余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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第37話 あなたの望みを教えてください


 翌朝、空はひどく静かに晴れていた。

 昨夜までの薄い曇りが嘘のように、南の別邸の上には淡く透いた青が広がっている。眩しいほどではない。春のはじまりの空らしく、どこか白みを帯びたやわらかな青だ。湖の水面は朝の光を薄く返し、窓辺のレースへ揺れる影を落としている。風はまだ冷たいが、昨日までより少しだけ軽い。雨の匂いはもう消え、かわりに乾き始めた土と若い草の匂いが混じっていた。

 リュゼリアはその朝、咳で目を覚ました。

 最初の一度は浅く、次の二度目が少しだけ深かった。胸の奥に痛みが残り、喉には細い熱がひりつく。それでも昨日ほどではない。呼吸を整えるのにかかった時間は、ほんの少しだけ短かった。

 だが、その“ほんの少し”を喜ぶ自分がいる一方で、別のこともきちんと知っている。

 病は消えていない。

 昨日よりましでも、明日また悪くなるかもしれない。

 半年より短いかもしれない、というあの言葉は、寝て起きたくらいでは薄れない。

 それでも、目を開けた先に朝の光があり、窓の向こうに白い花が少しずつ増えていることを知っているだけで、胸の内には小さな熱が残っていた。

 それでも生きたい。

 昨日、口にしてしまったその願いは、朝になって消えるどころか、むしろ静かに根を張っているように感じられた。

 怖い。

 痛い。

 終わるのが近いかもしれない。

 その全部の中で、それでもなお、もう少し先の光を見たいと思う。花の数を数えたい。湖の匂いを嗅ぎたい。遅れて届いたあの男の感情が、これからどんなふうに変わっていくのかも見ていたい。

 そんなことを思っている自分に、リュゼリアは少しだけ驚き、少しだけ苦く、そして少しだけうれしかった。

「お目覚めでいらっしゃいますか」

 長椅子の上で薄く目を閉じていたアイダが、すぐに気配を察して起き上がる。彼女の声はいつも通り低く、やさしい。けれど最近は、そのやさしさが王都の屋敷で感じていたような“整えられた気遣い”ではなく、もっと生のものとして胸へ落ちる。

「ええ」

 リュゼリアは答え、咳の余韻を飲み込むように少しだけ息を整えた。

「今朝はどうでございますか」

 いつもの問いに、彼女は少しだけ考えてから答える。

「苦しいわ」

 アイダの目が揺れる。

 だが、リュゼリアはそこで終わらせなかった。

「でも、昨日より少しだけ、生きたいと思っているの」

 その一言に、アイダは何も言えなかった。ただ、まっすぐこちらを見て、次の瞬間には目元がわずかに熱を帯びる。

「……はい」

 それだけを、絞るように返す。

 その返事が、なぜだかありがたかった。

     ◇

 朝食のあと、ヴィルレオはいつもより遅れて食堂へ来た。

 ここ数日の彼は、朝のどこかで必ず姿を見せる。けれど今日は、窓辺に差す光が少し高くなってからだった。寝不足なのか、顔色はよくない。だが、それだけではない顔をしている。何かを決めた人間の顔だと、リュゼリアは一目で思った。

 王都の大公爵として何かを決める時の顔とは違う。

 もっと私的で、もっと不器用で、もっと怖がっている顔。

 小さな食堂には、今日もひとり分の朝食の名残があった。粥の器は半分ほど空になり、茶のカップにはまだ少しだけ温度が残っている。窓辺の花は白。庭の花と同じではない。だが、別邸の侍女たちは無理に華やかなものを持ち込まず、部屋の空気に合う小さな花だけを選ぶ。

 ヴィルレオはそれをひと目見てから、いつもの位置へ座った。

「顔色は」

 短く問う。

「昨日より少しだけましよ」

 リュゼリアが答えると、彼は頷く。

「咳は」

「あるわ」

「熱は」

「少し」

 会話は短い。

 けれど、それだけでは終わらない気配が彼の沈黙の中にあった。

 リュゼリアはカップの縁へ指先を添えたまま、彼を見た。

「どうかなさいましたか」

 その問いに、ヴィルレオはすぐには答えなかった。窓の外へ一度だけ視線を向け、白と青の花壇を見て、それからゆっくりとこちらへ戻す。

「……今日は」

 低い声が落ちる。

「俺の話ではなく、お前の話をしたい」

 リュゼリアは少しだけ目を瞬いた。

 その言い回しが、ひどく珍しかったからだ。

 王都にいた頃の彼なら、自分の話を“しない”ことはあっても、わざわざこうして「お前の話をしたい」とは言わなかっただろう。必要な確認、必要な指示、必要な返答。それだけで十分だと思っていた男だ。

「わたくしの?」

「そうだ」

「何を」

 ヴィルレオはそこで、ほんのわずかに言葉を失ったように見えた。考えていなかったのではない。たぶん何度も考えて、ようやくここへ来たのだろう。それでも口にするのが難しい問いなのだ。

「……お前が、どう生きたいのかを知りたい」

 その一言が落ちた瞬間、食堂の空気が少しだけ変わった。

 風が窓を揺らす。

 庭の白い花が、小さく動く。

 リュゼリアはカップを持つ手を止めた。

 どう生きたいのか。

 これまで何度、その問いが自分の人生から抜け落ちていたのだろう。

 どう在るべきか、はあった。

 公爵夫人としてどう振る舞うべきか。

 夫を煩わせぬためにどうあるべきか。

 病人らしく静かに休むべきか。

 離縁を望むならどう去るべきか。

 そういう“べき”は、いつだって自分の周囲にあった。

 けれど、どう生きたいのか、という問いは。

 自分の内側へ向けて、こんなふうにまっすぐ置かれたことがあっただろうか。

「……いきなり、難しいことをお訊きになるのね」

 リュゼリアは、ようやく少しだけ笑った。

 その笑みには困惑と、ほんのわずかな照れが混じっていた。

 ヴィルレオは頷きも笑いもしない。ただ、まっすぐ彼女を見ている。

「そうだな」

「わたくし、すぐには答えられないかもしれないわ」

「構わない」

 低い声。

「考えながらでいい」

「どうして、急にそんなことを」

 問うと、ヴィルレオの視線が一瞬だけ揺れた。けれど、逸らさない。

「……俺は、これまで自分の願いばかりだった」

 その声音は静かだったが、どこか自分を断じる硬さがあった。

「離縁は認めない」

「お前を失いたくない」

「戻ってこい」

「生きろ」

 ひとつずつ、今まで彼が言ってきたことだ。

「どれも、俺の願いだ」

 リュゼリアは何も言わなかった。

 その通りだったからだ。

 彼の言葉はどれも本物だった。遅く、痛々しく、後悔と愛が入り混じった、本物の言葉だった。けれど同時に、それはいつも彼の側からだけ差し出されていた。

「だから」

 ヴィルレオは言う。

「お前が、何を望むのかを知りたい」

 その一言に、リュゼリアの胸の奥で何かが静かに震えた。

 欲しかったのは、もしかするとこういう問いだったのかもしれない。

 いや、昔の自分なら、これが欲しかったと泣いたかもしれない。けれど今は、その感情をまっすぐ受け取る前に、もっと別の実感がある。

 あまりにも、答え方がわからないのだ。

 どう生きたいのか。

 何を望むのか。

 自分が自分のために何かを選ぶことに、こんなにも慣れていなかったのかと、初めて知った。

     ◇

 その日、医師は「庭へ出るのは昼を過ぎてから、ほんの短くなら」と言った。

 朝の咳は少し落ち着き、熱も昨日より低い。だが、昨日の赤を見たあとでは、皆が慎重にならざるを得ない。リュゼリアも、それに反発しなかった。花は逃げない。今日は窓辺からでも十分見える。そう思えるようになったのは、この館での暮らしが少しずつ身体へ馴染んできたからだろう。

 昼までのあいだ、彼女は居間の長椅子で本を開いてみたが、文字はあまり頭へ入らなかった。

 どう生きたいのか。

 その問いが、静かに胸の中を占めていたからだ。

 かつての自分なら、すぐにこう答えただろう。

 迷惑をかけぬように。

 静かに。

 誰にも重荷を背負わせぬように。

 それが自分にできる、せめてもの礼儀であり、愛情だと思っていた。

 だが、いまは少し違う。

 静かに死にたいのではない、と昨日はっきり気づいてしまった。

 それでも生きたいと思ったのだ。

 ならば、その“生きたい”は、何を意味しているのだろう。

 花を見たい。

 もっと朝の匂いを吸いたい。

 雨上がりの土の匂いも、湖の風も、窓辺の光も、まだもう少し感じていたい。

 そして。

 その続きを考えたところで、胸がひどく静かに熱を持つ。

 ヴィルレオの顔。

 あの男がいまどんなふうにこちらを見ているか。

 遅れて届いた感情が、どんなふうに言葉を探し、どんなふうに黙ってしまうか。

 その不器用さごと、もう少しだけ見ていたいと思っている自分がいる。

 それは期待なのか。

 わからない。

 昔のような、与えられることを待つ期待ではない。

 もっと小さくて、もっと自分の側にある望みだ。

 そのことに、少しだけ救われる。

     ◇

 昼を少し過ぎたころ、風はさらに和らいだ。

 白と青の花壇の前に、今日も椅子が二つ置かれる。リュゼリアは外套を肩へ掛け、毛布を膝にかけて、ゆっくり庭へ出た。胸の奥にはまだ痛みが残る。息も完全には深くない。それでも土の匂いが近づくと、それだけで心が少しほどける。

 ヴィルレオもすぐ後ろへ続く。

 彼は最近、本当に“ついてくる”ことを覚えた。先回りして道を決めるのではなく、後ろからついてきて、必要なら少し前へ出る。その控えめな歩き方が、今のリュゼリアには心地よかった。

 椅子へ腰を下ろす。

 風が頬を撫でる。

 目の前ではマーガレットの白が増え、青いネモフィラも数を増やしていた。土は昨日より乾き、日の当たる部分だけが少し薄い色をしている。

「白、ほんとうに増えたわね」

 リュゼリアがそう言うと、ヴィルレオも花壇を見る。

「ああ」

「昨日より、ちゃんと花になってる」

 その言い方に、彼は少しだけ目を細めた。

「花だろう、最初から」

「違うの」

 リュゼリアは笑う。

「最初は、ただそこにあるだけなの。咲いて初めて、“こうなりたかったのね”ってわかることがあるのよ」

 自分でも不思議なことを言ったと思う。けれど、その言葉は今の自分自身にもどこか重なっていた。

 最初から花ではあっても、咲くまでは見えない形がある。

 最初から愛ではあっても、名づけられるまではわからない気持ちがある。

 そんなことを、彼も同じように感じたのかもしれない。ヴィルレオは返事をせず、ただ花壇を見つめていた。

 やがて彼が、昨日の続きみたいに低く言う。

「……どうだ」

「何が?」

「考えたか」

 その問いに、リュゼリアはしばらく答えられなかった。

 風が吹き、青い花が揺れる。

 ようやく彼女は息を整え、ゆっくりと口を開いた。

「少しだけ」

 ヴィルレオは頷く。

 先を急かさない。ただ待つ。その待ち方のぎこちなさまで、今は少し愛おしく思えた。

「わたくし」

 言葉を探す。

「もう、王都の屋敷には戻りたくないわ」

 ヴィルレオの目が、わずかに揺れた。

 痛みかもしれない。覚悟していたことでも、実際に言葉にされると別の重さがあるのだろう。

「ええ」とは返さない。否定も、すぐにはしない。ただ受け取っている。その沈黙が、昔よりずっと誠実だった。

「戻ったら、また、公爵夫人になってしまう気がするの」

 リュゼリアは続ける。

「それはきっと、屋敷がどう変わっても同じだと思うわ」

 ヴィルレオが静かに息を吐く。

「……そうか」

「ええ」

「ほかは」

 ほか。

 その問いに、リュゼリアは花壇からさらに先へ視線を向けた。庭の向こう、木立の隙間から、湖の光がほんの少しだけ見える。

「朝を、ちゃんと朝として過ごしたいの」

「……」

「誰かの予定じゃなく、自分の呼吸で起きて、光を見て、茶を飲んで」

 こんなにも小さなことが、なぜ今まで欲しいと言えなかったのだろう。

「体が大丈夫な日は、こうして花を見たい」

「雨の日は雨の音を聞いていたいし」

「風の強い日は、窓辺でそれを眺めていたい」

 彼女の声は、次第に落ち着いていく。話しながら、自分の中の望みが少しずつ形になっていくのがわかる。

「無理に元気なふりはしたくない」

「苦しい日は、苦しいまま休みたい」

「眠れない夜に、無理に眠らされるのも嫌」

 そこまで言った時、ヴィルレオの指が椅子の肘掛けへ少し強くかかったのが見えた。王都の“優しい毒”のことを彼も思い出したのだろう。

「それから」

 リュゼリアは少しだけ迷った。

 けれど、ここで黙るのは違う気がした。

「……隠さないでほしいの」

 ヴィルレオの顔が上がる。

「何を」

「病のこと」

 声は震えなかった。

「良いことも、悪いことも。あとどれくらいなのか、どれだけ進んでいるのか、怖いことも全部」

 怖いからこそ、知らないままではいたくなかった。

 知らぬうちに何かを飲まされ、知らぬうちに静かに削られていくあの感覚は、もう二度と嫌だった。

「わたくしの体なのだから、わたくしも知っていたいの」

 ヴィルレオはしばらく何も言わなかった。

 その沈黙の間に、風がまた花を揺らす。

 やがて彼が、低く、しかしはっきりと答える。

「わかった」

 短い言葉。

 だが、その短さの中に嘘がないとわかる。

「ほかは」

 彼はさらに訊く。

 リュゼリアは少し困ったように笑う。

「そんなに一度に上手には言えないわ」

「少しずつでいい」

 その言い方が、思いのほかやさしくて、胸の奥に小さなあたたかさが落ちる。

「……湖のそばへ行ってみたい」

 ふと、言葉が零れた。

 自分でも少し驚く。

「ここから見るだけじゃなくて、もっと近くで」

 それを聞いたヴィルレオの目に、今度ははっきりと驚きが浮かんだ。

「歩けるか」

「今すぐは無理でしょうね」

 リュゼリアは苦く笑う。

「でも、もし少しだけ体が持つ日があるなら」

 言いながら、その望みの小ささに自分で胸が熱くなる。

 湖のそばへ行く。

 たったそれだけ。

 けれど王都の屋敷での自分なら、そんな望みを口にすることさえしなかっただろう。必要がないもの。公爵夫人にふさわしいとは言えぬもの。体に負担があるかもしれぬもの。そうやって最初から捨てていた。

 いまは違う。

 生きたいと思ったからこそ、こういう小さな望みが自分の中から出てくる。

「……ほかにも」

 リュゼリアはゆっくりと言う。

「あなたと」

 そこで少しだけ喉が詰まる。

 咳ではない。もっと別のものだ。

「何でもない話をしてみたいわ」

 ヴィルレオの息が止まったように見えた。

「何でもない、話?」

「ええ」

 リュゼリアは少し笑う。

「花のこととか。今日の風のこととか。朝の茶が少し濃かったとか、そういう」

 昔なら、それが欲しいと気づく前に寂しさだけが膨らんでいたのだろう。今は違う。欲しいものを、自分の言葉でようやく拾える。

「……そうか」

 ヴィルレオは低く答えた。

 それだけなのに、その一言の奥にあるものがひどく揺れているのがわかる。嬉しいのか、痛いのか、その両方か。彼は今、たぶん自分が一度も差し出さなかったものを、ようやく彼女の望みとして受け取っているのだ。

「それが、お前の望みか」

 問われて、リュゼリアは少しだけ考える。

 望み。

 その全部が、たった一言で括れるほど単純ではない。

 生きたい。

 花を見たい。

 湖へ行きたい。

 苦しい日は苦しいまま休みたい。

 何も隠さないでほしい。

 そして、彼と何でもない話をしたい。

 それらを一つに束ねる言葉は何だろう。

「……たぶん」

 彼女はゆっくり答える。

「公爵夫人ではなく、わたくしとして生きたいの」

 その言葉は、風の中で静かに落ちた。

 ヴィルレオは長く何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は重くなかった。考えている沈黙だった。真正面から受け取り、その重さを測る沈黙。

 やがて彼は、目を逸らさずに言う。

「わかった」

 また、その一言。

 けれど今度は前より深かった。

「俺は」

 少しだけ間を置く。

「お前の望みを、俺の都合へ変えないようにする」

 その言葉に、リュゼリアは目を瞬いた。

 そんな誓い方をするとは思わなかったからだ。

 離縁は認めない、と言った男。

 戻ってこい、と言った男。

 生きろ、と言った男。

 その男がいま、「自分の都合へ変えないようにする」と言う。

 それはたぶん、彼にとってひどく難しいことだろう。愛しているならなおさら、自分の望む形へ引き寄せたくなるものだから。

 けれど今、彼はようやくそこを越えようとしているのかもしれない。

 リュゼリアはそのことに、静かに胸が熱くなるのを感じた。

 遅い。

 遅すぎる。

 けれど、それでも。

 この遅さの中でしか届かないものも、もしかするとあるのかもしれないと、初めて少しだけ思った。

     ◇

 その日の夕方、リュゼリアはまた咳をした。

 強い咳ではなかった。だが、夕暮れが近づくと胸の奥に痛みが戻り、呼吸はどうしても浅くなる。熱も少しだけ上がる。

 病は、今日も変わらずそこにあった。

 それでも、寝台へ移される前にもう一度だけ窓辺へ目を向けた時、白と青の花壇の色は朝より少しだけ深く見えた。湖の光は夕方の銀を帯び、風も昼より冷えていた。それでも、その全部を「また見たい」と思う自分がいる。

 それは、昨日よりさらに確かな願いだった。

 生きたい。

 ただ怖いからではなく、ただ終わりたくないからでもなく。

 こういう時間をもう少し続けていたいから。

 花を見たいから。

 何でもない話をしたいから。

 湖のそばへ行ってみたいから。

 自分の望みを、自分の言葉で口にしながら生きてみたいから。

 そういう、生に近い願いとして。

 寝台のそばでは、ヴィルレオが黙って椅子へ腰を下ろしている。

 アイダが火の具合を見、クレメンス医師の薬の量を確かめ、部屋の空気は静かに夜へ向かっていた。

 リュゼリアは目を閉じる前に、一度だけ彼を見た。

 彼もまたこちらを見ていた。

 昔のように、目が合ってもすぐ言葉が切れるだけではない。何かがそこに残る。まだ不器用で、まだ遅くて、まだ痛みばかり多いけれど、それでも確かに何かが残る。

「旦那様」

 小さく呼ぶと、彼はすぐに応じた。

「何だ」

 その返事の速さが、少しだけおかしくて、少しだけうれしい。

「……今日、訊いてくださってありがとう」

 ヴィルレオの顔が、ほんの少しだけ揺れる。

「俺は、もっと早く訊くべきだった」

「ええ」

 リュゼリアは正直に頷く。

 それに対して、彼は苦く目を伏せた。だが今回は、そのあとで逃げなかった。

「それでも」

 低く言う。

「今日、聞けてよかった」

 その一言が、胸の奥へ静かに落ちる。

 遅れて届いた感情の中で、ようやく彼は自分の願いではなく、彼女の望みを知ろうとしている。

 それはまだ始まったばかりだ。

 体は蝕まれている。時間も短いかもしれない。明日何が起きるかもわからない。

 それでも今夜のリュゼリアは、昨日までよりも少しだけ、明日へ手を伸ばしたい気持ちで目を閉じることができた。

 それだけで、十分に奇跡のように思えた。


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