「帰ってこい」と何度言われても、もう私の帰る家はここです

なつめ

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第34話 親族会議は、私を裁く場所ではない


 王都の空は、レナック家の空よりもずっと高く見えた。

 けれど、それは広々としているという意味ではなかった。

 石造りの建物が整然と並び、馬車の車輪が磨かれた道を鳴らし、道行く人々の衣擦れや靴音が、どこか硬い響きを帯びている。空は確かに高い。けれど、その下にいる人間の息は、妙に浅くなる。

 エルネスタは、馬車の窓から外を見ていた。

 王都に戻るのは、離縁されて以来だった。

 いや、正確には、戻るという言葉は違う。

 ここはかつて暮らしていた場所で、歩き方も、挨拶の角度も、視線の落とし方も、すべてを身につけさせられた場所だった。

 けれど、今のエルネスタは、王都へ帰ってきたのではない。

 呼び出された。

 親族会議という名で。

 そして、自分の意思を伝えるために来た。

 膝の上で、手袋をはめた手を重ねる。

 今日のドレスは、マルティナさんが用意してくれたものだった。

 侯爵家時代の豪華なドレスではない。

 光沢の強い布でも、重すぎる宝石でもない。落ち着いた青緑の布地に、襟元と袖口だけが丁寧に仕立てられている。派手ではないが、姿勢を崩さずに立てる服だった。

 鏡の前で着た時、マルティナさんは言った。

 今のあんたに似合うよ。

 オズヴァルドは、言葉に詰まった後、低く言った。

 似合っている。

 その二つの言葉が、今も胸に残っている。

 エルネスタは、手袋の上から自分の指を握った。

 隣にはオズヴァルドが座っている。

 彼は王都の景色を楽しむ様子もなく、馬車の揺れに合わせて静かに座っていた。濃い色の礼服を着ているが、貴族の男たちのような飾りはほとんどない。肩幅があり、背筋がまっすぐで、黙っているだけで騎士団長としての重みがある。

 頼りたい。

 そう思う。

 同時に、頼りきってはいけないとも思う。

 出発前に、彼女は自分で言った。

 隣にいてください。でも、言葉は私が言います。

 オズヴァルドは、あの時、ただ頷いた。

 今も、その約束を守っている。

 彼は何も言わない。

 けれど、黙っているだけで十分だった。

 怖い。

 王都へ近づくほど、胸の奥が硬くなる。

 父の声。

 母の涙。

 姉の冷たい視線。

 ヴィルドリックの整った顔。

 親族たちの遠回しな侮蔑。

 それらが、まだ始まってもいないのに耳の奥で響いている。

 エルネスタの呼吸が、少し浅くなった。

 すると、隣から低い声がした。

「怒っていない」

 エルネスタは、はっとしてオズヴァルドを見る。

 彼は正面を向いたままだった。

「お前にじゃない」

 その言い直しに、胸の奥が少しだけほどけた。

 以前なら、彼の沈黙を怒りと勘違いしていた。

 今は違う。

 彼は、言葉を足してくれる。

 エルネスタも、自分の気持ちを少しずつ言えるようになった。

「怖いです」

 小さく言う。

 オズヴァルドは頷いた。

「ああ」

「でも、逃げたくはありません」

「ああ」

「……震えても、言います」

 オズヴァルドが、そこでようやく彼女を見た。

 その目は静かだった。

「聞いている」

 短い言葉。

 けれど、十分だった。

 馬車は、ヴァルディーン伯爵家の王都邸へ着いた。

 かつてエルネスタが何度も出入りした屋敷だった。

 白い石壁。

 整えられた植え込み。

 玄関前の広い階段。

 磨かれた扉。

 すべてが記憶の中と同じで、それがかえって胸を冷やした。

 ここで、エルネスタはいつも背筋を伸ばしていた。

 父に叱られないように。

 母に心配をかけないように。

 姉の邪魔にならないように。

 親族の目に恥ずかしくない娘であるように。

 この屋敷の空気は、昔から彼女に「正しくあれ」と命じていた。

 馬車の扉が開く。

 オズヴァルドが先に降り、手を差し出した。

「降りられるか」

「はい」

 エルネスタは一瞬迷い、けれど自分からその手を取った。

 手袋越しでも、彼の手の温度は分かった。

 強く引かれない。

 必要な分だけ支えられる。

 石段へ足を下ろすと、王都の冷たい空気が頬に触れた。レナック家の庭の湿った土の匂いではない。ここには香油と石と、古い家の威圧の匂いがある。

 玄関で迎えた使用人は、かつてのエルネスタを知っている者だった。

 一瞬、目が揺れた。

 けれどすぐに頭を下げる。

「エルネスタ様。レナック騎士団長様。皆様がお待ちです」

 皆様。

 その言葉だけで、胸が少し沈む。

 エルネスタは頷いた。

「案内してください」

 廊下を歩く。

 靴音が磨かれた床に響く。

 壁には、ヴァルディーン家の肖像画が並んでいた。父の若い頃、祖父、さらに上の世代。皆、どこか似た目をしている。家名を背負い、家を守り、家のために人を並べる目。

 エルネスタは、その目に見下ろされながら歩いた。

 昔は、この廊下を歩くたび、自分もこの家の娘なのだから恥じないようにしなければと思っていた。

 今は、違う。

 この家に生まれたことは消えない。

 けれど、この家に従うために来たわけではない。

 会議室の扉の前で、案内の使用人が立ち止まった。

 中から、くぐもった話し声が聞こえる。

 男たちの低い声。

 女たちの囁き。

 母のすすり泣くような声も混じっている気がした。

 エルネスタの手が冷たくなる。

 オズヴァルドは何も言わない。

 ただ、隣にいる。

 それだけで、彼女は扉の前に立てた。

 扉が開いた。

 会議室には、長い卓が置かれていた。

 重厚な木の卓。

 深い色の絨毯。

 壁際には燭台と花器。

 窓には厚いカーテン。

 空気は温かいはずなのに、エルネスタには寒く感じられた。

 部屋には人が多かった。

 父、ヴァルディーン伯爵。

 母、ロザリア。

 姉、ベアトリス。

 元夫、ヴィルドリック。

 ヴァルディーン家の叔父、叔母、遠縁の親族たち。

 グランセル家側の年配の親族も数名。

 誰もが、エルネスタを見る。

 その視線が、一斉に肌へ刺さった。

 探る目。

 責める目。

 値踏みする目。

 失敗した娘を見に来た目。

 エルネスタは、立ち止まった。

 昔なら、ここで頭を下げた。

 深く、深く。

 許してくださいと言う前から、許しを乞う姿勢を取った。

 けれど今日は、背筋を伸ばした。

 父の目が、彼女のドレスを見た。

 豪奢ではない。

 だが、みすぼらしくもない。

 彼の眉がわずかに動いた。

 母はエルネスタの顔を見るなり、泣きそうになった。

 ベアトリスは唇を引き結び、少し不愉快そうに彼女を見ている。

 ヴィルドリックは、表情を抑えていた。

 ただ、その目には苛立ちと困惑があった。

 エルネスタの隣にオズヴァルドがいることも、彼の不快を増しているのだろう。

 父が口を開いた。

「遅かったな」

 時間通りだった。

 けれど、父にとっては、最初の一言で相手を下に置くことが必要なのだ。

 エルネスタは、静かに答えた。

「指定のお時間には間に合っております」

 部屋の空気が、わずかに揺れた。

 父の目が鋭くなる。

 昔のエルネスタなら言わなかった言葉だからだ。

 オズヴァルドは隣で黙っている。

 父は鼻を鳴らした。

「座れ」

 言われた席は、長卓の端に近い場所だった。

 正面には父。

 右側に母と姉。

 斜め前にヴィルドリック。

 親族たちは、裁判官のように周囲を囲んでいた。

 エルネスタは、その配置を見ただけで理解した。

 これは話し合いの場ではない。

 最初から、彼女を責めるための場所だ。

 彼女の意思を聞くためではなく、彼女に反省させ、戻らせるための場。

 けれど、それを理解しても、もう座らずに逃げることはしなかった。

 椅子へ座る。

 オズヴァルドは、彼女の隣に座った。

 父が不快そうに言う。

「レナック騎士団長。あなたには席を外していただきたい。これは親族間の話だ」

 オズヴァルドは、エルネスタを見た。

 答えるかどうかを、彼女に委ねる目だった。

 エルネスタは深く息を吸う。

「オズヴァルド様には、私の付き添いとして同席していただきます」

 叔父が眉をひそめた。

「付き添い? 親族会議に他家の男を入れるなど」

 エルネスタは、叔父を見る。

「私は今日、一人でこの場に来ることを望みませんでした」

「望む望まないの問題ではない」

「私のことを話す場です。私の望みは関係があります」

 また空気が揺れた。

 ベアトリスが小さく笑った。

「ずいぶん強くなったのね。田舎で随分と影響を受けたようだわ」

 田舎。

 その言葉には、レナック家を見下す響きがあった。

 エルネスタの胸に小さく怒りが灯る。

 けれど、怒鳴らない。

「影響を受けました」

 ベアトリスが意外そうに目を瞬く。

 エルネスタは続けた。

「自分の意思を言ってもいいのだと、教えていただきました」

 ベアトリスの顔が強ばる。

 ヴィルドリックが低く言った。

「それは、君らしくない」

 出た。

 君らしくない。

 その言葉を、彼は何度使っただろう。

 感情を見せた時。

 拒絶した時。

 自分の意思を言おうとした時。

 彼は、彼に都合のいいエルネスタから外れたものを、すべて「君らしくない」と呼んだ。

 エルネスタは、ヴィルドリックを見た。

「あなたの知っている私らしさは、私が黙っていた時のものです」

 ヴィルドリックの目が揺れた。

 エルネスタは、膝の上で拳を握った。

 怖い。

 声は静かでも、怖い。

 この部屋の全員を前にして、自分の言葉を出すことは、簡単ではない。

 父の眉間。

 母の涙。

 姉の嘲り。

 親族の視線。

 ヴィルドリックの冷静な否定。

 それらは、長い間、彼女の声を奪ってきた。

 でも、今日は奪わせない。

 父が卓を軽く叩いた。

「口答えをしに来たのか」

 その音に、エルネスタの体が反射で震えた。

 オズヴァルドの気配が、隣でわずかに変わる。

 けれど、彼は動かない。

 彼女が言う番だと分かっている。

 エルネスタは震えた拳を握りしめた。

「いいえ」

 父を見る。

「私の意思を伝えに来ました」

 父が冷たく笑った。

「意思などと言う前に、お前には弁えるべき立場がある。ヴァルディーン家の娘として、グランセル家の元侯爵夫人として、家名をどれほど傷つけているか分かっているのか」

 叔母が続ける。

「離縁された女が実家に戻らず、他家に身を寄せているなど、王都でどれほど噂になっていると思っているの」

 別の親族が鼻を鳴らす。

「しかも地方騎士家だとか。体面というものを考えなさい」

 グランセル家側の年配の男が言った。

「ヴィルドリック殿の立場もある。元妻が勝手な振る舞いを続ければ、再婚話にも差し障る」

 エルネスタは黙って聞いた。

 家名。

 世間体。

 元夫の立場。

 それらは、予想していた言葉だった。

 だが、実際に浴びせられると、体の奥が冷える。

 母が涙を浮かべて言う。

「エルネスタ、お母様はあなたのためを思っているのよ。家へ戻ればいいの。お父様に謝って、皆に迷惑をかけたことを反省すれば、きっと」

 きっと。

 許される。

 その先が聞こえるようだった。

 エルネスタは、母の顔を見た。

 母は泣いている。

 だが、その涙の中に、エルネスタの苦しみへの問いはない。

 自分がつらい。

 家が困る。

 父が怒っている。

 世間が見る。

 その涙だった。

 ベアトリスが冷ややかに言った。

「あなた、自分がどれだけ恩知らずなことをしているか分かっているの? 実家に育ててもらい、侯爵家に嫁がせてもらい、離縁された後も戻る場所を用意してもらえるのに」

「私の部屋はありませんでした」

 エルネスタは静かに言った。

 ベアトリスが黙る。

 父の顔が険しくなる。

「何?」

「離縁後に戻った時、私の部屋はもうありませんでした。食器も、席も。私は急に帰られても困ると言われました」

 母の顔が青ざめる。

「それは、急だったから」

「はい。急でした」

 エルネスタは頷いた。

「ですが、私はその時、実家にも帰る場所がないのだと知りました」

 母が何か言いかける。

 しかし、父が先に強く言った。

「たかが部屋の問題を大げさに言うな。家族ならば、多少の不便は」

「家族ならば、私の気持ちは不便として片づけられるのですか」

 父の口が止まった。

 エルネスタ自身も、少し驚いた。

 言えた。

 今の言葉は、考えて用意していたものではなかった。

 胸の奥から出た。

 拳を握る手が震えている。

 でも、言葉は出た。

 叔父が不快そうに言う。

「女の分際で、ずいぶんと口が立つようになったな」

 その言葉に、部屋のどこかで小さく息を呑む音がした。

 オズヴァルドの気配が、明らかに冷えた。

 けれど、エルネスタは先に彼の方を見ず、叔父を見た。

 女の分際。

 昔なら、それだけで黙った。

 怒ってはいけない。

 言い返してはいけない。

 女として、娘として、妻として、弁えるべきだと。

 だが今、その言葉は古びた鎖のように見えた。

 重い。

 けれど、もう彼女の足首に巻きつけられてはいない。

「私は、女である前に、一人の人間です」

 エルネスタは言った。

 叔父が目を剥く。

「なっ」

「そして、この話は私の人生に関わることです。私が話す権利があります」

 部屋がざわついた。

 父が低く怒鳴る。

「黙りなさい、エルネスタ」

 その声で、幼い頃の自分が体の奥で縮こまった。

 黙りなさい。

 何度言われただろう。

 泣くな。

 口答えするな。

 弁えなさい。

 家の恥になるな。

 そのたびに、エルネスタは言葉を飲み込んだ。

 喉の奥で、言えなかった言葉が硬い石になって積もっていった。

 でも今、彼女はその石を一つずつ取り出している。

 痛い。

 怖い。

 それでも、出す。

 エルネスタは、膝の上で拳を握りしめた。

 爪が手袋越しに掌へ食い込む。

 顔を上げる。

 父を見る。

 母を見る。

 姉を見る。

 ヴィルドリックを見る。

 親族たちを見る。

 そして、言った。

「私は裁かれるために来たのではありません」

 静かな声だった。

 だが、部屋のざわめきが止まった。

 エルネスタは続けた。

「私の意思を伝えに来ました」

 言葉が、卓の上に落ちる。

 誰もすぐには口を挟めなかった。

 エルネスタは、自分の心臓が強く鳴っているのを感じた。

 息が少し苦しい。

 けれど、視線は落とさない。

「この会議は、私を責めるために用意されたように見えます。家名、世間体、元夫の立場、親族の面目。皆様は、それを何度もおっしゃいます。ですが、私の意思については、誰も最初に尋ねませんでした」

 母が泣きそうに言う。

「だって、あなたは混乱しているだけで」

「混乱しているかどうかを、私抜きで決めないでください」

 母が口を閉じる。

 エルネスタは、自分の声が少し震え始めたことに気づいた。

 でも、止めない。

「私は今まで、求められたら応じるしかないと思っていました。夫に従い、父に従い、家に従い、親族に従い、感情を出さず、迷惑をかけず、役に立つことが正しいのだと思っていました」

 ヴィルドリックの顔が、わずかに変わる。

 エルネスタは彼を見た。

「離縁状を渡された朝も、私は何も言いませんでした。言えなかったのです。理解が早かったのではありません」

 ヴィルドリックの手が、卓の上で少し動いた。

 初めて、彼はあの朝の解釈を揺らされたような顔をした。

 エルネスタは続ける。

「実家に戻った日も、何も言えませんでした。私の部屋がないことを、仕方がないと思おうとしました。でも、本当は悲しかったのです」

 母が泣き出した。

 ベアトリスは顔を伏せる。

 父は不機嫌そうに顎を引いている。

「レナック家へ行って、私は初めて、泣いても叱られない食卓を知りました。食べる前に働かなくていい朝を知りました。鍵を内側からかけて眠れる部屋を知りました。戻らない、と言ってもいいのだと知りました」

 叔母が小さく言う。

「それが、何だと言うの」

 エルネスタは、その叔母を見る。

「私には、大切なことでした」

 叔母は黙った。

「皆様にとっては些細なことかもしれません。ですが、私にとっては、自分の人生を取り戻すために必要なことでした」

 父が冷たく言った。

「それで? 親族の面前で、自分が可哀想だったと訴えたいのか」

 痛い言葉だった。

 可哀想な自分を演じるな。

 そう言われているようだった。

 昔なら、それだけで黙った。

 しかし、エルネスタは首を横に振った。

「いいえ」

 声は静かだった。

「私は、自分を哀れんでほしくて話しているのではありません。私の言葉を、私の言葉として扱っていただきたいのです」

 オズヴァルドが、隣でほんの少しだけ息を吐いた。

 それは安堵のようでも、誇りのようでもあった。

 エルネスタは、それに少し支えられた。

 ヴィルドリックが、ようやく口を開いた。

「エルネスタ。君の不満は分かった。だが、現実的に考えれば、君がレナック家に留まり続けることは難しい。世間は君をどう見るか」

「世間が私を見る目を恐れて、私自身が壊れる場所へ戻ることはしません」

 ヴィルドリックの顔が強ばる。

「グランセル家が君を壊したとでも言うのか」

 その声には、怒りが混じっていた。

 エルネスタは、すぐに答えなかった。

 嘘をつきたくなかった。

 けれど、すべてを怒りに任せてぶつけたいわけでもなかった。

「私は、あの家で自分の感情を殺していました」

 彼女は言った。

「それを壊れたと言うのか、耐えていたと言うのか、今の私にはまだ分かりません。ですが、戻りたい場所ではありません」

 ヴィルドリックは黙った。

 父が声を荒げる。

「戻りたい戻りたくないの話ではない。戻るべきかどうかの話だ」

「私の人生は、戻るべきという言葉だけでは決めません」

「娘が父に逆らうのか」

「父であっても、私の意思を消すことはできません」

 部屋の空気が鋭くなる。

 父の怒りが、今にも爆発しそうだった。

 オズヴァルドが隣でわずかに姿勢を変えた。

 父が彼を見る。

「レナック騎士団長。あなたがこの娘に余計なことを吹き込んだのか」

 オズヴァルドは、低く答えた。

「エルネスタが、自分で言っている」

 それだけだった。

 父は鼻で笑った。

「ずいぶん都合のよいことを言う」

 オズヴァルドの目が冷える。

 だが、彼はそれ以上言わなかった。

 エルネスタを見る。

 言葉は彼女のものだと、改めて示すように。

 エルネスタは頷いた。

「オズヴァルド様は、私の言葉を待ってくださっています」

 部屋の視線が、彼女へ戻る。

「皆様は、私の言葉を待ってくださいましたか」

 その問いに、誰もすぐ答えられなかった。

 父も、母も、姉も、ヴィルドリックも。

 誰も。

 エルネスタは、胸の奥が痛むのを感じた。

 この沈黙そのものが答えだった。

「私は、今日ここで裁かれるために来たのではありません」

 もう一度言う。

 今度は、先ほどより少しだけはっきりと。

「親族の面目を守るために、私の意思を取り下げるつもりもありません。誰かの立場を整えるために、私自身を差し出すつもりもありません」

 叔父が苛立たしげに言った。

「では、何をしに来た」

 エルネスタは、顔を上げた。

 手は震えている。

 でも、もう俯かない。

「私がこれからどうするのかを、私の口で伝えに来ました」

 その瞬間、次の言葉が胸の奥に浮かんだ。

 私は、戻りません。

 けれど、その言葉をここで言い切る前に、エルネスタは一度深く息をした。

 これは、第35話で真正面から置く言葉だ。

 今は、この場の形を変えた。

 裁かれる場所ではない。

 意思を伝える場所だ。

 それを宣言した。

 父が低く言った。

「ならば言ってみろ」

 その声には怒りがあった。

 侮りもあった。

 だが、初めて、彼は聞く姿勢を取った。

 強制的にでも、エルネスタの言葉を待つ形になった。

 エルネスタは、膝の上の拳をゆっくりほどいた。

 掌に、爪の跡が残っている気がした。

 痛い。

 でも、今の痛みは、言葉を飲み込んだ痛みではない。

 言葉を出すために踏みとどまった痛みだ。

 オズヴァルドが隣にいる。

 王都の会議室。

 父、母、姉、元夫、親族たち。

 古い言葉。

 古い鎖。

 そのすべての前で、エルネスタはもう一度顔を上げた。

「はい」

 静かに答えた。

「申し上げます」

 会議室に、沈黙が落ちた。

 今度の沈黙は、彼女を押し潰すものではなかった。

 彼女の言葉が置かれるのを待つ沈黙だった。

 エルネスタは、その中心に座っていた。

 もう、裁かれる人としてではなく。

 自分の意思を伝える人として。


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