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第37話 好きです、とはまだ言えないけれど
王都からの帰り道、馬車の窓に小さな雨粒が当たり始めた。
降るのか降らないのか分からない灰色の空は、ようやく耐えきれなくなったように、細い雨を落としていた。激しい雨ではない。けれど、冬の雨は音よりも冷たさで存在を知らせる。
ぽつ、ぽつ、と窓硝子に小さな点がつく。
車輪が石畳を抜け、土の道へ入ると、音が少し柔らかくなった。王都の硬い響きが遠ざかり、かわりに湿った土を踏む低い音が馬車の床下から伝わってくる。
エルネスタは、窓の外を見ていた。
見ているつもりだった。
けれど、景色はほとんど頭に入ってこない。
王都の門を抜け、家々が少しずつ低くなり、畑が増え、遠くに冬枯れの木々が並ぶ。普段なら、その変化に胸が少し軽くなったかもしれない。レナック家へ近づいている、と分かったかもしれない。
でも今は、身体の内側が空っぽだった。
力を使い果たした後の、静かな虚脱。
会議の部屋で、彼女は言った。
私は、戻りません。
父にも。
母にも。
姉にも。
ヴィルドリックにも。
そして、その後の廊下でも言った。
二人きりでは話しません。
私らしいを決めないでください。
私が満足するかどうかを、あなたが決めないでください。
それらの言葉は、どれも短いものだった。
けれど、エルネスタにとっては、長い長い坂道を一歩ずつ登るような重さがあった。
言い終えた時、胸の奥で何かが軽くなった気がした。
同時に、身体が一気に冷えた。
張りつめていた糸が切れたように、手も足も、背中も、まぶたも、すべてが重い。
馬車の向かいには、オズヴァルドが座っている。
彼は窓の外を見ていた。
外套の襟は少し雨に濡れており、黒に近い布がところどころ濃くなっている。王都の別邸を出る時、彼はエルネスタに先に馬車へ乗るよう促し、自分は御者と帰路の確認をしていた。その間に、細い雨が肩に落ちたのだろう。
濡れた外気と革の匂いが、馬車の中にほんの少し混じっている。
それは、不思議と嫌ではなかった。
ヴィルドリックの香油の匂いとも、父の書斎の乾いた紙と苦い茶の匂いとも違う。
冬の外を歩いてきた人の匂い。
雨の始まりを連れてきたような匂い。
エルネスタは、膝の上で手袋の葉の刺繍を撫でた。
生成りの手袋は、今日一日、彼女の指を守ってくれていた。会議の席でも、廊下でも、馬車へ戻る時も。緊張で冷えた指先は、何度もその小さな葉を握った。
好きです。
その言葉が、まだ胸の中にはなかった。
いや、正確には、なかったことにしていた。
オズヴァルドへの気持ちは、感謝だと思っていた。
安心だと思っていた。
守ってくれる人への信頼だと思っていた。
雨の街道で拾われ、食卓に座らせてもらい、泣いても叱られず、鍵のかかる部屋を与えられ、薬草畑を作り、冬祭りで手を取られ、王都で隣に立ってもらった。
その積み重ねは、あまりにも大きい。
だから、胸が揺れるのは当然だと思っていた。
でも、廊下でオズヴァルドが静かに怒った時。
離縁した女を、まだ所有物のように呼ぶな。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に灯ったものは、感謝だけではなかった。
自分のために怒ってくれる人がいる。
自分を物ではないと言ってくれる人がいる。
本人の意思を聞く、と言ってくれる人がいる。
その事実に、ただ救われただけではなかった。
彼の横顔を見た時。
低く、抑えた声を聞いた時。
ヴィルドリックの前へ半歩出た背中を見た時。
胸が痛いほど熱くなった。
怖いほど、嬉しかった。
その嬉しさの名前を、まだ見たくなかった。
馬車が揺れた。
エルネスタの肩が、小さく傾く。
オズヴァルドがすぐに視線を戻した。
「具合が悪いか」
低い声。
責める声ではない。
確認する声。
エルネスタは、ゆっくり首を振った。
「いいえ。ただ、少し疲れただけです」
言ってから、少しだけ考えた。
大丈夫です、と言わなかった。
少し疲れただけ。
それは、たぶん正しい。
オズヴァルドも、その言い方に気づいたのだろう。ほんのわずかに目元を緩めた。
「疲れているなら、寝ろ」
「馬車で眠るのは、失礼では」
「失礼じゃない」
即答だった。
エルネスタは、少しだけ笑った。
「オズヴァルド様は、いつもそういうところが早いですね」
「何がだ」
「私が気にしていることを、すぐ切ってくださるところです」
彼は少し考えた。
「余計な心配だからな」
「余計」
「疲れたなら寝る。それだけだ」
あまりにも単純な答えに、エルネスタはまた小さく笑った。
その笑いの後、まぶたが重くなった。
眠るつもりはなかった。
王都から帰る馬車の中で眠るなんて、無防備すぎる気がした。いくらオズヴァルドがいるとはいえ、まだ身体の奥には緊張が残っている。父の怒声も、母の涙も、ヴィルドリックの視線も、完全には遠ざかっていない。
けれど、馬車の揺れは一定だった。
雨の音も細く続いている。
ぽつ、ぽつ。
車輪の低い音。
馬の蹄。
外套の濡れた匂い。
隣ではなく向かいにいる、オズヴァルドの静かな気配。
そのすべてが、張りつめた身体を少しずつほどいていく。
エルネスタは、窓の外を見ようとしていた。
けれど、景色は滲んでいく。
まぶたが落ちる。
いけない、と思った。
まだ、起きていなければ。
でも、何のために。
誰に見られているわけでもない。
ここは王都の応接室ではない。
ヴィルドリックの前でも、父の前でもない。
馬車の中で、帰り道で、向かいにオズヴァルドがいるだけ。
なら、少しだけ。
少しだけなら。
そう思ったところで、意識は静かに沈んだ。
眠りは深くはなかった。
けれど、暗くもなかった。
夢の中で、エルネスタは古い廊下を歩いていた。
ヴァルディーン家の廊下。
グランセル家の食堂。
王都の別邸。
それらがひとつに混ざったような場所だった。
父が呼ぶ。
エルネスタ。
母が泣く。
家族なのよ。
ヴィルドリックが言う。
君らしくない。
姉が言う。
戻ればいいじゃない。
その声が、廊下の壁から染み出す。
エルネスタは歩く。
足元が冷たい。
どこへ向かえばいいのか分からない。
でも、ある角を曲がると、生成りのカーテンが見えた。
北風を塞いだ窓。
淡い緑の椀。
薬草畑の土の匂い。
冬祭りの鈴。
そして、低い声。
いる。
たったそれだけの声。
エルネスタは、その声の方へ歩いた。
目を覚ました時、馬車の中は少し暗くなっていた。
夕方が近いのだろう。
窓の外は灰色から薄い藍色へ変わり始めていた。雨はまだ降っているが、音はさらに細くなっている。窓硝子を伝う雨粒が、外の景色をゆっくり歪ませていた。
最初に感じたのは、温かさだった。
肩から胸元にかけて、重みがある。
エルネスタはぼんやりと視線を落とした。
黒い外套がかけられていた。
オズヴァルドの外套。
厚手の布に、外気と革と、かすかな雨の匂いが染みている。さっき彼が身につけていたものだ。まだ少しだけ、彼の体温が残っている気がした。
エルネスタは、息を止めた。
眠っていた。
自分は、馬車の中で眠ってしまった。
そして、オズヴァルドが外套をかけてくれた。
向かいを見ると、彼は外套なしで座っていた。上着だけになっている。姿勢は変わらず、窓の外へ視線を向けているが、腕を組んでいる手が少し冷えているように見えた。
エルネスタは慌てて身を起こした。
「あ、あの」
声を出すと、少し喉が掠れていた。
オズヴァルドが視線を戻す。
「起きたか」
「はい。私、眠ってしまって」
「ああ」
「申し訳ありません」
反射で謝ってしまった。
言った瞬間、自分で気づく。
オズヴァルドも気づいたようだった。
彼は少し眉を寄せる。
「謝ることじゃない」
「……はい」
「疲れていた」
「はい」
「だから寝た」
「はい」
短い確認のような言葉。
その単純さに、胸が少し緩んだ。
エルネスタは、肩にかかった外套を見た。
「これ、オズヴァルド様の」
「ああ」
「寒くありませんか」
「俺はいい」
「でも、雨で冷えて」
「俺はいい」
彼は同じ言葉を繰り返した。
エルネスタは、外套を返そうと手をかける。
しかし、彼は静かに言った。
「かけていろ」
「でも」
「冷えていた」
その声は、少しだけ低くなった。
責めるのではなく、事実を告げる声。
「眠っている間、手が冷たかった」
エルネスタは、自分の指先を見た。
生成りの手袋をしているのに、たしかに指の奥がまだ冷えている。
会議の緊張。
廊下での対峙。
王都の空気。
それらが、眠った後も身体を冷やしていたのだろう。
オズヴァルドは続けた。
「だからかけた」
それだけ。
でも、その「だから」の中に、彼の優しさがすべて入っていた。
寒そうだったから。
冷えていたから。
かけた。
それ以上でも、それ以下でもない。
エルネスタは、外套の端を握った。
厚い布が手袋越しに指へ触れる。
彼の体温の残りが、そこにあるようで、胸がひどく落ち着かなくなった。
「ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
いつもの返し。
けれど、今日は少し違って聞こえた。
礼を言うことではない。
彼にとっては、自然なことなのだ。
寒そうな人に外套をかける。
疲れた人を眠らせる。
怖がる人の隣に立つ。
所有物のように扱われた人のために怒る。
それらが、彼の中ではきっとひとつながりなのだ。
エルネスタは、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。
感謝だけではない。
安心だけでもない。
この外套を返したくないと思ってしまう。
彼の温度を、もう少しだけまとっていたいと思ってしまう。
その感情に気づいた瞬間、胸が怖くなった。
好きです。
言葉が、心の奥で形を取りかける。
エルネスタは、反射的にその言葉から目を逸らした。
だめだ。
まだ、だめだ。
好きと言ったら、何かが壊れてしまうかもしれない。
この居場所が。
この食卓が。
この部屋が。
この、隣にいてくれる距離が。
オズヴァルドが優しいのは、自分を守るべき人だと思っているからかもしれない。
レナック家にいる客人で、傷ついた女で、支える必要がある存在だからかもしれない。
それを、恋と呼んでしまったら。
彼が困るかもしれない。
マルティナさんやミレやサナが作ってくれた、この温かな空気に、余計な気まずさを持ち込んでしまうかもしれない。
自分は、やっと居場所を手に入れたばかりだ。
好きです、などと言ってしまったら。
もし、彼が同じ気持ちではなかったら。
もし、彼が優しさと責任で接していただけだったら。
自分はまた、帰る場所を失うのではないか。
その恐怖が、胸を締めつけた。
エルネスタは、外套をぎゅっと握った。
好き、という言葉が怖い。
戻りません、より怖い気がした。
戻りませんは、自分を守る言葉だった。
でも、好きですは、自分を差し出す言葉のように思えた。
まだ、差し出すのが怖い。
オズヴァルドが、彼女の表情を見て少し眉を寄せた。
「どうした」
エルネスタは、息を止める。
言えない。
好きです、とはもちろん言えない。
でも、大丈夫です、とも言わない。
彼と約束した。
大丈夫ではない時は、できるだけ言う。
「少し」
声が小さくなる。
「胸が、いっぱいになってしまって」
オズヴァルドは黙った。
エルネスタの肩が少し強ばる。
すると彼は、すぐに言った。
「怒っていない」
その確認に、胸が少しだけほどける。
「はい」
「言葉を探している」
「はい」
オズヴァルドは、少しだけ視線を窓へ逸らした。
「今日は多すぎた」
彼は言った。
「言ったことも、聞いたことも、耐えたことも」
その言葉に、エルネスタは目を瞬いた。
そうだ。
今日は多すぎたのだ。
親族会議。
父。
母。
姉。
ヴィルドリック。
戻りません。
二人きりでは話しません。
所有物のように呼ぶな。
帰路。
外套。
胸の奥に生まれた、名前をつけるのが怖い感情。
あまりにも多すぎて、心の器から溢れている。
「はい」
エルネスタは、ぽつりと答えた。
「多すぎました」
「なら、今は考えなくていい」
オズヴァルドの声は、低く、穏やかだった。
「帰ることだけ考えろ」
帰ること。
その言葉が、胸に落ちる。
今すぐ、好きかどうかを決めなくていい。
この感情に名前をつけなくていい。
ただ、帰る。
レナック家へ。
自分の部屋へ。
今はそれでいい。
エルネスタは、ゆっくり頷いた。
「はい。帰ることだけ」
外套をもう一度肩に寄せる。
温かい。
彼の外套の中で、怖い感情も、嬉しい感情も、いったん静かになる。
向かいで、オズヴァルドは窓の外へ視線を戻した。
けれど、彼の内側もまた、静かではなかった。
エルネスタが眠ってしまった時、最初に彼が感じたのは、安堵だった。
やっと眠った。
そう思った。
王都の別邸で、彼女は震えながらも言葉を出した。
父の怒りにも、母の涙にも、元夫の冷たい決めつけにも、途中で折れなかった。廊下でも、ヴィルドリックに二人きりでは話さないと言った。
強かった。
だが、強いという言葉だけで片づけるのは違う。
彼女は怖いまま立っていた。
膝が震え、喉が掠れ、手袋の葉を握りしめ、それでも言った。
その姿を隣で見ていた時、オズヴァルドの胸の奥には、ずっと抑えた怒りと、別の熱があった。
守りたい。
最初はそうだった。
雨の街道で倒れかけていた女。
食卓で泣いてしまう女。
返事をしない権利を知らなかった女。
戻りませんと震えながら言う女。
守らなければと思った。
だが、いつの間にか、それだけではなくなっていた。
彼女が笑うと、食堂の空気が柔らかくなる。
焼き林檎を前にした時の小さな表情。
子どもたちに字を教える時の真面目な声。
薬草畑で土に触れる指先。
冬祭りでぎこちなく踊った歩幅。
自分の部屋のカーテンを見て泣いた目。
王都の会議で「私は戻りません」と言った背筋。
その一つひとつを思い出すたび、胸の奥に同じ結論が積もっていく。
好きなのだ。
もう、認めない方が不自然だった。
彼女を守りたい。
それは確かにある。
だが、守るだけではなく、彼女が笑う場所に自分もいたい。
彼女が何かを選ぶ時、その隣にいたい。
彼女が寒いと言える窓を、これからも塞いでやりたい。
泣いても叱られない食卓で、彼女が少しずつ好きな味を増やしていくのを見ていたい。
そう思ってしまう。
それは、恋だった。
だが、その言葉を彼女に向けることはできなかった。
今の彼女は、ようやく自分の意思を取り戻し始めたところだ。
父の家から、元夫の家から、家族という言葉から、妻だった事実から、少しずつ自分を取り戻している。
そこへ自分が好きだと言ったら。
それがまた、新しい義務になってしまわないか。
応えなければならないと思わせてしまわないか。
この家にいられる条件のように受け取らせてしまわないか。
彼女は優しい。
人の痛みに敏い。
自分が好意を告げれば、きっと真剣に受け止める。
受け止めすぎる。
それが怖かった。
オズヴァルドは、窓の外を見た。
雨粒が硝子を伝う。
外の景色は暗くなり始めている。
馬車の中で、彼女は自分の外套を握っている。
その姿を見て、胸が静かに苦しくなった。
今すぐ手を伸ばして、寒くないかと聞きたい。
王都でよく言った、ともう一度言いたい。
物ではないと、何度でも言いたい。
けれど、好きだとは言わない。
まだ。
彼女の自由を奪いたくない。
彼女がようやく選び始めた場所に、自分の感情を重石のように置きたくない。
だから、今は外套だけでいい。
寒そうだったから、かけた。
それだけでいい。
馬車がまた揺れた。
エルネスタが少しだけ外套を掴み直す。
オズヴァルドは、それに気づきながらも何も言わなかった。
言葉にすれば、きっと余計なものまで出てしまう気がした。
しばらくして、エルネスタが小さく声を出した。
「オズヴァルド様」
「何だ」
「外套、もう少しお借りしてもよろしいですか」
その言葉に、オズヴァルドは彼女を見た。
以前なら、彼女はきっとすぐ返そうとしただろう。
寒くても、大丈夫ですと言っただろう。
けれど今は、借りたいと言った。
それが、なぜかひどく嬉しかった。
「ああ」
短く答える。
少し間を置いて、付け足した。
「寒いなら、言え」
エルネスタは小さく頷いた。
「はい」
その頷きが、灯りの少ない馬車の中でやわらかく見えた。
彼女は、外套を肩へ寄せた。
「温かいです」
ただそれだけの言葉なのに、オズヴァルドの胸が鈍く鳴った。
彼は視線を逸らした。
「ならいい」
エルネスタは、それ以上言わなかった。
馬車の中に、また静かな時間が流れる。
雨の音。
車輪の音。
馬の息。
濡れた外套の匂い。
それらが、王都で張りつめていた空気を少しずつ洗い流していく。
やがて、遠くに町の灯りが見え始めた。
小さな灯り。
王都の燭台のように眩しくはない。
けれど、冬の夕方には十分すぎるほど温かく見えた。
エルネスタは窓の外を見た。
「あの灯り」
「ああ」
「帰ってきた、という感じがします」
言ってから、胸が少し震えた。
帰ってきた。
自然に出た。
オズヴァルドも、その言葉に気づいたようだった。
彼はしばらく黙り、それから低く言った。
「帰ってきたんだろう」
当たり前のように。
それが当然であるかのように。
エルネスタは、外套の下で手を握った。
好きです、とはまだ言えない。
言えば、何かが変わるかもしれない。
壊れるかもしれない。
でも、この「帰ってきた」という言葉だけは、今、胸の中に置いておきたかった。
「はい」
彼女は小さく答えた。
「帰ってきました」
レナック家へ着いた時、空はすっかり暗くなっていた。
雨は霧のように細くなり、屋敷の窓から漏れる灯りが、濡れた地面に淡く映っていた。
馬車が止まる音を聞きつけたのか、玄関の扉が開く。
ミレが飛び出しかけ、後ろからサナに止められているのが見えた。
マルティナさんも、杖をつきながら玄関に立っていた。
その姿を見た瞬間、エルネスタの胸がいっぱいになる。
帰ってきた。
本当に。
オズヴァルドが先に降り、手を差し出す。
エルネスタは、その手を取って馬車を降りた。
肩には、まだ彼の外套がかかっている。
雨の匂いと外気の匂いと、彼の温度の名残。
それをまとったまま玄関へ向かうと、ミレが目を丸くした。
「エルネスタ様。お疲れ様です。あの、外套」
言いかけて、ミレは何かに気づいたように口をつぐんだ。
サナが静かに彼女の肩を押さえる。
マルティナさんは、すべて見抜いたような目でエルネスタとオズヴァルドを見た。
「帰ったね」
その一言に、エルネスタの目が熱くなる。
「はい」
声が震えた。
「帰りました」
マルティナさんは、満足そうに頷いた。
「なら、今日は話はあとだ。まず温かいものを飲む。それから寝る」
「やはり」
エルネスタは小さく笑った。
「怒られると思っていました」
「怒ってないよ。命令だよ」
マルティナさんは堂々と言った。
ミレが薬草茶を用意しますと走り出し、サナが走らないと追いかける。
そのやり取りを見て、エルネスタは笑った。
王都での緊張が、少しだけほどける。
食堂に入ると、暖炉の火が迎えてくれた。
薪の匂い。
薬草茶の湯気。
根菜のスープの温かな香り。
淡い緑の椀。
全部が、胸に染みる。
エルネスタは椅子に座り、そこでようやく外套を肩から外した。
返すべきだ。
けれど、少しだけ名残惜しい。
その名残惜しさに、また胸が怖くなる。
彼女は丁寧に外套を畳み、オズヴァルドへ差し出した。
「ありがとうございました。とても、温かかったです」
オズヴァルドは受け取った。
指先が一瞬、布越しに触れた。
それだけで、エルネスタの胸が跳ねる。
彼も、ほんのわずかに動きを止めたように見えた。
「冷えなかったならいい」
短い声。
いつもの声。
けれど、その奥に何かがあるような気がして、エルネスタは目を伏せた。
好きです、とはまだ言えない。
でも。
今夜、この外套の温かさは忘れられないと思った。
その夜、エルネスタは自分の部屋へ戻ると、まず新しいカーテンを見た。
生成りの布。
深緑の縁取り。
王都の重いカーテンより、ずっと安心する布。
机の上には、いつもの紙が置かれていた。
マルティナさんの字。
王都から帰ってきた人は、今日は何も考えずに寝ること。
その下にミレの丸い字。
おかえりなさい。薬草茶、薄めにしました。
サナの整った字。
大きな言葉を言った日は、後から疲れが出ます。明日は無理をしないでください。
そして、オズヴァルドの角ばった字。
帰ってきた。
エルネスタは、その一行を見つめた。
ただ、それだけ。
けれど、今夜の彼女には、それで十分だった。
帰ってきた。
王都から。
父と母と姉と元夫のいる場所から。
戻れと言われた場所から。
自分の意思を置いて、帰ってきた。
エルネスタは紙を胸に当てた。
今日、馬車の中で気づいてしまった感情が、まだ胸の奥にいる。
感謝ではない。
安心だけでもない。
好きです。
そう呼ぶには、まだ怖い。
その言葉を口にしたら、この部屋も、食卓も、淡い緑の椀も、全部が壊れてしまうのではないかと、まだ思ってしまう。
だから、まだ言わない。
でも、なかったことにもできない。
エルネスタは帳面を開いた。
感情の頁へ、ゆっくり書く。
帰りの馬車で眠ってしまった。
目が覚めたら、オズヴァルド様の外套がかかっていた。
温かかった。
とても、温かかった。
私は、オズヴァルド様への気持ちが、感謝や安心だけではないのかもしれないと気づいた。
でも、まだ言えない。
好きです、と言えば、この居場所を壊してしまうかもしれないと思うと怖い。
だから、今日は言わない。
でも、帰ってきた時、あの方が隣にいたことが、とても嬉しかった。
書いている途中で、涙が落ちた。
悲しい涙ではない。
怖い涙でもある。
嬉しい涙でもある。
どれか一つには決められない。
でも、今は決めなくていいのだと、少し分かる。
今日は多すぎた。
オズヴァルドがそう言った。
なら、今日すべての感情に名前をつけなくていい。
エルネスタは筆を置いた。
生成りの手袋を外し、机の上に置く。
小部屋の扉に内側から鍵をかける。
かちり。
その音は、今夜も彼女を守る。
けれど、今夜の鍵は、誰かを締め出すためだけのものではない。
胸の中で生まれたばかりの感情を、焦って外へ出さないためのものでもあった。
育つかもしれない。
消えるかもしれない。
名前を呼ぶ日が来るかもしれない。
まだ来ないかもしれない。
それでいい。
エルネスタは寝台に入り、毛布を引き寄せた。
外套の温かさは、もう肩にはない。
それでも、布の感触と匂いは、まだ記憶に残っている。
好きです、とはまだ言えないけれど。
今夜、彼女はその言葉の手前にある温かさを、そっと胸の奥へしまった。
その頃、廊下の向こうで、オズヴァルドは自室の椅子に外套をかけていた。
雨に濡れた部分を乾かすために広げる。
外套の内側には、ほんのわずかに彼女の髪の匂いが残っているような気がした。
薬草茶と、冬の雨と、レナック家の暖炉の匂いに混じった、かすかなもの。
オズヴァルドは、しばらくその外套を見ていた。
それから、低く息を吐く。
好きだ。
心の中では、もう言葉になっている。
だが、まだ言わない。
言えば、彼女は考えすぎる。
自分がこの家にいていい理由と、彼への返事を結びつけてしまうかもしれない。
守られた恩と、恋を混同してしまうのではないかと苦しむかもしれない。
そんなことはさせたくない。
彼女には、選んでほしい。
戻らないことを選んだように。
会いたくないと選んだように。
好きだと思うなら、それも彼女自身の自由として選んでほしい。
オズヴァルドは、外套の濡れた端を軽く整えた。
今日、馬車の中で彼女が外套を握っていた姿を思い出す。
温かいです、と言った声。
帰ってきました、と言った声。
その声だけで、胸が満たされるほどだった。
それでも、踏み込まない。
今はまだ。
彼女の隣にいる。
言葉は待つ。
それは王都だけの約束ではないのかもしれない。
オズヴァルドは、自分の部屋の灯りを少し落とした。
廊下の向こうには、エルネスタの部屋がある。
新しいカーテンのある部屋。
北風を塞いだ部屋。
彼女が内側から鍵をかけて眠れる部屋。
その扉の向こうで、彼女が安心して眠っているなら、それでいい。
好きだと告げるより先に、今はその眠りを守りたかった。
冬の雨は、夜更けまで細く降り続いた。
レナック家の屋敷は、静かだった。
けれど、その静けさの中には、言葉にならないものがふたつ、別々の部屋で小さく灯っていた。
まだ言えない。
けれど、消えない。
そんな温かさが、冬の夜を少しだけ柔らかくしていた。
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水路を引き、街道を繋ぎ、鉱山を再生し、魔物を退け、辺境諸族と盟約を結ぶ。
やがて小さな辺境領は、富も軍も人も集まる巨大勢力へと変貌していく。
一方、レティシアを失った王都では、妹と元婚約者による“華やかな政治”が破綻を始めていた。
崩れる財政、乱れる社交、反発する諸侯、迫る凶作、忍び寄る隣国の影。
今さら「戻ってきてほしい」と言われても、もう遅い。
これは、
すべてを奪われたはずの令嬢が辺境から国を超える力を築き、
やがて滅びかけた王国と大陸の秩序そのものを塗り替えていく、
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