エルネスタは答えた。

「私の話は、今日はここまでです」

 退席の言葉。

 紙に書いていた。

 今日はここまでにします。

 少し違う形になったが、言えた。

 父が目を剥く。

「勝手に終わらせるな」

 エルネスタは、手袋の葉を握る。

「今日はここまでにします」

 もう一度、丁寧に言った。

 オズヴァルドが静かに立つ。

 彼が先に立つ。

 エルネスタは、その後で立つ。

 逃げるように見えてもいい。

 危ない場から出るのは逃げではない。

 その言葉を思い出す。

 彼女は椅子から立ち上がり、深く一礼した。

「本日は、私の意思をお伝えしました。必要な記録はお渡ししました。これ以上の説明は、今日はいたしません」

 父が何か言いかける。

 しかし、オズヴァルドが一歩だけ位置を変えた。

 エルネスタを隠さない。

 でも、怒声が彼女を直接打たないようにする位置。

 その動きに、父の言葉が止まる。

 エルネスタは、扉へ向かった。

 足が震えている。

 だが、歩ける。

 深い青緑のドレスは、裾を邪魔しない。

 呼吸もできる。

 扉の前で、ベアトリスが小さく言った。

「エルネスタ」

 エルネスタは振り返った。

 姉は、何かを言おうとしていた。

 謝罪か。

 引き止めか。

 分からない。

 だが、出てきたのは小さな声だった。

「記録、待っているわ」

 不器用な言葉。

 謝罪ではない。

 それでも、戻れではなかった。

 エルネスタは、静かに頷いた。

「送ります」

 母は泣いていた。

 父は怒っていた。

 ヴィルドリックは冷たい顔で黙っていた。

 それでも、エルネスタは扉を出た。

 廊下へ出た瞬間、足の力が抜けそうになった。

 けれど、倒れなかった。

 オズヴァルドが隣にいた。

「歩けるか」

 低い声。

 エルネスタは、少し迷ってから答えた。

「少し、手を」

 言えた。

 助けてほしい時の言葉。

 オズヴァルドは、すぐに手を差し出した。

 エルネスタはその手を握った。

 強く。

 彼は何も言わず、歩幅を合わせた。

 廊下の香油の匂い。

 冷たい石の床。

 遠くで聞こえる使用人の足音。

 そのすべてが、さっきより少し遠い。

 玄関までの道は長く感じた。

 だが、彼女は歩いた。

 馬車へ戻る前、外の空気が頬に触れた。

 雨はまだ降っていなかった。

 灰色の空の下、王都の石畳が鈍く光っている。

 エルネスタは、馬車の前で一度立ち止まった。

 胸が痛い。

 喉も痛い。

 全身が疲れている。

 でも、言った。

 私は、戻りません。

 親族たちの前で。

 父の前で。

 母の前で。

 姉の前で。

 ヴィルドリックの前で。

 オズヴァルドが、隣で静かに言った。

「最後まで聞こえた」

 エルネスタは、彼を見た。

 涙が、そこでようやく溢れた。

「本当に」

「ああ」

「震えていました」

「聞こえた」

「怖かったです」

「そうだろう」

「でも、言えました」

 オズヴァルドは頷いた。

「言えた」

 その一言で、エルネスタは泣いた。

 大きな声ではない。

 静かに、ぽろぽろと涙が落ちた。

 オズヴァルドは急かさなかった。

 ただ、馬車の扉の前で彼女が息を整えるまで待った。

 やがて、エルネスタは自分で涙を拭いた。

「帰りたいです」

 その言葉は、自然に出た。

 王都から逃げたい、ではなかった。

 帰りたい。

 帰る場所が、頭に浮かんでいた。

 レナック家の食堂。

 淡い緑の椀。

 マルティナさんの椅子。

 ミレの薬草飴。

 サナの茶。

 新しいカーテンのある部屋。

 北風を塞いだ窓。

 エルネの部屋。

 オズヴァルドは、静かに答えた。

「ああ。帰るぞ」

 馬車に乗る。

 扉が閉まる。

 王都の別邸が、少しずつ遠ざかる。

 エルネスタは窓の外を見なかった。

 膝の上で、生成りの手袋の葉を撫でる。

 その手は、まだ震えていた。

 でも、その震えはもう恥ではない。

 一時の感情すら許されずに生きてきた彼女が、ようやく持てた震えだった。

 馬車が動き出す。

 車輪の音が、石畳から土の道へ変わっていく。

 エルネスタは、疲れ切った体を座席に預け、そっと目を閉じた。

 私は、戻りません。

 その言葉は、もう王都の部屋に置いてきた。

 持ち帰る必要はない。

 けれど、その声を出した自分だけは、レナック家へ連れて帰る。

 隣には、最後まで言葉を待ってくれた人がいる。

 その事実を胸に抱いたまま、エルネスタは帰り道の揺れに身を任せた。


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あらすじ 王太子アルベルトの婚約者として、王都の政務と社交を陰から支えてきた公爵令嬢レティシア。 だが華やかで愛らしい妹エミリアに心を奪われた王太子は、公衆の面前で婚約破棄を宣言する。 「君の役目は妹で足りる」 その言葉に、レティシアは微笑んでうなずいた。 婚約者も、地位も、名誉も、王都での役目も――すべて妹に譲って、王国最北の荒れ果てた辺境領へ去る。 誰もが彼女の没落を信じた。 辺境は痩せた土地、尽きかけた鉱脈、荒れる街道、魔物被害、疲弊した民。 とても令嬢ひとりに立て直せる土地ではない。 ……はずだった。 だが、王都で“地味な婚約者”と蔑まれていた彼女こそ、財務、兵站、外交、治水、徴税、流通、貴族調整まで一手に回していた真の実務者だった。 水路を引き、街道を繋ぎ、鉱山を再生し、魔物を退け、辺境諸族と盟約を結ぶ。 やがて小さな辺境領は、富も軍も人も集まる巨大勢力へと変貌していく。 一方、レティシアを失った王都では、妹と元婚約者による“華やかな政治”が破綻を始めていた。 崩れる財政、乱れる社交、反発する諸侯、迫る凶作、忍び寄る隣国の影。 今さら「戻ってきてほしい」と言われても、もう遅い。 これは、 すべてを奪われたはずの令嬢が辺境から国を超える力を築き、 やがて滅びかけた王国と大陸の秩序そのものを塗り替えていく、 婚約破棄から始まる超大作ファンタジー。

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