「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第37話 好きです、とはまだ言えないけれど


 王都からの帰り道、馬車の窓に小さな雨粒が当たり始めた。

 降るのか降らないのか分からない灰色の空は、ようやく耐えきれなくなったように、細い雨を落としていた。激しい雨ではない。けれど、冬の雨は音よりも冷たさで存在を知らせる。

 ぽつ、ぽつ、と窓硝子に小さな点がつく。

 車輪が石畳を抜け、土の道へ入ると、音が少し柔らかくなった。王都の硬い響きが遠ざかり、かわりに湿った土を踏む低い音が馬車の床下から伝わってくる。

 エルネスタは、窓の外を見ていた。

 見ているつもりだった。

 けれど、景色はほとんど頭に入ってこない。

 王都の門を抜け、家々が少しずつ低くなり、畑が増え、遠くに冬枯れの木々が並ぶ。普段なら、その変化に胸が少し軽くなったかもしれない。レナック家へ近づいている、と分かったかもしれない。

 でも今は、身体の内側が空っぽだった。

 力を使い果たした後の、静かな虚脱。

 会議の部屋で、彼女は言った。

 私は、戻りません。

 父にも。

 母にも。

 姉にも。

 ヴィルドリックにも。

 そして、その後の廊下でも言った。

 二人きりでは話しません。

 私らしいを決めないでください。

 私が満足するかどうかを、あなたが決めないでください。

 それらの言葉は、どれも短いものだった。

 けれど、エルネスタにとっては、長い長い坂道を一歩ずつ登るような重さがあった。

 言い終えた時、胸の奥で何かが軽くなった気がした。

 同時に、身体が一気に冷えた。

 張りつめていた糸が切れたように、手も足も、背中も、まぶたも、すべてが重い。

 馬車の向かいには、オズヴァルドが座っている。

 彼は窓の外を見ていた。

 外套の襟は少し雨に濡れており、黒に近い布がところどころ濃くなっている。王都の別邸を出る時、彼はエルネスタに先に馬車へ乗るよう促し、自分は御者と帰路の確認をしていた。その間に、細い雨が肩に落ちたのだろう。

 濡れた外気と革の匂いが、馬車の中にほんの少し混じっている。

 それは、不思議と嫌ではなかった。

 ヴィルドリックの香油の匂いとも、父の書斎の乾いた紙と苦い茶の匂いとも違う。

 冬の外を歩いてきた人の匂い。

 雨の始まりを連れてきたような匂い。

 エルネスタは、膝の上で手袋の葉の刺繍を撫でた。

 生成りの手袋は、今日一日、彼女の指を守ってくれていた。会議の席でも、廊下でも、馬車へ戻る時も。緊張で冷えた指先は、何度もその小さな葉を握った。

 好きです。

 その言葉が、まだ胸の中にはなかった。

 いや、正確には、なかったことにしていた。

 オズヴァルドへの気持ちは、感謝だと思っていた。

 安心だと思っていた。

 守ってくれる人への信頼だと思っていた。

 雨の街道で拾われ、食卓に座らせてもらい、泣いても叱られず、鍵のかかる部屋を与えられ、薬草畑を作り、冬祭りで手を取られ、王都で隣に立ってもらった。

 その積み重ねは、あまりにも大きい。

 だから、胸が揺れるのは当然だと思っていた。

 でも、廊下でオズヴァルドが静かに怒った時。

 離縁した女を、まだ所有物のように呼ぶな。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に灯ったものは、感謝だけではなかった。

 自分のために怒ってくれる人がいる。

 自分を物ではないと言ってくれる人がいる。

 本人の意思を聞く、と言ってくれる人がいる。

 その事実に、ただ救われただけではなかった。

 彼の横顔を見た時。

 低く、抑えた声を聞いた時。

 ヴィルドリックの前へ半歩出た背中を見た時。

 胸が痛いほど熱くなった。

 怖いほど、嬉しかった。

 その嬉しさの名前を、まだ見たくなかった。

 馬車が揺れた。

 エルネスタの肩が、小さく傾く。

 オズヴァルドがすぐに視線を戻した。

「具合が悪いか」

 低い声。

 責める声ではない。

 確認する声。

 エルネスタは、ゆっくり首を振った。

「いいえ。ただ、少し疲れただけです」

 言ってから、少しだけ考えた。

 大丈夫です、と言わなかった。

 少し疲れただけ。

 それは、たぶん正しい。

 オズヴァルドも、その言い方に気づいたのだろう。ほんのわずかに目元を緩めた。

「疲れているなら、寝ろ」

「馬車で眠るのは、失礼では」

「失礼じゃない」

 即答だった。

 エルネスタは、少しだけ笑った。

「オズヴァルド様は、いつもそういうところが早いですね」

「何がだ」

「私が気にしていることを、すぐ切ってくださるところです」

 彼は少し考えた。

「余計な心配だからな」

「余計」

「疲れたなら寝る。それだけだ」

 あまりにも単純な答えに、エルネスタはまた小さく笑った。

 その笑いの後、まぶたが重くなった。

 眠るつもりはなかった。

 王都から帰る馬車の中で眠るなんて、無防備すぎる気がした。いくらオズヴァルドがいるとはいえ、まだ身体の奥には緊張が残っている。父の怒声も、母の涙も、ヴィルドリックの視線も、完全には遠ざかっていない。

 けれど、馬車の揺れは一定だった。

 雨の音も細く続いている。

 ぽつ、ぽつ。

 車輪の低い音。

 馬の蹄。

 外套の濡れた匂い。

 隣ではなく向かいにいる、オズヴァルドの静かな気配。

 そのすべてが、張りつめた身体を少しずつほどいていく。

 エルネスタは、窓の外を見ようとしていた。

 けれど、景色は滲んでいく。

 まぶたが落ちる。

 いけない、と思った。

 まだ、起きていなければ。

 でも、何のために。

 誰に見られているわけでもない。

 ここは王都の応接室ではない。

 ヴィルドリックの前でも、父の前でもない。

 馬車の中で、帰り道で、向かいにオズヴァルドがいるだけ。

 なら、少しだけ。

 少しだけなら。

 そう思ったところで、意識は静かに沈んだ。

 眠りは深くはなかった。

 けれど、暗くもなかった。

 夢の中で、エルネスタは古い廊下を歩いていた。

 ヴァルディーン家の廊下。

 グランセル家の食堂。

 王都の別邸。

 それらがひとつに混ざったような場所だった。

 父が呼ぶ。

 エルネスタ。

 母が泣く。

 家族なのよ。

 ヴィルドリックが言う。

 君らしくない。

 姉が言う。

 戻ればいいじゃない。

 その声が、廊下の壁から染み出す。

 エルネスタは歩く。

 足元が冷たい。

 どこへ向かえばいいのか分からない。

 でも、ある角を曲がると、生成りのカーテンが見えた。

 北風を塞いだ窓。

 淡い緑の椀。

 薬草畑の土の匂い。

 冬祭りの鈴。

 そして、低い声。

 いる。

 たったそれだけの声。

 エルネスタは、その声の方へ歩いた。

 目を覚ました時、馬車の中は少し暗くなっていた。

 夕方が近いのだろう。

 窓の外は灰色から薄い藍色へ変わり始めていた。雨はまだ降っているが、音はさらに細くなっている。窓硝子を伝う雨粒が、外の景色をゆっくり歪ませていた。

 最初に感じたのは、温かさだった。

 肩から胸元にかけて、重みがある。

 エルネスタはぼんやりと視線を落とした。

 黒い外套がかけられていた。

 オズヴァルドの外套。

 厚手の布に、外気と革と、かすかな雨の匂いが染みている。さっき彼が身につけていたものだ。まだ少しだけ、彼の体温が残っている気がした。

 エルネスタは、息を止めた。

 眠っていた。

 自分は、馬車の中で眠ってしまった。

 そして、オズヴァルドが外套をかけてくれた。

 向かいを見ると、彼は外套なしで座っていた。上着だけになっている。姿勢は変わらず、窓の外へ視線を向けているが、腕を組んでいる手が少し冷えているように見えた。

 エルネスタは慌てて身を起こした。

「あ、あの」

 声を出すと、少し喉が掠れていた。

 オズヴァルドが視線を戻す。

「起きたか」

「はい。私、眠ってしまって」

「ああ」

「申し訳ありません」

 反射で謝ってしまった。

 言った瞬間、自分で気づく。

 オズヴァルドも気づいたようだった。

 彼は少し眉を寄せる。

「謝ることじゃない」

「……はい」

「疲れていた」

「はい」

「だから寝た」

「はい」

 短い確認のような言葉。

 その単純さに、胸が少し緩んだ。

 エルネスタは、肩にかかった外套を見た。

「これ、オズヴァルド様の」

「ああ」

「寒くありませんか」

「俺はいい」

「でも、雨で冷えて」

「俺はいい」

 彼は同じ言葉を繰り返した。

 エルネスタは、外套を返そうと手をかける。

 しかし、彼は静かに言った。

「かけていろ」

「でも」

「冷えていた」

 その声は、少しだけ低くなった。

 責めるのではなく、事実を告げる声。

「眠っている間、手が冷たかった」

 エルネスタは、自分の指先を見た。

 生成りの手袋をしているのに、たしかに指の奥がまだ冷えている。

 会議の緊張。

 廊下での対峙。

 王都の空気。

 それらが、眠った後も身体を冷やしていたのだろう。

 オズヴァルドは続けた。

「だからかけた」

 それだけ。

 でも、その「だから」の中に、彼の優しさがすべて入っていた。

 寒そうだったから。

 冷えていたから。

 かけた。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 エルネスタは、外套の端を握った。

 厚い布が手袋越しに指へ触れる。

 彼の体温の残りが、そこにあるようで、胸がひどく落ち着かなくなった。

「ありがとうございます」

「礼を言うことじゃない」

 いつもの返し。

 けれど、今日は少し違って聞こえた。

 礼を言うことではない。

 彼にとっては、自然なことなのだ。

 寒そうな人に外套をかける。

 疲れた人を眠らせる。

 怖がる人の隣に立つ。

 所有物のように扱われた人のために怒る。

 それらが、彼の中ではきっとひとつながりなのだ。

 エルネスタは、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。

 感謝だけではない。

 安心だけでもない。

 この外套を返したくないと思ってしまう。

 彼の温度を、もう少しだけまとっていたいと思ってしまう。

 その感情に気づいた瞬間、胸が怖くなった。

 好きです。

 言葉が、心の奥で形を取りかける。

 エルネスタは、反射的にその言葉から目を逸らした。

 だめだ。

 まだ、だめだ。

 好きと言ったら、何かが壊れてしまうかもしれない。

 この居場所が。

 この食卓が。

 この部屋が。

 この、隣にいてくれる距離が。

 オズヴァルドが優しいのは、自分を守るべき人だと思っているからかもしれない。

 レナック家にいる客人で、傷ついた女で、支える必要がある存在だからかもしれない。

 それを、恋と呼んでしまったら。

 彼が困るかもしれない。

 マルティナさんやミレやサナが作ってくれた、この温かな空気に、余計な気まずさを持ち込んでしまうかもしれない。

 自分は、やっと居場所を手に入れたばかりだ。

 好きです、などと言ってしまったら。

 もし、彼が同じ気持ちではなかったら。

 もし、彼が優しさと責任で接していただけだったら。

 自分はまた、帰る場所を失うのではないか。

 その恐怖が、胸を締めつけた。

 エルネスタは、外套をぎゅっと握った。

 好き、という言葉が怖い。

 戻りません、より怖い気がした。

 戻りませんは、自分を守る言葉だった。

 でも、好きですは、自分を差し出す言葉のように思えた。

 まだ、差し出すのが怖い。

 オズヴァルドが、彼女の表情を見て少し眉を寄せた。

「どうした」

 エルネスタは、息を止める。

 言えない。

 好きです、とはもちろん言えない。

 でも、大丈夫です、とも言わない。

 彼と約束した。

 大丈夫ではない時は、できるだけ言う。

「少し」

 声が小さくなる。

「胸が、いっぱいになってしまって」

 オズヴァルドは黙った。

 エルネスタの肩が少し強ばる。

 すると彼は、すぐに言った。

「怒っていない」

 その確認に、胸が少しだけほどける。

「はい」

「言葉を探している」

「はい」

 オズヴァルドは、少しだけ視線を窓へ逸らした。

「今日は多すぎた」

 彼は言った。

「言ったことも、聞いたことも、耐えたことも」

 その言葉に、エルネスタは目を瞬いた。

 そうだ。

 今日は多すぎたのだ。

 親族会議。

 父。

 母。

 姉。

 ヴィルドリック。

 戻りません。

 二人きりでは話しません。

 所有物のように呼ぶな。

 帰路。

 外套。

 胸の奥に生まれた、名前をつけるのが怖い感情。

 あまりにも多すぎて、心の器から溢れている。

「はい」

 エルネスタは、ぽつりと答えた。

「多すぎました」

「なら、今は考えなくていい」

 オズヴァルドの声は、低く、穏やかだった。

「帰ることだけ考えろ」

 帰ること。

 その言葉が、胸に落ちる。

 今すぐ、好きかどうかを決めなくていい。

 この感情に名前をつけなくていい。

 ただ、帰る。

 レナック家へ。

 自分の部屋へ。

 今はそれでいい。

 エルネスタは、ゆっくり頷いた。

「はい。帰ることだけ」

 外套をもう一度肩に寄せる。

 温かい。

 彼の外套の中で、怖い感情も、嬉しい感情も、いったん静かになる。

 向かいで、オズヴァルドは窓の外へ視線を戻した。

 けれど、彼の内側もまた、静かではなかった。

 エルネスタが眠ってしまった時、最初に彼が感じたのは、安堵だった。

 やっと眠った。

 そう思った。

 王都の別邸で、彼女は震えながらも言葉を出した。

 父の怒りにも、母の涙にも、元夫の冷たい決めつけにも、途中で折れなかった。廊下でも、ヴィルドリックに二人きりでは話さないと言った。

 強かった。

 だが、強いという言葉だけで片づけるのは違う。

 彼女は怖いまま立っていた。

 膝が震え、喉が掠れ、手袋の葉を握りしめ、それでも言った。

 その姿を隣で見ていた時、オズヴァルドの胸の奥には、ずっと抑えた怒りと、別の熱があった。

 守りたい。

 最初はそうだった。

 雨の街道で倒れかけていた女。

 食卓で泣いてしまう女。

 返事をしない権利を知らなかった女。

 戻りませんと震えながら言う女。

 守らなければと思った。

 だが、いつの間にか、それだけではなくなっていた。

 彼女が笑うと、食堂の空気が柔らかくなる。

 焼き林檎を前にした時の小さな表情。

 子どもたちに字を教える時の真面目な声。

 薬草畑で土に触れる指先。

 冬祭りでぎこちなく踊った歩幅。

 自分の部屋のカーテンを見て泣いた目。

 王都の会議で「私は戻りません」と言った背筋。

 その一つひとつを思い出すたび、胸の奥に同じ結論が積もっていく。

 好きなのだ。

 もう、認めない方が不自然だった。

 彼女を守りたい。

 それは確かにある。

 だが、守るだけではなく、彼女が笑う場所に自分もいたい。

 彼女が何かを選ぶ時、その隣にいたい。

 彼女が寒いと言える窓を、これからも塞いでやりたい。

 泣いても叱られない食卓で、彼女が少しずつ好きな味を増やしていくのを見ていたい。

 そう思ってしまう。

 それは、恋だった。

 だが、その言葉を彼女に向けることはできなかった。

 今の彼女は、ようやく自分の意思を取り戻し始めたところだ。

 父の家から、元夫の家から、家族という言葉から、妻だった事実から、少しずつ自分を取り戻している。

 そこへ自分が好きだと言ったら。

 それがまた、新しい義務になってしまわないか。

 応えなければならないと思わせてしまわないか。

 この家にいられる条件のように受け取らせてしまわないか。

 彼女は優しい。

 人の痛みに敏い。

 自分が好意を告げれば、きっと真剣に受け止める。

 受け止めすぎる。

 それが怖かった。

 オズヴァルドは、窓の外を見た。

 雨粒が硝子を伝う。

 外の景色は暗くなり始めている。

 馬車の中で、彼女は自分の外套を握っている。

 その姿を見て、胸が静かに苦しくなった。

 今すぐ手を伸ばして、寒くないかと聞きたい。

 王都でよく言った、ともう一度言いたい。

 物ではないと、何度でも言いたい。

 けれど、好きだとは言わない。

 まだ。

 彼女の自由を奪いたくない。

 彼女がようやく選び始めた場所に、自分の感情を重石のように置きたくない。

 だから、今は外套だけでいい。

 寒そうだったから、かけた。

 それだけでいい。

 馬車がまた揺れた。

 エルネスタが少しだけ外套を掴み直す。

 オズヴァルドは、それに気づきながらも何も言わなかった。

 言葉にすれば、きっと余計なものまで出てしまう気がした。

 しばらくして、エルネスタが小さく声を出した。

「オズヴァルド様」

「何だ」

「外套、もう少しお借りしてもよろしいですか」

 その言葉に、オズヴァルドは彼女を見た。

 以前なら、彼女はきっとすぐ返そうとしただろう。

 寒くても、大丈夫ですと言っただろう。

 けれど今は、借りたいと言った。

 それが、なぜかひどく嬉しかった。

「ああ」

 短く答える。

 少し間を置いて、付け足した。

「寒いなら、言え」

 エルネスタは小さく頷いた。

「はい」

 その頷きが、灯りの少ない馬車の中でやわらかく見えた。

 彼女は、外套を肩へ寄せた。

「温かいです」

 ただそれだけの言葉なのに、オズヴァルドの胸が鈍く鳴った。

 彼は視線を逸らした。

「ならいい」

 エルネスタは、それ以上言わなかった。

 馬車の中に、また静かな時間が流れる。

 雨の音。

 車輪の音。

 馬の息。

 濡れた外套の匂い。

 それらが、王都で張りつめていた空気を少しずつ洗い流していく。

 やがて、遠くに町の灯りが見え始めた。

 小さな灯り。

 王都の燭台のように眩しくはない。

 けれど、冬の夕方には十分すぎるほど温かく見えた。

 エルネスタは窓の外を見た。

「あの灯り」

「ああ」

「帰ってきた、という感じがします」

 言ってから、胸が少し震えた。

 帰ってきた。

 自然に出た。

 オズヴァルドも、その言葉に気づいたようだった。

 彼はしばらく黙り、それから低く言った。

「帰ってきたんだろう」

 当たり前のように。

 それが当然であるかのように。

 エルネスタは、外套の下で手を握った。

 好きです、とはまだ言えない。

 言えば、何かが変わるかもしれない。

 壊れるかもしれない。

 でも、この「帰ってきた」という言葉だけは、今、胸の中に置いておきたかった。

「はい」

 彼女は小さく答えた。

「帰ってきました」

 レナック家へ着いた時、空はすっかり暗くなっていた。

 雨は霧のように細くなり、屋敷の窓から漏れる灯りが、濡れた地面に淡く映っていた。

 馬車が止まる音を聞きつけたのか、玄関の扉が開く。

 ミレが飛び出しかけ、後ろからサナに止められているのが見えた。

 マルティナさんも、杖をつきながら玄関に立っていた。

 その姿を見た瞬間、エルネスタの胸がいっぱいになる。

 帰ってきた。

 本当に。

 オズヴァルドが先に降り、手を差し出す。

 エルネスタは、その手を取って馬車を降りた。

 肩には、まだ彼の外套がかかっている。

 雨の匂いと外気の匂いと、彼の温度の名残。

 それをまとったまま玄関へ向かうと、ミレが目を丸くした。

「エルネスタ様。お疲れ様です。あの、外套」

 言いかけて、ミレは何かに気づいたように口をつぐんだ。

 サナが静かに彼女の肩を押さえる。

 マルティナさんは、すべて見抜いたような目でエルネスタとオズヴァルドを見た。

「帰ったね」

 その一言に、エルネスタの目が熱くなる。

「はい」

 声が震えた。

「帰りました」

 マルティナさんは、満足そうに頷いた。

「なら、今日は話はあとだ。まず温かいものを飲む。それから寝る」

「やはり」

 エルネスタは小さく笑った。

「怒られると思っていました」

「怒ってないよ。命令だよ」

 マルティナさんは堂々と言った。

 ミレが薬草茶を用意しますと走り出し、サナが走らないと追いかける。

 そのやり取りを見て、エルネスタは笑った。

 王都での緊張が、少しだけほどける。

 食堂に入ると、暖炉の火が迎えてくれた。

 薪の匂い。

 薬草茶の湯気。

 根菜のスープの温かな香り。

 淡い緑の椀。

 全部が、胸に染みる。

 エルネスタは椅子に座り、そこでようやく外套を肩から外した。

 返すべきだ。

 けれど、少しだけ名残惜しい。

 その名残惜しさに、また胸が怖くなる。

 彼女は丁寧に外套を畳み、オズヴァルドへ差し出した。

「ありがとうございました。とても、温かかったです」

 オズヴァルドは受け取った。

 指先が一瞬、布越しに触れた。

 それだけで、エルネスタの胸が跳ねる。

 彼も、ほんのわずかに動きを止めたように見えた。

「冷えなかったならいい」

 短い声。

 いつもの声。

 けれど、その奥に何かがあるような気がして、エルネスタは目を伏せた。

 好きです、とはまだ言えない。

 でも。

 今夜、この外套の温かさは忘れられないと思った。

 その夜、エルネスタは自分の部屋へ戻ると、まず新しいカーテンを見た。

 生成りの布。

 深緑の縁取り。

 王都の重いカーテンより、ずっと安心する布。

 机の上には、いつもの紙が置かれていた。

 マルティナさんの字。

 王都から帰ってきた人は、今日は何も考えずに寝ること。

 その下にミレの丸い字。

 おかえりなさい。薬草茶、薄めにしました。

 サナの整った字。

 大きな言葉を言った日は、後から疲れが出ます。明日は無理をしないでください。

 そして、オズヴァルドの角ばった字。

 帰ってきた。

 エルネスタは、その一行を見つめた。

 ただ、それだけ。

 けれど、今夜の彼女には、それで十分だった。

 帰ってきた。

 王都から。

 父と母と姉と元夫のいる場所から。

 戻れと言われた場所から。

 自分の意思を置いて、帰ってきた。

 エルネスタは紙を胸に当てた。

 今日、馬車の中で気づいてしまった感情が、まだ胸の奥にいる。

 感謝ではない。

 安心だけでもない。

 好きです。

 そう呼ぶには、まだ怖い。

 その言葉を口にしたら、この部屋も、食卓も、淡い緑の椀も、全部が壊れてしまうのではないかと、まだ思ってしまう。

 だから、まだ言わない。

 でも、なかったことにもできない。

 エルネスタは帳面を開いた。

 感情の頁へ、ゆっくり書く。

 帰りの馬車で眠ってしまった。

 目が覚めたら、オズヴァルド様の外套がかかっていた。

 温かかった。

 とても、温かかった。

 私は、オズヴァルド様への気持ちが、感謝や安心だけではないのかもしれないと気づいた。

 でも、まだ言えない。

 好きです、と言えば、この居場所を壊してしまうかもしれないと思うと怖い。

 だから、今日は言わない。

 でも、帰ってきた時、あの方が隣にいたことが、とても嬉しかった。

 書いている途中で、涙が落ちた。

 悲しい涙ではない。

 怖い涙でもある。

 嬉しい涙でもある。

 どれか一つには決められない。

 でも、今は決めなくていいのだと、少し分かる。

 今日は多すぎた。

 オズヴァルドがそう言った。

 なら、今日すべての感情に名前をつけなくていい。

 エルネスタは筆を置いた。

 生成りの手袋を外し、机の上に置く。

 小部屋の扉に内側から鍵をかける。

 かちり。

 その音は、今夜も彼女を守る。

 けれど、今夜の鍵は、誰かを締め出すためだけのものではない。

 胸の中で生まれたばかりの感情を、焦って外へ出さないためのものでもあった。

 育つかもしれない。

 消えるかもしれない。

 名前を呼ぶ日が来るかもしれない。

 まだ来ないかもしれない。

 それでいい。

 エルネスタは寝台に入り、毛布を引き寄せた。

 外套の温かさは、もう肩にはない。

 それでも、布の感触と匂いは、まだ記憶に残っている。

 好きです、とはまだ言えないけれど。

 今夜、彼女はその言葉の手前にある温かさを、そっと胸の奥へしまった。

 その頃、廊下の向こうで、オズヴァルドは自室の椅子に外套をかけていた。

 雨に濡れた部分を乾かすために広げる。

 外套の内側には、ほんのわずかに彼女の髪の匂いが残っているような気がした。

 薬草茶と、冬の雨と、レナック家の暖炉の匂いに混じった、かすかなもの。

 オズヴァルドは、しばらくその外套を見ていた。

 それから、低く息を吐く。

 好きだ。

 心の中では、もう言葉になっている。

 だが、まだ言わない。

 言えば、彼女は考えすぎる。

 自分がこの家にいていい理由と、彼への返事を結びつけてしまうかもしれない。

 守られた恩と、恋を混同してしまうのではないかと苦しむかもしれない。

 そんなことはさせたくない。

 彼女には、選んでほしい。

 戻らないことを選んだように。

 会いたくないと選んだように。

 好きだと思うなら、それも彼女自身の自由として選んでほしい。

 オズヴァルドは、外套の濡れた端を軽く整えた。

 今日、馬車の中で彼女が外套を握っていた姿を思い出す。

 温かいです、と言った声。

 帰ってきました、と言った声。

 その声だけで、胸が満たされるほどだった。

 それでも、踏み込まない。

 今はまだ。

 彼女の隣にいる。

 言葉は待つ。

 それは王都だけの約束ではないのかもしれない。

 オズヴァルドは、自分の部屋の灯りを少し落とした。

 廊下の向こうには、エルネスタの部屋がある。

 新しいカーテンのある部屋。

 北風を塞いだ部屋。

 彼女が内側から鍵をかけて眠れる部屋。

 その扉の向こうで、彼女が安心して眠っているなら、それでいい。

 好きだと告げるより先に、今はその眠りを守りたかった。

 冬の雨は、夜更けまで細く降り続いた。

 レナック家の屋敷は、静かだった。

 けれど、その静けさの中には、言葉にならないものがふたつ、別々の部屋で小さく灯っていた。

 まだ言えない。

 けれど、消えない。

 そんな温かさが、冬の夜を少しだけ柔らかくしていた。


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