余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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第13話 名前のない静けさ


 朝の匂いが違った。

 目を覚ました瞬間、リュゼリアはそれに気づいた。まだまぶたの裏に眠りの重さが残り、意識が水の底から浮かび上がる途中であるにもかかわらず、鼻先へ触れる空気の質だけが、ここがもう王都の公爵家ではないと静かに告げていた。

 乾いた木の匂い。

 昨夜焚かれた暖炉の灰に残る、ほのかな甘さを帯びた煙の気配。

 窓のどこかから忍び込む、冷たくも湿りすぎていない朝の風。

 そして、それらの底へ薄く沈んだ、湖の水の匂い。

 王都の寝室にはなかった匂いだった。

 あの屋敷の朝は、いつも磨き上げられた石と木蝋、洗いたてのリネン、遠い厨房から漂う焼いたパンの香り、季節ごとに取り替えられる花の匂いが層をなしていた。香りまで整えられた、抜け目のない貴族の屋敷の朝。そこでは目を覚ました瞬間から、公爵夫人としての一日がすでに始まっていた。

 だが、いま鼻先へある朝は違う。

 この空気は、誰かに見せるために整えられていない。

 そのことが、まだ完全には目の覚めきらない心へ、妙に深く沈んだ。

 リュゼリアはゆっくりまぶたを開く。

 視界に入ったのは、見慣れた天蓋ではなかった。天井は低すぎず高すぎず、白く塗られた木の梁が朝の薄光の中でやわらかく浮いている。壁は淡い象牙色で、王都の寝室よりずっと素朴だった。けれど粗末ではない。窓辺のカーテンには細い刺繍が入り、寝台の頭側には小さな棚があり、そこに昨夜アイダが整えた水差しと薬瓶、読みかけの本がきちんと並んでいる。

 ああ、着いたのだ、とようやく思い出す。

 南の別邸。

 湖のほとりの小さな館。

 昨日、長い移動のあとの疲れと薬の効き目に沈むように眠ったはずの場所。

 喉の奥に乾いた痛みが少しある。胸の深いところにも、鈍い重さが沈んでいる。けれど、王都の朝に感じていたような、目覚めた瞬間から何かに追い立てられる焦りはなかった。

 時計はどこ、とリュゼリアは反射のように思い、それからすぐその考えが自分で可笑しくなる。

 時計を見てどうするのだろう。

 朝食の時刻に遅れることも、報告の時刻を気にすることも、食堂へ誰が先に座るかを考えることも、今日はたぶん必要ないのだ。

 そのことがわかった途端、胸の奥に奇妙な空白が生まれた。

 楽だ、と思うより先に、落ち着かない。

 これまでずっと、朝にはやるべきことが先回りして自分の中を埋めていた。何を着るか、誰と会うか、どの書類を見るか、どの客へ返事を送るか、どの部屋へ花を替えさせるか。寝台を降りるより前に、公爵夫人としての輪郭が先に体を満たしていたのだ。

 それが、今日はない。

 誰の顔色も窺わなくていい朝は、思っていたよりもずっと静かで、思っていたよりもずっと広かった。

 広すぎて、少し怖いくらいに。

 寝台のすぐ脇で、かすかな布擦れの音がした。

 目を向けると、窓際の長椅子に毛布をかけたアイダが浅く眠っていた。昨夜のうちに移動の疲れから意識を失うように眠り込んでしまったリュゼリアのそばで、そのまま夜を明かしたのだろう。彼女の几帳面さからすれば、本来ならもっときちんとした寝台か簡易寝椅子を選ぶはずだ。そうしなかったのは、それだけ昨夜の到着が慌ただしかったからか、あるいは主人のそばを離れたくなかったからか。

 リュゼリアはその寝顔を見て、小さく息を吐いた。

 それだけでアイダが目を覚ます。

「……奥様?」

 起き抜けの掠れた声だったが、次の瞬間にはもう目がはっきりと開いている。彼女はすぐ立ち上がり、毛布を整えながら寝台へ近づいた。

「お目覚めでいらっしゃいますか。お加減は」

「おはよう、アイダ」

 リュゼリアはそう返したあと、自分の声が思ったより静かなことに少し驚いた。熱に掠れていないわけではない。けれど、王都を出る前のような張りつめた硬さはなく、ただ朝の空気へそのまま溶けるような響きだった。

「胸は少し重いけれど……昨夜よりは楽だわ」

「熱は高くなさそうでございます」

 アイダが額へそっと手を当てる。その手は、昨夜の疲れを残して少し冷えていた。

「痛むところは」

「あります。でも、ひどくはないの」

「お薬を」

「ええ」

 アイダが水差しと薬瓶を取るあいだ、リュゼリアはもう一度部屋を見渡した。

 寝台の向こう、壁際に置かれた小ぶりの衣装箪笥。低い机。その上に重ねられた本と手紙の束。窓際に寄せられた丸い卓。卓上の花瓶には、昨夜遅くに館の侍女が挿したのだろう、淡い黄色の小さな野薔薇が数輪だけ入っている。王都の公爵家のような贅を尽くした寝室ではない。だが必要なものは十分にあり、それが不思議と心へやさしい。

 薬を飲み、ぬるい白湯で喉を潤すと、熱を持った内臓の表面を薄く冷やされたような心地がした。

「今、何時くらいかしら」

 何気なく問うと、アイダが少しだけ首を傾げる。

「七つ半を少し回った頃かと」

「そう」

 公爵家にいた頃なら、もう起きていなければならぬ時刻だ。食堂の支度も整い、厨房から朝食が運ばれ、早い報告はその前に済まされているころだろう。ヴィルレオが屋敷にいれば、すでに外出の支度を始めていてもおかしくない。

 でも今は、その時刻に何も意味がない。

 そう思った瞬間、また胸の奥に少しだけ空白が広がった。

「奥様?」

 沈黙が長かったのだろう、アイダが顔を覗き込むように呼ぶ。

「どうかされましたか」

「……いいえ」

 リュゼリアはごく小さく笑った。

「ただ、何も急がなくていい朝というものが、こんなに不思議だとは思わなかったの」

 アイダの表情が一瞬だけやわらぐ。

「ええ。……そうかもしれません」

「もっと、すぐに喜べるものだと思っていたわ」

「喜んでおいででは」

「少しはね。でも、それ以上に落ち着かないの」

 胸の上に両手を重ねながら、リュゼリアは正直に言う。

「誰も待たせていないのに、わたくしだけが何かに遅れているみたい」

 アイダはしばらく考えてから、そっと寝台脇の椅子へ腰を下ろした。

「ずっとそうやって生きてこられたのですもの」

「ええ」

「急に“気にしなくてよろしいのです”と言われても、体も心もすぐにはわかりませんでしょう」

 その言葉に、リュゼリアは目を伏せた。

 そうなのだ。

 気にしなくていいはずなのに、体はまだその許し方を知らない。朝の時刻、侍女たちの気配、誰かの足音、扉の開閉、食事の準備、屋敷の呼吸。そうしたものの機嫌を読んで動くことに、いつの間にか自分は慣れすぎていた。

 それを失ってしまった朝は、自由というより、まず静かな眩暈に似ている。

     ◇

 朝食は、王都の屋敷とはまるで違った。

 別邸の侍女が運んできた銀盆の上には、温かな牛乳粥、柔らかく煮た林檎、薄く焼いた小さなパン、それに蜂蜜を少し垂らしたハーブ茶が載っていた。豪奢な銀器も、何種類も並ぶジャムも、彩りを競うような果実皿もない。だが窓辺の光の中で湯気を立てるそれらは、見ているだけで胃の奥が少しほぐれるような気がした。

「こちらの台所では、朝はいつもこんなものなの?」

 リュゼリアが匙を手に取りながら訊くと、アイダが答える。

「ええ。旦那様のご指示もあり、今朝はさらに軽めにしております」

「旦那様の」

 その名が出た途端、リュゼリアの手がほんのわずかに止まる。

「いらしているのね」

「昨夜のうちに、隣の執務室へお部屋を移されました」

 リュゼリアは静かに瞬きをした。

 そういえば昨夜、到着してすぐ彼の姿を見た記憶が曖昧だ。馬車から降ろされるようにして館へ入り、熱と疲労で意識が揺れていたせいで、部屋へ運ばれたあと、医師の声やアイダの手の感触ばかりが断片的に残っている。

「……そう」

「早朝から医師と外の打ち合わせをされていました」

 アイダはあえてそれ以上何も言わなかった。だが、その簡潔な報告の中に、ヴィルレオがここへ来てもなお公爵として動いていることと、同時に彼女のそばから離れる気もないことが滲んでいた。

 リュゼリアは何も返さず、粥をひと匙すくった。

 やわらかい温度が舌へ触れ、胃へ落ちていく。驚くほど穏やかな味だった。重くなく、薄すぎもせず、身体の内側へ静かに沈んでいく。王都では、病人用の食事もきちんと整えられすぎていて、どこか「用意されたもの」を食べている感じがあった。ここでは、その整い方がもっと素朴で、かえって楽だった。

「食べられそうですか」

「ええ。少しなら」

「よろしゅうございました」

 アイダが心からそう言う。リュゼリアはひと口ずつゆっくり食べた。焦らなくていい。残してもいい。誰にも見咎められない。誰かと食卓を囲んで、どれだけ食べたかを無意識に比べる必要もない。食堂へ遅れた時の視線も、会話を続けるために無理に笑う必要もない。

 その事実が、今さらじわじわと身体へ浸みてくる。

「……本当に、誰の顔色も窺わなくてよいのね」

 ふとそう零すと、アイダは茶器を直していた手を止めた。

「ええ」

「不思議だわ」

「窺っておいででしたもの」

「そんなに、わかりやすかったかしら」

「はい」

 あまりにも迷いのない答えに、リュゼリアは少しだけ目を見開き、それから小さく笑った。

「そう」

「奥様はいつもそうでした。食堂では旦那様のお時間を。屋敷のことでは使用人たちの手の足りなさを。社交ではお客様方のお気持ちを。実家のお手紙が来れば侯爵様方のご負担を。……ご自分より先に、いつも誰かのことを」

 アイダはそこで言葉を切る。

 リュゼリアもまた何も言わなかった。窓の外では小鳥がひと声鳴き、遠くで湖へ渡る風の音がかすかにした。

「それは、もういいのですよ」

 やがてアイダが、やわらかく続ける。

「少なくとも、この朝だけは」

 その言葉に、リュゼリアの胸の奥が少しだけ熱くなる。

 この朝だけは。

 たったそれだけの猶予でも、なぜだか涙が出そうになるほど救いに聞こえた。

     ◇

 朝食のあと、リュゼリアは窓を開けてほしいと頼んだ。

 館の窓は王都の屋敷よりも軽く、蝶番もやわらかかった。アイダが少しだけ隙間を開けると、冷えた風が細く差し込む。湿りすぎない、乾きすぎてもいない、静かな湖の匂いを含んだ空気だ。遠くで水鳥が鳴いている。湖面そのものはこの部屋から見えないが、その気配だけは確かにある。窓の外には低い石垣と、まだ芽吹ききらぬ低木と、その向こうに白く霞んだ朝の光。

「ここは、静かね」

 リュゼリアが言う。

「ええ」

 アイダも窓の外を見た。

「王都の朝とはまるで」

「ええ。本当に」

 王都の朝には必ず、人の気配が幾重にもあった。馬車の車輪。遠い鐘。商人の掛け声。屋敷の中を行き交う使用人たちの足音。どこかで必ず、誰かが起きていて、自分の動きと噛み合っていく。だがここには、それがない。いるのはごく少数の侍女と医師、館を預かる老人夫婦、それに外で馬の世話をしている従者たちだけだろう。館そのものが小さい。音の数が、王都の屋敷とは根本的に違う。

 名前のない静けさ、だとリュゼリアは思った。

 公爵家の静けさには名前があった。格式、礼節、威厳、秩序。沈黙ひとつ取っても「大公爵家にふさわしい静けさ」という役目を帯びていた。だがこの館の静けさには、まだ何の名前もない。ただ、人が少なく、空気が広く、水と木と風の気配だけがある。だからこそ、自分の呼吸ひとつが妙に大きく聞こえる。

「……わたくし、ここで何をしていればよいのかしら」

 窓の外を見たまま、リュゼリアはぽつりと零した。

「何もなさらなくてよろしいのでございます」

「それが一番難しいのよ」

 アイダはその言葉に少しだけ笑い、すぐに真顔へ戻った。

「でしたら、少しずつで」

「少しずつ」

「ええ。朝は起きて、お薬を飲んで、食べられるものを召し上がって、疲れたらお休みになる。気分がよろしければ少し本を開く。庭をご覧になる日もあってよい。何もしたくなければ、何もなさらない。それだけで十分でございます」

 それだけで十分。

 簡単なようでいて、ひどく難しい言葉だった。けれど、アイダがそれを本気で言っていることはよくわかる。

「本当に、それでいいのかしら」

「はい」

「誰にも、迷惑ではない?」

「迷惑ではございません」

 その答えに、リュゼリアは少しだけ目を細めた。

 これまでの自分なら、たぶんすぐに「でも」と続けていただろう。けれど、今日の朝は違った。いったんその言葉を飲み込み、静かに自分の中へ沈めてみる余裕があった。

 迷惑ではない。

 それを、そのまま信じてみてもいいのだろうか。

     ◇

 昼前、医師が診察に訪れた。

 南まで同行したクレメンス医師と、この館に普段から出入りしている土地の老医師だ。脈を取り、呼吸の音を聞き、移動の疲れが出ていないかを慎重に確かめる。長旅の翌日にしては熱も強く上がっておらず、食事も少し入ったことから、まずまず順調といえた。

「ただ、今日はまだ外気へ長く当たってはいけません」

 クレメンス医師が言う。

「館の中を少し歩く程度は構いませんが、すぐお休みを」

「ええ」

「無理は禁物です。王都を出たから急に治るわけではございません」

「わかっております」

 その会話の端々で、リュゼリアは自分がようやく“患者”として扱われていることを感じた。王都でも病人として扱われてはいたが、あそこではどうしても公爵夫人という役目が先に立った。医師ですら、彼女の体だけでなく、立場や家の空気を同時に診ていた気がする。

 ここでは、それが薄い。

 もちろんヴィルレオの館である以上、完全に外れることはない。だが少なくとも、この土地の医師の前で自分は「大公爵家の奥方」ではなく、「肺を悪くした女」として先に見られている。そのことに、妙な楽さがあった。

 診察が終わるころ、扉の外で控えていたらしいヴィルレオが入ってきた。仕事用の濃い色の上着を着ているが、王都の屋敷にいた時ほどきっちりと隙のない印象ではない。館の空気のせいか、あるいは少しだけ睡眠を取ったのか、疲れはあるものの顔色は昨日までよりましに見えた。

「どうだ」

 彼が問うと、クレメンス医師が短く答える。

「今のところ、移動による悪化は大きく出ておりません。今日は無理をなさらぬこと、それが何よりです」

「わかった」

 ヴィルレオはそれだけ言い、医師たちを送り出すために一度部屋を出た。ほんの短い立ち寄りだったが、それだけで室内の空気がわずかに変わる。アイダがその背を見送りながら、何か言いかけてやめる。リュゼリアもまた、特に何も口にしなかった。

 彼がここにいること自体は、もう驚くことではない。

 だが、自分がその気配へどう反応すればいいのか、まだわからなかった。

 王都では、彼が部屋へ来るたび心が先に動いていた。いまは違う。心が動いていないわけではない。けれど、それを表へ出す場所を見失っている。離縁を願い、それを受け流され、なおこうして近くにいるという状況が、自分の中でまだ形を持ち切っていないのだ。

     ◇

 午後、少しだけ気分がよかったので、リュゼリアは長椅子から窓際の小卓へ移った。

 窓の外には低木と石垣、その向こうに白く光るものが見える。湖だろう。ほんのわずかだが、水面へ反射した光が枝の間から揺れていた。卓上には本を二冊と、小さな便箋が一揃い。南へ持ってきた荷は少ないから、目に入るものも必然的に少なくなる。その少なさが、なぜだか少しほっとした。

「お手紙を書かれますか」

 アイダが訊く。

「いいえ、まだ」

 リュゼリアは首を振る。

「でも、紙が目の前にあるだけで落ち着くの」

「奥様らしいことでございます」

 その言い方に、リュゼリアは少し笑った。

「わたくしらしい、ね」

「ええ。何かをすぐ書き留めておかれるところが」

 そう言われてみればそうだ。少女の頃から、リュゼリアは気になった言葉や花の名、読んだ本の一節、見た景色の感想を、すぐに小さな紙へ書きつける癖があった。それは公爵夫人になってからも変わらなかったが、王都の生活の中ではいつの間にか「書いておくべきこと」が増えすぎて、心のままに書き留めることは少なくなっていた。

 リュゼリアは便箋を一枚引き寄せる。

 そして、しばらく何も書けなかった。

 何を書けばよいのだろう。

 屋敷では、書くべきことがいつも先にあった。返書、指示、台帳、寄付の明細、衣装の覚え書き、侍女への伝言、庭の記録。だが今ここでは、自分が本当に書きたいことだけを書けるはずなのに、その「本当に書きたいこと」が、あまりに久しぶりで見つからない。

 指先で紙の端をなぞりながら、リュゼリアは窓の外を見る。

 光はやわらかく、風は静かだった。何も急かさない午後。誰の足音も扉の前に迫ってこない。報告も来客もない。ただ遠くで水鳥が鳴き、館のどこかで古い床がひとつだけ軋み、暖炉の中で薪が小さく崩れる音がする。

 その静けさの中にいると、自分の心の内側で鳴っているものまでよく聞こえた。

 寂しい。

 不意に、そう思った。

 自由だ。

 それも事実だ。

 楽だ。

 それもたしかにある。

 けれど、それらの底に、薄く冷えた寂しさがある。

 朝から誰の顔色も窺わずに済んだ。起きる時間を気にせず、朝食を誰かと比べることなく、報告の時刻に追われることもなく、ただ自分の身体の重さと会話していればよかった。そのことが楽なのは確かだった。なのに、楽であることの隣に、ぽっかりと大きなものが抜けたような寂しさがある。

 それは公爵家を離れたことの寂しさか。

 それとも、朝のうち一度もヴィルレオとまともに言葉を交わしていないことの寂しさなのか。

 そこまで考えて、リュゼリアは唇を噛みたくなった。

 結局、自分はまだこの人のことを考えてしまうのだ。

 館の空気はこんなにも軽いのに、心だけが完全には自由になっていない。

「……奥様?」

 アイダがそっと呼ぶ。

「どうかされましたか」

「いいえ」

 リュゼリアは少しだけ首を振る。

「ただ、静かすぎて」

「はい」

「静かすぎると、自分の心の音ばかり聞こえるのね」

 アイダはすぐには答えなかった。おそらく、その意味を考えていたのだろう。

「王都では、ずっと外の音のほうが大きうございましたから」

「そうね」

「こちらでは、そのぶん、ご自分のお心まで聞こえてしまうのでしょう」

 その言葉が妙に正しくて、リュゼリアは目を伏せた。

 聞こえてしまう。

 自分が本当に寂しいことも、自由を喜びきれていないことも、ヴィルレオをまだ心のどこかで待っている自分がいることも。

 全部、聞こえてしまう。

     ◇

 夕方近く、リュゼリアは初めて少しだけ眠った。

 長椅子へ身を横たえ、窓から差すやわらかな光の中で、本を開いたまま浅く目を閉じていたら、そのまま眠りへ落ちていたらしい。目が覚めた時、窓の外は少し橙を帯び、湖の光も朝とは違う低い色になっていた。

 胸の痛みはまだある。だが、朝よりは呼吸がしやすかった。

 そして、妙な驚きがあった。

 眠れるのだ、と。

 王都では昼間にこうして眠ることはほとんどなかった。眠ろうとしても、何かに遅れる気がして体が強ばってしまったし、仮に浅く目を閉じても誰かの出入りや書類のことが頭のどこかで引っかかり、完全には沈めなかった。

 ここでは、少なくとも今日の午後には、それができた。

 名前のない静けさが、自分を少しだけ眠らせたのだ。

 その事実が、ひどく小さな救いに思えた。

「……起きたか」

 低い声に、リュゼリアははっと目を開いた。

 いつの間に来たのか、ヴィルレオが窓辺から少し離れた位置に立っていた。外套を脱いだままの姿で、昼よりわずかにくたびれて見える。館の執務室で仕事をしていたのだろうが、その顔には王都にいた時ほどの鋭い張りつめ方がない。南の空気のせいか、ここでは彼もどこか「公爵の仮面」を少しだけ緩めているように見えた。

「ええ」

 リュゼリアは本を膝へ滑らせながら答える。

「少しだけ、眠ってしまったみたい」

「それはいい」

 短い返答。

 けれど、その一言は以前より少し柔らかかった。

「仕事は」

「片づく」

「そう」

「お前は」

「少しだけ楽よ」

 答えると、ヴィルレオはほんのわずかに息を吐いた。それが安堵だとわかってしまう程度には、リュゼリアも彼の小さな変化に慣れている。

 しばらく沈黙が落ちた。だが王都の寝室での沈黙とは違う。ここでは壁の外の音が少なく、窓の向こうに湖があるせいか、沈黙そのものが柔らかい。誰かを責めるような静けさではなく、ただ二人の間にそのまま置かれている時間のようだった。

「……朝」

 不意にヴィルレオが言う。

 リュゼリアが顔を向ける。

「どうかなさったの」

「いや」

 彼はそこでいったん言葉を切った。迷ったらしい。珍しいことだった。

「ここは、どうだ」

 結局出てきたのは、それだった。

 ここは、どうだ。

 館のことを訊いているのだろう。空気か、静けさか、部屋の具合か、何かもっと曖昧な全部か。

「静かね」

 リュゼリアは正直に答えた。

「驚くほど」

「ああ」

「少し、落ち着かないくらい」

 その言葉に、ヴィルレオの目がわずかに細まる。

「嫌か」

「いいえ」

 リュゼリアは首を振る。

「嫌ではないの。……むしろ、これまでどれだけ色々な音に囲まれていたのか、初めてわかったくらい」

「そうか」

「ええ」

 言葉はそこで途切れた。

 だがリュゼリアは、そのあとに続けるべきものを少しだけ迷った。王都では、あなたの足音もその一つだったのだと。扉の開く音も、食堂の椅子を引く気配も、自分の朝と夜の輪郭だったのだと。

 けれど、それをいま口にする気にはなれなかった。

 代わりに、窓の外へ視線を向ける。

「でも」

「何だ」

「少しだけ、眠れたわ」

 ヴィルレオはしばらく何も言わなかった。やがて、ほんのわずかに頷く。

「それは、いいことだ」

「ええ」

 それだけのやりとりなのに、胸の奥に薄く温かいものが灯る。こういう小さな会話が、もっと前からあればよかったのに、とまた思ってしまう。思ってしまってから、その考えをやめることはできなかった。

 名前のない静けさの中では、自分の心の音がよく聞こえる。

 だからこそ、届かないはずの願いまで、以前より鮮明に聞こえてしまうのだ。

 ヴィルレオが部屋を出ていったあと、リュゼリアはしばらく長椅子の上で目を閉じていた。

 誰の顔色も窺わない朝を迎えた。

 それは確かに自由だった。

 だが自由とは、すぐに軽くなることではないのだと知った。窺わなくていいぶんだけ、自分の本当の気持ちを見なくてはならない。見てしまったものからは、もう簡単には目を逸らせない。

 それでも、今日の朝は初めての朝だった。

 名前のない静けさの中で、初めて誰にも追われずに目を覚まし、少しだけ眠り、少しだけ息を深くできた朝。

 その小さな事実だけは、大切に胸へ抱えておこうとリュゼリアは思った。

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