余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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第35話 半年より短いかもしれない


 朝は、驚くほど静かに始まった。

 その静けさが、かえって不吉に思えるほどだった。

 南の別邸の窓辺には、昨夜の冷えをまだ少し残した光が薄く落ちている。湖のほうから来る風は、ここ数日ではいちばんやさしかった。水を含んだ冷たさはあるのに、肌を刺さない。レースのカーテンが細く揺れ、そのたび白い壁へ揺れる影が流れる。遠くで水鳥が鳴き、庭の低木の間で小さな羽音がした。

 まるで何事も起こらない朝みたいだった。

 リュゼリアは寝台の上でまぶたを開き、しばらくその光を見ていた。

 夜のあいだ、何度か浅く目を覚ました。咳はあった。だが、昨夜は珍しく、一度の咳の波が短かった。胸の奥に残る痛みも、いつもの朝よりは薄い。喉の乾きはある。息は深く吸えばまだ引っかかる。それでも、今日の身体は、ここ数日の中では少しだけましに思えた。

 こういう朝がある。

 だから人は、まだ大丈夫なのではないかと思ってしまう。

 リュゼリアは薄く息を吐き、そっと身を起こした。背中へ枕を差し込まれる前に、一人で少しだけ起き上がれたことに、小さく安堵する。そんな些細なことが、今の彼女にはひどく大きい。

 長椅子で仮眠していたアイダが目を覚まし、すぐに寝台の傍へ来た。

「お目覚めでいらっしゃいますか」

「ええ」

「お加減は」

 いつもの問いだった。

 けれど今日のリュゼリアは、少しだけ迷ってから答えた。

「……少し、ましみたい」

 その言葉を聞いた瞬間、アイダの顔が目に見えてやわらいだ。ここ数日、彼女の前ではそういう小さな安堵ばかりが繰り返されている。よく眠れた、少し食べられた、今日は咳が短かった、熱が少し低い。そういう断片をひとつずつ拾って、息を繋いでいく。

「熱は」

「わからないけれど、昨日の朝ほど重くはないわ」

 アイダの冷えた手が額へ触れる。次いで首筋、手首。そのたびに彼女の眉の形が少しずつ整っていく。

「たしかに、少し低いようです」

 その言い方の慎重さが、逆にうれしかった。

 白湯を飲み、朝の薬を飲み、窓辺の光の中でしばらく息を整える。喉の奥にはまだ熱を持ったざらつきがある。それでも、今日はいつもより咳の予感が遠い。

 窓の外の花壇が目に入る。

 白いマーガレットは昨日よりさらに花弁を広げ、青いネモフィラも小さな色を深めていた。雨上がりを越え、風にも耐え、少しずつちゃんと咲いていく。その様子を見るだけで、胸の奥が少しだけあたたかくなる。

「……今日は、庭へ出られるかしら」

 ふとそう零すと、アイダは一瞬だけ驚いた顔をした。それから、慎重に言う。

「先生のご判断次第でございます」

「ええ、もちろん」

「ただ、今朝のお顔色なら……」

 そこで言葉を切り、かすかに笑う。

「少しだけ希望を持ってもよいかもしれません」

 その“少しだけ”が、今の二人にはちょうどよかった。

     ◇

 朝食は、ここ数日の中でいちばんきちんと食べられた。

 小さな食堂。窓辺の淡い光。温かな粥と柔らかいパン、薄い蜂蜜を落とした茶。ひとり分の食卓は相変わらず静かで、誰の顔色も窺わなくていい。そのことに慣れきったとはまだ言えない。けれど、もうこの小ささを“寂しい”より先に“楽だ”と思えるようになっていた。

 ヴィルレオも、少し遅れて食堂へ現れた。

 王都の本邸にいた頃とは比べものにならぬほど、彼はこの別邸でリュゼリアの近くにいる。朝も昼も、何か理由をつけては姿を見せる。昔の彼を知っている身からすれば、それはほとんど別人のような変化だ。

 けれど、その変化が胸を熱くすることは、もうない。

 いや、まったくないわけではないのかもしれない。ただ、その熱より先に、遅すぎるという静かな実感が来る。だから、彼が向かいへ座っても、彼女の心は大きくは揺れない。

「顔色が、昨日より少しましだ」

 ヴィルレオがそう言った。

 朝の光の中で見る彼の横顔は、やはり少し疲れていた。ここ数日、彼もまた眠れていないのだろう。目の下に薄い影がある。けれど、その疲れ方は昔とは違う。以前は政務や王城の用件が彼を削っていた。今は、それに加えて別のものがある。

 後悔と、焦りと、どうしようもない無力。

 それが彼の沈黙の底に沈んでいることを、リュゼリアは今ではよく知っていた。

「ええ」

 彼女は穏やかに答える。

「今日は少しだけ」

「庭へ出る気か」

「先生がいいと仰ったら」

 その会話の中に、かつて欲しかった何かの残骸を見つけることは、もうやめた。

 ただ、それでもこういう何でもない朝の会話が実際には少し心地よいことも、否定しなかった。

 けれど、穏やかな時間は往々にして、油断の形をしている。

 その日もそうだった。

     ◇

 クレメンス医師は、午前の診察で少しだけ眉をひそめた。

 熱はたしかに昨日より低い。呼吸音も、朝に限ればそれほど悪くない。咳が短いぶんだけ、体力の消耗も少なそうに見えた。だが診察のあいだ、リュゼリアが一度だけ深く息を吸おうとして咳き込んだ時、医師の目の奥にわずかな暗さがよぎったのを、ヴィルレオは見逃さなかった。

「……今日は、本当に短くなら」

 最終的に医師はそう言った。

「風も弱いですし、陽があるうちに十分ほど」

 その“十分ほど”という短さが、逆に不安を呼ぶ。けれど、リュゼリアはそれを聞いて素直に微笑んだ。

「十分もあれば、十分よ」

 昔の彼女なら、十分しか、と少しだけ残念そうにしたかもしれない。いまは違う。与えられた短い時間の中で、ちゃんと喜ぶことを覚え始めている。

 その変化がやさしく、そして同時に痛かった。

 昼前、リュゼリアは外套を肩へ掛け、アイダに支えられて南の庭へ出た。

 風は本当に穏やかだった。冷たさはある。けれど昨日ほど鋭くなく、花壇の上を吹き抜けても、白と青の花はただ静かに揺れるだけだ。湿り気を残した土の匂いが、陽のぬくもりに少し温められている。

 籐椅子へ腰を下ろし、リュゼリアは小さく息を吐いた。

「……今日は、いい匂い」

 土の匂いだろう。雨の残り香と、日を受けた草の匂いと、まだ若い花の青い匂い。王都の温室で嗅ぐ花の匂いとは全然違う。こちらはもっと不揃いで、生きたものの匂いがした。

 ヴィルレオも少し離れた椅子へ腰を下ろす。

 最近の彼は、彼女のすぐ脇へ行きすぎないことを覚え始めていた。手を伸ばせば届く位置ではなく、けれど声は普通に届く距離。その微妙な間合いが、ようやく二人のあいだにできつつあった。

「白が増えたわ」

 リュゼリアが言う。

「ええ」

「青はまだ、ほんの少しだけど」

 ヴィルレオが花壇を見る。白い花はたしかに増えていた。青はまだ頼りなく、風が吹くたび震えるように揺れる。けれどその根元は、少し前よりも土へ落ち着いて見えた。

「……お前みたいだな」

 また、そんなことを口にしてしまう。

 前にも似たようなことを言って、言葉の足りなさに自分で困った。今回も、何が言いたいのかをうまく説明できる気はしなかった。だが、目の前の花と彼女の姿が、どうしてもどこかで重なる。

 リュゼリアは少しだけ笑った。

「それ、前にも仰ったわ」

「そうだったか」

「ええ」

 風が吹く。ショールの端が揺れ、彼女の細い指がそれをそっと押さえる。

 その何でもない仕草の途中で、不意に彼女の肩が強張った。

 ヴィルレオはその変化を見た瞬間、椅子から半ば立ちかけた。

 次の瞬間、咳が来る。

「っ……げほ、……ごほっ、……っ、ごほ、」

 最初の咳は浅かった。だがすぐに深くなる。胸の底から引き攣るような音が混じり、呼吸が途切れ途切れになる。リュゼリアは口元へハンカチを当て、身を折る。椅子の肘掛けを握る指が白くなる。

「リュゼリア」

 ヴィルレオの声が、ほとんど反射で落ちた。

 アイダがすぐに背後へ回る。だが、今日は昨日までと少し違った。咳が止まらない。波が一度では終わらず、短い呼吸のあとにまた次の咳が押し寄せる。喉だけではなく、肺の奥そのものが軋んでいるような音だった。

「っ、……ごほ、……っ、」

 呼吸がうまく入らない。

 吸おうとすると咳になる。

 胸の奥が焼けるように痛む。

 視界の端が白く滲む。

 リュゼリアは何とか前かがみのまま咳を受け止めようとしたが、次の瞬間、喉の奥に妙な鉄の味が広がった。

 心臓が跳ねる。

 まさか、と思うより早く、ハンカチの白へ小さな色が落ちた。

 赤だった。

 ほんの少しだ。

 細い糸みたいな量だ。

 けれど、それだけで世界の色が変わるには十分だった。

 アイダの顔から血の気が引く。

 ヴィルレオは一瞬、完全に動きを失ったように見えた。それは本当に一瞬だった。次の呼吸で、彼は初めてためらわずに彼女のすぐ傍へ膝をついた。

「中へ」

 声が低い。

「医師を呼べ」

 アイダがすぐに立ち上がる。その動きは速かったが、取り乱してはいなかった。彼女もまた、この状況がどれほど深刻かを理解しながら、今すべきことだけを選んでいる。

 リュゼリアは咳の合間にかろうじて首を振ろうとした。

「……大丈夫、よ」

 だがその言葉はほとんど音にならなかった。

 大丈夫ではない。

 本人だってわかっている。

 ただ、そう言わずにいられなかっただけだ。

 ヴィルレオはその言葉を無視した。いや、無視するしかなかった。彼は彼女の背を支え、その体が思っていた以上に軽いことに、一瞬だけ胸の奥が冷たくなる。軽すぎる。痛いほど。

 今さら彼女の重さに驚く資格などないのに、腕の中の細さが現実として手へ来ると、身体の奥がひどくざわついた。

「立てるか」

 リュゼリアは答えない。答えられない。咳は少し落ち着きつつあったが、息の入り方がまだ細い。ヴィルレオは躊躇わず、その肩と背へ腕を回した。

 昨日までなら、その手を伸ばす資格が自分にあるのかと一瞬迷っただろう。だが今は、そんな迷いを挟む余地がなかった。

 彼女の体重が彼へ預かる。ほんのわずかだ。支えているというより、壊れ物を腕の中へそっと引き寄せているみたいに軽い。

 それが、恐ろしかった。

     ◇

 部屋へ戻ると、クレメンス医師はすぐに診察に入った。

 暖炉の前へ長椅子が寄せられ、リュゼリアはそこへ半ば寝かされるように身を預けた。胸の音。脈。熱。咳の質。医師の顔はどんどん硬くなる。ヴィルレオは部屋の隅へ下がれと言われたが、一歩も動けなかった。

 ハンカチの上の赤は、乾き始めると余計に鮮やかに見える。

 ほんの少しだった。

 ほんの少し、なのに。

 たったあれだけの色が、これまで「まだ大丈夫」という言葉の上に辛うじて乗っていた足場を、一気に削り取っていくようだった。

「……どうだ」

 診察が終わるのを待ちきれず、ヴィルレオが問う。

 クレメンス医師はすぐには答えなかった。聴診器を外し、薬箱を閉じ、しばらく黙ったままリュゼリアの寝息に近い浅い呼吸を見ていた。

「先生」

 アイダの声も震えている。

 医師はようやく振り返った。

 その顔を見た瞬間、ヴィルレオは嫌でも理解した。

 よい話ではない。

「率直に申し上げます」

 医師は低く言う。

「進行が、当初の見立てより早い可能性が高いです」

 その言葉が落ちた瞬間、部屋の音が消えた。

 暖炉の火も。

 外の風も。

 呼吸の音でさえ。

 すべてが遠くなり、ただその一文だけが異様に鮮明に残る。

 当初の見立てより早い。

 ヴィルレオは一瞬、その意味を理解するのを拒んだ。半年。余命半年。その数字が、どこかでまだ仮のものとして頭へ置かれていた。恐ろしいが、それでも“今この瞬間ではない未来”として。

 だが今、医師の言葉はそれをもっと近いものへ引き寄せる。

「……半年より」

 ヴィルレオの喉から、ほとんど掠れた声が漏れる。

「短いのか」

 医師は目を閉じるようにして、短く頷いた。

「このままの進行なら」

 このままの進行なら。

 その条件つきの言い回しが、かえって残酷だった。進行が止まれば違うのか。楽になれば伸びるのか。茶や薬の件で削られていた部分がなくなれば、まだ戻せるのか。そういう希望の切れ端を、人は一瞬で探してしまう。

 だがクレメンス医師の顔には、楽観はなかった。

「どれくらいだ」

 ヴィルレオは問い直す。

 自分の声が低く沈みすぎていて、他人のもののように聞こえる。

「正確には申し上げられません」

 医師は言う。

「こうした病は日ごとの揺れが大きい。明日また少し楽な日が来ることもありますし、逆に数日のうちにさらに咳が深くなることもある」

 その言い方は、答えを避けているのではない。数字に落とすには、現実があまりにも不安定だということだろう。

「ですが」

 医師は続ける。

「少なくとも、これまで想定していた“半年”を、私どもはもう安易に口にするべきではないと考えます」

 リュゼリアはその言葉を、静かに聞いていた。

 寝台でも長椅子でもない、その中間みたいな格好で毛布を引き寄せ、胸の前に細い指を重ねたまま、彼女はただ医師を見ている。

 驚いた顔はしていない。

 泣いてもいない。

 ただ、その薄青い瞳の奥で、何かがゆっくり沈んでいくのがわかった。

「……そう」

 しばらくの沈黙のあと、彼女はそれだけを言った。

 その声の静けさが、ヴィルレオには耐えがたかった。

 もっと怯えてくれたほうが、取り乱してくれたほうが、支える余地があるような気がしたのかもしれない。だが彼女は、もうそんなふうに自分を崩さない。崩せないところまで来てしまっているのだろう。

 半年より短いかもしれない。

 その言葉は、彼女にとって“未来が変わった”というより、“曖昧だった崖の端がもう少し近かったとわかった”に近いのかもしれない。

     ◇

 医師とアイダが薬の調整と安静の支度を相談するため一度奥へ下がると、部屋にはヴィルレオとリュゼリアだけが残された。

 窓の外では、風がまた少し強くなっている。白と青の花壇が揺れているのが見えた。曇った午後の光はすでに弱く、部屋の中の色も少しずつ夕方の冷えを帯び始めている。

 ヴィルレオは動けなかった。

 何を言えばいいのかわからない。

 半年より短いかもしれない。

 その一言が、彼の中のあらゆる思考を真っ白にしていた。

 今度こそ彼女を失いたくない、とようやく認め始めた。

 遅すぎる愛だと知りながら、それでも失いたくないと決めた。

 その“今度こそ”の足場が、さらに崩れたのだ。

 半年あれば、とどこかで思っていたのかもしれない。

 半年あれば、せめて何か。

 言葉を。

 時間を。

 花の咲く日を。

 食卓を。

 触れ方を。

 少しずつでも取り戻せるのではないかと。

 その希望のほとんどが、今、薄い音を立てて崩れていく。

「……旦那様」

 リュゼリアが静かに呼ぶ。

 その声だけで、ヴィルレオはかろうじて現実へ戻された。

「何だ」

 低く返すと、彼女は少しだけ首を横へ振った。

「そんなお顔をなさらないで」

 その言葉に、胸の奥がえぐられる。

 どんな顔をしているのか、自分ではわからない。だが彼女がそう言うということは、きっと見ていられぬほど何かが剥き出しになっているのだろう。

「……無理だ」

 思わずそう言った。

 リュゼリアの目が少しだけ揺れる。

「わたくしは」

「無理だ」

 ヴィルレオは繰り返した。

「今、それを聞いて、平気な顔はできない」

 その声は、怒鳴ってはいないのに、ひどく切実だった。

 リュゼリアはそれを黙って受け止める。

 彼女だって平気なわけではないだろう。けれど、彼女はもうずっと前から、自分の恐怖を静かな顔の下へ沈めることを覚えてしまっている。だから、こういう時ほど彼女は穏やかに見える。

「……怖いのね」

 ぽつりと彼女が言った。

 ヴィルレオは、否定しなかった。

「そうだ」

 声が掠れる。

「怖い」

 その一語に、リュゼリアは目を伏せた。

「ええ」

 小さく言う。

「わたくしも、よ」

 その“も”が、どれほど長い隔たりを越えて落ちてきた言葉なのか、ヴィルレオにはわかった。

 彼女も怖い。

 もちろんそうだろう。自分の体が確実に蝕まれていくことも。花が咲くより先に終わることも。穏やかな暮らしにようやく辿り着いたのに、その時間すら短いかもしれないことも。

 その全部が。

 なのに自分は、彼女が怖がる余地すら奪うように、これまで長く一人で立たせてきた。

 ヴィルレオは長椅子の傍へ一歩だけ近づいた。昨日までなら、その距離でさえ何かを壊すような気がした。だが今は、少なくとも彼女のそばに立っていないことのほうが耐え難かった。

 それでも、触れはしない。

 触れてよいのかどうか、まだわからない。

 わからぬまま、ただ近くに立つ。

「リュゼリア」

 名を呼ぶ。

 彼女は目を上げる。

「……すまない」

 また謝罪だった。

 それが何の役にも立たないと、もう何度も思い知らされているのに、それでも口をついて出てくる。

「何について?」

 静かな問いだった。

「全部だ」

「そう」

 リュゼリアはそれ以上追及しなかった。ただ、少しだけ視線を窓の外へ向ける。

「白い花、もっと開くと思っていたのだけれど」

 唐突なようでいて、唐突ではなかった。

 こういう時、彼女は自分の心を守るために、少しだけ話題を外へ逃がすのだと、ヴィルレオはようやく知っていた。

「明日には、もう少し」

 言いかけて、止まる。

 明日。

 その語が急にひどく重くなる。

 彼女もそれに気づいたのだろう。ごく薄く笑った。

「ええ。明日があれば、ね」

 その一言は、冗談の形をしていた。

 けれど、冗談ではなかった。

 ヴィルレオは何も言えない。

 明日があれば。

 その当たり前だったはずの言葉が、今はもう確約のないものになっている。

「……ある」

 ようやく低く言う。

「そうであってほしい、でしょう?」

 リュゼリアはやさしく返した。

 そのやさしさの奥に、自分よりずっと早く現実の重さを受け入れ始めている人間の静けさがある。

 ヴィルレオはその静けさに打ちのめされる。

 失いたくないと決めた。

 だが、決めたところで時間は待たない。

 愛はもう遅すぎたあとに来た。

 それでもなお、今の自分には彼女を失いたくないという願いしか残っていない。その願いがどれほど身勝手でも、どれほど遅くても、消える気配はなかった。

     ◇

 夕方が近づくにつれ、熱はまた少しだけ上がった。

 大きな変化ではない。医師はそう言った。だが、その“大きくはない”という言い方が、今日はいつもより恐ろしく聞こえた。小さな上がり下がりの積み重ねの先に、もう“半年”と呼べぬ場所があると知ってしまったからだ。

 リュゼリアは再び寝台へ移された。

 窓の外では白と青の花が風に揺れている。今日は庭へ出られなかった。明日はどうだろう。そんなことを考えかけて、やめる。考えれば考えるほど、時間というものが指の間からこぼれていく感触だけが鮮明になる。

 ヴィルレオはその夜も、部屋を離れなかった。

 離れられなかったのだろう。

 リュゼリアは寝台の上で、半ば眠り、半ば起きているみたいな時間を過ごしながら、その気配を感じていた。彼は昨日よりもずっと黙っていた。言葉を探しているのではなく、言葉そのものが追いつかなくなっている沈黙だった。

 それでも、その黙り方の中にあるものは、今の彼女にもわかった。

 後悔。

 焦り。

 恐怖。

 そして、ようやく自分でも名づけ始めた愛。

 遅すぎるけれど、本物なのだろう。

 そのことが、少しだけ痛くて、少しだけやさしかった。

 窓の外で風が鳴る。

 部屋の中では、静かな呼吸が続く。

 半年より短いかもしれない。

 その言葉は、ただ未来を削るだけではない。二人のあいだに残された時間の濃さまで、一気に変えてしまった。

 もう、悠長に言葉を探している暇はないのかもしれない。

 けれど、急げば急ぐほど、遅すぎる愛は滑稽になる。

 その矛盾の中で、夜はゆっくりと更けていった。


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