「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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最終話 もう私の帰る家はここです


 レナック家の玄関に、冬の風が吹き込んでいた。

 開いた扉の向こうには、灰色の空がある。

 門の前には、ヴァルディーン伯爵家の馬車と、グランセル侯爵家の馬車が並んでいる。濡れた土の上に車輪の跡が深く刻まれ、馬の吐く白い息が、冷えた空気の中でゆっくりほどけていた。

 父は怒っていた。

 母は泣いていた。

 ヴィルドリックは、言葉を探しているような顔で立っていた。

 そしてエルネスタは、玄関の敷居の内側に立っていた。

 背後には、レナック家の空気がある。

 薪の匂い。

 薬草茶の香り。

 古い木の床の温度。

 食堂の方から微かに漂う、根菜の煮込みの匂い。

 マルティナさんの気配。

 ミレとサナの息づかい。

 隣には、オズヴァルド。

 彼は何も言わない。

 けれど、確かにそこにいる。

 エルネスタの言葉を奪わず、しかし倒れそうになった時には支えられる距離で。

 その距離が、彼女の足元を支えていた。

 父の怒声が、もう一度冬の空気を裂いた。

「本気で言っているのか、エルネスタ」

 その声は、昔と同じだった。

 書斎の扉の向こうから呼ばれる時の声。

 失敗を責められる時の声。

 何かを決められ、従えと言われる時の声。

 幼い頃のエルネスタは、その声を聞くたびに背筋を伸ばした。

 怒られないように。

 失望されないように。

 家の娘として間違えないように。

 でも今、その声を聞いても、彼女はもう玄関の奥へ逃げ込まなかった。

 顔を上げたまま、父を見る。

「はい」

 短く答えた。

「本気です」

 父の顔がさらに険しくなる。

「その小さな騎士家が、お前の家だと言うのか」

 小さな騎士家。

 父の口に乗ると、それは明らかに見下しの言葉だった。

 豪奢ではない屋敷。

 床のきしむ古い家。

 食器もすべて揃っているわけではない食卓。

 王都の貴族家とは比べものにならない暮らし。

 父は、そう言いたいのだろう。

 けれど、エルネスタはその言葉を聞いても、以前のように恥ずかしくはならなかった。

 むしろ、胸の奥に小さな誇りが灯った。

 小さな騎士家。

 そうだ。

 この家は小さい。

 けれど、彼女のための椅子がある。

 客間ではなく、自分の部屋がある。

 泣いた後に、理由を問い詰めず布巾を差し出してくれる人がいる。

 食べる人は食卓に座るんだよ、と言ってくれる人がいる。

 怒っていない時は、怒っていないと言ってくれる人がいる。

 「帰ってこい」と命じるのではなく、「おかえり」と受け止めてくれる家がある。

 エルネスタは、静かに答えた。

「はい。この家が、私の帰る家です」

 母が泣き崩れそうに一歩よろめいた。

「エルネスタ……」

 その声に、エルネスタの胸はまだ痛んだ。

 母の涙に何も感じなくなったわけではない。

 苦しい。

 今も苦しい。

 母の泣く顔を見ると、自分が悪いことをしているのではないかと思う癖は、まだ完全には消えていない。

 けれど、もうその涙に従うことはしない。

 エルネスタは母を見た。

「お母様」

 呼び方は、まだそのままだった。

 母だった人を、今すぐ違う名で呼ぶことはできなかった。

 だが、その声には以前のような怯えはなかった。

「私は、お母様を泣かせたいわけではありません」

「なら、帰ってきて」

 ロザリアは涙で濡れた声で言った。

「お願いよ。家族でしょう。あなたは私の娘でしょう。お父様も怒っているけれど、本当にあなたを捨てたいわけではないのよ。戻れば、また家族に戻れるわ」

 また家族に戻れる。

 その言葉は、昔のエルネスタなら縋りついていたかもしれない。

 家族。

 戻る。

 許される。

 必要とされる。

 そういう響きに、どれだけ傷つきながらも、どれだけ憧れてきたか分からない。

 でも、今は分かる。

 彼らの言う「家族に戻る」は、彼女が以前のように従うことだった。

 父の言葉に逆らわない娘。

 母の涙で罪悪感を抱く娘。

 姉の不満を先回りして補う妹。

 再婚話を受け入れ、家の役に立つ駒。

 そこへ戻ることは、家族に戻ることではない。

 自分を再び失うことだった。

「お母様」

 エルネスタは、ゆっくり言った。

「家族に戻るという言葉で、私を昔の私に戻そうとしないでください」

 母の涙が止まった。

 父が低く唸る。

「誰に向かって言っている」

「私を産んだ方々に、言っています」

 その言葉は、静かだった。

 怒鳴らない。

 責め立てない。

 けれど、曲げない。

「私は、あなた方の娘として生まれました。その事実は消えません。ですが、娘であることを理由に、私の居場所や婚姻や人生を決められることは、もう受け入れません」

 ヴィルドリックが、そこで口を開いた。

「エルネスタ」

 彼の声は、父の怒声よりも静かだった。

 しかし、エルネスタの胸には別の冷たさをもたらした。

 長い間、夫だった人の声。

 何も言わない自分を、理解が早いと受け取った人の声。

「君は今、自分がどれほど大きな決断をしているか分かっていない。ヴァルディーン家を捨て、グランセル家との縁も完全に断ち、王都での立場も失う。地方騎士家の情にすがって、それで一生を決めていいのか」

 地方騎士家の情。

 その言葉に、オズヴァルドの気配がわずかに冷えた。

 しかし彼は何も言わなかった。

 エルネスタが言う番だからだ。

 エルネスタは、ヴィルドリックを見た。

 彼の顔には疲労がある。

 焦りもある。

 今になって、屋敷が崩れているのだろう。

 自分が担っていたものを、ようやく知ったのだろう。

 それでも彼は、まだ「君自身」より先に「立場」や「屋敷」や「縁」を見ている。

 そのことが、悲しかった。

 けれど、もう怒りで胸を焦がすほどではなかった。

 ただ、静かに距離がある。

「ヴィルドリック様」

「何だ」

「私は、あなたの屋敷へ戻りません」

 彼の顔が固くなる。

「それはもう聞いた」

「何度でも言います。あなたが何度『夫婦だった』と言っても、私は戻りません」

 ヴィルドリックの唇が引き結ばれた。

「夫婦だった事実は消えない」

「消えません」

 エルネスタは、否定しなかった。

「でも、それは私を呼び戻す権利にはなりません」

 冬の風が、玄関に吹き込む。

 エルネスタの袖が少し揺れる。

 寒い。

 けれど、言葉は震えなかった。

「私は、あなたの妻でした。侯爵家の中で、たくさんのことをしていました。茶の好みも、贈答も、使用人の配置も、季節の布も、来客の記録も」

 ヴィルドリックの目がわずかに揺れた。

 彼は思い当たるのだろう。

 今まさに、その欠落に苦しんでいるのだろう。

「でも、それをしていたからといって、私はあなたのものではありません。あなたの屋敷を整えるための道具でもありません」

 ヴィルドリックは黙った。

 初めて、すぐに言い返さなかった。

 その沈黙に、エルネスタは少しだけ胸が痛んだ。

 彼が本当に何かを理解し始めているのか、それとも単に不利な言葉を探しているだけなのかは分からない。

 でも、もう待たない。

 彼が理解するまで、自分の人生を止めない。

 エルネスタは父と母、そしてヴィルドリックを順に見た。

「私は、血縁だけで家を決めません」

 父の眉が動く。

「最初の婚姻だけで家を決めません」

 ヴィルドリックの目が細くなる。

「世間体だけで家を決めません」

 母が涙をこぼす。

「私が選び、選ばれ、日々を積み重ねた場所を、私は家と呼びます」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に今までの記憶が一斉に灯った。

 雨の街道で倒れかけた自分へ、外套をかけてくれた手。

 古い食堂の豆のスープ。

 焼きたての黒パン。

 泣いても叱られなかった夜。

 扉の鍵が内側からかけられると知った驚き。

 食料庫の鍵の重さ。

 薬草畑の土の匂い。

 冬祭りの火の粉。

 踊りの輪。

 王都の親族会議で、隣にいてくれた人。

 帰りの馬車でかけられた外套。

 暖炉の前の告白。

 初めての口づけ。

 おかえり。

 ただいま。

 そういう一つ一つが、家を作った。

 豪奢な玄関ではない。

 血のつながりだけではない。

 婚姻の形だけでもない。

 毎日、誰かが椀を置いてくれること。

 泣いた時に黙ってお茶を淹れてくれること。

 怒っていないと説明してくれること。

 寒いなら言えと言ってくれること。

 帰ってきた時に、おかえりと返してくれること。

 それが、家だった。

 エルネスタは、はっきりと言った。

「もう私の帰る家はここです」

 風が止まったように感じた。

 ほんの一瞬、玄関前の全員が言葉を失った。

 父の怒りも、母の涙も、ヴィルドリックの理屈も、その一文の前で静かになった。

 やがて、父が低く言った。

「後悔するぞ」

 最後の脅しのようだった。

 エルネスタは、静かに頷いた。

「後悔するかどうかも、私が知ります」

「家名を失うぞ」

「はい」

「親を失うぞ」

 その言葉には、胸が痛んだ。

 それでも、エルネスタは逃げなかった。

「それでも、私は戻りません」

 母が泣き崩れ、父の腕に縋った。

 父はそれを支えながらも、最後までエルネスタを睨んでいた。

 その目に、娘への愛がまったくなかったとは言いたくない。

 だが、その愛がどれほどあったとしても、彼は最後まで、娘が自分の意思で立つことを認められなかった。

 エルネスタは、それをもう自分の責任にしない。

 ヴィルドリックは、しばらく彼女を見つめていた。

 そして、小さく言った。

「私は、君を見ていなかったのか」

 その声は、独り言のようだった。

 エルネスタは、胸の奥が少しだけ揺れた。

 今さら。

 そう思う気持ちがあった。

 けれど、その問いに怒鳴り返したいとは思わなかった。

「見ていなかったと思います」

 静かに答えた。

 ヴィルドリックの顔が歪む。

 エルネスタは続けた。

「でも、私はもう、見てほしいと待つ場所にはいません」

 その言葉は、彼に向けた最後の境界線だった。

 ヴィルドリックは何も言えなくなった。

 本当に、言葉を失っていた。

 そこには怒りもある。

 屈辱もある。

 遅すぎる痛みも、少しはあるのかもしれない。

 だが、エルネスタはそれを拾いに行かない。

 それは、彼自身が抱えるものだ。

 オズヴァルドが静かに言った。

「話は終わりだ」

 父が彼を睨む。

「貴様が」

「話は終わりだ」

 オズヴァルドはもう一度言った。

 声は荒げていない。

 しかし、その一言は扉のように閉じていた。

「エルネスタは答えた。これ以上、この家の前で同じことを言わせるな」

 父は怒りに震えながらも、もう言葉を持たなかった。

 マルティナさんが、エルネスタの背後で静かに言う。

「お引き取りを」

 それは、古い家の女主人の声だった。

 高くも強くもない。

 けれど、家の扉を守る声。

 父は外套を翻した。

 母は泣きながら馬車へ向かう。

 ヴィルドリックは、最後にもう一度エルネスタを見た。

 エルネスタは逃げずにその視線を受けた。

 もう彼の妻ではない。

 もう彼の屋敷へ戻る女ではない。

 彼が失った便利な秩序でも、見ていなかった妻でもない。

 ただ、エルネスタだった。

 ヴィルドリックは、口を開きかけた。

 けれど、何も言えなかった。

 そのまま背を向け、馬車へ乗った。

 二台の馬車が動き出す。

 車輪が湿った土を軋ませる。

 父の怒りも、母の涙も、ヴィルドリックの沈黙も、少しずつ門の外へ遠ざかっていく。

 エルネスタは、音が完全に消えるまで立っていた。

 寒さで指先が冷たい。

 心臓は早く打っている。

 体の奥には、まだ震えがある。

 けれど、揺れてはいなかった。

 オズヴァルドが隣で尋ねた。

「歩けるか」

 エルネスタは、少しだけ彼を見た。

 昨夜の暖炉の前のことを思い出す。

 好きだと言ってくれた声。

 選ばれたなら、守ると言ってくれた声。

 今も、彼は守ってくれている。

 けれど、歩くかどうかを決めるのは彼女だ。

「はい」

 エルネスタは答えた。

 それから、小さく付け足す。

「でも、手を貸していただいてもいいですか」

 オズヴァルドの目元が、ほんの少しだけ和らいだ。

「ああ」

 彼の手が差し出される。

 エルネスタは、その手を取った。

 強く引かれない。

 握り潰されない。

 必要な分だけ支えてくれる手。

 その手を取って、彼女は玄関の中へ戻った。

 扉が、ゆっくり閉まる。

 外の冷気が遮られる。

 かたり、と木の扉が枠に収まる音がした。

 その音を聞いた瞬間、エルネスタの胸から、長く張っていた息が抜けた。

 終わったのだ。

 すべてが完全に解決したわけではない。

 父が本当に親子の縁を切るかもしれない。

 王都で噂が立つかもしれない。

 ヴィルドリックがこれで完全に諦めるかどうかも分からない。

 けれど、今日、彼女は帰らなかった。

 玄関で、自分の家を選んだ。

 それは、もう誰にも取り消せない。

 マルティナさんが、杖をつきながら食堂の方へ歩き出した。

「さて」

 いつもの声だった。

「夕食の支度をしないとね」

 エルネスタは、思わず顔を上げた。

「夕食」

「そうだよ。あんた、今日はほとんど食べてないだろう」

 ミレが慌てて頷く。

「そうです。朝の薬草の仕分けも途中ですし、昼食も少しだけでした」

 サナが冷静に言う。

「感情を使った後は体力を使います。煮込みを温め直します」

 あまりに日常の言葉だった。

 父たちが来て、帰ってこいと何度も迫り、親子の縁や夫婦だった事実や世間体を突きつけてきた直後なのに。

 この家では、夕食の支度が始まる。

 泣いた日にも。

 怒った日にも。

 決別した日にも。

 恋を言葉にした翌日にも。

 夕食は作られる。

 誰かが火を入れ、鍋を温め、椀を並べ、茶を淹れる。

 それが、家なのだ。

 エルネスタの目に、じわりと涙が浮かんだ。

 マルティナさんは、それを見て少しだけ笑った。

「泣くのはいいけど、食べながらにしな。冷める」

 ミレが台所へ走りかける。

 サナがすぐに追う。

「走らない」

「はい、早歩きです」

「それを走ると言います」

 そのやり取りに、エルネスタは泣きながら笑った。

 笑える。

 泣きながらでも笑える。

 それが、不思議で、温かかった。

 オズヴァルドは、まだエルネスタの手を取っていた。

 彼は少しだけ迷うように彼女を見た。

 離すか、離さないか。

 エルネスタは、その迷いに気づき、自分から指を少しだけ握り返した。

 今は、もう少しこのままがいい。

 彼は言葉にしなくても分かったようで、手を離さなかった。

 食堂へ向かう短い廊下。

 古い床板がきしむ。

 この音も、もう彼女の知っている音だった。

 食堂には、暖炉の火があった。

 淡い緑の椀が置かれていた。

 木のテーブルの上には、昼に仕分けかけた薬草の束が少し残っている。ミレが慌てて片づけようとしたが、マルティナさんが「あとでいい」と止めた。

 サナが鍋を火へ戻す。

 根菜と肉の煮込みの匂いが、少しずつ広がる。

 蜂蜜入りの薬草茶も用意される。

 外で冷えた指先が、食堂の空気で少しずつほどけていく。

 エルネスタは、いつもの椅子の前で立ち止まった。

 初めてここへ来た日を思い出す。

 古い屋敷。

 きしむ床。

 揃っていない食器。

 豆のスープ。

 黒パン。

 食卓に座れと言われたこと。

 泣いてしまったこと。

 あの時の自分は、ここが家になるとは思っていなかった。

 ただ、温かい食事を前にして、涙が止まらなかった。

 今、同じ食堂に立っている。

 そして、はっきり分かる。

 ここが、自分の帰る家だ。

 オズヴァルドが、低く言った。

「おかえり」

 その言葉は、食堂の中に静かに落ちた。

 何度も聞いた言葉。

 けれど、今日の「おかえり」は、今までで一番深く胸に届いた。

 父の「帰ってこい」に、完全に上書きするような言葉だった。

 帰ってこいは、命令だった。

 おかえりは、受け止める言葉だった。

 エルネスタは、オズヴァルドを見た。

 涙で視界が滲んでいる。

 けれど、彼の顔はちゃんと見えた。

 無口で、不器用で、言葉を探すのに時間がかかる人。

 それでも、彼女の言葉を待ってくれる人。

 好きだと言ってくれた人。

 選ばれたなら、守ると言ってくれた人。

 エルネスタは、胸に手を当てた。

 そして、初めて、心から言った。

「ただいま」

 声は震えていた。

 でも、明るかった。

 泣いているのに、温かかった。

 マルティナさんが目元を少し拭いながら、わざとらしく咳払いした。

「はいはい。ただいまの人は座りな。夕食が冷める」

 ミレは完全に泣いていた。

「おかえりなさい、エルネスタ様」

 サナも静かに頭を下げる。

「おかえりなさいませ」

 エルネスタは、何度も頷いた。

「はい。ただいま戻りました」

 その言葉は、もう礼儀ではなかった。

 誰かの家へ一時的に戻った言葉でもなかった。

 自分の家へ帰ってきた言葉だった。

 夕食の支度が進む。

 鍋の中で煮込みが温め直され、黒パンが切られ、薬草茶が注がれる。淡い緑の椀に、温かなスープがよそわれる。

 エルネスタは椅子に座った。

 オズヴァルドは隣に座る。

 マルティナさんは向かいで、いつものように膝掛けを整える。

 ミレはまだ泣きながら皿を並べ、サナに「涙が皿に落ちます」と注意されている。

 そのすべてが、愛しかった。

 食事が始まる前、エルネスタはふと周囲を見回した。

 古い壁。

 暖炉の火。

 不揃いの椅子。

 少し傷のあるテーブル。

 香りの立つスープ。

 自分の椀。

 自分の席。

 ここには、豪奢なものはあまりない。

 でも、彼女がずっと欲しかったものがある。

 いていい、と言葉にされる前から置かれていた椅子。

 泣いても叱られない布巾。

 残してもいいと言われた牛乳。

 名前を呼び合う距離。

 自分の鍵。

 自分で選ぶ余地。

 おかえり。

 ただいま。

 エルネスタは、スープを一口飲んだ。

 温かい。

 舌の上で、根菜の甘みと、少し強めの塩気がほどける。

 今日の体に必要な味だった。

 サナが気を利かせてくれたのだろう。

 それだけで、また泣きそうになる。

 マルティナさんが言った。

「よく食べな。帰る家を宣言した日は、腹が減る」

 エルネスタは、涙の残る顔で笑った。

「はい」

 オズヴァルドが、彼女の椀を見て言う。

「熱いぞ」

「分かっています」

「ならいい」

 その短いやり取りが、胸に染みる。

 恋をしても、明日は食堂で会える。

 家を選んでも、夕食は続く。

 決別しても、スープは温かい。

 それが、エルネスタの望んだ幸福だった。

 夜、自分の部屋へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 玄関での寒さは、体からほとんど抜けていた。

 ミレが多めに蜂蜜を入れた薬草茶と、サナの煮込みと、マルティナさんの「早く寝ること」という命令のおかげだった。

 オズヴァルドは、階段の下まで送ってくれた。

「眠れそうか」

「はい」

 エルネスタは答えた。

 そして、少し考えて言い直す。

「胸はまだいっぱいです。でも、眠れそうです」

 オズヴァルドの目元が柔らかくなる。

「そうか」

「あの」

「何だ」

「明日も、食堂で」

 少し恥ずかしくなりながら言う。

 オズヴァルドは、短く頷いた。

「ああ。明日も食堂で」

 その約束を胸に、エルネスタは部屋へ戻った。

 扉を閉める。

 鍵をかける前に、一度だけ部屋を見回した。

 生成りのカーテン。

 深緑の縁取り。

 机。

 帳面。

 寝台。

 小さな鏡。

 窓の隙間を塞いだ跡。

 ここは、かつて客間だった部屋。

 今は、エルネの部屋。

 エルネスタは、扉に内側から鍵をかけた。

 かちり。

 その音は、今夜も彼女を守った。

 閉じ込めるためではない。

 自分で選んだ家の中で、安心して眠るための音。

 机の上には、いつもの紙が置かれていた。

 マルティナさんの字。

 もう帰る家を選んだ人は、今日は早く寝ること。

 その下に、ミレの丸い字。

 おかえりなさい。ずっと、ここに帰ってきてください。

 サナの整った字。

 家とは、命令で戻る場所ではなく、迎えられる場所です。

 そして、オズヴァルドの角ばった字。

 明日も、おかえりと言う。

 エルネスタは、その一行を見た瞬間、胸の奥がいっぱいになった。

 明日も、おかえりと言う。

 それは、未来の約束だった。

 一度だけではない。

 今日だけではない。

 明日も。

 その先も。

 彼女がこの家へ帰ってくるたびに、彼はおかえりと言うのだろう。

 エルネスタは紙を胸に当てた。

 涙は出た。

 けれど、今日はその涙を恥ずかしいと思わなかった。

 帳面を開く。

 感情の頁へ、ゆっくり書く。

 父、母、ヴィルドリック様が来た。

 帰ってこいと何度も言われた。

 夫婦だったと言われた。

 家族だったと言われた。

 世間体があると言われた。

 許してやると言われた。

 戻れば元通りにしてやると言われた。

 けれど、私は戻らなかった。

 私は言った。

 もう私の帰る家はここです。

 書きながら、胸が震えた。

 エルネスタは、さらに続ける。

 血縁だけでは、家にはならなかった。

 婚姻だけでも、家にはならなかった。

 世間体では、私は眠れなかった。

 私が選び、選ばれ、日々を積み重ねた場所。

 泣いても叱られず、寒いと言えて、嫌だと言えて、好きだと言っても壊れなかった場所。

 おかえりと言ってくれる場所。

 そこが、私の家になった。

 今日、扉が閉まった後、マルティナさんは夕食の支度を始めた。

 ミレさんは泣きながら皿を並べた。

 サナさんは薬草茶を淹れてくれた。

 オズヴァルド様は、おかえりと言ってくれた。

 私は初めて、心から、ただいまと返した。

 筆を置く。

 胸の中はまだ熱い。

 けれど、静かだった。

 長い道だった。

 離縁状を朝食の前に置かれた日、エルネスタには帰る場所がなかった。

 実家の扉は、彼女のためには開かなかった。

 雨の街道で名前を呼ばれ、古い騎士家の食卓に座り、泣いても叱られない夜を知った。

 少しずつ、椅子が置かれ、鍵を預けられ、薬草を植え、好きな味を知り、戻りませんと言い、説明し続けることをやめ、王都で言葉を通し、古いドレスを脱ぎ、外套の温かさを知り、好きだと言った。

 そして今日。

 帰ってこいと何度言われても、帰らなかった。

 もう私の帰る家はここです。

 その言葉は、ようやく彼女自身のものになった。

 エルネスタは帳面を閉じた。

 寝台へ入り、毛布を引き寄せる。

 外では冬の風が吹いている。

 けれど、北風は入ってこない。

 窓は直されている。

 部屋は温かい。

 明日も食堂には椀がある。

 明日も誰かが茶を淹れる。

 明日も、オズヴァルドが言う。

 おかえり、と。

 エルネスタは目を閉じた。

 心から、もう一度だけ呟く。

「ただいま」

 その声は、夜の部屋に小さく溶けた。

 誰に命じられたのでもなく。

 誰に許されたからでもなく。

 自分で選んだ家で、自分の言葉として。

 冬の夜、レナック家の屋敷は静かだった。

 古く、小さく、豪奢ではない。

 それでもそこには、確かに一人の女がようやく帰り着いた家があった。

 そして、その家では明日もまた、いつものように朝が来て、火が入り、食卓に椀が置かれる。

 エルネスタが目を覚まし、扉を開け、階段を降りれば。

 きっと誰かが、何でもない顔で言うのだ。

 おはよう。

 そして、出かけて帰ってくれば、また言ってくれる。

 おかえり。

 その繰り返しこそが、彼女の選んだ幸福だった。

 もう、帰る場所が分からず立ち尽くすことはない。

 もう、誰かの命令で帰る家を決めなくていい。

 もう、血や婚姻や世間体だけで、自分の居場所を差し出さなくていい。

 エルネスタは眠りに落ちる直前、暖炉の火のように静かな確信を胸に抱いた。

 帰る家は、与えられるものではない。

 選び、守り、日々を重ねて、ようやく自分のものになる。

 そして彼女は、もう選んだ。

 もう私の帰る家はここです。


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「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。