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第35話 私は、戻りません
王都の空は、灰色だった。
雲は低く垂れ込め、ヴァルディーン伯爵家別邸の屋根の上に重く乗っているように見えた。朝から降りそうで降らない雨の匂いが、石畳の間にこもっている。馬車の車輪が門前で止まった時、エルネスタは膝の上で手を重ねたまま、しばらく動けなかった。
生成りの手袋。
深緑の葉の刺繍。
その下で、指先が冷えている。
でも、震えは以前より小さかった。
隣に、オズヴァルドがいたからだ。
黒に近い濃紺の礼装用の上着を着て、背筋を伸ばし、いつものように無駄な言葉を口にせずに座っている。けれど、沈黙は拒絶ではない。怒りでもない。エルネスタはもう、それを知っていた。
馬車の中には、薬草飴の小袋と、必要な記録の控えと、言うことを書いた紙があった。
言わないことを書いた紙もある。
戻らない理由を、相手が納得するまで説明し続けない。
父の怒りに謝罪しない。
母の涙に呑まれない。
ヴィルドリックの「妻だった事実」に巻き戻されない。
姉の「家族でしょう」に沈まない。
助けてほしい時は、隣にいてくださいと言う。
声が出ない時は、手袋の葉を握る。
その紙を何度も読んだ。
それでも、いざ王都の別邸を前にすると、胸の奥は細く凍る。
ここは実家そのものではない。
けれど、ヴァルディーン家の空気がある。
門番の制服。
整えられた植え込み。
白い石段。
磨かれた扉。
そのどれもが、エルネスタに「戻れ」と言っているように見えた。
馬車の外で、御者が扉を開ける音がした。
冷たい空気が流れ込む。
オズヴァルドが先に降りた。
彼は振り返り、手を差し出した。
冬祭りの夜と同じ、無言の手。
強く引かない。
選ばせる手。
エルネスタは、一度だけ息を吸った。
深い青緑のドレスは、胸を締めつけない。質素だが品があり、歩きやすい。王都の華美な装いの中では目立たないかもしれないが、鏡の前で見た時、たしかに「私だ」と思えた服だった。
この服なら、声が出る。
そう信じて、彼女はオズヴァルドの手を取った。
馬車を降りると、石畳の冷たさが靴底から伝わった。
空気は湿っている。
庭の冬薔薇は美しく手入れされていたが、匂いはほとんどしなかった。むしろ、濡れた土と石の匂いの方が強い。
玄関の前には、ヴァルディーン家の執事が立っていた。
昔からいる男だ。
エルネスタが幼い頃、父の書斎へ呼ばれるたびに扉を開けていた人。彼は一瞬だけエルネスタの姿を見て、目を伏せた。
「エルネスタ様。お待ちしておりました」
その声に、過去が少しだけ胸へ戻る。
エルネスタ様。
ヴァルディーン家の娘としての呼び名。
レナック家での「エルネさん」や「エルネの部屋」とは違う響き。
エルネスタは、静かに頷いた。
「案内をお願いします」
執事の目が、隣のオズヴァルドへ向く。
「レナック騎士団長も、ご同席とのことで」
「はい」
エルネスタは答えた。
「私の同行者です」
同行者。
護衛でも、代理人でも、代弁者でもない。
隣にいる人。
言葉を待ってくれる人。
執事は一瞬迷ったようだったが、礼をして扉を開けた。
中へ入った瞬間、暖かい空気が顔を撫でた。
だが、レナック家の食堂の暖かさとは違う。
よく整えられた暖房の熱。
磨かれた廊下。
香油の匂い。
乾いた花の匂い。
遠くから聞こえる食器の音。
すべてが丁寧に整っているのに、エルネスタには息がしづらかった。
この家は、きれいだ。
けれど、彼女が眠る部屋ではない。
彼女の淡い緑の椀はない。
生成りのカーテンもない。
北風を塞いだ窓もない。
そう思うことで、少しだけ足元が固まった。
案内されたのは、別邸の大きな応接室だった。
扉の前で、執事が一度立ち止まる。
中から声が聞こえた。
父の低い声。
母のすすり泣くような声。
姉ベアトリスの抑えた声。
そして、ヴィルドリックの声。
心臓が強く鳴った。
エルネスタは、手袋の葉の刺繍を握る。
隣で、オズヴァルドが低く言った。
「いる」
たった二文字。
でも、十分だった。
エルネスタは頷いた。
「はい」
扉が開く。
視線が一斉に向けられた。
部屋には、長い楕円形のテーブルが置かれていた。中央には白い花が飾られ、銀の燭台が左右に並んでいる。壁には重い絵画がかかり、暖炉には火が入っていた。
席には、ヴァルディーン伯爵。
母ロザリア。
姉ベアトリス。
親族の叔父夫婦。
伯母。
グランセル侯爵家の代理人。
そして、ヴィルドリック。
彼は黒に近い灰色の上着を着て、きちんと髪を整えていた。顔色は悪くない。けれど、目の奥には苛立ちが残っている。
エルネスタが入ると、ヴィルドリックの視線はまず彼女のドレスへ向かった。
豪華ではない服。
だが、みすぼらしくはない。
派手さはないが、背筋の伸びる服。
彼はわずかに眉を動かした。
父も同じように、彼女の装いを見た。
母は、顔を見た瞬間に目に涙を溜めた。
ベアトリスは、何か言いたげに唇を引き結んだ。
親族たちの視線が、静かに刺さる。
離縁された娘。
実家に戻らない娘。
元夫の家にも戻らない女。
小さな騎士家に身を寄せている女。
そういう札が、彼らの目の中に見えた。
けれど、エルネスタは部屋の入口で立ち止まらなかった。
オズヴァルドが隣にいる。
彼は前に出ない。
彼女の半歩後ろでもない。
隣。
エルネスタは、用意された席へ向かった。
父が低く言う。
「ようやく来たか」
その声だけで、背中が冷たくなる。
だが、エルネスタは座る前に一礼した。
「本日は、お招きに応じて参りました」
声は少し震えた。
でも、部屋に届いた。
オズヴァルドが隣の席に立つ。
父の目が鋭くなった。
「レナック騎士団長。これは親族会議だ。あなたの同席は本来」
エルネスタは、父の言葉が終わる前に静かに口を開いた。
「オズヴァルド様は、私の同行者です」
父の視線が彼女へ向く。
息が詰まりそうになる。
だが、エルネスタは続けた。
「本日、私は一人では参りません。私が話すために、隣にいていただきます」
父の顔に不快が浮かぶ。
「お前は自分一人で話もできないのか」
その言葉は、予想していた。
紙には書かなかったが、心の中で何度も練習した。
エルネスタは、手袋の葉を握った。
「話します」
静かに答える。
「だから、隣にいていただきます」
部屋に沈黙が落ちた。
父は不快そうに息を吐いたが、それ以上は言わなかった。
ヴィルドリックが椅子から少し身を乗り出す。
「始めよう。ここへ来た以上、ようやく冷静に話す気になったのだろう」
冷静に。
その言葉が、胸に触れる。
けれど、もうすぐには傷つかない。
エルネスタは椅子に座った。
オズヴァルドも隣に座る。
彼は何も言わない。
だが、沈黙は拒絶ではない。
エルネスタは知っている。
父が書類を手元に置いた。
「まず確認する。お前は、現在レナック家に滞在している。だが、正式な身分としてはヴァルディーン伯爵家の娘であることに変わりはない」
「はい」
「グランセル侯爵家との離縁後、本来であれば速やかに実家へ戻り、今後の処遇を親族間で相談すべきだった」
処遇。
人ではなく、荷物のような言葉。
エルネスタは、心の中で小さく息をした。
言わないこと。
父の言葉にすぐ反論し続けない。
言うこと。
私は戻りません。
父は続けた。
「にもかかわらず、お前は勝手に家を出て、地方騎士家に身を寄せた。王都では不名誉な噂が立っている。伯爵家にとっても、グランセル家にとっても看過できない」
母がハンカチを握りしめる。
「エルネスタ。お母様、本当に心配していたのよ」
ベアトリスは視線を逸らしたまま、黙っている。
親族の伯母がため息をつく。
「娘が親族に断りもなく他家へ入り浸るなど、たしかに体裁が悪いわね」
入り浸る。
その言葉に、エルネスタの胸が痛む。
だが、今は説明し続けない。
ヴィルドリックが言った。
「私は、君に一時的な感情の乱れがあったと見ている。離縁の件で傷ついたのは理解する。しかし、いつまでも周囲を巻き込むのは君らしくない」
君らしくない。
その言葉が、過去の鎖のように響いた。
彼にとっての「君らしい」は、黙って従うことだ。
それを、エルネスタは今なら分かる。
父が机を指で叩いた。
「今回の会議では、三点を決める。お前の実家への帰還。グランセル家との記録整理。今後の再婚を含む身の振り方」
決める。
自分抜きで。
それが、あまりにも自然に言われた。
エルネスタは、自分の膝の上で手袋の葉を握った。
声が一瞬出なくなりそうになる。
オズヴァルドを見た。
彼は、こちらを見ていなかった。
会議の場を見ている。
だが、彼の手が、テーブルの下でほんの少しだけエルネスタの方へ寄った。
触れない。
けれど、そこにあると分かる距離。
隣にいる。
言葉は待つ。
エルネスタは、息を吸った。
「決める前に」
声は小さかった。
しかし、部屋に落ちた。
父が眉を寄せる。
「何だ」
「私の意思を、お伝えします」
ヴィルドリックが目を細める。
「そのための会議だ」
エルネスタは、彼を見た。
恐怖はある。
けれど、真正面から見た。
「私は、ヴァルディーン伯爵家へ戻りません」
最初の一文。
部屋の空気が止まった。
母が小さく息を呑む。
父の顔が赤くなる。
ベアトリスの目が揺れる。
エルネスタは続けた。
「グランセル侯爵家へも戻りません」
ヴィルドリックの表情が冷えた。
「私は再婚を望んでいません」
伯母が唇を開きかけたが、言葉は出なかった。
「私の今後について、私の意思を抜きに決めないでください」
四つの文。
紙に書いた通りの言葉。
震えている。
でも、言えた。
父が机を強く叩いた。
乾いた音が部屋に響く。
「何を勝手なことを言っている!」
母が涙をこぼす。
「エルネスタ、どうしてそんなことを言うの。家族なのよ」
ヴィルドリックは、冷たく言った。
「やはり一時の感情だな。君は自分の立場を正しく見ていない」
親族の叔父が咳払いをする。
「若い女性が感情的になるのは分からなくもないが、今後の生活を考えれば」
いくつもの声が重なる。
怒り。
涙。
説得。
体面。
家族。
責任。
言葉が、エルネスタへ向かって降ってくる。
昔なら、この時点で顔を伏せていた。
謝っていた。
父の怒りを鎮めようとしていた。
母の涙を止めようとしていた。
ヴィルドリックの言葉に、そうですねと頷いていた。
でも、今は違う。
エルネスタは、黙ってその声を聞いた。
手袋の葉を握る。
深く息を吸う。
このドレスは、息を邪魔しない。
だから、声が出る。
彼女は静かに言った。
「一時の感情だと、おっしゃいましたね」
ヴィルドリックの言葉が止まる。
父の怒声も、少しだけ途切れた。
エルネスタは、ヴィルドリックを見た。
「何度も、そう言われました。冷静ではない。感情的だ。一時の乱れだと」
ヴィルドリックは眉をひそめる。
「事実だ。君は今、感情で動いている」
「はい」
エルネスタは、静かに頷いた。
部屋の空気が少し揺れた。
肯定するとは思われていなかったのだろう。
「私は感情があります」
彼女は言った。
「怖いと思います。嫌だと思います。悲しいと思います。戻りたくないと思います。会いたくないと思う時もあります」
母が泣きながら首を振る。
「そんな……家族に向かって」
エルネスタは、母の方を見た。
声を荒らさない。
泣き崩れない。
丁寧に。
しかし確実に。
「お母様。私はずっと、一時の感情すら許されずに生きてきました」
母の涙が止まったように見えた。
父が顔をしかめる。
エルネスタは、続けた。
「怒ってはいけない。悲しんではいけない。傷ついた顔をしてはいけない。家族なのだから許しなさい。妻なのだから黙りなさい。娘なのだから従いなさい。そうして、私は自分の感情を、いつも後回しにしてきました」
部屋が静かになる。
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
「離縁状を朝食の前に置かれた日も、私は泣きませんでした。怒りませんでした。怒っていいのかも、泣いていいのかも分からなかったからです」
ヴィルドリックの顔が硬くなる。
あの日を、彼も思い出したのだろう。
冷たい食堂。
離縁状。
婚姻の役目は終わった。
実家へ戻ればいい。
彼にとっては、終わらせた朝。
エルネスタにとっては、帰る場所を失った朝。
「実家へ戻った日、私の部屋はありませんでした。私の食器も、席もありませんでした。けれど、私は怒りませんでした。傷ついたと言うこともできませんでした」
ベアトリスの顔が白くなる。
母がハンカチを握りしめる。
父は、まだ険しい顔をしている。
「私は、感情を出すことが許されていなかったのです」
エルネスタは、ゆっくり言葉を置いた。
「ですから、今、ようやく戻りたくないという感情を持てたことを、一時の感情だからと軽く扱わないでください」
誰も、すぐには言わなかった。
親族の伯母が、目を伏せる。
叔父夫婦も、互いに視線を交わした。
ヴィルドリックは、冷静さを保とうとした声で言う。
「それは、君が傷ついたという話だ。だが、現実には屋敷の管理記録があり、侯爵家には支障が出ている。君には前侯爵夫人としての責任が」
「必要な記録の写しは持参しました」
エルネスタは、机の上の封筒を差し出した。
サナと一緒に整え、オズヴァルドにも確認してもらったものだ。
「来客控え、贈答記録、共有してよい範囲の使用人配置、季節ごとの注意事項です。私個人の記録や、私の感情を書いたものは含めていません」
ヴィルドリックの目が、封筒へ向く。
エルネスタは続けた。
「これをお渡しします。ですが、私はグランセル侯爵家へ戻りません」
ヴィルドリックの顔が歪む。
「記録だけ渡して済むと思っているのか」
「はい」
エルネスタは答えた。
はっきりと。
「私が担っていた実務の一部は、記録として渡せます。でも、私自身は戻りません」
「君は」
「私は、あなたの後始末ではありません」
その言葉に、部屋がまた静まった。
第21話で言った言葉。
今度は、親族たちの前で言った。
ヴィルドリックの唇が引き結ばれる。
「君は、私がどれほど屋敷のことで困っているか」
「困っていることと、私が戻ることは別です」
エルネスタの声は、まだ震えている。
けれど、切れない。
「記録は渡します。必要なら、書面で追加の確認に応じます。ですが、直接呼び出されて何度も説明し続けることはしません。私は戻りません」
ヴィルドリックが、机に手を置いた。
「それは責任逃れだ」
胸が痛む。
でも、エルネスタは息を吸った。
納得させる必要はない。
オズヴァルドの言葉が胸にある。
「そう思われるなら、それ以上の説明はしません」
ヴィルドリックの目がわずかに見開かれる。
エルネスタは静かに言った。
「私は、あなたを納得させるために、これ以上自分を削りません」
その言葉は、部屋に深く落ちた。
親族の一部が沈黙する。
伯母が、初めてエルネスタをまっすぐ見た。
叔父は何か言いかけて、やめた。
父が怒りを押し殺した声で言う。
「お前は、実家への不義理をどう考えている」
エルネスタは父を見る。
やはり怖い。
喉が固くなる。
父の声は、まだ身体の奥へ響く。
けれど、今はオズヴァルドが隣にいる。
彼は何も言わない。
エルネスタの言葉を待っている。
「不義理とおっしゃるなら」
エルネスタは言った。
「私は、離縁された日に一度、実家へ戻りました」
父の顔が固くなる。
母の肩が震える。
「その時、私の部屋はありませんでした。私の食器もありませんでした。私を迎える席もありませんでした」
ベアトリスが俯く。
エルネスタは、姉を責める目では見なかった。
ただ、事実を置く。
「私は、その日に知りました。私の帰る場所は、もうあの家にはないのだと」
父が低く唸るように言った。
「急なことで準備が整っていなかっただけだ」
「そうかもしれません」
エルネスタは、否定しなかった。
「でも、その後にお父様は、私を再婚の駒として戻そうとしました。お母様は家族なんだから許してと言いました。お姉様は、家が困っているから戻ればいいと言いました」
母が泣き出す。
「そんな言い方はしていないわ。お母様は、あなたを心配して」
「心配してくださったのだと思います」
エルネスタは、母へ静かに言った。
「でも、お母様の涙を見ると、私は自分が悪いのだと思ってしまいます。戻らなければならないと思ってしまいます。だから今は、距離が必要です」
「家族なのよ」
母の声は弱い。
以前なら、その声だけで揺らいだ。
けれど、今は言える。
「家族でも、距離が必要なことはあります」
ロザリアは涙をこぼし続けたが、反論できなかった。
ベアトリスが小さく口を開く。
「エルネスタ」
その声は、いつもの高慢さより少し弱かった。
「実家の記録は」
「まとめています」
エルネスタは答えた。
「数日中に、写しをお送りします。お姉様へも、必要なものを分けてお渡しします」
ベアトリスの唇が震えた。
「でも、戻らないのね」
「戻りません」
静かな首振り。
ベアトリスは、今度は何も言わなかった。
その沈黙は、諦めではないかもしれない。
理解でもないかもしれない。
でも、少なくとも「戻ればいいじゃない」は出てこなかった。
父が耐えかねたように立ち上がった。
「認められん!」
怒声が部屋を打つ。
エルネスタの体がびくりと震えた。
その瞬間、オズヴァルドが静かに立ち上がった。
椅子が床をこする音が、父の怒声よりも低く響く。
彼は前へ出ない。
エルネスタの言葉を奪わない。
ただ、立った。
それだけで、父の怒りが一瞬止まる。
オズヴァルドは低く言った。
「声を荒げるな」
父の目が怒りに燃える。
「部外者が」
「エルネスタの同行者だ」
オズヴァルドは、短く返した。
「彼女の言葉が最後まで届くようにいる」
エルネスタの胸が震えた。
守る、とは言わない。
代わりに言う、とも言わない。
彼女の言葉が最後まで届くようにいる。
それが、今の彼の役割だった。
父は睨みつけた。
だが、親族たちの前でこれ以上怒鳴ることはできなかったのだろう。ゆっくり椅子へ戻る。
エルネスタは、オズヴァルドを見た。
彼は一度だけ彼女を見る。
大丈夫か、とは言わない。
言葉を待つ目だった。
エルネスタは小さく頷いた。
自分で言う。
最後まで。
「お父様」
父の視線が彼女へ戻る。
エルネスタは背筋を伸ばした。
「認めていただけなくても、私は戻りません」
父の顔が硬くなる。
「お母様」
母が涙で濡れた目を向ける。
「泣かれても、私は今、戻りません。お母様を憎んでいるからではありません。私が壊れないためです」
母は口元を押さえた。
「お姉様」
ベアトリスが、静かに顔を上げる。
「家の記録はお送りします。でも、私はその仕事を続けるために戻りません」
ベアトリスは唇を引き結び、かすかに頷いた。
ほんの小さな動きだった。
だが、頷きだった。
最後に、ヴィルドリックを見る。
「ヴィルドリック様」
彼の表情は険しい。
エルネスタは、震える声を整えた。
「私はもう、あなたの妻ではありません。あなたの屋敷へ戻りません。あなたのために、私が再びあの場所を整えることはありません」
ヴィルドリックの目が冷える。
「それが君の結論か」
「はい」
エルネスタは、静かに言った。
「私は、戻りません」
その言葉は、最初より少しだけはっきりした。
部屋の空気が、ゆっくり変わった。
父は怒っている。
母は泣いている。
ヴィルドリックは納得していない。
姉は苦しそうに黙っている。
親族たちも、完全に理解したわけではないだろう。
けれど、誰もすぐには言葉を返せなかった。
エルネスタの拒絶が、場に残ったからだ。
相手が認めたからではない。
相手が納得したからでもない。
ただ、彼女自身の言葉として、そこに立った。
親族の伯母が、ぽつりと言った。
「……少なくとも、本人の意思は明確ね」
父が睨む。
伯母はそれ以上言わなかった。
けれど、その一言は小さな楔のように場へ残った。
グランセル家の代理人が、封筒を手に取る。
「記録の写しについては、こちらで確認します」
ヴィルドリックは不満そうだったが、すぐには反論しなかった。
父は怒りを飲み込むように深く息をした。
「今日のところは、これで終わりにはできない」
エルネスタは答えた。
「私の話は、今日はここまでです」
退席の言葉。
紙に書いていた。
今日はここまでにします。
少し違う形になったが、言えた。
父が目を剥く。
「勝手に終わらせるな」
エルネスタは、手袋の葉を握る。
「今日はここまでにします」
もう一度、丁寧に言った。
オズヴァルドが静かに立つ。
彼が先に立つ。
エルネスタは、その後で立つ。
逃げるように見えてもいい。
危ない場から出るのは逃げではない。
その言葉を思い出す。
彼女は椅子から立ち上がり、深く一礼した。
「本日は、私の意思をお伝えしました。必要な記録はお渡ししました。これ以上の説明は、今日はいたしません」
父が何か言いかける。
しかし、オズヴァルドが一歩だけ位置を変えた。
エルネスタを隠さない。
でも、怒声が彼女を直接打たないようにする位置。
その動きに、父の言葉が止まる。
エルネスタは、扉へ向かった。
足が震えている。
だが、歩ける。
深い青緑のドレスは、裾を邪魔しない。
呼吸もできる。
扉の前で、ベアトリスが小さく言った。
「エルネスタ」
エルネスタは振り返った。
姉は、何かを言おうとしていた。
謝罪か。
引き止めか。
分からない。
だが、出てきたのは小さな声だった。
「記録、待っているわ」
不器用な言葉。
謝罪ではない。
それでも、戻れではなかった。
エルネスタは、静かに頷いた。
「送ります」
母は泣いていた。
父は怒っていた。
ヴィルドリックは冷たい顔で黙っていた。
それでも、エルネスタは扉を出た。
廊下へ出た瞬間、足の力が抜けそうになった。
けれど、倒れなかった。
オズヴァルドが隣にいた。
「歩けるか」
低い声。
エルネスタは、少し迷ってから答えた。
「少し、手を」
言えた。
助けてほしい時の言葉。
オズヴァルドは、すぐに手を差し出した。
エルネスタはその手を握った。
強く。
彼は何も言わず、歩幅を合わせた。
廊下の香油の匂い。
冷たい石の床。
遠くで聞こえる使用人の足音。
そのすべてが、さっきより少し遠い。
玄関までの道は長く感じた。
だが、彼女は歩いた。
馬車へ戻る前、外の空気が頬に触れた。
雨はまだ降っていなかった。
灰色の空の下、王都の石畳が鈍く光っている。
エルネスタは、馬車の前で一度立ち止まった。
胸が痛い。
喉も痛い。
全身が疲れている。
でも、言った。
私は、戻りません。
親族たちの前で。
父の前で。
母の前で。
姉の前で。
ヴィルドリックの前で。
オズヴァルドが、隣で静かに言った。
「最後まで聞こえた」
エルネスタは、彼を見た。
涙が、そこでようやく溢れた。
「本当に」
「ああ」
「震えていました」
「聞こえた」
「怖かったです」
「そうだろう」
「でも、言えました」
オズヴァルドは頷いた。
「言えた」
その一言で、エルネスタは泣いた。
大きな声ではない。
静かに、ぽろぽろと涙が落ちた。
オズヴァルドは急かさなかった。
ただ、馬車の扉の前で彼女が息を整えるまで待った。
やがて、エルネスタは自分で涙を拭いた。
「帰りたいです」
その言葉は、自然に出た。
王都から逃げたい、ではなかった。
帰りたい。
帰る場所が、頭に浮かんでいた。
レナック家の食堂。
淡い緑の椀。
マルティナさんの椅子。
ミレの薬草飴。
サナの茶。
新しいカーテンのある部屋。
北風を塞いだ窓。
エルネの部屋。
オズヴァルドは、静かに答えた。
「ああ。帰るぞ」
馬車に乗る。
扉が閉まる。
王都の別邸が、少しずつ遠ざかる。
エルネスタは窓の外を見なかった。
膝の上で、生成りの手袋の葉を撫でる。
その手は、まだ震えていた。
でも、その震えはもう恥ではない。
一時の感情すら許されずに生きてきた彼女が、ようやく持てた震えだった。
馬車が動き出す。
車輪の音が、石畳から土の道へ変わっていく。
エルネスタは、疲れ切った体を座席に預け、そっと目を閉じた。
私は、戻りません。
その言葉は、もう王都の部屋に置いてきた。
持ち帰る必要はない。
けれど、その声を出した自分だけは、レナック家へ連れて帰る。
隣には、最後まで言葉を待ってくれた人がいる。
その事実を胸に抱いたまま、エルネスタは帰り道の揺れに身を任せた。
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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』
常陸之介寛浩📚️書籍・本能寺から始める
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あらすじ
王太子アルベルトの婚約者として、王都の政務と社交を陰から支えてきた公爵令嬢レティシア。
だが華やかで愛らしい妹エミリアに心を奪われた王太子は、公衆の面前で婚約破棄を宣言する。
「君の役目は妹で足りる」
その言葉に、レティシアは微笑んでうなずいた。
婚約者も、地位も、名誉も、王都での役目も――すべて妹に譲って、王国最北の荒れ果てた辺境領へ去る。
誰もが彼女の没落を信じた。
辺境は痩せた土地、尽きかけた鉱脈、荒れる街道、魔物被害、疲弊した民。
とても令嬢ひとりに立て直せる土地ではない。
……はずだった。
だが、王都で“地味な婚約者”と蔑まれていた彼女こそ、財務、兵站、外交、治水、徴税、流通、貴族調整まで一手に回していた真の実務者だった。
水路を引き、街道を繋ぎ、鉱山を再生し、魔物を退け、辺境諸族と盟約を結ぶ。
やがて小さな辺境領は、富も軍も人も集まる巨大勢力へと変貌していく。
一方、レティシアを失った王都では、妹と元婚約者による“華やかな政治”が破綻を始めていた。
崩れる財政、乱れる社交、反発する諸侯、迫る凶作、忍び寄る隣国の影。
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