余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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第16話 息がしやすい場所

 

 南の別邸で迎える朝にも、少しずつ癖が生まれはじめていた。

 目が覚める時間。窓の外へ最初に耳を澄ませる癖。胸の奥の重みを確かめてから、今日の息の浅さを測ること。起き上がる前に、喉の乾きと痛みを一度だけ飲み込むこと。そうした小さな手順が、ここへ来てからいくつも身体に馴染み始めている。

 王都にいた頃の朝は、もっと急だった。

 まだ意識が目覚める前から、その日の予定や、屋敷の空気や、夫の機嫌や、客人の顔ぶれが、先に胸の上へ折り重なるように降ってきていた。目を開けることは、その重さを受け入れる合図みたいなものだった。

 だがいま、南の別邸の朝はもっと静かに始まる。

 風の音。湖の匂い。遠くの水鳥。壁の向こうで館が小さく軋む気配。そうしたものが、誰の役にも立たぬまま、ただそこにある。その中で目覚めると、自分がまだ“公爵夫人”になる前の、名もない一人の女へ少しだけ戻ったみたいな気持ちになる。

 その朝も、リュゼリアは窓から落ちるやわらかな光の中で目を覚ました。

 昨夜は、ここ数日の中ではわりと深く眠れたほうだった。途中で二度、咳で起きた。ひとたび咳き込めば胸の奥が焼けるように痛み、喉には薄く血の味さえ残る。だが、王都の頃のように、その痛みのあとへすぐに不安や焦りが押し寄せてくることはなかった。痛い。苦しい。でも、少し横になって、呼吸を整えればまた眠りへ戻っていけた。

 病が消えたわけではもちろんない。

 身体は相変わらず病んでいる。呼吸は深くはできないし、夕方になれば熱が上がる日もある。歩けばすぐ疲れ、階段の上り下りはまだ慎重さが要る。けれど、ここでの痛みは少なくとも「痛みそのもの」として感じられるようになっていた。王都では、その痛みの向こうに常に何かが待っていたのだ。周囲の目、役目、遅れ、迷惑、取り繕い。だから痛み一つですら、身体の外にあるものと一緒に受け止めなければならなかった。

 ここでは違う。

 苦しい時は、ただ苦しい。

 咳が出れば、咳をするしかない。

 息が浅ければ、浅いままで少しずつ整えればいい。

 その単純さが、思っていた以上に救いだった。

 リュゼリアは毛布を胸のあたりへ引き寄せ、しばらく寝台の上から窓を見ていた。

 空は薄く晴れている。湖の方向から白くやわらかな光が反射して、壁にほのかな揺れを落としていた。まだ葉の少ない庭木の枝先に、小鳥が二羽とまっている。さえずりはかすかで、耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうなほどだった。

「……きれいね」

 呟くと、自分の声が思ったよりよく通った。掠れてはいるが、昨日までほど弱くない。

 そのことに少しだけ驚いて、続けて深く息を吸おうとした。途端に胸の奥がきしみ、細い咳がひとつ零れる。

「っ……、ごほ」

 浅い咳だった。だが喉の奥に鋭い痛みが残る。痛みの余韻のなかで、リュゼリアは口元へ指を当てたまま少し笑う。

 まだ、完全に楽ではない。

 それでも、前より息がしやすい。息がしやすいだけで、景色の輪郭まで変わるような気がした。

 寝台のそばで、衣擦れの音がした。

 長椅子で休んでいたアイダが目を覚ましたのだろう。彼女はここ数日、夜の半ばまでは寝室の端で付き添い、深夜に交代した若い侍女が朝方まで控える、という形をやっと受け入れてくれた。王都を出る前なら「わたくしが全部見ます」と言って譲らなかったに違いない。だがここでは館の侍女も手伝い、ミナや老医師の妻までさりげなく声をかけてくれるからか、彼女の頑なさも少しだけ緩んでいた。

「お目覚めでいらっしゃいますか」

「ええ」

「お加減は」

 いつもの問い。けれどいまは、その言葉も以前より軽く感じる。返答が「よくありません」以外にもなり得る朝が増えたからだろう。

「今朝は少しだけ楽よ」

 そう答えると、アイダの顔が目に見えてやわらいだ。

「本当に」

「ええ。ただ、調子に乗って深く息をすると、すぐ叱られるけれど」

 そう言って軽く笑うと、アイダも口元を少しだけ緩めた。

「ご自分で叱っておいでではございませんか」

「そうね」

 薬を飲み、白湯を口にして、薄い蜂蜜を溶かした茶を少しだけ飲む。温かいものが喉を落ちていく感覚も、南へ来てから前よりきちんと感じられるようになった。喉がそれを受け入れているのがわかる。

 着替えを手伝われながら、リュゼリアは窓辺の外套掛けに目をやった。そこには昨日外へ出た時に使った薄い外套がかけられている。裾に土の色がうっすら残っていた。花壇で膝を折った時の汚れだろう。

 それを見るだけで、心が少しだけやわらかくなる。

 土に触れた指先。冷たい湿り。白と青の小さな苗。あの短い時間のあいだ、自分は病人でも公爵夫人でもなく、ただ花を植えるひとりの女だった。その感覚が、まだ胸のどこかに残っている。

「……今日も、外へ出られるかしら」

 何気なくそう言うと、アイダは一瞬眉を上げ、それから苦笑した。

「先生にお訊きしてからでございます」

「そうでしょうね」

「でも、昨日ほどお疲れは見えません」

 その言葉に、胸の奥で小さな灯りがともる。

 無理は禁物だとわかっている。わかっているが、こうして身体が少しだけ持ち直す気配を見せると、また何かをしたくなる。大きなことではない。ただ庭へ出て、風に触れ、少しだけ土の匂いを吸い、咲いていくものを眺める。それだけでよかった。

     ◇

 午前中、診察に来たクレメンス医師は、聴診器を当てながらやや慎重な顔をしたものの、最終的には「今日も短い時間なら外へ出てもよろしいでしょう」と言った。

「ただし、立ちっぱなしは駄目です。昨日より少し風がありますから、日向で、座っていられるように」

「はい」

「咳が増えたらすぐ中へ」

「はい」

「それから」

 医師は少し間を置いて、眼鏡の奥から彼女を見た。

「今日は“何かをする”より、“ただ外にいる”ことを覚えてください」

 その言葉に、リュゼリアは目を瞬いた。

 ただ外にいる。

 花を植えるでもなく、歩き回るでもなく、見て、吸って、座っているだけ。

 そんなことが“覚える”対象になるのかと、一瞬不思議に思う。だが、自分がまさにそれを知らずに生きてきたことも、すぐ理解した。

「……努力いたします」

 そう答えると、医師は小さく頷いた。

「努力しすぎぬように」

 やわらかな釘だった。

 リュゼリアはその言葉を胸へしまいこみ、昼前の陽が少し高くなったころに、アイダに付き添われて庭へ出た。

 昨日と同じ南側の花壇。石垣に守られた陽だまり。今日の風はたしかに昨日より少しだけ強いが、そのぶん空がよく晴れていて、土の匂いが乾いた草の香りと混じっていた。

 花壇の前には、もう苗を植えるための道具はなく、かわりに低い籐椅子が二つと、小さな卓がひとつ置かれている。ミナが気を利かせて、薄い毛布と温かい茶の用意までしてくれていた。

「今日は、眺める日でございますよ」

 ミナがそう笑い、リュゼリアも頷く。

「ええ。今日は眺めるだけ」

 椅子へ腰を下ろすと、昨日植えた苗がちょうど目の高さに入った。白いマーガレットの葉は、昨日よりほんのわずかにしゃんとして見える。青いネモフィラは風に頼りなく揺れていたが、根元の土はしっかり落ち着いていた。

 たった一晩で何かが劇的に変わるわけではない。

 それでも、小さな苗を見つめていると、自分がここにいる時間もこういうものなのかもしれないとふと思う。昨日より今日、今日より明日と、目に見えるほどではなくても、少しずつ息をしやすくなるかもしれない。あるいは逆に、少しずつ弱る日もあるだろう。だがそのどちらも、一気にではなく、小さな変化の積み重ねなのだ。

 リュゼリアは膝の上へ毛布を整え、茶を受け取った。

 湯気の立つカップを両手で包む。温かい。指先がほどけていく。目の前には土と苗。背後には館の壁。遠くには湖の光。風の中にはまだ冷たさがあるが、日差しはその冷たさをすこしだけ和らげていた。

「……息がしやすいわ」

 ぽつりと零れる。

 アイダがすぐ顔を向けた。

「苦しくございませんか」

「苦しいところは、苦しいのよ」

 リュゼリアは苦笑する。

「でも、なんというのかしら。王都で感じていた苦しさとは、少し違うの」

 言葉を探して、苗へ視線を落とす。

「向こうでは、苦しいことにまで意味がついていたの。これではいけないとか、迷惑をかけるとか、隠さなければとか」

「……はい」

「ここでは、苦しい時はただ苦しいだけ」

 自分でも、その違いを口にして初めてはっきり理解した気がした。

「咳が出ても、咳をするしかないものね」

 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、まるでタイミングを見計らったみたいに胸の奥がひりついた。

「っ、……ごほ、っ、ごほ……」

 細く始まった咳は、すぐに胸の深いところを擦るようなものへ変わる。リュゼリアは口元へハンカチを当て、身を少しだけ折った。アイダが慌てて背をさすろうとするが、彼女は首を振る。いまは触れられるより、自分の呼吸の間隔を取り戻すことへ集中したかった。

 苦しい。息が途切れる。喉が焼ける。肺の奥で細い刃が動くみたいだ。

 けれど、怖くはなかった。

 痛みに意味が張りついていないからだ。

 ここで咳き込んでも、誰かの機嫌を損ねるわけではない。食卓の空気を止めるわけでも、夜会の注目を集めるわけでも、夫の沈黙をもっと重くするわけでもない。ただ、自分の身体が咳をしている。それだけだった。

 やがて咳は少しずつ落ち着いた。リュゼリアは息を整え、ハンカチを下ろす。薄く血が滲んでいないことを確かめて、ほっと小さく息を吐いた。

「お戻りになりましょう」

 アイダがすぐ言う。

「まだ少しだけ、大丈夫」

「奥様」

「お願い。……いま、すぐ中へ戻ると、きっとまた怖くなってしまう」

 その一言に、アイダは言葉を失う。

 怖いのだ。咳そのものより、咳いたあとに急いで室内へ戻され、寝台へ横にされ、また“病人”として囲い込まれることが。苦しいだけで終わるはずだったものが、また別の意味を帯びてしまうことが。

「ここで少しだけ息を整えたいの」

 リュゼリアはそう言って、目を閉じた。

 風が頬を撫でる。土の匂い。茶の湯気。遠くで鳥が鳴く。胸の痛みはまだある。喉もひりつく。けれど、その痛みの輪郭が少しずつ静かになっていくのがわかった。

 数分後、目を開けると、苗は相変わらず小さく、白と青の葉を揺らしていた。咲いてもいない。頼りないほど小さい。でも、その小ささがなぜだか自分自身に似て見える。

「……大丈夫」

 今度は本当にそう言えた。

     ◇

 館へ戻ったあとは少しだけ疲れが出て、長椅子で横になった。

 窓から差す午後の光は、朝より少しあたたかい。眠るほどではないが、まぶたを閉じていると体の重さがゆっくり椅子へ沈んでいく。遠くで誰かが階下を歩く音が一度だけしたあと、また館は静かになった。

 リュゼリアは片手を胸へ置き、自分の呼吸を感じていた。

 浅い。

 深くは吸えない。

 時折、喉の奥にひっかかりが残る。

 でも、ちゃんと吸って、吐いている。

 当たり前のことなのに、そのことへ急に意識が向いた。

 生きているのだ、と。

 病んでいることばかりに心が向いていた頃は、呼吸もただの苦しみとしてしか感じられなかった。苦しい、痛い、咳が出る、熱がある。そういう欠けたところばかりを見ていた。

 だがいま、苦しいながらも、息は続いている。胸は痛んでも、空気はちゃんと出入りしている。日差しを感じ、土の匂いを吸い、茶の温度を舌でわかり、風に頬を撫でられている。

 それは全部、生きているから感じるものだ。

 そんな当たり前のことを、いまさら新しく知ったような気がした。

 長いあいだ、生きることが“務めを果たすこと”とほとんど同じ意味になっていたのかもしれない。だから務めから外れた時、自分には何も残らない気がしていた。けれど違った。こうして呼吸をして、痛みの中でも陽だまりに座り、花の苗が風に揺れるのを見て、少しだけ楽だと思う。それだけでもう、生きているのだ。

 それはひどく小さな実感だった。

 胸を張って誰かに言えるような、生きがいではない。

 けれど、確かだった。

 リュゼリアはゆっくりと目を開けた。

 窓の外では、午後の光が少し傾き始めている。庭の低木の影が長くなり、花壇の土の色も朝とは違って深く見えた。植えた苗のところへ、小さな鳥が一羽、何かをついばみに来ている。土の上をぴょん、と跳ねるその姿を見ているうちに、胸の内へ笑いにも似た軽いものが浮かんだ。

「……生きているのね」

 今度は、はっきり声に出た。

 その言葉を聞きつけたのか、ちょうど部屋へ入ってきたアイダが足を止める。

「奥様?」

「いいえ。ただ」

 リュゼリアは窓の外を見たまま、少し笑った。

「ようやく、そんな気がしてきたの」

 アイダは何かを言いかけて、言葉を失った。代わりに、その目がやわらかく濡れる。

「……それは、よいことでございます」

「ええ」

 よいことだ。

 余命半年という宣告は消えない。病も苦しみもなくならない。離縁の願いも宙吊りのまま、ヴィルレオとの距離も決して穏やかではない。未来は相変わらず曖昧で、恐ろしい。

 それでも、こうして土の匂いを吸い、咳き込みながらも陽だまりに座り、息が少し楽だと感じる瞬間がある。

 その瞬間だけは、病んだ女でも、公爵夫人でも、誰かの後悔の象徴でもなく、ただ生きている自分でいられる。

 夕方、薬を持って現れたヴィルレオは、長椅子の上で少しだけ頬に血色を戻したリュゼリアを見て、ほんの僅かに眉を緩めた。

「調子は」

「今日は、少し」

 リュゼリアは答える。

「息がしやすかったわ」

 その言葉に、彼はしばらく何も言わなかった。青灰色の瞳が、じっとこちらを見つめる。そこには安堵も、痛みも、いくつもの複雑なものがある。けれど今日は、それらにわざわざ名前をつけたくなかった。

「そうか」

 やがて落ちた声は低く、だが静かだった。

「それならいい」

 その一言を聞きながら、リュゼリアは思う。

 いいのだ。

 今日は、それで。

 大きな答えも、劇的な変化も要らない。ただ、少し息がしやすい場所で、少し楽に呼吸ができた。それだけで十分に、生きている実感だった。


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