「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第42話 親子の縁を盾にしないでください


 夜のうちに降った霜が、朝の庭を白くしていた。

 レナック家の窓から見える薬草畑は、薄い氷砂糖をまぶしたように淡く光っていた。冬の陽はまだ弱く、庭の端に植えたカミツレの葉も、ラベンダーの細い茎も、寒さに耐えるように身を縮めている。

 エルネスタは、その景色をしばらく見ていた。

 生成りのカーテンを少しだけ開け、窓硝子に指先を添える。冷たい。だが、部屋の中に北風は入ってこない。

 窓の隙間は、もう塞がれている。

 この部屋に初めて来た頃、夜の冷気は床を這うように入り込んできた。エルネスタはそれを「大丈夫です」と言って済ませようとした。寒いと言えば迷惑になると思っていたからだ。

 けれど今は違う。

 寒ければ寒いと言っていい。

 怖ければ怖いと言っていい。

 戻りたくなければ戻りたくないと言っていい。

 そして、縁を切ると言われても、従わなくていい。

 机の上には、父から届いた手紙が置かれている。

 正確には、手紙そのものではなく、マルティナさんが保管してくれる前に、エルネスタが一度だけ内容を書き写した紙だった。

 帰ってこい。

 でなければ親子の縁を切る。

 その二行は、父の筆跡ではない。エルネスタ自身の字だ。それなのに、目で追うと胸の奥が少し痛んだ。

 昨夜、食堂で皆に見守られながら返事の下書きをした。

 私は帰りません。

 親子の縁を切るというご判断について、私から撤回を求めません。

 その言葉をもって私を従わせることはできません。

 私は、私の意思でここにいます。

 私は、私の意思で帰りません。

 そう書いた。

 その時は、書くだけで精一杯だった。

 けれど、正式に父へ送る手紙として清書するには、もう一度、自分の手で言葉を整える必要があった。

 燃やさない。

 逃げない。

 説明し続けない。

 けれど、自分の境界線は、自分の言葉で残す。

 それが今日の仕事だった。

 エルネスタは、机の前に座った。

 筆、インク、封筒、無地の封蝋。

 サナが用意してくれた紙は、厚みがあり、インクが滲みにくいものだった。ミレが選んだ封筒は、やはり少しだけ強そうに見える。マルティナさんは朝食の後、「書く時は茶を置いておくよ」とだけ言い、余計な慰めはしなかった。

 その距離がありがたかった。

 心の内側まで無理に覗かれない。

 でも、一人ではない。

 階下からは、食器を片づける音が微かに聞こえる。ミレの声と、サナの落ち着いた注意の声。暖炉の薪が崩れる音。屋敷の中に、人の暮らしがある。

 エルネスタは、紙の前でゆっくり息を吸った。

 今日は、生成りの手袋をしていない。

 指先は少し冷たい。

 けれど、素手で書きたかった。

 この手紙は、誰かの娘として言わされる返事ではない。

 誰かの妻として整える書類でもない。

 エルネスタ自身の手紙だ。

 筆を取る。

 最初の一行に迷った。

 父上。

 そう書けば、昔の自分が戻ってくる気がした。

 けれど、全くの他人として扱いたいわけではない。父だった人。生まれた家の当主。幼い頃、怖いだけではなく、確かにその背中を見上げていたこともある人。

 その記憶すら、今すぐ憎しみに変えたいわけではない。

 エルネスタは少し考えた末に、前日の下書きと同じ言葉を書いた。

 ヴァルディーン伯爵閣下。

 父上ではない。

 けれど、罵倒でもない。

 今の自分に必要な距離だった。

 文字を書いた瞬間、胸の中で何かが一つ、静かに定まった。

 エルネスタは、続きを書いた。

 お手紙、拝読いたしました。

 「帰ってこい。でなければ親子の縁を切る」とのお言葉、確かに受け取りました。

 そこまで書いて、手が止まった。

 受け取りました。

 その言葉が、重かった。

 父の脅しを受け入れるという意味ではない。父がそういう言葉を使った事実を、なかったことにしないという意味だ。

 エルネスタは、カップに手を伸ばした。

 マルティナさんが淹れてくれた薬草茶は、まだ温かかった。蜂蜜は控えめで、苦みが少し強い。舌の奥に残るその苦みが、今はちょうどよかった。

 甘い慰めだけでは、きっと書けない手紙だった。

 再び筆を持つ。

 私は、ヴァルディーン伯爵家へは戻りません。

 私は、グランセル侯爵家へも戻りません。

 また、私本人の同意なく進められる婚姻の話も受けません。

 インクが紙に沈む。

 言葉は短い。

 けれど、一つ一つが境界線だった。

 戻りません。

 受けません。

 望みません。

 以前なら、そこに長い理由を添えた。

 なぜ戻れないのか。

 なぜ怖いのか。

 なぜ今は会えないのか。

 なぜ再婚を望まないのか。

 父が納得するまで、母が泣きやむまで、姉が理解するまで、ヴィルドリックが認めるまで、説明しなければならないと思っていた。

 でも、もうしない。

 理由を持っていることと、相手を納得させ続けることは別だ。

 エルネスタは、次の一文を書く前に、少しだけ目を閉じた。

 父の顔が浮かぶ。

 怒っている父。

 書斎の机の向こうで、幼い自分を見下ろす父。

 侯爵家へ嫁ぐ時、「家のためだ」と言った父。

 離縁後、「お前の居場所はうちだ」と命じた父。

 そして今、「帰ってこい。でなければ親子の縁を切る」と書いた父。

 そのすべてが、同じ線でつながっている。

 娘を愛していたのではなく、従う娘を必要としていた。

 そう思ってしまうことは、まだ痛い。

 だが、その痛みから目を逸らしたら、また同じ場所へ戻される。

 エルネスタは目を開けた。

 そして、今日一番書きたかった言葉を置いた。

 親子の縁を、私を従わせる道具にしないでください。

 書いた瞬間、胸が震えた。

 手も震えた。

 インクの線が、ほんの少しだけ揺れた。

 でも、読める。

 はっきりと読める。

 エルネスタは、涙が上がってくるのを感じた。

 泣きたくないと思った。

 でも、涙は止まらなかった。

 一粒、紙の端に落ちそうになり、彼女は慌てて顔を上げた。

 泣いてはいけないわけではない。

 けれど、この手紙の文字は滲ませたくなかった。

 父に涙を渡したくなかった。

 自分のために流す涙は、この紙ではなく、別の場所で流せばいい。

 エルネスタは布で目元を押さえた。

 深く息を吸う。

 鼻の奥がつんと痛い。

 その時、扉が控えめに叩かれた。

「俺だ」

 オズヴァルドの声だった。

 エルネスタの胸が少し跳ねた。

 昨夜、暖炉の前で好きだと言われた。

 好きです、と返した。

 口づけた。

 そして今朝、食堂で顔を合わせた時、二人はほんの少しだけぎこちなかった。

 ミレが異様ににこにこし、サナが「見すぎです」と小声で注意し、マルティナさんが何事もない顔で茶を淹れながら「明日も食堂で会えたねえ」と言ったせいで、エルネスタは椀を落としかけた。

 オズヴァルドは「母上」と低く言ったが、耳が少し赤かった。

 恋を言葉にした翌朝でも、世界は壊れなかった。

 ただ、少し照れくさくなっただけだった。

 そのことが、今も胸を温める。

「入っても、大丈夫です」

 エルネスタが答えると、扉が開いた。

 オズヴァルドは部屋へ入るなり、彼女の顔を見た。

 泣いていることに、すぐ気づいたのだろう。

 だが、慌てて近寄ることはしなかった。

 いつものように、まず聞いた。

「入ってよかったか」

 エルネスタは、涙を押さえながら頷いた。

「はい」

「手紙か」

「はい。清書しています」

 オズヴァルドは机の紙へ視線を落とした。

 勝手に覗き込まない距離で止まる。

 それから言った。

「隣にいていいか」

 エルネスタの胸が、ふわりと揺れた。

 隣に。

 言葉は待つ。

 あの日の約束は、今も続いている。

「はい」

 彼は、机の横の椅子を引き、少し離して座った。

 近すぎない。

 でも、手を伸ばせば届く距離。

 エルネスタは、その距離に安心した。

「怒っていない」

 彼は先に言った。

「分かっています」

 エルネスタは、小さく笑った。

 涙で濡れた目元のまま笑ったので、少し変な顔になっているかもしれない。

 けれど、オズヴァルドの目は柔らかかった。

「父親の手紙に怒ってはいる」

「はい」

「お前にじゃない」

「はい」

 何度も聞いた確認。

 けれど、こういう時にはまだ必要だった。

 オズヴァルドは、机の上の文面を少しだけ見た。

 「親子の縁を、私を従わせる道具にしないでください」

 その一文に目が留まったのが分かった。

 彼の手が、膝の上でわずかに握られる。

 声は静かだった。

「書けたんだな」

 エルネスタは頷く。

「はい」

「強い言葉だ」

「強すぎるでしょうか」

「違う」

 即答だった。

 エルネスタは彼を見る。

 オズヴァルドは、真剣な顔で言った。

「必要な言葉だ」

 その一言で、また涙がこぼれそうになる。

 エルネスタは布で押さえた。

「泣いてばかりです」

「悪いことじゃない」

「でも、これは決別の手紙なのに」

「だからだろう」

 オズヴァルドの声は低い。

「切るのは、痛い」

 エルネスタは、息を止めた。

 切るのは、痛い。

 親子の縁を盾にしないでください。

 私は戻りません。

 そう書くことは、勝利だけではない。

 痛みもある。

 父との間にあったものを、完全になかったことにするわけではない。幼い頃、父に褒められたかった自分。家に必要とされたかった自分。娘として見てほしかった自分。その全てを抱えたまま、切らなければならないものがある。

 支配の糸。

 従わせるための縁。

 それを切るのは、やはり痛い。

 エルネスタは頷いた。

「痛いです」

「そうか」

「でも、戻りたくはありません」

「それでいい」

 短い返事。

 胸に深く落ちる。

 エルネスタは、少し呼吸を整え、筆を持ち直した。

 まだ手紙は終わっていない。

 オズヴァルドは、隣で何も言わずに見守っている。

 彼は、彼女の手紙に言葉を足さない。

 代わりに書かない。

 ただ、封蝋を押すその時まで、彼女の手が止まらないようにそばにいる。

 エルネスタは、続きを書いた。

 私は、あなた方の家には戻りません。

 父上と母上が暮らす家を、私の帰る場所として扱うことは、もうできません。

 そこに私の部屋はなく、私の意思もありませんでした。

 私は、私の意思を持つ人間として生きたいと思っています。

 筆先が少し震える。

 あなた方の家。

 そう書いた。

 私の家、ではなく。

 この言葉にも痛みはある。

 けれど、嘘はない。

 ヴァルディーン家は、生まれた家だ。

 でも、今のエルネスタにとって帰る家ではない。

 帰ってこいと命じられる場所ではあっても、おかえりと言われる場所ではなかった。

 エルネスタは続けた。

 私は、現在身を寄せているレナック家に、私自身の意思でおります。

 同情や義務だけで置かれているのではなく、私もまた、この場所にいたいと望んでいます。

 そこまで書いた時、胸が熱くなった。

 レナック家。

 その名を父への手紙に書くことは、少し怖い。

 父は怒るだろう。

 「地方騎士家に惑わされた」と言うかもしれない。

 ヴィルドリックのように、「君らしくない」と決めつけるかもしれない。

 でも、書く。

 私は、この場所にいたいと望んでいます。

 それは、大切な事実だから。

 オズヴァルドが隣で少しだけ息を止めたのが分かった。

 エルネスタは、顔を上げないまま続けた。

 私の今後について、私の同意なく決められた話には、今後も応じません。

 婚姻、居所、家名、親族関係、そのいずれについても、私の意思を抜きに決めないでください。

 この手紙をもって、私からの返答といたします。

 父上が親子の縁を切るとお決めになるなら、その決定を私から撤回させようとはいたしません。

 ですが、その決定によって私を従わせることはできません。

 最後の一文を書いた時、手が止まった。

 もう少し、何かを書くべきだろうか。

 どうかお元気で。

 お母様にもよろしく。

 そういう言葉が、礼儀として浮かぶ。

 けれど、今は書けなかった。

 恨みや罵倒ではない。

 しかし、優しい結びで覆うには、この手紙は痛すぎる。

 エルネスタは、最後に名前を書いた。

 エルネスタ。

 ヴァルディーンは書かなかった。

 グランセルも、もちろん書かない。

 ただ、エルネスタ。

 それだけで十分だった。

 筆を置く。

 部屋の中が静かになる。

 窓の外で、冬の鳥が一度だけ鳴いた。

 エルネスタは、手紙を見つめた。

 胸が痛い。

 目が熱い。

 でも、折れてはいない。

 泣いているのに、敗けた気がしない。

 そのことが、不思議だった。

 今まで涙は、負ける時に出るものだと思っていた。

 父に怒られた時。

 母に泣かれた時。

 夫の無関心に傷ついた時。

 居場所がないと知った時。

 涙はいつも、声を奪うものだった。

 けれど今の涙は違う。

 声を出した後に落ちる涙だ。

 境界線を引いた後に、痛みとして流れる涙だ。

 敗北ではない。

 エルネスタは、そのことを自分の中で静かに受け取った。

「読んでもらっても、よろしいですか」

 彼女は隣のオズヴァルドに尋ねた。

 彼は頷いた。

「ああ」

 手紙を渡す。

 彼の指が紙の端に触れる。

 オズヴァルドは、ゆっくり読んだ。

 彼は文字を読むのが早い人ではない。必要な書類はきちんと読むが、一文ずつ確認するように目を動かす。だから、エルネスタの手紙も急がずに読んだ。

 その時間が、少し緊張した。

 彼にどう思われるだろう。

 強すぎるだろうか。

 冷たすぎるだろうか。

 あるいは、まだ弱すぎるだろうか。

 手紙を読み終えたオズヴァルドは、しばらく黙っていた。

 その沈黙に、エルネスタの胸が少しだけ強ばる。

 彼はすぐに顔を上げた。

「怒っていない」

 エルネスタは、涙の中で少し笑った。

「はい」

「言葉を探している」

「はい」

 オズヴァルドは、手紙を机へ置いた。

「いい手紙だ」

 短い。

 だが、その声は深かった。

「お前の言葉だ」

 エルネスタの喉が震えた。

「私の」

「ああ」

 彼は手紙の一行を指で示さず、ただ見つめた。

「罵っていない。媚びてもいない。戻らないと書いてある」

 その評価が、オズヴァルドらしかった。

 飾りがない。

 けれど、芯を見てくれる。

「親子の縁を盾にするな、という言葉も」

 彼は少しだけ眉間に皺を寄せた。

「必要だ」

 エルネスタは頷いた。

「書くのが、怖かったです」

「だろうな」

「でも、書かないと、また同じ言葉で戻される気がしました」

「書けている」

 その一言が、どれほど心強かったか分からなかった。

 エルネスタは、深く息を吐いた。

 次は封をする。

 それが最後の作業だった。

 紙が乾くのを待つ間、二人は何も言わずに座っていた。

 部屋の中には、薬草茶の香りとインクの匂いがある。窓の外の霜は少しずつ溶け、庭の土が黒く見え始めていた。

 やがてインクが乾く。

 エルネスタは手紙を丁寧に折った。

 一つ目の折り目。

 二つ目の折り目。

 紙が重なるたびに、父へ向けた言葉が内側へしまわれていく。

 けれど、消えるわけではない。

 封筒に入れる。

 ミレが選んだ、強い封筒。

 その白い封筒を手にした瞬間、エルネスタの手が少し震えた。

 オズヴァルドは、それを見ていた。

 何も言わない。

 手を取ることもしない。

 だが、エルネスタが自分でできるように、そばにいた。

 封蝋を温める。

 蝋が溶け、赤く艶を帯びる。

 エルネスタは無地の封蝋を封筒の合わせ目に落とした。

 丸く広がる赤。

 そこへ、印を押す。

 家の紋章はない。

 ただ、無地の金属で押すだけの封。

 それでも、エルネスタには十分だった。

 手が震えた。

 封蝋を押す瞬間、指に力がうまく入らなくなりそうだった。

 隣で、オズヴァルドが低く言った。

「急がなくていい」

 エルネスタは、息を吸った。

 ゆっくり。

 自分の意思で。

 封蝋を押した。

 小さな音はしなかった。

 けれど、エルネスタの胸の中では、かちり、と何かが閉じたように感じた。

 父からの支配の言葉に、自分の返事で封をした。

 エルネスタは、封筒から手を離した。

 涙が頬を伝った。

 今度は拭わなかった。

 オズヴァルドは、彼女の涙を見ていた。

 悲しそうではあったが、止めようとはしなかった。

 エルネスタは、自分で言った。

「泣いていますが」

「うん」

「敗けたわけではありません」

 オズヴァルドの目が、ほんの少しだけ揺れた。

 彼は、静かに頷いた。

「ああ」

 低い声。

「敗けていない」

 その言葉で、涙がさらに溢れた。

 エルネスタは、手で目元を押さえた。

 肩が震える。

 でも、背中は折れていない。

 泣きながらも、座っていられる。

 顔を上げられる。

 手紙は封をされている。

 自分の言葉で。

 自分の手で。

 オズヴァルドが、少し迷ってから言った。

「触れていいか」

 エルネスタは、涙の中で頷いた。

「はい」

 彼の手が、彼女の肩にそっと触れた。

 強く抱き寄せるのではない。

 ただ、そこにいると伝える重さ。

 エルネスタは、その温度に息を吐いた。

「オズヴァルド様」

「何だ」

「私は、父の娘でした」

「ああ」

「それを、なかったことにはできません」

「ああ」

「でも、父の言葉で動く娘には、もう戻りません」

 オズヴァルドの手が、肩の上でほんの少しだけ温かくなる。

「戻らなくていい」

 短い答えだった。

 エルネスタは目を閉じた。

 涙がまた落ちる。

 でも、その涙はもう怖くなかった。

「私は、ここにいたいです」

「ああ」

「あなたのいる、この家に」

 言ってから、少し顔が熱くなった。

 昨夜ほどではないが、まだこういう言葉には慣れない。

 オズヴァルドも一瞬だけ黙った。

 それから、少し掠れた声で言った。

「俺も、お前にいてほしい」

 胸が、静かに満ちた。

 その言葉は、今日も義務ではなかった。

 命令でもなかった。

 父の「帰ってこい」とは、まったく違う。

 いてほしい。

 その願いを聞いて、エルネスタはもう怯えなかった。

 少し怖くても、それ以上に温かかった。

 封筒は、机の上に置かれている。

 無地の封蝋。

 エルネスタの返事。

 父へ送る、静かな決別。

 そこには恨みの罵倒はない。

 だが、はっきりとした境界線がある。

 親子の縁を、私を従わせる道具にしないでください。

 私は、あなた方の家には戻りません。

 エルネスタは、長く息を吐いた。

 その息は震えていた。

 けれど、どこか深かった。

 午後、手紙は王都へ向けて出された。

 エルネスタは玄関先で、使いが馬に乗るのを見送った。封筒は革の鞄にしまわれ、やがて門を出ていく。

 冬の道に、馬の蹄の音が遠ざかる。

 父のもとへ、自分の言葉が向かっていく。

 エルネスタは、門の前でしばらく立っていた。

 隣にはオズヴァルドがいる。

 少し後ろには、マルティナさんが杖をついて立っていた。ミレは涙をこらえきれず鼻をすすり、サナが布を差し出している。

「行きましたね」

 エルネスタが言うと、マルティナさんが頷いた。

「行ったね」

「怖いです」

「そうだろうね」

「でも、戻したいとは思いません」

「なら、いい」

 マルティナさんの声は、いつも通りだった。

 慰めすぎない。

 突き放さない。

 その真ん中の声。

 エルネスタは、少しだけ笑った。

「お茶を、飲みたいです」

 ミレがぱっと顔を上げた。

「すぐ淹れます」

 サナが続ける。

「蜂蜜は少し多めでよろしいかと」

 マルティナさんが言う。

「今日は多めでいいよ」

 オズヴァルドは、エルネスタの顔を見た。

「歩けるか」

「はい」

 それから、少し考えて言い直す。

「少し、手を貸していただいてもいいですか」

 オズヴァルドは、すぐに手を差し出した。

「ああ」

 エルネスタは、その手を取った。

 玄関へ戻る数歩だけ。

 それでも、自分で求めて、自分で受け取った支えだった。

 食堂へ戻ると、淡い緑の椀がテーブルに置かれていた。

 今日はまだ食事の時間ではない。

 けれど、ミレがそこに小さな焼き菓子を入れてくれた。

「甘いものも必要です」

 サナが言う。

「糖分は必要です」

 マルティナさんが笑う。

「二人して、もっともらしい言い方を覚えたねえ」

 エルネスタは、焼き菓子を一つ手に取った。

 甘い。

 少し香ばしい。

 口の中でほろりと崩れる。

 父へ決別の手紙を書いた午後に、こんな甘いものを食べていることが不思議だった。

 でも、それでいいのだと思った。

 決別の日にも、お茶を飲んでいい。

 泣いた日にも、甘いものを食べていい。

 縁を盾にされても、自分の食卓を続けていい。

 夜、自分の部屋へ戻ると、机の上にいつもの紙があった。

 マルティナさんの字。

 自分の言葉で境界線を引いた人は、今日は早く寝ること。

 その下に、ミレの丸い字。

 泣いていても、エルネスタ様は負けていませんでした。

 サナの整った字。

 親子の縁は、支配の道具ではありません。よく書き切りました。

 そして、オズヴァルドの角ばった字。

 敗けていない。

 エルネスタは、その一行を見た瞬間、また涙が浮かんだ。

 敗けていない。

 今日、封蝋を押しながら自分で言った言葉。

 オズヴァルドが返してくれた言葉。

 紙の上に残されると、それはもう一度、胸の中へ戻ってくる。

 エルネスタは、紙を胸に当てた。

 帳面を開く。

 感情の頁へ、ゆっくり書いた。

 父へ手紙を書いた。

 恨みや罵倒は書かなかった。

 でも、帰りませんと書いた。

 親子の縁を、私を従わせる道具にしないでくださいと書いた。

 私はあなた方の家には戻りませんと書いた。

 書きながら泣いた。

 封蝋を押しながらも泣いた。

 でも、敗けたわけではなかった。

 私は、自分の言葉で境界線を引いた。

 そこまで書いて、筆を止める。

 胸の奥に、父の手紙の痛みはまだある。

 だが、それだけではない。

 自分の返事の重みもある。

 オズヴァルドの手の温度もある。

 マルティナさんの茶も、ミレの焼き菓子も、サナの静かな言葉もある。

 エルネスタは、最後にもう一行書いた。

 帰ってこい、ではなく、おかえりと言ってくれる場所に、私はいます。

 筆を置く。

 扉に内側から鍵をかける。

 かちり。

 その音は、今夜も彼女の部屋を守った。

 けれど、今日の音はいつもより少し強く聞こえた。

 父の言葉から自分を守る音。

 自分で選んだ場所に、自分で立つ音。

 エルネスタは寝台に入り、毛布を引き寄せた。

 涙のせいで、まぶたが少し熱い。

 けれど、呼吸は深かった。

 父へ送った手紙は、もう戻せない。

 それでいい。

 言葉は王都へ向かっている。

 そして、エルネスタ自身はここにいる。

 生成りのカーテンのある部屋。

 北風を塞いだ窓。

 内側から鍵のかかる扉。

 明日も食堂で会える人。

 おかえりと言ってくれる家。

 そのすべてを胸に抱えながら、エルネスタは目を閉じた。

 泣いた日だった。

 けれど、敗北の日ではなかった。

 それは、彼女が初めて、自分の言葉で親子の縁の向こう側に線を引いた日だった。

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