51 / 51
最終話 持参金ではなく、未来を持って
ヴァルクレア公爵家の婚約発表は、冬の終わりを待って行われた。
王都にはまだ冷たい風が残っていたが、空の色は少しずつ変わり始めていた。朝の光は以前より長く窓辺に留まり、庭の土も、凍りついた眠りからわずかに緩んでいる。噴水の水は変わらず細く流れ、冬の間ずっと屋敷の呼吸のように鳴り続けていた。
ミレーヌは、その水音を聞きながら、執務室の机に置かれた書類を見つめていた。
婚約発表文。
婚約確認書。
婚姻後財産契約および職務独立契約書の最終草案。
それとは別に、ミレーヌ個人の資産管理確認書。
亜麻布事業の第二期計画書。
ヴァルクレア公爵家再建第二期、初年度予算案。
どれも、ただの紙ではなかった。
ここに至るまでの時間が、全部そこに折り重なっていた。
持参金の使途を書き留めた小さな帳簿。
愛人への真珠の首飾りの領収書。
父ナルシスから届いた支度金請求の手紙。
ルヴァン伯爵家への最後の通知書。
黒字となった月次収支報告。
エルネストが指輪より先に差し出した契約書。
それらすべてを通って、今日の紙に辿り着いた。
ミレーヌは、胸元の銀の鍵に触れた。
いつもの冷たさがある。
だが今日は、左手にも新しい重みがあった。
まだ婚姻の指輪ではない。
婚約指輪として、エルネストの母の指輪を正式に受け取った。
古い銀台に、青灰色の石が一つ。
大きくはない。社交界の目を奪うほど派手でもない。けれど、光を受けると石の奥に深い青が浮かび、冬から春へ変わる直前の空のように見えた。
その指輪を、ミレーヌは今朝、自分の意思で左手にはめた。
離縁は成立した。
婚姻後財産契約の内容は、レヴィ弁護士とは別の独立した女性弁護士、マリオン・クレールにも確認してもらった。
ミレーヌの個人資産は、ミレーヌの単独管理財産として残る。
再建財務顧問としての契約は、婚約によって無償化されない。
亜麻布事業および家政管理助言業務の報酬も、明確に分けられる。
ヴァルクレア家の生活費と領地運営費は公爵家会計から支出され、ミレーヌの個人資産は前提にされない。
ミレーヌの名義、署名、成果記録は消えない。
そして、重大な信義違反があった場合の別居、契約見直し、離別協議の権利も明文化された。
甘い婚約の裏に、驚くほど実務的な書類が整っている。
それを見て、イザボーは笑った。
「あなたたちらしいわね。祝福の花束に、分厚い契約書を結んで渡すなんて」
そう言いながらも、彼女はミレーヌのために婚約発表の日のドレスを仕立ててくれた。
そのドレスもまた、ミレーヌらしかった。
色は深い灰青。
青灰色の指輪に合うよう、派手な宝石は使っていない。胸元には小さな銀糸の刺繍が入り、近づくと亜麻の葉を模した模様だと分かる。裾は軽く、動きやすい。美しく、けれど飾られすぎていない。
イザボーは最後の仮縫いの時、鏡の中のミレーヌを見て言った。
「これは、公爵夫人になるためだけのドレスじゃないわ」
「では、何のためのドレスですか」
「自分で席に着く女のドレスよ」
その言葉を、ミレーヌは今日も覚えている。
自分で席に着く。
誰かに壁際へ置かれるのではなく。
誰かの持参金として数えられるのではなく。
自分の仕事と、自分の名と、自分の意思を持って、席に着く。
ミレーヌは鏡の前で、もう一度姿勢を整えた。
婚約発表は、ヴァルクレア公爵邸の大広間で行われた。
盛大すぎる宴ではない。
だが、正式な場として十分な品格があった。
噴水の見える庭に面した扉は開かれ、冬の終わりの光が広間に差し込んでいた。壁の燭台は磨かれ、床は曇りなく光っている。花は買い集めた豪華なものではなく、庭の枝と白い小花、それに領地から届いた乾かした亜麻の束が低く生けられていた。
長卓には、あの晩餐会でも使われたヴァルクレア領の亜麻布が敷かれている。
生成りの布は、以前より少し質が上がっていた。
マルグリットが「婚約発表に使うなら、前よりも布目を安定させます」と言って、工房総出で仕上げたものだ。端には控えめな刺繍が入っている。よく見ると、ヴァルクレア家の紋章と亜麻の葉が組み合わされていた。
それを見たミレーヌは、布の前でしばらく言葉を失った。
マルグリットは、相変わらず厳しい顔で言った。
「泣くなら、シミをつけないように離れて泣いてください」
ミレーヌは笑いながら、涙をこらえた。
今日の客は、かつての晩餐会より少し多かった。
ラヴァンディエ侯爵夫人。
レヴィ弁護士。
マリオン弁護士。
イザボー。
ボーヴェ商会の代表。
シスター・コラリー。
領地からは、マルグリット、ノエル、フェリクスが来ていた。リュシーも工房代表の補佐として招かれ、緊張しすぎてずっとマルグリットの後ろに隠れている。
家政管理助言業務を正式に依頼してきた貴婦人たちも、数名招かれていた。
以前、ミレーヌを侮辱した男爵夫人もその一人だ。
彼女は今日、ミレーヌを見るなり深く礼をした。
媚びるような笑みではない。
少なくとも、以前より慎重で、言葉を選んでいる。
「ミレーヌ様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
ミレーヌは、礼を返した。
「お越しいただき、ありがとうございます」
それだけ。
過去の発言を忘れたわけではない。
だからといって、今日の場で持ち出すこともしない。
距離を保つ。
条件を守る。
相手がそれを守るなら、仕事として向き合う。
それが、今のミレーヌの社交だった。
社交界は、今日もざわめいていた。
ヴァルクレア公爵家が正式にミレーヌ・オルヴェイユとの婚約を発表する。
それは、驚きを持って受け止められた。
離縁女。
元伯爵夫人。
持参金騒動の中心にいた女。
そう呼んでいた者たちが、今は別の言葉を探している。
ヴァルクレア家を立て直した財務顧問。
亜麻布事業の功労者。
家政管理助言で評判を得始めた女性。
公爵の婚約者。
同じ人間を指す言葉が、社交界の都合で次々と変わる。
ミレーヌは、そのことにもう過度に揺れなかった。
噂は彼女の値段ではない。
そう、自分の帳簿に書いた。
今も同じだ。
祝福も、驚きも、羨望も、警戒も。
それらは今日の空気に過ぎない。
ミレーヌの価値は、ミレーヌが何を選び、何を守り、何を作るかで決まる。
大広間の隅では、使用人たちが控えていた。
ヨランドは堂々としている。
リゼットはすでに目を潤ませている。
バスティアンは、記録係として婚約発表文の控えを持っているが、手が震えている。泣くなとヨランドに小声で叱られ、必死に瞬きをしていた。
ルシアンは厨房側からちらちら様子を見ている。今日の軽食には、領地の小麦と亜麻蜂蜜が使われていた。彼にとっても、これは勝負の場だった。
ミレーヌは、彼らの姿を見た。
この人たちがいたから、ここまで来た。
自分一人ではない。
そして、自分もまた、この家の一人としてここに立っている。
発表の時刻になると、大広間のざわめきが静まった。
エルネストが前へ出る。
濃い正装に身を包み、胸元には家紋の飾りをつけている。彼はもともと口数の多い人ではない。華やかな演説も、社交界向けの飾り立てた言葉も得意ではない。
けれど、その立ち姿は以前とは違っていた。
出会った頃のエルネストは、疲れていた。
屋敷の影を背負い、父の失策と借金と領地の荒廃に押し潰されそうになりながら、それでも公爵として立っていた。
今も借金は残っている。
課題も多い。
だが、彼の背中はもう沈んでいない。
隣に立つ誰かを信じることを知った背中だった。
エルネストは、集まった客たちを見渡した。
「本日は、ヴァルクレア公爵家へお越しいただき、感謝する」
声は低く、よく通った。
「本日、正式に発表する。俺、エルネスト・ヴァルクレアは、ミレーヌ・オルヴェイユと婚約する」
ざわめきが、ほんの小さく広がる。
祝福の息。
驚き。
予想していた者の納得。
予想していなかった者の動揺。
だが、エルネストはそのどれにも構わず続けた。
「婚約にあたり、ミレーヌの個人資産、職務契約、事業上の権利、名義は、明確な契約により守られる。これは、彼女を疑うからでも、俺が疑われるからでもない」
社交界の空気が少し変わった。
婚約発表の場で、財産契約に触れる公爵など、そう多くはない。
だが、エルネストは躊躇しなかった。
「俺たちは、曖昧さで傷つくことを知っている。だからこそ、曖昧にしない」
ミレーヌの胸が熱くなる。
彼は、隠さない。
ミレーヌの過去をさらすわけではない。
けれど、彼女が守ってきた境界線を恥じない。
それが何より嬉しかった。
「ミレーヌは、この家へ持参金を持って来たのではない。帳簿を見る目、境界線を引く勇気、人を正しい場所へ戻す力を持って来た」
広間の端で、バスティアンがもう泣きそうになっている。
ヨランドが静かに布を渡した。
「ヴァルクレア家は、まだ再建の途中だ。大きな債務も残っている。だが、今は沈むだけの家ではない。領地の亜麻布は動き始め、給金は安定し、噴水には水が戻った」
エルネストの視線が、ミレーヌへ向く。
「その未来を、彼女と共に作る」
言い終えた彼が、手を差し出した。
ミレーヌは、その手を見た。
何度も差し出された手。
馬車から降りる時。
夜会で立つ時。
契約書の上で触れていいか尋ねた時。
指輪を手のひらに置いた時。
今日も、その手は彼女を引きずるためではなく、隣へ招くために差し出されていた。
ミレーヌは、自分の足で前へ出た。
ドレスの裾が亜麻布のように柔らかく揺れる。
視線が集まる。
以前なら、その視線の重さに息が詰まった。
今も緊張はする。
けれど、怖さは彼女を止めない。
ミレーヌはエルネストの隣へ立ち、手を重ねた。
青灰色の指輪が光を受ける。
大きくはない石。
けれど、それはミレーヌが自分で受け取った指輪だった。
エルネストの手が、彼女の手を強く握り込むことはない。
逃げ道を塞がない。
ただ、確かに隣にある。
ラヴァンディエ侯爵夫人が最初に拍手した。
それに続き、客たちの拍手が広がっていく。
派手な歓声ではない。
けれど、温かく、長く続く拍手だった。
リゼットは泣いた。
バスティアンも泣いた。
ルシアンは厨房の扉の影で鼻をすすった。
ヨランドは泣いていない顔をしていたが、目元が少しだけ光っていた。
マルグリットは腕を組んで頷き、ノエルはほっとしたように笑った。フェリクスは緊張しすぎて拍手の拍子が少しずれ、リュシーに小声で直されている。
イザボーは、扇で口元を隠しながら言った。
「上出来ね」
その声が聞こえたわけではない。
けれど、ミレーヌには、彼女ならそう言うだろうと思えた。
発表後、社交界の反応は予想通り騒がしかった。
「まさか、本当に公爵家の婚約者に」
「いえ、でも彼女の功績を考えれば」
「財産契約を公に匂わせるなんて、珍しいわ」
「むしろ、それが今のヴァルクレア家らしいのでは」
「亜麻布事業の伸びを見ました?」
「家政管理の助言を受けた夫人の家では、支出が二割も減ったとか」
ミレーヌの耳にも、いくつかの言葉は届いた。
祝福。
驚き。
打算。
探り。
感心。
羨望。
すべてが混ざっている。
社交界は、そういう場所だ。
完全な祝福だけでできているわけではない。
だが、ミレーヌはもう知っている。
それでいい。
全員に好かれなくていい。
全員に理解されなくてもいい。
彼女が守るべきものは、自分の価値を社交界の顔色へ差し出さないことだ。
男爵夫人が近づいてきて、礼をした。
「ミレーヌ様、エルネスト閣下、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ミレーヌは穏やかに答えた。
男爵夫人は少しだけ躊躇し、それから言った。
「先日いただいた助言契約のおかげで、我が家の支出も少しずつ見えてきました。見えると、痛いものですね」
「はい」
ミレーヌは頷いた。
「ですが、見えなければ直せません」
夫人は苦笑した。
「本当に。その言葉、夫にも聞かせます」
彼女はもう一度礼をし、去っていった。
ミレーヌは、その背を見送った。
昔の自分なら、彼女の謝意を素直に受け取れなかったかもしれない。
今もすべてを許したわけではない。
でも、距離を保ったまま仕事ができる。
それで十分だった。
ラヴァンディエ侯爵夫人は、ミレーヌの指輪を見て静かに微笑んだ。
「よくお似合いです」
「ありがとうございます」
「派手な石ではないけれど、あなたの手にはこのほうが強いわ」
「強い、ですか」
「ええ。自分で選んだ指輪は、借り物の宝石より強いものです」
ミレーヌは、その言葉に胸が温かくなった。
「はい」
自分で選んだ指輪。
自分で選んだ未来。
それはもう、誰かに持たされた持参金ではない。
自分で持つ未来だった。
発表の後半、ミレーヌは大広間を少し離れ、食堂へ向かった。
そこには、再建第二期のための新しい帳簿が用意されていた。
これは、ミレーヌが今日どうしても始めたかったものだった。
革表紙は深い青灰色。
指輪の石の色に似ている。
表紙には銀で小さく、ヴァルクレア家の紋章と亜麻の葉が刻まれていた。イザボーが布の意匠を提案し、バスティアンが帳簿職人へ発注したものだ。
ミレーヌは、広間の喧騒から少し離れた食堂の長卓に座った。
エルネストも隣に来る。
ヨランド、バスティアン、リゼット、ルシアンも、少し離れたところで見守っている。領地から来たマルグリットたちも、いつの間にか入口近くにいた。
「ここで始めるのか」
エルネストが尋ねた。
「はい」
「今でいいのか」
「今がいいのです」
ミレーヌは、新しい帳簿を開いた。
最初のページ。
真っ白だった。
最初の帳簿の最初のページには、痛みがあった。
日付、金額、使途、証人。
泣く代わりに書いた記録。
だが、この帳簿は違う。
痛みを忘れるわけではない。
過去の帳簿は、小箱の中に残す。
燃やさない。
破らない。
あれもまた、ミレーヌを守ってきたものだから。
けれど、新しい帳簿には、新しい一行を書く。
ミレーヌはペンを取った。
インクを含ませる。
手は震えていなかった。
ゆっくり、丁寧に書いた。
ヴァルクレア公爵家再建第二期。
共同責任者、エルネスト・ヴァルクレア、ミレーヌ・オルヴェイユ。
書き終えた瞬間、食堂に静かな息が広がった。
バスティアンが口元を押さえた。
リゼットはまた泣きそうになっている。
ヨランドは、ただ深く頷いた。
エルネストは、その文字を長く見つめていた。
共同責任者。
公爵と婚約者。
雇用主と財務顧問。
恋人。
婚約者。
どの言葉も正しい。
けれど、今この帳簿の上では、二人は共同責任者だった。
この家を、共に見る者。
共に負う者。
共に育てる者。
エルネストが、静かに言った。
「君は俺の家に来たのではない」
ミレーヌは顔を上げた。
彼は彼女の隣に立っていた。
まっすぐに。
あの初めて会った日とは違う顔で。
「俺と家を作った」
その言葉で、ミレーヌの胸の奥が深く震えた。
持参金を持って嫁いだ家では、彼女は家の一部になれなかった。
金だけを見られ、席を与えられず、壁際に置かれた。
実家では、娘でありながら、家の不足を埋めるものとして扱われた。
でも、ここでは違う。
彼女は、誰かの家へ入っただけではない。
この家を、共に作った。
噴水に水を戻した。
銀器を磨いた。
不要なものを手放した。
給金を戻した。
亜麻畑を起こした。
水路を直し始めた。
黒字の月を作った。
そして今、第二期の最初のページに、自分の名を共同責任者として書いた。
ミレーヌは、静かに微笑んだ。
「私は」
少しだけ声が震えた。
でも、それは涙ではなく、深い喜びの震えだった。
「この家に、持参金として来たのではありません」
「ああ」
「あなたと、この家の未来を作るために、ここにいます」
エルネストの目が柔らかくなる。
「ああ」
短い返事。
けれど、その一音に十分すぎるほどのものがあった。
ミレーヌは、帳簿のページへ視線を戻した。
自分の文字。
エルネストの名。
自分の名。
並んでいる。
どちらかに吸収されるのではなく、並んでいる。
それが、たまらなく嬉しかった。
エルネストはペンを取った。
「俺も署名していいか」
ミレーヌは少し驚き、それから笑った。
「もちろんです」
彼は、ミレーヌの書いた文字の下に、署名を入れた。
エルネスト・ヴァルクレア。
その横に、ミレーヌも改めて署名する。
ミレーヌ・オルヴェイユ。
同じページに、二つの名。
それを見て、バスティアンがとうとう泣いた。
「すみません、これは無理です」
ヨランドが布を渡した。
「今日は許します」
「ありがとうございます」
リゼットも涙を拭っている。
ルシアンは、厨房側から「蜂蜜菓子、追加で出します」と言って、なぜか声が少し裏返っていた。
マルグリットは腕を組み、厳しい顔のまま言った。
「共同責任者なら、来期の亜麻畑の拡張は慎重にお願いします」
ミレーヌは泣き笑いの顔で頷いた。
「もちろんです」
「浮かれて広げすぎると、布が泣きます」
「はい」
ノエルが笑う。
「水路も、まだ全部直っていませんからね」
「予算に入れます」
フェリクスが手を上げる。
「粉挽き場の修繕も、少し」
「見積もりを出してください」
その場に、小さな笑いが広がった。
婚約発表の華やかな場から離れた食堂で、もう次の予算の話が始まっている。
それが、ヴァルクレア公爵家らしかった。
そして、ミレーヌらしかった。
恋だけで終わらない。
指輪だけで終わらない。
帳簿があり、畑があり、水路があり、給金があり、次の月がある。
未来とは、そういうものなのだ。
甘い言葉の向こうで、毎日手を入れ続けるもの。
ミレーヌは、その未来なら怖くないと思った。
夕方、婚約発表の客たちが帰っていった後、屋敷には静かな疲労と幸福が残った。
玄関ホールの扉が閉じられ、噴水の音がまたよく聞こえるようになった。
エルネストとミレーヌは、庭へ出た。
空は薄い紫に変わり始めている。冷たい風が頬を撫でたが、冬の真ん中ほどの刺すような冷たさではない。季節は、少しずつ動いていた。
噴水の水面に、夕暮れの光が揺れている。
ミレーヌは、左手を見た。
青灰色の石が、淡い光を受けている。
指輪をはめている。
けれど、鍵もある。
胸元の銀の鍵。
その両方が、自分のものとしてある。
エルネストが隣に立った。
「疲れたか」
「はい」
「俺もだ」
「珍しく正直ですね」
「今日は嘘をつく必要がない」
ミレーヌは少し笑った。
エルネストも、ほんの少しだけ笑う。
不器用で、けれど以前より自然な笑みだった。
「ミレーヌ」
「はい」
「今日の発表で、また社交界は騒ぐ」
「でしょうね」
「公爵夫人になるために計算した女だと言う者もいるだろう」
「言うでしょうね」
「財産契約を笑う者もいる」
「いると思います」
「腹は立たないのか」
「立ちます」
即答だった。
エルネストが少し目を瞬いた。
ミレーヌは微笑んだ。
「でも、腹が立つことと、それに自分の価値を委ねることは別です」
エルネストの目が、静かに柔らかくなる。
「強くなったな」
「そうでしょうか」
「ああ」
「私は、強くなったというより」
ミレーヌは噴水を見た。
「自分の値段を、他人に決めさせなくなったのだと思います」
その言葉は、自然に出た。
かつて、彼女は値段をつけられていた。
持参金の額。
母の遺産の額。
伯爵家にとって役に立つ金。
実家に送れる金。
社交界の噂で上下する価値。
でも、もう違う。
彼女は自分の仕事に対価をつける。
自分の財産に境界線を引く。
自分の名前で帳簿に署名する。
自分の意思で指輪を受け取る。
自分の価値を、自分で選び取る。
エルネストは、静かに言った。
「君は、持参金ではなく、未来を持って来た」
ミレーヌは、少しだけ目を閉じた。
その言葉が、今日のすべてをまとめてくれる気がした。
持参金ではなく、未来を。
あの家に差し出された金ではなく。
誰かの穴を塞ぐための財産ではなく。
自分で選び、自分で作り、自分で持つ未来。
ミレーヌは、エルネストの手へそっと自分の手を重ねた。
今度は、彼女から。
「一緒に持ってくださいますか」
エルネストは、彼女の手を包んだ。
「もちろんだ」
「ただし」
「条件があるな」
「あります」
ミレーヌは真面目な顔で言った。
「未来の帳簿は、二人で確認します」
エルネストの口元が、確かに笑った。
「異論はない」
「支出が増えたら、理由を聞きます」
「ああ」
「無理な見栄は、削ります」
「頼む」
「亜麻畑は、広げすぎません」
「マルグリットに怒られるからな」
「はい」
二人は、噴水の前で小さく笑った。
大きな愛の誓いではない。
けれど、二人には十分だった。
恋も、家も、未来も。
これから毎月、帳簿のように向き合う。
黒字の月もある。
赤字に苦しむ月もあるかもしれない。
予定外の修繕も、社交界の厄介な噂も、領地の不作も、書類の山も、きっとある。
それでも、二人は並んで見る。
数字を。
畑を。
人を。
家を。
未来を。
夜、自室に戻ったミレーヌは、古い小さな帳簿を開いた。
最初の帳簿。
ルヴァン家で、泣く代わりに書き始めたもの。
その最後のページに、彼女は短く記した。
王暦三七二年、春待月一日。
エルネスト・ヴァルクレアとの婚約、正式発表。
婚姻後財産契約および職務独立契約、確認済み。
指輪、正式受領。
ヴァルクレア公爵家再建第二期帳簿を開始。
共同責任者として署名。
ミレーヌは、そこで少し手を止めた。
この帳簿は、これで終わりにしようと思った。
痛みから始まった帳簿。
証拠になり、盾になり、境界線になった帳簿。
ここから先は、新しい帳簿に書く。
過去を捨てるわけではない。
けれど、過去の帳簿に未来のすべてを書き続ける必要はない。
彼女は、最後の行を書いた。
持参金だけを欲しがった家を捨てた。
今、私は、自分の価値を自分で選び取った。
持参金ではなく、未来を持って。
ペンを置く。
インクが乾くまで、じっと待った。
それから、帳簿を閉じる。
小箱へしまう。
鍵をかける。
かちり。
その音は、終わりの音だった。
同時に、始まりの音でもあった。
机の上には、新しい青灰色の帳簿が置かれている。
ヴァルクレア公爵家再建第二期。
共同責任者、エルネスト・ヴァルクレア、ミレーヌ・オルヴェイユ。
ミレーヌは、その表紙をそっと撫でた。
左手の指輪が、蝋燭の光を受けて小さく輝く。
胸元の鍵も、同じ光を返す。
指輪と鍵。
約束と自由。
その両方を持って、彼女はこれから歩いていく。
窓の外では、噴水の水が流れている。
眠っていた亜麻畑には、もうすぐ春が来る。
ミレーヌは、静かに微笑んだ。
彼女はもう、誰かの財布ではない。
誰かの損失補填でもない。
誰かの噂に値段をつけられる女でもない。
彼女は、自分の金を持ち、自分の名を持ち、自分の仕事を持ち、自分の愛を選んだ。
そして、そのすべてを持ったまま、エルネストと家を作る。
新しい帳簿の最初のページは、もう開かれている。
未来は、そこから始まる。
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
二度目の人生は離脱を目指します
橋本彩里(Ayari)
恋愛
エレナは一度死に戻り、二度目の人生を生きることになった。
一度目は親友のマリアンヌにあらゆるものを奪われ、はめられた人生。
今回は関わらずにいこうと、マリアンヌとの初めての顔合わせで倒れたのを機に病弱と偽り王都から身を遠ざけることにする。
人生二度目だから自身が快適に過ごすために、マリアンヌと距離を取りながらあちこちに顔を出していたら、なぜかマリアンヌの取り巻き男性、死に戻り前は髪色で呼んでいた五人、特に黒いのがしつこっ、……男たちが懐いてきて。
一度目の人生は何が起っていたのか。
今度こそ平穏にいきたいエレナだがいつの間にか渦中に巻き込まれ――。
「三番目の王女は、最初から全部知っていた」 ~空気と呼ばれた王女の、静かな逆襲~
まさき
恋愛
「三番目など、いなくても同じだ」
父王がそう言ったのを、アリエスは廊下の陰で聞いていた。
十二歳の夜のことだ。
彼女はその言葉を、静かに飲み込んだ。
——そして四年後。
王国アルディアには、三人の王女がいる。
第一王女エレナ。美貌と政治手腕を兼ね備えた、次期女王の最有力候補。
第二王女リーリア。百年に一人と謳われる魔法の天才。
そして第三王女、アリエス。
晩餐会でも名前を忘れられる、影の薄い末の王女。
誰も気にしない。
誰も見ていない。
——だから、全部見えている。
王宮の腐敗も。貴族たちの本音も。姉たちの足元で蠢く謀略も。
十六歳になったアリエスは、王立学園へ入学する。
学園はただの通過点。本当の戦場は、貴族社交と王宮の権力図だ。
そんな彼女に、一人だけ気づいた者がいた。
大勢の中で空気のように扱われるアリエスを、
ただ一人、静かに見ていた男が。
やがて軽んじていた者たちは気づく。
「空気のような王女」が、
ずっと前から——盤面を作っていたことに。
これは、誰にも見えていなかった王女が、
静かに王宮を動かしていく物語。
真面目で裏切らない夫を信じていた私
クロユキ
恋愛
親族で決めた結婚をしたクレアは、騎士の夫アルフォートと擦れ違う日が続いていた。
真面目で女性の話しが無い夫を信じていた。
誤字脱字があります。
更新が不定期ですがよろしくお願いします。
仮初めの王妃~3つの契約を課したのは、あなたですよね?~
景華
恋愛
政略結婚で獣人国家ウルバリスに嫁いだ王女クリスティ。
だが夫となったルシアン国王は“番”に心酔し、彼女に破ることのできない魔法契約を突きつける。
一つ、ルシアンとの間に愛を求めないこと
一つ、ルシアンとの間に子を望まないこと
一つ、ルシアンの1メートル以内に近づかないこと
全ての契約をのみ城から離れて暮らすクリスティだったが、やがて彼女には“番衝動を鎮める力”があることが明らかになる。
一方番であると言われ溺愛されるリリィは、擬態能力を使った偽りの番で──?
婚約破棄ですか?構いませんわ。ですがその契約、すべて我が家のものです
こもど
恋愛
王立学園の卒業舞踏会で、王太子ディオンは公爵令嬢カリスタに婚約破棄を言い渡した。
隣には涙を流す義妹ヴァネッサ。彼女を信じた王太子は、証拠も確かめずカリスタを切り捨てる。
だが、王太子は知らなかった。
ヴァレリオン公爵家が、王国銀行、港湾、物流、信用保証――王国経済を支える契約の中枢を握っていたことを。
婚約破棄と同時に、カリスタは静かに告げる。
「では契約を終了いたします」
その瞬間、港は止まり、銀行は引き、王都は混乱へ。
やがて暴かれる義妹一家の不正、そして王太子の致命的な愚行。
最後に待つのは、王宮大広間での公開断罪。
見苦しく喚き、衛兵に引きずられていく元王太子を前に、カリスタはただ静かに告げる。
「契約は終わりました」
婚約破棄から始まる、徹底的な最強ざまあ恋愛ファンタジー。
完)嫁いだつもりでしたがメイドに間違われています
オリハルコン陸
恋愛
嫁いだはずなのに、格好のせいか本気でメイドと勘違いされた貧乏令嬢。そのままうっかりメイドとして馴染んで、その生活を楽しみ始めてしまいます。
◇◇◇◇◇◇◇
「オマケのようでオマケじゃない〜」では、本編の小話や後日談というかたちでまだ語られてない部分を補完しています。
14回恋愛大賞奨励賞受賞しました!
これも読んでくださったり投票してくださった皆様のおかげです。
ありがとうございました!
ざっくりと見直し終わりました。完璧じゃないけど、とりあえずこれで。
この後本格的に手直し予定。(多分時間がかかります)
隣にいるのが当たり前だと思っていた――無自覚な彼が、地味な私を失うまで
恋せよ恋
恋愛
正義感の強い完璧な幼馴染、ユリウス。
彼が他の女の子を「守りたい」と抱いたその情熱は、
一番近くにいた私に向けられたことはなかった。
誕生日の直前、私は何も告げずに国を去る。
「……え、ビビアンが、留学中?」
一ヶ月後、ようやく私の不在に気づいた彼の前に、
残酷な現実が突きつけられる。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
私が愛した夫は戦場で死んだようです
たると
恋愛
二年前、結婚式からわずか一週間で、夫・アルベルトは最前線へと発たされた。
私は彼が戦場から戻ることだけを願い、毎日欠かさず教会の祭壇に祈りを捧げた。
戦況が悪化するたびに生きた心地がせず、届けられる質素な手紙だけを命綱にして、孤独な屋敷を守り抜いた。
そして、ようやく訪れた終戦と、夫の帰還。
「エドワードは僕の身代わりになって死んだんだ。これからは僕が、彼女と子供の面倒を見る義務がある」
それが地獄の始まりだった。