余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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第25話 手を伸ばす資格



 翌朝、ヴィルレオは夜明けより少し前に目を覚ました。

 眠れなかったわけではない。意識は何度か落ちた。だが、その眠りはどれも浅く、水面に浮かぶ薄い氷みたいに脆かった。まぶたを閉じても、昨夜のリュゼリアの声が、静かなまま何度も耳の奥へ戻ってくる。

 今さら遅いのです。

 怒っていたわけではない。

 泣いていたわけでもない。

 ただ、もう期待していないのだと、そう言っただけだった。

 その穏やかさが、かえって鋭かった。

 ヴィルレオは寝台の上で片腕を額へ乗せたまま、客室の薄暗い天井を見ていた。別邸の朝はまだ来ていない。窓の外には薄青い闇が残り、湖のほうからくる風が、閉じた窓を細く鳴らしている。暖炉の火はとうに落ち、部屋の空気は冷えすぎぬ程度に静かだった。

 ここは王都の屋敷ではない。

 大理石の廊下も、夜通し完全には眠らぬ使用人たちの気配も、遠くで響く馬車の音もない。別邸の朝は遅く、柔らかい。だからこそ、ひとりで目を覚ましている時間が長すぎる。

 その長さの中で、昨夜からずっと同じことを考えていた。

 触れたい、と思う自分がいる。

 咳き込んだ彼女の背へ手を伸ばしたい。冷える夜には肩へ落ちるショールを整えたい。歩く時に少しふらつけば、先に腕を差し出したい。茶を取る指先が冷えていれば、自分の手で温めたくなる。

 そんな衝動が、今さらになってひどく生々しくある。

 だが、そのたびに同じところへ戻る。

 資格がない。

 資格、という言葉が正しいのかはわからない。夫なのだから、世間の形としては触れる資格などあるのだろう。けれど、彼の胸の内で立ち上がるその感覚は、もっと別の種類のものだった。

 かつて触れてよかったはずの時間に、自分は触れなかった。

 朝の頬にも、夜の寂しさにも、食卓で伏せられた睫毛にも、扉の前でためらう背中にも、何一つ触れようとしなかった。

 触れるべき時に触れなかった男が、今さら遅れて手を伸ばしても、それは彼女にとって慰めではなく、ただの驚きか、あるいは重さにしかならないのではないか。

 そう思うたび、腕の中で何かが鈍く冷えていく。

 寝台を下り、ヴィルレオは窓辺へ歩いた。カーテンを少しだけ開ける。外はまだ薄闇だ。庭の輪郭だけが見え、南側の花壇は影の中に小さく沈んでいる。あの白と青の苗も、今は夜露を抱いて黙っているのだろう。

 そこへ彼女がまた座るのは、陽がもう少し高くなってからだ。

 息がしやすい場所。

 そう、リュゼリアは言った。

 ここでの彼女は、苦しみが消えたわけではない。咳もする。熱も上がる。顔色だってまだ白い。それでも、少なくとも王都の寝室にいた時よりは、呼吸が少しだけ自分のものになっているように見えた。

 そこへ自分が来た。

 追いかけてきた。

 理由もまだろくに言語化できないまま。

 愛なのか、執着なのか、責任なのか、後悔なのか。どれもある。どれもあるくせに、そのどれか一つを差し出して彼女の前へ立つことができない。

 ヴィルレオは窓ガラスへ指先を押し当てた。冷たい。掌ではなく指先だけが、夜の名残を吸ってじんと痛む。

 その痛みの程度が、いまの自分にはちょうどよかった。

     ◇

 朝食の席へ現れたリュゼリアは、昨夜より少しだけ疲れて見えた。

 それは劇的な変化ではない。目の下に淡い影が落ちていることと、頬の色がまた少し白く戻っていること、それから椅子へ腰を下ろすときに呼吸を一度整えねばならなかったこと。そういう、小さなことの積み重ねだ。

 だがヴィルレオには、その小さな違いがよく見えた。

 別邸の小さな食堂には、今朝も白いクロスが掛けられ、ひとり分の朝食が整えられていた。温かな茶。柔らかな粥。蜂蜜を落とした果実。薄いパン。それらは相変わらず、王都の屋敷で出されていたどんな朝食よりも、彼女の身体だけのために作られているように見える。

 ヴィルレオは昨夜のあと、今朝は距離を置くべきかと少しだけ考えた。だが、考えたところで、結局ここへ来てしまっている。その時点で答えは出ていた。

「おはようございます」

 リュゼリアが言う。

 声は穏やかだ。けれど、やはりどこか遠い。

「……おはよう」

 ヴィルレオが返すと、彼女は軽く頷くだけで、すぐに茶へ手を伸ばした。その指先がやけに白く細い。カップを持ち上げる時の手首の骨ばり具合まで、なぜだか今朝は目につく。

「昨夜は」

 思わず訊く。

「眠れたか」

 リュゼリアはカップを唇へ寄せたまま、少しだけ考えるような間を置いた。

「前半は」

「後半は」

「咳が少し」

 そこで話は終わる。ヴィルレオはさらに何か言いたくなる。医師は見たのか。熱は。胸は。だがそれを訊ねたところで、王都の頃と何が違う。彼女はきっと必要な分だけ答え、こちらはそれを聞くだけだ。

 王都にいた頃、自分はまさにその程度の男だった。

 いや、もっとひどい。必要な分すら、見ようとしなかった。

 リュゼリアが粥をひと匙すくう。口へ運び、ゆっくりと飲み込み、それから小さく息を吐く。その一連の動きのどこにも無駄がない。少ない力で、少ない負担で、きちんと食べるための所作になっている。こういうところにも、彼女がこの別邸で少しずつ自分の身体と折り合いをつけ始めていることが見える。

「今日は、庭へ?」

 ヴィルレオが訊くと、リュゼリアはわずかに目を上げた。

「先生が許してくだされば」

「昨日より、少し疲れて見える」

 言った瞬間、その物言いがまるで医師のようだと自分で思った。夫としての情ではなく、体調を管理すべき対象へ向ける声に近い。

 リュゼリアも同じように感じたのかもしれない。ほんの一瞬だけ、目の奥にかすかな影が差した。

「ええ。だから、無理はしないわ」

「……そうか」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 食堂の窓の外では、風がまだ少し冷たそうに低木を揺らしている。白と青の花壇は、ここからは見えない。ただ、そこにあることだけは知っている。

 ヴィルレオは、自分がずっとリュゼリアの手元ばかり見ていることに気づいた。カップを持つ指。スプーンを置く指。ナプキンの端を押さえる指。そのどれもがかつて、屋敷の細部を整え、自分の不機嫌や体調の揺れまで吸収していた指なのだと思うと、胸の奥がざらついた。

 触れたい。

 今朝も、ふとそう思う。

 手が冷えているのではないか。細すぎるのではないか。茶の温度は大丈夫か。

 そんな小さなことでさえ手を伸ばしたくなる。

 だが、彼女が今こうして落ち着いて食事をしている時間の中へ、自分の手だけが異物のように差し込まれる気がして、結局何もできない。

 その無力さを、ようやく「当然だ」と思える自分がいた。

     ◇

 昼前の診察のあと、医師は「今日は外気に当たるのは短く」と告げた。

 昨日よりやや咳が残っていること、夜の眠りが浅かったこと、朝の熱がわずかに高めであること。その三つを理由に、庭へ出るならほんの少しだけ、日の高いうちに、椅子へ座ったままでと念を押す。

 リュゼリアは素直に頷いた。

 王都にいた頃の彼女なら、医師の言葉を受けつつもどこかで「でも」を探していたかもしれない。食堂へ下りる必要、返書、来客、帳簿。何かしら理由を見つけては、自分の身体のほうを後ろへずらしただろう。

 いまは違う。

 少しだけ残念そうな顔はしたが、その残念さに無理な理屈を足さない。ただ「ああ、今日は短くだけなのね」と受け止めている。その変化を見ながら、ヴィルレオは胸の奥が静かに痛んだ。

 彼女はこうやって、自分の時間の使い方を一つずつ覚え直している。

 それは彼にとって喜ぶべきことのはずなのに、同時に、“自分が知らない間にできあがっていく彼女”を見ているようでもあった。

 昼の少し前、アイダが外套を持ってくる。リュゼリアは長椅子から立ち上がり、少し呼吸を整えてから袖を通した。白に近い薄灰の外套だ。裏地はあたたかな淡い青。肩へ掛けられると、その細い体つきがかえって際立つ。

 ヴィルレオは部屋の隅からその様子を見ていた。

 付き添って庭へ出るのは当然のつもりでいた。だが、実際にリュゼリアが歩き出そうとした時、彼は一歩も前へ出られなかった。

 彼女の前にはもう、アイダがいる。

 呼吸が乱れぬよう歩幅を合わせ、石段では必ず半歩先に立ち、具合が悪くなれば支える準備をしている。アイダの手は、この数日でこの別邸の動きにぴたりと馴染んでいた。

 リュゼリアもまた、その手を自然に借りる。

 王都では、彼女はあまり人へ体重を預けなかった。どこかで、迷惑をかけぬようにと身体を固くしていたのだろう。だがいまの彼女は、必要な時にはちゃんとアイダへ腕を預ける。その様子が自然なぶんだけ、ヴィルレオは自分がそこへ入る余地のなさを思い知った。

 玄関脇の回廊へ出る。陽は高いが、風はまだ冷たい。花壇の前に置かれた籐椅子へリュゼリアが腰を下ろすまで、ヴィルレオは数歩離れて立っていた。

「旦那様も、どうぞ」

 ミナがもう一つの椅子を勧める。

 彼は頷き、少し距離を置いて座った。

 目の前には白と青の小さな花。白い花弁が開きかけのマーガレット。青い色を溜めたネモフィラ。土は昨日の湿りをまだ少し抱いていて、風が吹くたび細かな匂いが立つ。

 リュゼリアはその花を見ていた。

 自分ではなく。

 花を。

 たまにこちらへ視線は向く。会話もする。けれど、彼女の心が一番安らいでいる先は、今はたぶんあの花壇であり、湖の匂いを含んだ風であり、自分の呼吸の深さなのだ。

 そのことがはっきり見えるから、ヴィルレオはなおさら手を出せない。

「今日は、少し寒いわね」

 リュゼリアが花壇を見たまま言う。

「ああ」

「でも、昨日より香りが濃い」

「土のか」

「ええ。陽があるからかしら」

 ヴィルレオには、その差まではわからない。ただ、彼女がそう言うのならそうなのだろうと思う。

「白のほうが開いてきたわ」

「見える」

「青は風に弱そう」

「お前みたいだな」

 思わずそう口にした途端、リュゼリアが一瞬だけ彼を見た。驚いたのかもしれない。あるいは、その言葉の不器用さに困ったのかもしれない。

 ヴィルレオ自身も、自分で何を言っているのかわからなかった。青い花が風に揺れているのを見て、ただ、細く頼りなく見えるのに土へ根を下ろしている姿が彼女と重なっただけだった。

「そうかしら」

 ややあって返ってきた声は、ごく薄い笑みを含んでいた。

「わたくしは、あんなにきれいな青ではないわ」

「そういう意味ではない」

「では、どういう意味?」

 問われると、うまく言えない。

 風が吹けば揺れる。揺れるのに、ちぎれずに立っている。そんなことをどう言葉にすればいいのか。

「……弱そうに見えて、根はある」

 ようやくそう言うと、リュゼリアはしばらく花壇を見ていた。

「ええ」

 やがてぽつりと答える。

「そうでないと、ここまでは来られなかったでしょうね」

 その一言は、自分で自分を褒める響きではなかった。むしろ、ようやくそこまで辿りついた疲れを含んでいるように聞こえた。

 ヴィルレオはその横顔を見つめる。

 頬はやはり白い。風が少し強くなるたび、肩がかすかに縮む。咳もまだ消えていない。ほんの少し立って歩くだけで息が乱れる。それでも、彼女はここにいて、自分の根でようやく立っているのだ。

 そこへ、今さら自分が手を伸ばしていいのか。

 頭では何度も否と答えが出ている。

 だが、目の前で風が彼女の外套の襟を少しずらし、白い首筋が冷気へさらされた瞬間、ヴィルレオの指先は無意識に動いた。

 伸ばしかけて、止まる。

 たった数寸の差だった。

 その手を、リュゼリアは見た。

 正確には、動こうとして止まった、その一瞬を。

 彼女の薄青い瞳が、彼の指先へ落ちる。

 それだけで、ヴィルレオの胸の奥がひどく冷えた。

 この手は、何をするつもりだったのだ。

 外套を直すのか。

 首筋を冷やすなと触れるのか。

 どちらにせよ、それは王都で彼が一度もしてこなかったことだ。必要だった時には差し出されず、今さら遅れて差し出されようとする手。そんなものが彼女にとってどれほど奇妙で、どれほど重いかを、昨夜彼自身が思い知らされたばかりではなかったか。

「……すまない」

 ほとんど無意識にそう言って、ヴィルレオは手を引いた。

 リュゼリアは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、自分で外套の襟を少しだけ整えながら、静かな声で言う。

「旦那様」

「何だ」

「そういうところも、今さらなの」

 責める調子ではない。

 ただ、事実を述べているだけだ。

 だからこそ、その言葉は深く刺さる。

 触れようとしたこと自体が悪いのではない。問題なのは、その手が“今さら”の形をしていることだ。彼女が寂しかった夜に、冷えていた朝に、待っていた食卓に、その手はなかった。なかったものが遅れて差し出されても、それを素直に受け取れるほど、彼女の心はもう昔の場所にいない。

 ヴィルレオは何も言えない。

 何を言えばいい。寒そうだったから、とか。無意識だった、とか。どれも言い訳にしかならない。

「……わかっている」

 ようやくそれだけを低く返す。

 リュゼリアは少しだけ目を細めた。

「本当に?」

「ああ」

「なら、無理に触れようとなさらなくていいわ」

 その言葉に、ヴィルレオは息が詰まる。

 無理に。

 そうだ。彼女の目には、今の自分の手が“無理に差し出されたもの”として見えていたのだ。

 衝動だった。

 だがその衝動自体が、彼女から見れば不自然で、遅くて、負担なのだと。

「あなたが気遣ってくださること自体は、ありがたいの」

 リュゼリアは続ける。

「でも、わたくし、いまは自分で整えられるところまで自分で整えたいのよ」

 胸の前で、外套の合わせをそっと押さえる。ほんの小さな仕草。けれど、その中には確かな意志があった。

 自分の寒さくらい、自分で整えたい。

 自分の呼吸の乱れも、自分で受け止めたい。

 そういう時間を、彼女はようやく手に入れ始めたのだろう。

 そこへ、自分の手が割り込む資格などあるのか。

 答えはやはり、ない。

 ヴィルレオはゆっくりと視線を落とした。花壇の白い花が、風に揺れながらもちゃんと立っている。青い花はもっと頼りなく揺れる。けれど、どちらも根元はしっかり土へついていた。

 リュゼリアはもう、自分の根で立とうとしている。

 そのことを知りながら、それでもなお触れたくなる自分の感情が、ひどく身勝手に思えた。

     ◇

 その日の午後、リュゼリアは少しだけ熱を上げた。

 庭の時間が長すぎたわけではない。医師も「この程度なら」と首を振った。むしろ、朝からの疲れが夕方に出たのだろうという見立てだった。咳も少し強く出て、彼女は早めに寝台へ移された。

 ヴィルレオは居間の隅に立ち、医師が胸の音を聞き、アイダが湯を替え、ミナが濡らした布を運ぶ様子を見ていた。

 その輪の中に、自分の役割がない。

 それは当然だった。医師の手のほうが正確で、アイダのほうが彼女の息遣いを知っていて、ミナのほうがこの館の温度をよく理解している。彼はただ壁際に立ち、咳の合間に細く息を吸う彼女の姿を見ることしかできない。

 何かをしたいと思う。

 水を渡すとか、背を支えるとか、暖炉の火を足すとか。

 けれど、どれも“できること”ではあっても、“やるべきこと”ではない。すでに誰かがもっと適切にやっている。そこへ今さら自分が手を伸ばせば、彼女にも周りにも余計な気を使わせるだけだ。

 手を伸ばす資格がない、とはこういうことなのだと、ヴィルレオは改めて思い知る。

 資格というのは、身分や関係性のことではない。

 その人の苦しみに近づいてよいだけの時間を、自分がどれだけその人と共に積んできたかの問題なのだ。

 アイダはそれを持っている。

 ミナも、医師も、この数日で少しずつ積んでいる。

 自分はどうだ。

 夫でありながら、その時間をわざわざ空白のまま残した男だ。

 だから、いざ触れようとすると全部が遅く、全部が無理な動きになる。

 リュゼリアが少し熱にうかされたような目で窓のほうを見ている。頬は白く、唇だけが乾いていた。アイダが匙で薬を含ませ、彼女はゆっくり飲み込む。胸が上下するたび、呼吸の細い音が聞こえる。

 ヴィルレオはその音に、何もできずに耳を澄ますしかなかった。

     ◇

 夜、熱は少し落ち着いた。

 医師は「今夜は大きく上がらぬでしょう」と言い、アイダと交代の侍女へ注意を伝えて下がっていった。ミナも湯の用意を整えて退き、部屋には暖炉の火と、薬の匂いと、寝台の上のリュゼリアだけが残る。

 ヴィルレオも、帰るべきだと頭ではわかっていた。

 だが足が動かなかった。

 寝室の扉に近い場所で立ち尽くしていると、リュゼリアがゆっくりと目を開ける。熱の名残で視線はまだ少しぼやけているが、彼の姿を認めると、ほんの少しだけ困ったように笑った。

「まだいらしたの」

「……ああ」

「お休みにならないと」

「お前こそ」

 反射的にそう返し、すぐ自分の言葉の稚拙さに気づく。彼女は今まさに寝台の中だ。そんな返しに意味はない。

 リュゼリアもたぶんそう思ったのだろう。けれど、言葉にして責めはしなかった。

「大丈夫よ」

 細い声で言う。

「少し熱が出ただけ」

「少し、か」

「先生もそう仰ったもの」

 その穏やかさが、今日は少しだけつらかった。穏やかなのに、どこまでも他人行儀ではなく、それでいて深く自分を必要ともしていない。助けを求めるでも、突き放すでもなく、自分の苦しみを自分のものとして抱えている声。

「……リュゼリア」

 名を呼ぶ。

 彼女は薄く目を開けたまま、答えを待つ。

 触れたい、とまた思った。

 額へ。頬へ。せめて寝台の端へ置かれた指先へ。だが、その衝動が起きた瞬間、昼の庭で外套の襟へ伸びかけた自分の手と、そのあとに続いた彼女の静かな声が蘇る。

 無理に触れようとなさらなくていいわ。

 今さら遅いの。

 あなたが気遣ってくださること自体は、ありがたいの。でも。

 その“でも”の向こうにあるものへ、いまの自分はまだ何一つ届いていない。

 ヴィルレオは結局、寝台へ近づくこともせず、ただその場で立ち尽くした。

「何でしょう」

 リュゼリアが問いかける。

 その声に、ヴィルレオはようやく唇を動かした。

「……何もできないな」

 掠れた声だった。

 リュゼリアは少しだけ目を瞬かせた。意外だったのだろう。彼がそんなふうに、自分の無力をそのまま口にするのは珍しい。

「旦那様」

「医師のほうが、正しい」

「ええ」

「アイダのほうが、お前の呼吸を知っている」

「ええ」

「俺は」

 そこで言葉が止まる。続きは簡単だったはずなのに、喉の奥で妙に重かった。

「俺は、何もする資格がない」

 リュゼリアはしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくりと首を振る。

「資格がない、という言い方は少し違うわ」

 その返答が意外で、ヴィルレオは思わず顔を上げる。

「違う?」

「ええ」

 熱のあるせいか、声はかすかに掠れている。それでも響きは穏やかだった。

「資格がないというより、旦那様は……まだ、わたくしの苦しみ方を知らないのよ」

 その言葉は、どこか静かな慈悲を含んでいた。

「苦しみ方?」

「ええ。咳のあと、どれくらい待てば落ち着くのか。水はすぐのほうがいい時と、少し置いたほうがいい時があること。熱が上がる前に指先がどう冷たくなるか。そういう、小さなこと」

 リュゼリアは細い息を吐く。

「それは、一緒にいる時間の中でしかわからないものだから」

 時間。

 またその言葉だ、とヴィルレオは思う。

 失った時間。

 届かない謝罪。

 今さら遅いのです。

 そして今、彼女はまた時間のことを言う。

「だから」

 リュゼリアは小さく目を伏せた。

「いきなり触れようとなさると、お互いに戸惑うのよ」

 責めるのではなく、説明するような声だった。

 その説明のしかたが、かえって痛い。

 彼女はもう怒ってもいない。ただ、自分と彼のあいだに何が足りないのかを、静かに言葉にしているだけなのだ。

「……そうか」

 ヴィルレオは低く答えた。

 そうだ。

 彼は彼女の苦しみ方を知らない。咳の音を聞いたことはある。熱に浮かされる顔も見た。だが、それは断片だ。断片を見て、知ったつもりでいただけだ。本当には何も知らなかった。だから、今さら手を伸ばしても、その手はいつも少し遅く、少し強すぎる。

 リュゼリアは寝台の上で薄く笑った。

「でも、見ていてくださるだけでも、前とは違うのかもしれないわね」

 その言葉に、ヴィルレオは胸の奥がじくりと痛んだ。

 前とは違う。

 たしかに違う。違うが、それは救いではない。違うことに気づくのが遅すぎたのだと、また思い知らされるだけだ。

「……今日はもう休め」

 ヴィルレオは言った。

 リュゼリアは少しだけ目を細める。

「旦那様が?」

「お前が、だ」

「ええ」

 それは、奇妙に静かな会話だった。

 何一つ解決しないまま、ただお互いが相手の限界だけは感じ取っている。王都の頃にはなかった種類の会話だ。以前はもっと冷たかった。今は冷たくない。けれど、その分だけ遠い。

 ヴィルレオはようやく扉へ向かった。

 振り返らない。振り返ればまた、寝台の上の白い頬や細い指先に目が行くだろう。そうなれば、また手を伸ばしたくなる。伸ばしてはならないとわかっていながら。

 扉を開ける前に、背後からかすかな声が落ちた。

「旦那様」

 足が止まる。

「何だ」

「……明日、花がもう少し開くかもしれないわ」

 それだけだった。

 振り向くと、リュゼリアはもう目を閉じている。眠る前の、ほとんど独り言のような声だったのかもしれない。けれど、その一言にだけは、ほんのわずかに、彼へ渡される余白があった気がした。

 花がもう少し開くかもしれない。

 それは、明日もここにいていいという意味なのか。

 それともただ、事実として告げただけなのか。

 わからない。

 わからないまま、それでもヴィルレオは小さく答えた。

「……そうか」

 そして扉を閉める。

 廊下の空気は冷たかった。だが、その冷たさの中に、ほんの少しだけ違うものが混じっている気がした。資格はない。触れられない。その現実は変わらない。けれど、彼女の苦しみ方を知らぬのなら、知るところから始めるしかないのだという、あまりにも遅い理解が、ようやく形になりかけていた。

 それでもなお、今夜のヴィルレオの胸に残るのは、自分がまだ何者でもないという痛みだった。

 夫でありながら、触れることのできぬ男。

 追ってきたくせに、支える手を持たぬ男。

 その現実の前では、肩書きも決意も、ひどく頼りなかった。

 夜の別邸は静かだった。

 風が窓を撫で、どこかで水が低く鳴る。彼はしばらく廊下の真ん中に立ち、伸ばしかけて届かなかった自分の手を、ただ見下ろしていた。


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