「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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番外編3 王都でいちばん遅すぎた後悔


 グランセル侯爵家の春支度は、例年より遅れていた。

 王都の貴族街では、冬の終わりが近づくと、まず窓辺の色が変わる。重い深紅や濃紺の布が少しずつ外され、淡い若草色や薄い金色の布が客間に入る。暖炉の前に置かれていた厚い敷物は巻かれ、銀器は春の来客に合わせて磨かれる。玄関には香りの強すぎない花が飾られ、手紙の文面にも、冬を惜しみ春を迎える言葉が混じる。

 それが、侯爵家の暮らしというものだった。

 少なくとも、ヴィルドリックはそう思っていた。

 侯爵家である以上、季節は自然に整う。

 朝になれば茶が出るように、夜になれば燭台に火が入るように、冬が終われば春の支度が始まる。誰かが特別に苦労しているとは考えていなかった。

 だが今年、春は自然には来なかった。

 客間の花は、冬の名残を引きずっていた。

 濃い紫の花と白い花が、大きな銀の花器に挿されている。見た目は悪くない。むしろ立派だった。だが、春を迎えるには重すぎた。来客の夫人が花を見て、ほんのわずかに眉を動かしたのを、ヴィルドリックは見逃せなかった。

 以前なら、気づかなかっただろう。

 今の彼は、そういうわずかな揺れに敏感になっていた。

 なぜなら、最近のグランセル侯爵家では、わずかな揺れが積み重なっていたからだ。

 茶の濃さ。

 来客席の位置。

 花の香り。

 贈答品の時期。

 使用人の配置。

 先代侯爵である父の薬の時間。

 何かが少しずつずれ、そのたびに屋敷の空気が不自然に軋んだ。

 ヴィルドリックは、客間の花を見つめた。

「この花は誰が選んだ」

 控えていた侍女がびくりと肩を揺らす。

「本日は、花商が届けたものをそのまま」

「そのまま?」

「春用の花の指定が、まだ整理できておりませんでしたので」

「指定は記録にあるはずだ」

 ヴィルドリックの声が少し低くなる。

 侍女は顔を伏せた。

「申し訳ございません。前奥様の控えを確認したのですが、花の種類だけではなく、来客ごとの香りの強さや、喪中の家、春先に白い花を避ける家なども書かれており、どれが本日の客人に該当するのか判断が」

 前奥様。

 その呼び名を聞くたびに、ヴィルドリックの胸はざらつく。

 もうこの家の者ではない女。

 自分が離縁状を渡した女。

 戻るよう求めても、何度も拒んだ女。

 そして今なお、屋敷のあちこちから名前だけが浮かび上がる女。

「もういい」

 ヴィルドリックは言った。

「下がれ」

 侍女は深く頭を下げ、音を立てないように部屋を出ていった。

 客間に残された花は、相変わらず見事だった。

 けれど、見事なだけだった。

 今の季節に合っていない。

 客に合っていない。

 屋敷の空気に馴染んでいない。

 エルネスタがいた頃、この花器には何が挿されていただろう。

 ヴィルドリックは、記憶を探した。

 すぐには出てこなかった。

 それが、また胸の奥を鈍く刺した。

 見ていなかったのだ。

 毎年、季節ごとに変わっていたはずなのに。

 朝、食堂に飾られた小さな花。

 午後の客間の花。

 母の部屋に置かれる香りの弱い花。

 父の書斎には、花粉の少ない枝もの。

 それらは確かにあった。

 だが、彼は一度も、それを誰がどう選んでいたのか考えなかった。

 妻が整えていた。

 妻だった女が。

 エルネスタが。

 ヴィルドリックは花器から視線を外し、執務室へ戻った。

 廊下を歩くと、使用人たちの動きが以前より硬いことに気づく。

 誰も怠けてはいない。

 むしろ、皆よく働いている。

 だが、余裕がない。

 廊下の角で、若い侍女が別の侍女へ小声で言った。

「今日、リーネの誕生日だったのに」

「覚えている人がいなかったの?」

「前は、奥様が小さな菓子を厨房に頼んでくださっていたでしょう。大げさではなくて、休憩の時に一口だけの」

「そうだったわね」

「今年は誰も」

 ヴィルドリックが近づくと、二人はすぐに黙った。

 深く頭を下げる。

 彼は通り過ぎた。

 叱責はしなかった。

 できなかった。

 リーネ。

 誰だったか。

 茶を淹れるのが上手い侍女か。

 いや、緊張すると手が震えると、エルネスタの控えにあった娘だった気がする。

 彼女の誕生日。

 エルネスタは覚えていたのか。

 屋敷の使用人全員の誕生日を。

 それとも、主要な者だけか。

 分からない。

 だが、今の屋敷では、そうした小さなものが抜け落ちていた。

 たかが誕生日。

 使用人の休憩に出す小さな菓子。

 侯爵家の運営に、そんなものが本当に必要なのか。

 以前のヴィルドリックなら、そう考えただろう。

 だが今は分かる。

 必要だったのだ。

 その小さな菓子ひとつで、使用人は自分が見られていると感じる。働きぶりだけでなく、人として覚えられていると知る。

 だから、屋敷は滑らかに動いていた。

 命令だけではなく、見ている者がいたから。

 ヴィルドリックは執務室へ入り、扉を閉めた。

 机の上には、エルネスタが残した写しが積まれている。

 彼女が直接送ってきたものだ。

 戻るためではない。

 戻らないために、必要な記録だけを渡したもの。

 その写しを、彼は最近になってようやく真剣に読むようになった。

 遅すぎた。

 自分でも分かっている。

 だが、今さら読まずにはいられない。

 来客控え。

 贈答記録。

 使用人配置。

 季節ごとの注意。

 先代侯爵の薬と体調。

 母の茶葉。

 厨房の負担。

 父の薬の欄には、細かな字でこうあった。

 朝食後すぐではなく、半刻ほど置く。空腹が強い時は胃を痛めるため、柔らかいパンを少し添えること。

 雨の日は膝の痛みが強く、薬を飲み忘れやすい。書斎机の右側に水を置く。

 薬の後は苦みを嫌がるため、薄い蜂蜜湯を用意。ただし甘すぎると咳き込む。

 ヴィルドリックは、その一文を長く見つめた。

 父は厳しい人だった。

 先代侯爵として、この家を支え、ヴィルドリックにも常に侯爵家の品位を求めた。

 その父が薬を嫌がることを、彼は知らなかった。

 苦みを嫌がることも。

 雨の日に飲み忘れやすいことも。

 蜂蜜湯が甘すぎると咳き込むことも。

 エルネスタは知っていた。

 父の薬の時間まで。

 自分の父親のことを、彼女の方が知っていたのか。

 ヴィルドリックは、手元の紙を握りそうになり、途中で止めた。

 紙が歪むのが嫌だった。

 この控えは、今では屋敷に残された数少ないエルネスタの跡だった。

 かつては、ただの雑務だと思っていたもの。

 今は、彼女が見ていた世界そのものに見えた。

 ページをめくる。

 客人の好み。

 ダルセント家のオルフェリア嬢。

 香りの強い茶を避ける。菓子は甘すぎないもの。会話では母君の療養の話題を先に出さないこと。本人が話した場合のみ受ける。

 ヴィルドリックの指が止まった。

 オルフェリア。

 破談になった婚約者候補。

 彼女がグランセル侯爵家を訪れた時、茶は香りの強いものだった。

 菓子も甘いものが出た。

 母の療養の話題も、母本人が得意げに口にしていた。

 オルフェリアは微笑んでいた。

 だが、その後の返事は丁寧な辞退だった。

 エルネスタなら、避けられたのか。

 おそらく、避けられた。

 そう思うと、ヴィルドリックの胸にまた苛立ちが走った。

 最初に来るのは、まだ苛立ちだった。

 なぜいないのか。

 なぜ戻らないのか。

 なぜ、これだけのことをしていたなら、もっと分かるように言わなかったのか。

 だが、その問いはすぐに自分へ戻ってくる。

 言ったところで、自分は聞いただろうか。

 エルネスタが、花の香りについて、使用人の誕生日について、父の薬について、客人の好みについて話したとして。

 自分は、本気で耳を傾けただろうか。

 おそらく、聞き流した。

 任せる、と言った。

 適切に、と言った。

 侯爵夫人として当然だ、と言った。

 そして、彼女が整えた結果だけを受け取った。

 ヴィルドリックは椅子に深く沈んだ。

 窓の外では、王都の春支度が進んでいる。

 通りには花売りの声があり、馬車が走り、遠くの屋敷では新しい布が干されている。

 王都は変わらず華やかだった。

 その中心にあるはずのグランセル侯爵家だけが、内側から少しずつ鈍くなっていた。

 昼過ぎ、厨房から報告が上がった。

 先代侯爵の薬の時間を間違えたという。

 大事には至らなかった。

 だが、父は胃を痛め、機嫌を悪くし、執事と侍女を厳しく叱った。

 ヴィルドリックが書斎へ向かうと、父は椅子に座り、渋い顔で蜂蜜湯を持っていた。

「遅い」

 父の声は不機嫌だった。

「申し訳ありません」

「薬ひとつ満足に出せんのか、この家は」

 その言葉に、ヴィルドリックは返せなかった。

 父は続けた。

「エルネスタは、こういうことを間違えなかった」

 その名前が父の口から出た瞬間、室内の空気が変わった。

 父自身も、それに気づいたようだった。

 彼は苦々しげに口を閉じた。

 ヴィルドリックは、父の手元の蜂蜜湯を見た。

 色が濃い。

 おそらく甘すぎる。

 父は一口飲み、顔をしかめて咳き込んだ。

 控えにあった通りだった。

 甘すぎると咳き込む。

 エルネスタは知っていた。

 自分たちは知らなかった。

 ヴィルドリックは、控えていた侍女へ言った。

「薄めのものを用意し直せ。蜂蜜は少量でいい」

 侍女は驚いたように顔を上げ、それからすぐに頭を下げた。

「かしこまりました」

 父が目を細める。

「今ごろ覚えたか」

 その言葉は鋭かった。

 ヴィルドリックは何も言わなかった。

 覚えたのではない。

 読んだのだ。

 エルネスタが残した記録を。

 妻だった女が、何年も見ていた父の癖を。

 ヴィルドリックは書斎を出た後、廊下でしばらく立ち止まった。

 胸の中に、初めてはっきりとした恥が生まれていた。

 今さら。

 遅い。

 あまりにも遅い。

 けれど、後悔というものは、いつも都合の悪い頃に来るのかもしれない。

 必要な時には来ない。

 相手がまだそこにいて、まだ言葉が届くうちは、自分の正しさに守られて気づかない。

 相手が去り、扉が閉まり、椅子が空き、茶の味が変わり、花の香りがずれてから、ようやく足元の欠落に気づく。

 ヴィルドリックは、自分の手を見た。

 朝食の前に離縁状を置いた手。

 あの日、彼は彼女へ手渡しもしなかった。

 食卓の上に置いた。

 書類として。

 処理として。

 婚姻の役目は終わったから。

 実家へ戻ればいい。

 彼女の顔を、ちゃんと見ただろうか。

 思い出そうとする。

 白い顔。

 冷えた指先。

 何かを言いかけて、言わなかった唇。

 そして、静かに受け取った姿。

 彼はそれを「理解が早い」と思った。

 違った。

 あれは、言葉を諦めた顔だったのかもしれない。

 その可能性が、今さら胸を抉る。

 午後、執事が執務室へ入ってきた。

「旦那様、リーネの件ですが」

「何だ」

「厨房から、小さな菓子を休憩時間に出してもよろしいでしょうか」

 ヴィルドリックは顔を上げた。

 執事は少し緊張している。

 以前なら、わざわざ聞くようなことではなかった。

 エルネスタが整えていた。

 今は、誰も判断できない。

 ヴィルドリックはしばらく黙った。

 それから言った。

「出せ」

 執事が頭を下げる。

「かしこまりました」

「今後、使用人の誕生日の控えを作れ」

「はい」

 執事は少し迷った後、静かに言った。

「前奥様の控えに、一部ございます」

 また、その言葉。

 だが、今度のヴィルドリックは止めなかった。

「使え」

「よろしいのですか」

「そのために残したのだろう」

 言ってから、自分で胸が痛んだ。

 そのために。

 違う。

 エルネスタは、この家のために戻るつもりで残したのではない。

 自分が担っていた仕事を、必要最低限引き渡すために残した。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 彼女は、この家へ戻らないために、記録を渡したのだ。

 執事は頭を下げ、出ていった。

 ヴィルドリックは一人になった執務室で、机の引き出しを開けた。

 中には、一通の書きかけの手紙がある。

 エルネスタへ宛てたものだった。

 何度も書き始めて、何度も止まった。

 エルネスタ。

 屋敷が困っている。

 君の控えを読んだ。

 君がしていたことを知った。

 戻ってきてほしい。

 そこで筆が止まる。

 戻ってきてほしい。

 その言葉は、あまりにも自分勝手だった。

 彼女は何度も言った。

 私は戻りません。

 何度言われても、私は帰りません。

 もう私の帰る家はここです。

 その言葉を、ヴィルドリックは聞いた。

 玄関で。

 レナック家の扉の前で。

 彼女は、自分の家を選んだ。

 その隣には、オズヴァルド・レナックがいた。

 無愛想で、言葉の少ない男。

 だが、エルネスタの言葉を待つ男。

 ヴィルドリックは、あの時の彼女の顔を思い出す。

 震えていた。

 けれど、揺れていなかった。

 父の怒りにも、母の涙にも、自分の理屈にも戻らなかった。

 その顔を見た時、彼はようやく理解した。

 彼女はもう、こちらを見ていない。

 自分を理解してほしいと待っている女ではない。

 ヴィルドリックに見つけてもらうことを望んでいない。

 彼女は、もう別の家で見つけられていた。

 いや。

 見つけられたという言い方も違うのかもしれない。

 彼女は、自分で選んだのだ。

 自分が一度も見ようとしなかった彼女を、彼女自身が取り戻した。

 その隣に、レナック家があった。

 その事実が、遅すぎるほどはっきり胸へ落ちてきた。

 ヴィルドリックは書きかけの手紙を取り出した。

 しばらく見つめる。

 そして、破った。

 一度にではない。

 丁寧に、折り目に沿って。

 エルネスタへ送らない手紙。

 戻ってきてほしいと書く資格のない手紙。

 破れた紙片は、机の上に落ちた。

 彼はそれをしばらく見つめていた。

 暖炉にくべることもできた。

 しかし、すぐには動かなかった。

 なぜか、その紙片すら、自分の後悔の形に見えた。

 夕方、屋敷の花が替えられた。

 今度は、淡い黄色の小花と、香りの弱い枝ものだった。

 執事が控えを見て選んだのだろう。

 完全ではない。

 エルネスタがいた頃のようにはいかない。

 それでも、先ほどよりは春らしかった。

 ヴィルドリックは客間の入口から、その花を見た。

 ふと、思う。

 エルネスタは今、どんな花を見ているのだろう。

 レナック家の庭には、薬草があると聞いた。

 豪奢な花ではないだろう。

 土の匂いがする、実用的な草花。

 騎士団の怪我や、マルティナの膝痛に役立つもの。

 彼女らしい。

 今さら、そう思った。

 彼女らしい、という言葉を、本当の意味で使うのは初めてかもしれなかった。

 侯爵家にいた頃、彼は彼女を「君らしい」と何度も言った。

 黙っている君らしい。

 冷静な君らしい。

 感情的でない君らしい。

 だが、それは彼女自身ではなかった。

 自分に都合のいい彼女の形だった。

 今なら分かる。

 エルネスタは、静かな女だったかもしれない。

 だが、無感情な女ではなかった。

 丁寧な女だった。

 だが、従順なだけの女ではなかった。

 人をよく見ていた。

 記録していた。

 寒さも、痛みも、好みも、誕生日も、花の香りも、薬の時間も、誰より細かく知っていた。

 その女を、自分は一度も見ようとしなかった。

 妻としてそこにいることだけを見た。

 役目を果たしていることだけを見た。

 そして、役目が終わったと言って手放した。

 手放してから、彼女が役目ではなかったことを知る。

 王都でいちばん遅すぎた後悔。

 もし誰かがそう呼ぶなら、ヴィルドリックは否定できなかった。

 夜になり、グランセル侯爵家の食堂にはいつものように夕食が並んだ。

 以前より少しだけ整っていた。

 エルネスタの控えを読み、使用人たちが必死に補おうとしているからだ。

 茶は少し良くなった。

 花も変えられた。

 父の薬も、今日は時間通りだった。

 リーネの休憩には、小さな菓子が出たらしい。

 屋敷は、少しずつ立て直されていくのかもしれない。

 だが、エルネスタは戻らない。

 それだけは変わらない。

 ヴィルドリックは一人で食卓についた。

 向かいの席は空いている。

 かつて、エルネスタが座っていた席。

 そこには今、誰もいない。

 新しい婚約者候補もいない。

 母も父も別の部屋で食べると言った。

 使用人が静かに料理を置く。

 ヴィルドリックは、空席を見た。

 あの席に座っていた女が、どんな表情で食事をしていたか。

 思い出せない。

 朝食の前に離縁状を置いた日の顔だけは、嫌になるほど思い出せるのに。

 日々の顔を、思い出せない。

 それが、最も遅い後悔だった。

 彼女の不在を惜しむには、彼は彼女の在り方をあまりにも知らなかった。

 知らないまま失い、失ってから知ろうとしている。

 愚かだ。

 ようやく、そう思えた。

 ヴィルドリックは食事に手をつけた。

 味は悪くない。

 だが、どこか足りない。

 それが料理の問題なのか、自分の問題なのか、もう分からなかった。

 食後、彼は執務室へ戻り、エルネスタの控えを一冊だけ開いた。

 最後の方に、小さな紙片が挟まっていた。

 見落としていたものだ。

 そこには、彼の予定に関する短い覚え書きがあった。

 ヴィルドリック様は、春先に疲れが出やすい。朝の茶は少し薄め。夜会が続く週は、書斎の花を香りのないものにする。強く言うと不機嫌になるため、予定は前夜に書面で置く。

 ヴィルドリックは、その紙片を見つめた。

 自分のことまで。

 彼女は、見ていた。

 茶の濃さ。

 花の香り。

 夜会続きの疲れ。

 不機嫌になる癖。

 予定の伝え方。

 自分が彼女を見ていなかった間、彼女は自分を見ていた。

 それが愛だったのか、義務だったのか、恐怖からの先回りだったのか、今の彼には分からない。

 おそらく、そのすべてが混ざっていたのだろう。

 だからこそ、彼は胸が痛かった。

 その優しさのようなものさえ、彼女にとっては重荷だったのかもしれない。

 ヴィルドリックは、紙片を机に置いた。

 そのまま、長く動けなかった。

 謝りたい。

 初めて、そう思った。

 屋敷を戻してほしいからではなく。

 茶や花や記録を整えてほしいからではなく。

 ただ、見なかったことを。

 聞かなかったことを。

 感情を殺していることに気づかなかったことを。

 離縁状を食卓に置いたことを。

 謝りたい。

 しかし、その謝罪を届けてどうする。

 彼女はもう戻らない。

 謝罪は、時に相手のためではなく、自分が楽になるためのものになる。

 今の自分の謝罪が、どちらなのか分からない。

 分からないまま送ることは、また彼女に荷物を渡すことになる気がした。

 ヴィルドリックは、紙片を丁寧に控えの中へ戻した。

 そして、初めて小さく呟いた。

「すまなかった」

 部屋には誰もいない。

 エルネスタにも届かない。

 届かなくていいのかもしれなかった。

 少なくとも今は。

 遅すぎる言葉は、相手に渡す前に、まず自分の中で燃やすべきなのだろう。

 窓の外では、王都の夜が深まっていた。

 遠くの屋敷には明かりが灯り、馬車の音がかすかに通りを渡る。

 グランセル侯爵家の中にも明かりはある。

 使用人たちはまだ動き、執事は控えを整理し、厨房は明日の支度をしている。

 屋敷は崩れたままではいられない。

 少しずつ、エルネスタの残した記録を頼りに、彼女なしで動いていかなければならない。

 それが、彼女の拒絶の意味でもあった。

 ヴィルドリックは、椅子に座ったまま目を閉じた。

 エルネスタの声が蘇る。

 もう私の帰る家はここです。

 その「ここ」は、この屋敷ではない。

 もう二度と。

 彼女には、帰る家がある。

 おかえりと言う人がいる。

 明日も食堂で待つ人がいる。

 その事実が、胸を裂くほど静かに痛かった。

 けれど、それは彼が受け取るべき痛みだった。

 王都でいちばん遅すぎた後悔は、今夜も侯爵家の執務室に残った。

 豪奢な机。

 整え直された花。

 薄めに淹れられた茶。

 使用人の誕生日を書き写した新しい控え。

 先代侯爵の薬の時間。

 客人の好み。

 そして、そのすべての奥にいる、もう戻らない女の筆跡。

 ヴィルドリックは、その筆跡を見つめ続けた。

 今度こそ、見ようとしていた。

 だが、見ようとした時にはもう、彼女はそこにいなかった。


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