夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜行き先は老舗旅館。追いかけてきても、もう遅いです〜 

なつめ

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第6話 離婚届と鍵


 その日の空は、朝からひどく澄んでいた。

 昨日までの雨が空気を洗ったのか、窓の外の輪郭がいつもよりくっきりしている。庭の枝垂れ桜は少しずつ花を落とし始めていたが、枝先にはまだ充分な淡い色が残っていて、風が吹くたびに細かな花びらが陽の光を受けてひらりと舞った。春の匂いは、柔らかいのにどこか冷たい。終わりと始まりが同じところに置かれているような季節の匂いだった。

 澄乃は朝の片づけを終えると、ダイニングテーブルに離婚届を置いた。

 白い紙は、思っていたより薄かった。

 何年も一緒にいた人間との関係を、たったこれだけの紙で切り分けていいのかと思うほどに。だが逆に、この薄さだからこそ、人は長い時間を区切れるのかもしれない。分厚く重いものであれば、きっと手が止まる。書類は、いつだって現実を軽く見せる。役所で手続きできるものにしてしまえば、どれほど大きな感情も、記入欄と印鑑の問題に置き換わる。

 テーブルの木目の上で、紙の白さが妙に際立って見えた。

 その横には、これまで整えてきたファイルの束がある。不貞の証拠をまとめた薄い封筒も、そのさらに横へ置いた。封筒は厚くない。必要なものだけを抜き出して保全したからだ。昌親と瑠璃花が一緒に写った写真、ホテルの領収書の控え、メッセージの記録、会食と偽っていた日の時間の矛盾が分かるもの。それらは感情のためではなく、事実のために集めた。自分が追い詰められて喚いたのではなく、きちんと見て、きちんと把握して、きちんと終わらせようとしていることを示すために。

 澄乃は椅子に座ったまま、その紙と封筒をしばらく見つめた。

 不思議なくらい、手は震えなかった。

 悲しくないわけではない。悔しくないわけでもない。だが、それよりもっとはっきりした感覚があった。ようやくここまで来た、という静かな到達感だった。毎朝、当たり前のように食卓を整え、人の機嫌を読み、段取りを先回りし、見えない仕事を積み上げてきた日々。その延長線上に今がある。いきなり決壊したわけではない。たぶんずっと前から、少しずつ終わりのほうへ向かっていたのだ。

 昨夜、荷物はほとんどまとめてある。と言っても、大げさな引っ越し荷物ではない。自分の衣類、祖母の形見の櫛、学生の頃から使っている万年筆、通帳、最低限の身の回り品。あとは、自分名義の書類と、すぐには手放したくない小さなものだけ。長くこの家にいたわりに、自分の荷物が驚くほど少ないことに、澄乃は昨夜少しだけ笑ってしまった。

 家の中は、こんなにも自分の手の跡で満ちているのに。

 それなのに、自分自身の持ち物はこんなにも軽い。

 玄関のほうで時計が九時を打つ。

 昌親は今日は午前中だけ出社し、昼過ぎには戻ると言っていた。正確には、言ったというより、予定を確認するように独り言の延長で口にしただけだ。澄乃も「承知しました」とだけ返した。これが最後の話し合いになるのだろうと分かっていたから、あえてそれ以上は言わなかった。

 言うことは、もう整っている。

 離婚届も、証拠も、ファイルも、鍵も。

 準備は全部済ませた。あとは相手の前へ差し出すだけだ。

 澄乃は立ち上がり、窓辺の花の向きを少し直した。淡い色のトルコキキョウは、昨日替えたばかりでまだ綺麗だ。義母が好きな、品があって柔らかい色。最後まで、家の中を荒らした形では終わらせたくない。そう思う自分の癖に、もう苦笑するしかなかった。

 昼が近づくにつれ、外の光は少しずつ強くなった。庭石の上に落ちた桜の花びらが乾き始め、薄い影を落としている。風はあるが、昨日ほど冷たくない。春の中盤に入る時特有の、柔らかな明るさが家の中へ差し込んでいた。

 十二時半を少し回ったところで、車の音が門の外に止まった。

 澄乃は玄関へは向かわなかった。迎えに出る必要はないと思ったからだ。チャイムも鳴らないまま、鍵の回る音がして、昌親が入ってくる。革靴の音が廊下に響く。いつもの帰宅音だ。だが今日は、そこへ微かな迷いが混じっているように聞こえた。

「澄乃」

 リビングの入口から呼ばれ、澄乃はダイニングテーブルの側で振り向いた。

 昌親はジャケットを片腕にかけたまま立っていた。顔色は悪くない。だが、目元にうっすら疲れがある。仕事のせいだけではないだろう。この数日、彼なりに神経を使っているのかもしれない。けれどその程度の疲れでは、澄乃の胸はもう動かなかった。

「お帰りなさい」

「……ただいま」

 短い応酬のあと、昌親の視線がテーブルの上へ落ちた。

 離婚届。

 封筒。

 ファイル。

 そして、玄関と書斎の鍵をまとめた小さな鍵束。

 その並びを認識した瞬間、彼の顔からわずかに表情が抜けた。ほんの一秒にも満たないほどの、薄い動揺だった。けれど澄乃には充分に見えた。今までずっと、現実の輪郭をぼやかしたまま見ないふりをしていた人間が、初めて紙と金属の冷たさでそれを突きつけられた顔だった。

「何だよ、これ」

 声は低かったが、強くはなかった。

 澄乃は椅子を一つ引き、向かいの席を示す。

「お時間をいただけますか」

 昌親はしばらく動かなかった。立ったまま、テーブルの上を見下ろしている。その視線は離婚届の上で一度止まり、次に封筒、ファイル、鍵へ移る。順番に理解しようとしているのだろう。何を言われるかは予測していたとしても、整えられた形で目の前に置かれると、言い逃れのできる余地が急に狭くなる。

「……話なら」

「もう感情の話をするつもりはありません」

 澄乃は昌親の言葉を遮らず、そのまま上から静かに重ねた。

「必要なことだけ、お伝えします」

 昌親は一瞬だけ口をつぐみ、それから椅子へ座った。ジャケットを背もたれにかける動作が、少しだけ乱暴だった。

 澄乃も向かいに座る。

 真正面。長いあいだ食卓を挟んで座ってきた距離と同じはずなのに、いまはずっと遠く感じた。人はこんなにも静かに他人になれるのだと、澄乃は自分の感覚に少し驚いていた。

「まず」

 澄乃は離婚届を指先で押さえた。

「こちらに、私の欄は記入済みです」

 昌親の視線が紙へ落ちる。自分の名前が記されたその部分を見た時、彼の眉がごく僅かに動いた。

「財産分与と慰謝料についてですが」

 澄乃は続ける。

「大きく争うつもりはありません」

 昌親が、そこでようやく顔を上げた。

 驚いたのだろう。あるいは、警戒が少しだけ緩んだのかもしれない。澄乃がもっと感情的に、金額や家や立場を盾にしてくると想像していたのなら、なおさらだ。

「……争うつもりはない?」

「はい」

 澄乃は頷く。

「必要最低限の手続きだけで結構です。こちらとしても、長引かせたいとは思っていません」

「だったら」

「ただし」

 今度は封筒へ手を置いた。

「不貞の証拠は保全しています」

 昌親の顔つきが、ほんの少し変わった。

 表情が硬くなる。椅子の背に預けていた身体が僅かに前へ出る。指先がテーブルの上で一度だけ止まる。狼狽というほど大きくはない。だが確かに、一瞬だけ、彼の中で計算が狂ったのが分かった。

「……証拠?」

「はい」

 澄乃は封筒を開けず、そのまま指で押さえた。

「写真、メッセージ、領収書、時間の記録。必要なものだけです。あなたを脅すためにお見せするつもりはありません。ただ、私が把握した上で離婚を申し出ているという確認です」

「そんなもの、いつ」

「少しずつです」

 澄乃は静かに答える。

「確認して、残しました」

 そこに怒りを込める気はなかった。事実を述べただけだ。だが事実だけだからこそ、逃げ道がない。昌親は口を開きかけ、閉じた。何か言い訳をするか、あるいは逆に怒るか、そのどちらも選べない顔だった。

「それから、こちらは」

 澄乃はファイルの束へ視線を移す。

「私がこれまで家の中と会社関係で担っていた、最低限の業務記録です」

「業務って、お前」

 昌親はそこで短く息を吐いた。

「またそれか」

「また、ではありません」

 澄乃は彼の目を見た。

「事実です」

 昌親はわずかに顔をしかめる。澄乃のこの言い方を、彼は嫌う。感情に訴えるでもなく、泣き崩れるでもなく、ただ事実だけを差し出されるのが嫌なのだ。こちらを「拗ねている女」や「怒っている妻」という分かりやすい箱へ押し込められないから。

「食材の管理、義父母の通院と社交、親族関係、あなたの生活まわり、会社宛ての贈答、受付の花、慶弔の記録」

 澄乃は一つずつ言葉を並べる。

「それらについて、必要な範囲でまとめました」

「必要な範囲って、こんな大げさに」

「大げさに見えるのは、今まで見えていなかったからだと思います」

 そう言った瞬間、場の空気が少しだけ張った。

 昌親の目が細くなる。怒りではなく、刺されたことへの反射みたいな表情だった。澄乃はそこで目を逸らさない。昔なら、ここで空気を和らげるために少し笑ったかもしれない。言いすぎましたと自分から引いたかもしれない。けれどもう、その役目をやる必要はない。

「……俺は、お前にそんなことまでしろって言った覚えはない」

「ええ」

 澄乃は頷いた。

「言われていません」

「なら」

「言われなくても、回るようにしてきました」

 声は穏やかだった。

「この家も、あなたも、お義父さまたちも、会社も。表に問題が出ないように、必要なことをしてきました」

 昌親は沈黙した。沈黙の意味は、分からない、ではない。分かりたくない、のほうに近かった。自分が座っていた場所の下へ、これほど多くの見えない板が敷かれていたと認めるのは、彼にとって気持ちのいいことではないのだろう。

 澄乃はさらに続けた。

「私は、それを今さら功績として数え上げたいわけではありません。ただ、いなくなった後に『聞いていない』『知らなかった』『そんなものは必要ないと思っていた』と言われるのが嫌なので、形にしました」

「知らなかった、って……」

 昌親の声には、反発より困惑が混じっていた。

「そんなふうに言うほどのことか」

「私には、そうでした」

 そこで、澄乃は初めて少しだけ目を伏せた。

 言い切った言葉のあとに、自分の中へ冷たい水が通るような感覚がある。責めたいのではない。ただ本当に、自分にはそうだったのだ。朝の献立ひとつ、義母への電話の時間ひとつ、会社への花ひとつ。そのひとつひとつに、自分の時間も気力も、少しずつ削られていった。削られていると自覚したのは最近だが、実際にはずっと前から、薄く、長く、擦れていたのだろう。

「それと」

 澄乃は再び顔を上げた。

「この証拠や記録は、すべて写しを取ってあります」

 昌親が、その瞬間だけ明らかに息を詰めた。

「写し?」

「はい。こちらを今お渡しする必要があるとは思っていませんが、必要になった場合には、弁護士を通して対応できます」

「弁護士って……そこまでしなくても」

「喧嘩をしたいわけではありません」

 澄乃は首を横に振る。

「私はただ、終わらせたいだけです」

 その一言に、昌親は初めて言葉を失ったようだった。

 終わらせたい。

 その響きは、たぶん彼の予想していたものと違ったのだろう。責めるでも、縋るでもなく、ただ静かに終わりを選び取る声。そこには「まだやり直せる余地」が含まれていない。泣いていれば慰めることもできた。怒っていれば諭すこともできた。だが終わらせたいと言われたら、引き留めるには自分が何かを差し出さなければならない。そして昌親は、そのための言葉を持っていない。

「お前は、本当に出ていくつもりなのか」

 ようやく出てきたのは、その質問だった。

 澄乃は静かに頷く。

「はい」

「……そこまでしなくてもいいだろ」

「そこまで、とは?」

「離婚だの、弁護士だの、証拠だの」

 昌親は言葉を探すように眉を寄せた。

「もう少し落ち着いてからでも」

 その言い方を聞いて、澄乃は胸の奥で小さく笑いそうになった。落ち着いてから。今の自分ほど落ち着いている時が、ほかにあるだろうかと思う。怒鳴ってもいない。泣いてもいない。感情を投げつけてもいない。ただ紙と記録を並べているだけだ。むしろ落ち着きすぎているくらいだった。

「落ち着いて決めました」

 澄乃がそう返すと、昌親は言葉に詰まる。

 プライドが邪魔をしているのが分かった。ここで「行くな」と言えば、自分がすがる側になる。それができない。けれど「好きにしろ」と突き放すには、証拠と記録が目の前にありすぎる。どちらへも振り切れず、中途半端な場所で立ちすくんでいる顔だった。

「……瑠璃花と、俺が一緒になることに、そんなに腹が立つのか」

 やっとのように口にされたその問いは、どこかずれていた。

 怒りを中心に据えなければ、この状況を理解できないのだろう。澄乃はしばらく彼を見つめて、それから静かに答えた。

「怒っていないとは言いません」

「だったら」

「でも、それだけではありません」

 澄乃は封筒ではなく、ファイルのほうへ視線を落とした。

「私は、疲れたんです」

 昌親の目が動く。

「この家が回るように、誰かの機嫌が悪くならないように、会社で体裁が崩れないように、ずっと先回りして動くことに」

 言葉にすると、ようやく自分の疲れの輪郭がはっきりする。痛みというより摩耗だ。派手な傷ではない。けれど確実に削れていた時間。

「だから、あなたと瑠璃花さんのことがなくても、いつか何かの形で止まっていたのかもしれません」

 そこまで言うと、昌親は初めて少しだけ顔色を変えた。

「……それは、責任転嫁だろ」

「そうかもしれません」

 澄乃は否定しない。

「でも、あなたが昨日まで見ていなかったものを、今ここで全部否定される筋合いはありません」

 声は大きくない。けれど一語一語が、紙の上へ置かれた金属のように冷たく、硬かった。

 昌親はそれ以上、すぐには何も言えなかった。

 沈黙が落ちる。

 庭のほうで、風に揺れた枝が窓を軽く擦る音がした。遠くで宅配便の車が走る気配。家の中は静かだ。義父母は今日はそれぞれ外出している。最後のやり取りを、誰にも見られたくないと思ったわけではない。だが結果として、この静かな家には二人しかいなかった。七年の結婚の終わりにしては、ずいぶん簡素な舞台だと澄乃は思う。

「離婚届は、すぐでなくても構いません」

 澄乃は言った。

「ですが、先延ばしにはしないでください」

「……お前は」

 昌親が低く言う。

「俺に、何も言いたいことはないのか」

 その問いかけに、澄乃は少しだけ驚いた。

 いまさら、と思った。けれど同時に、たぶんこれが彼なりの最後の抵抗なのだとも分かった。怒鳴られたいのかもしれない。恨み言を聞いて、自分が責められる側へ立ち、それでようやくこの場の輪郭を掴みたいのかもしれない。

 だが澄乃は、しばらく考えたあと、首を横に振った。

「もう、ほとんど言い終えています」

「それだけか」

「それだけです」

 それで十分だった。本当に。ここで「どうして」と叫ぶ気にはなれなかった。もう問い詰める段階は過ぎている。なぜ愛人を作ったのか。なぜ黙っていたのか。なぜ止めなかったのか。そういう問いは、答えが返ってきても返ってこなくても、自分をさらに擦らせるだけだ。

 澄乃は椅子から立ち上がった。

「荷物はまとめてあります」

「今日なのか?」

「はい」

 それを聞いた昌親が、ようやく明確に狼狽した。ほんの僅かだったが、その表情は確かにこれまでと違った。

「今日って……どこへ行くつもりだ」

「行き先はあります」

「そんな簡単に」

「簡単ではありませんでした」

 澄乃は言う。

「でも、決めました」

 昌親は立ち上がりかけて、そこで止まった。引き留めるために手を伸ばすこともできないまま、ただその場に立つ。プライドが邪魔をしているのが、こんなにも分かりやすいことがあるだろうかと、澄乃はかえって冷静に見ていた。彼はたぶん「待て」と言いたい。あるいは「話が違う」と言いたい。けれどそのどちらを言うにも、自分が失う側に立つことを認めなければならない。それができない。

 澄乃は玄関へ向かった。

 廊下を歩く。自分の足音が、いつもより少しだけ大きく響く気がする。壁に掛けた絵。磨いた飾り棚。花のない季節も絶やさなかった小さな置物。長いあいだ整えてきた空間だ。けれど振り返っても、胸は痛まなかった。ここに残していくものは確かに多い。けれど、その多くは自分の労力の蓄積であって、自分自身ではない。

 玄関の棚の上には、小さな鍵盆がある。

 澄乃はそこへ鍵束を置いた。

 カチリ、と乾いた音が鳴った。

 玄関の鍵。書斎の引き出し。来客用の食器棚。外倉庫。宅配ボックス。薬棚。普段はどれも静かに管理されていて、誰も意識しない。だがいまこうしてまとめて置くと、それぞれが小さな責任の塊みたいに見える。冷たく、細かく、確実に生活へ食い込んでくる金属の束。

 これで終わりだ、と澄乃は思った。

 背後から昌親の足音が近づいてくる。

「澄乃」

 呼ばれ、澄乃は振り向いた。

 玄関に立つ昌親は、さっきより少しだけ顔色が悪かった。けれど、それでもまだ「行くな」とは言えない顔をしている。自分の中で何かが崩れ始めていることには気づいているのだろう。だが崩れた先にどう手を伸ばせばいいのかは分からない。そんな顔だ。

「……本当に、行くのか」

 同じ問いを、また口にする。

 澄乃は頷いた。

「はい」

「俺はまだ」

 そこまで言って、昌親は黙った。

 まだ、何なのか。まだ離婚に同意していない、なのか。まだ話し合っていない、なのか。まだお前が出ていく現実を受け入れていない、なのか。たぶんその全部だろう。けれど言葉の続きを選べないまま、彼は唇を引き結ぶ。

 澄乃はその様子を見て、初めてほんの少しだけ可哀想だと思った。

 でも、それだけだった。

 可哀想だから残ろうとは思わない。困るのだろう。これから実際に、たくさん困るのだろう。義母の機嫌も、義父の体調も、会社関係の細かな段取りも、瑠璃花の軽さも、全部まとめて彼の前へ落ちてくる。そうなって初めて、自分が何の上に立っていたのかを思い知るのかもしれない。

 けれどそれはもう、澄乃の仕事ではない。

「離婚届、よろしくお願いします」

 澄乃は最後にそう言った。

「必要なことがあれば、書面でお願いします」

 昌親の顔がわずかに歪む。突き放されたのだと、ようやく実感したのだろう。だがそれでも、彼は何も言えない。澄乃が怒鳴っていれば、言い返せたのかもしれない。泣いていれば、宥められたのかもしれない。けれど目の前にいるのは、静かに全部を整えて出ていく女だった。その整い方が、いっそう彼のプライドを傷つけるのだろう。

 澄乃は靴を履いた。

 玄関のたたきから見上げる空は、朝よりさらに明るかった。門の外の通りには、春の日差しがきれいに落ちている。風は少しだけ冷たいが、重くはない。頬を撫でる空気は軽く、遠くで鳥の声が聞こえた。

 荷物は、玄関脇に置いた一つのキャリーケースと、大きめのトートバッグだけだ。

 驚くほど少ない。

 なのに、体は驚くほど軽かった。

 澄乃は一度だけ、家の中を振り返った。磨かれた床、淡い色の壁、整えられた花、玄関の棚に置かれた鍵束。そのどれも見慣れているのに、もう少し離れた場所のものみたいに見える。

 未練はない。

 そう、はっきり思った。

 ここで過ごした時間が無意味だったとは思わない。無駄だったとも言い切れない。けれど、これ以上ここに自分の時間を置いていく理由は、もうどこにもなかった。

 長く息を吐く。

 肺の奥に溜まっていたものが、ゆっくり外へ出ていく感覚がした。冷たい空気を吸い込み、春の匂いを肺へ入れる。息を吐く。それだけのことが、どうしてこんなに気持ちいいのだろうと、澄乃は少し驚く。

 そして、たったそれだけで分かった。

 自分は本当に、この家から出たかったのだ。

 澄乃はキャリーケースの持ち手を引き上げた。小さな車輪がたたきを越える時、こつ、と硬い音がした。玄関の外へ一歩出る。春の光が頬へ当たる。背中に家の気配を感じる。それでも足は止まらなかった。

 門へ向かう。

 その途中で、庭の枝垂れ桜から花びらが一枚落ちてきた。淡い色の小さな欠片が、澄乃の肩先をかすめて地面に降りる。見上げると、青く澄んだ空の下で、花はまだ静かに揺れていた。

 季節は進んでいく。

 誰が立ち止まっても、誰が置いていかれても、進んでいく。

 澄乃はもう振り返らなかった。

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