偽物公女は、冷酷皇太子にだけ名前を呼ばれる~本物が帰ってきた日、私は初めて自分の居場所を選びました~

なつめ

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第51話 公爵家の返礼漏れ


 エルセリナがヴェルクレア公爵家の実務から外された翌週、公爵邸の朝は、見た目だけなら以前より華やかだった。

 玄関広間には白百合と菫が飾られ、階段の手すりには薄い絹のリボンが結ばれている。窓は大きく開けられ、長く閉じられていた南側の客間にも光が入れられた。ヴィオラリスの帰還を祝うため、屋敷中が新しく息を吹き返したように整えられていた。

 使用人たちは、忙しなく動いている。

 銀器を磨き、花を替え、客間の香を焚き、ヴィオラリスの寝具を日ごとに入れ替え、医師の来訪時間を確認し、社交界から届く見舞いの花や菓子、手紙を受け取る。

 泣いていた使用人たちは、今は使命を与えられた顔をしていた。

 本物の公女が戻った。

 その奇跡に相応しい屋敷にしなければならない。

 誰もが、そう思っていた。

 だからこそ、最初の小さなほころびには誰も気づかなかった。

 それは、玄関脇の書簡盆に置かれた一通の招待状だった。

 王都西区のマレンシア侯爵夫人から届いた、午後の小茶会への招待。ヴィオラリス帰還への祝意を述べ、同時に公爵家の近況を伺いたいという、社交界ではよくある形式のものだった。

 返信期限は、三日後。

 以前なら、エルセリナはその日のうちに封を開け、招待状の種類、差出人、関係の深さ、返答期限、同封品、返礼の必要性を記録した。母ミレーニアが出席するか、クラリベルが代理で出るか、ネリシアを連れていくべきか。相手の家に最近不幸があったか、祝い事があったか、過去にどのような贈答品を交わしたか。すべてを返礼記録と照合し、小さな札をつけていた。

 その札があったから、家令も侍女も迷わず動けた。

 だが今、その札を書く者はいない。

 招待状は、書簡盆の二段目に置かれたまま、次に届いた花屋の請求書、その次に届いた医師の予定表、さらに翌日の見舞い状に埋もれた。

 誰かが見た。

 だが、誰も拾わなかった。

 ヴィオラリスの部屋の暖炉修繕が優先だったからだ。

 その翌日、今度は領地からの報告書が届いた。

 北の小領地リュカの村から、冬越し用の穀物備蓄に関する急ぎの書面だった。春の湿気で一部の倉庫の床板が傷み、穀物袋を移す必要がある。修繕費の承認、予備倉庫の使用許可、領地管理人への返答が求められていた。

 封筒には赤い小印が押されていた。

 急ぎ。

 以前なら、エルセリナは赤印の報告書を通常書簡と分けていた。領地名、報告者、期限、必要な署名、予算額、過去の同種事例を台帳から引き、父へ回す書類と家令で処理できる書類を分類していた。

 しかし今、書類は公爵の執務机へ直接運ばれた。

 公爵は、その時ヴィオラリスの正式帰還発表文の修正をしていた。社交界へ出す文章に「奇跡」という語を入れるべきか、王宮監察の完了前に「正式帰還」と書くべきかで、クラリベルと意見が割れていた。

 赤印の報告書は、机の端に置かれた。

 公爵は一瞥した。

「領地報告か。あとで見る」

 あとで。

 その言葉で、報告書は止まった。

 さらにその翌朝、贈答品の取り違えが起きた。

 王都南区の老伯爵夫人から、ヴィオラリス帰還祝いとして白磁の香炉が贈られた。小さな花模様の繊細な品で、同封された手紙には、老伯爵夫人が亡き娘のために持っていたものだと記されていた。つまり、ただの祝いの品ではない。喪失を知る者から、帰ってきた娘へ贈られた、心の重い品だった。

 返礼は、慎重でなければならない。

 だが、書簡係はその意味を読み切れなかった。

 返礼品として選ばれたのは、季節の焼き菓子詰め合わせだった。しかも、同時期に届いていた若い男爵令嬢からの軽い祝花への返礼品と入れ替わり、老伯爵夫人へは鮮やかな砂糖細工の鳥籠が送られ、男爵令嬢へは重厚な弔意に近い文面の礼状が送られた。

 老伯爵夫人は、何も言わなかった。

 ただ、次の茶会の招待者名簿から、ヴェルクレア公爵家の名を外した。

 その知らせが届くのは、もう少し後のことだった。

 公爵邸ではまだ、誰も気づいていない。

 その日の午後、ヴィオラリスは南側の客間で、母ミレーニアと共に見舞い状を眺めていた。

 淡い菫色の膝掛けをかけ、白い指で封筒の縁をなぞる。窓から入る光が彼女の横顔を柔らかく照らし、そこだけ絵画のように静かだった。

「こんなにたくさん」

 ヴィオラリスは、少し怯えたように微笑んだ。

「皆様、私のことを覚えていてくださったのね」

 ミレーニアは涙ぐんだ。

「当たり前でしょう。あなたはヴェルクレア公爵家の本物の娘なのだから」

 本物。

 その言葉は、今の公爵家で最も甘く、最も危うい響きを持っていた。

 ヴィオラリスは、母の手を握った。

「でも、返礼やご挨拶は大変ではありませんか」

「大丈夫よ。使用人たちに任せているわ」

「エルセリナ様が、そういうことをなさっていたと聞きました」

 声は柔らかい。

 だが、ミレーニアの顔が少し硬くなった。

「あの子は、暇だったからそういう細かなことをしていただけよ」

 暇だった。

 エルセリナが、夜更けまで腫れた手で返礼記録を整えていたことを、ミレーニアは知っていたのだろうか。

 知っていて、暇だったと言ったのか。

 それとも、本当に見ていなかったのか。

 ヴィオラリスは、気遣うように目を伏せた。

「そうなのですね。私、てっきり公女として必要なことなのかと」

 ミレーニアは、すぐに否定した。

「本物の公女が、そんな地味な作業に追われる必要はないわ。あなたはまず体を休めなさい。社交も、少しずつ戻ればいいの」

 ヴィオラリスは、ほっとしたように微笑む。

「よかった」

 そして、手紙の束を見て小さく言った。

「そんな地味なこと、公女の仕事ではないでしょう?」

 その声は甘かった。

 母を安心させるような、少し無邪気な響きすらあった。

 ミレーニアも微笑んだ。

「ええ。あなたは、あなたらしくいればいいの」

 その言葉で、また一つ、返礼書簡の山が誰の手からも遠ざかった。

 書簡室では、家令が額に汗を浮かべ始めていた。

 机の上には、未開封の封筒、開封済みだが分類されていない手紙、返礼品一覧、領地報告、来客予定、医師の請求書、仕立屋からの見積書、花屋の請求書、社交界の招待状が積まれている。

 以前は、これほど乱れなかった。

 理由は分かっていた。

 エルセリナがいた。

 彼女は目立たなかった。声も大きくなかった。公爵家の誰も、彼女を実務の中心だと認めてはいなかった。だが、朝食の前に書簡盆を確認し、昼までに分類し、午後には返答案を作り、夜には返礼記録を整えていた。

 誰が何を贈ったか。
 こちらが何を返したか。
 どの家に何の不幸があったか。
 どの相手へどの花を避けるべきか。
 過去に同じ贈り物を送っていないか。
 招待を断る場合、誰の体調を理由にするか。
 領地報告の中で、当主決裁が必要なものはどれか。
 家令裁量で動かしてよいものはどれか。

 細かい。

 地味。

 しかし、それが止まると屋敷全体が詰まる。

 家令は、書記係へ言った。

「以前の返礼台帳はどこだ」

「北側小部屋からは、見つかっておりません」

「そんなはずはない。あの娘が書いていた帳面があるだろう」

「皇太子宮へ持ち出された記録帳かと」

 家令は顔をしかめた。

「あれは私的な記録だろう」

「ですが、返礼や使用人、命令書の写しも含まれていると」

 家令は舌打ちしかけて、止めた。

 皇太子宮の記録になっているものへ、勝手に手を出せない。

 あの記録帳を「家の恥」と呼んだミレーニアの発言は、すでに皇太子宮側に記録されている。下手に取り戻そうとすれば、証人記録への圧力と見なされる。

 家令は別の台帳を探させた。

 だが、公式台帳は大まかすぎた。

 公爵家として正式に残すべき贈答の記録はあった。高額な品、大きな社交行事、王宮関係、領地からの献上品。それらは家令室にも控えがある。

 しかし、細かなものがない。

 老伯爵夫人が白磁の香炉を好む理由。
 マレンシア侯爵夫人が白百合を嫌う理由。
 去年、病後の男爵令嬢へ蜂蜜菓子を贈ったため、今年は同じものを避けるべきという注記。
 クラリベルが代理出席すると角が立つ相手。
 ネリシアを連れていくと話題が逸れる家。
 ミレーニアが出るべき茶会、出ない方がよい茶会。
 謝罪を兼ねた返礼に使う文の柔らかさ。

 それらは、エルセリナの細かな帳面にあった。

 正式な台帳ではない。

 けれど、実務を支えていたのは、その細い欄外の文字だった。

 公爵は、その日の夕方になって書簡室へ来た。

 机の上に積まれた書類を見て、顔をしかめる。

「まだ終わっていないのか」

 家令は深く頭を下げた。

「申し訳ございません。急ぎのものから処理しておりますが、帰還祝いへの返礼と領地報告が重なっておりまして」

「こんなもの、誰でもできるだろう」

 公爵の声には苛立ちがあった。

 家令の肩がわずかに強張る。

「通常時であれば、分類後に順次」

「分類に何を手間取る。差出人を見れば分かる」

 公爵は机の上の封筒を一つ手に取った。

 差出人を見る。

「マレンシア侯爵家。茶会か。行ける者が行けばいい」

 家令は青ざめた。

「マレンシア侯爵夫人は、昨年の春、クラリベル様の代理出席をかなり冷たく受け取っておられます。奥様ご本人でなければ」

「そんな細かいことを覚えていられるか」

「以前は、エルセリナ様の注記がございました」

 公爵の顔がさらに険しくなる。

「またエルセリナか」

 その言い方には、苛立ちだけでなく、認めたくないものを突きつけられた時の不快があった。

 家令は黙った。

 公爵は別の書類を取る。

「領地報告は?」

「リュカ村の倉庫修繕です。承認が遅れると穀物袋の移動が間に合いません」

「管理人に任せればいい」

「予備倉庫の使用には公爵家本邸の承認印が必要です」

「なぜそんな形式にしている」

「昨年、予備倉庫の無断使用で税記録が混乱したため、エルセリナ様が承認手順を」

「またか!」

 公爵の声が書簡室に響いた。

 使用人たちが身を竦める。

 公爵は書類を机に叩きつけた。

「たかが返礼、たかが領地報告、たかが倉庫の床板だ。なぜあの娘がいなくなっただけで、ここまで止まる」

 誰も答えなかった。

 答えは簡単だった。

 あの娘がしていたから。

 だが、誰も口にできない。

 公爵は、苛立ちを隠さず書簡室を出た。

 廊下に出ると、ちょうどヴィオラリスが侍女に支えられて歩いていた。彼女は少し疲れた顔をしていたが、公爵を見ると柔らかく微笑んだ。

「お父様」

 その声で、公爵の怒りは一瞬弱まる。

「ヴィオラリス。部屋で休んでいなさい」

「少し歩きたくて。皆様が私のために忙しくしてくださっているのに、何もできないのが申し訳なくて」

「お前は何もしなくていい」

 公爵は即座に言った。

「戻ってきてくれただけで十分だ」

 ヴィオラリスは、目を潤ませる。

「ありがとうございます」

 そして、書簡室の方へ視線を向けた。

「でも、何か大変なことが?」

「返礼と領地報告が滞っているだけだ」

「私のせいで、お仕事が増えてしまったのですね」

「お前のせいではない」

 公爵の声が強くなる。

「使用人たちが慣れていないだけだ」

 ヴィオラリスは、少し考えるように首を傾げた。

「エルセリナ様が、そういうことをされていたのでは?」

 公爵の顔が曇る。

「していたとしても、特別なことではない」

「そうなのですか」

 ヴィオラリスは、柔らかく微笑んだ。

「私、難しいことは分からなくて。でも、そんな地味なこと、公女の仕事ではないでしょう? エルセリナ様は、きっとお得意だったのですね」

 お得意。

 地味なことが。

 その言い方に、公爵の胸の奥で何かが歪んだ。

 ヴィオラリスは責めていない。

 ただ、自分には相応しくない仕事だと微笑んでいるだけ。

 エルセリナは、その地味な仕事をしていた。

 なら、エルセリナは公女ではなく、そういうことをする娘だった。

 そう考えれば、父は少し楽になった。

 エルセリナがいなければ困ると認めるより、あれは彼女に向いた地味仕事だったと思う方が。

「そうだな」

 公爵は低く言った。

「あれは、公女の仕事ではない」

 その言葉が、書簡室の開いた扉から中へ届いた。

 家令は、机の上の未処理書類を見た。

 公女の仕事ではない。

 では、誰の仕事なのか。

 誰でもできると言われた。

 しかし、誰にもできていない。

 その夜、ヴェルクレア公爵家から皇太子宮へ、奇妙な問い合わせが届いた。

 表向きは、社交上の確認だった。

 ヴィオラリス帰還に伴い、過去数年の公爵家としての返礼記録の写しを確認したい。エルセリナが持ち出した記録帳に、公爵家の社交実務に関わる情報が含まれている可能性があるため、必要な範囲で閲覧を願いたい。

 文面は丁寧だった。

 しかし、要するに、返礼記録が必要だということだった。

 皇太子宮の控え室で、セドリックがその文を読み上げると、室内の空気が少し冷えた。

 エルセリナは、窓辺の椅子に座っていた。

 右手は布の上に置き、左手には小さな茶杯。夜の控え室には、紙と茶の匂いがしている。机の上には、彼女が公爵家から持ち帰った証拠箱と記録帳の写しが置かれていた。

 アシュレイドは、問い合わせの写しを受け取ると、目を通してすぐに言った。

「遅い」

 短い。

 あまりにも短い評価だった。

 セドリックは苦笑しかけて、すぐ真面目な顔に戻る。

「返答はいかがいたしますか」

「閲覧は許可しない。必要項目を正式に照会させろ。何の返礼、どの期間、どの家、何の目的か。曖昧な閲覧は不可」

 エルセリナは、茶杯を置いた。

「返礼が滞っているのですね」

 自分で言ったのに、胸が少し痛んだ。

 驚きはない。

 そうなるだろうと思っていた。

 けれど、実際に問い合わせが来ると、別の感情が動いた。

 悔しさ。

 寂しさ。

 そして、少しだけ、認められなかった仕事が必要とされていたのだという、苦い確かさ。

 アシュレイドは彼女を見た。

「嬉しいか」

「分かりません」

 エルセリナは正直に答えた。

「困ればいいと思ったことはありません。でも、誰でもできると思われていたことが、できていないのだと知って……」

 そこで言葉が止まる。

 アシュレイドは待った。

 エルセリナは続けた。

「私は、あの家で何もしていなかったわけではないのだと思いました」

 声が小さくなる。

「でも、それを認めてもらいたかったわけではないはずなのに、胸が痛いです」

 エレーヌが静かに茶を注ぎ直した。

 温かい湯気が上がる。

 アシュレイドは、問い合わせ文を机に置いた。

「認めてもらいたかったんだろう」

 エルセリナは顔を上げた。

 彼は淡々と言う。

「それ自体は悪くない。働いた者が働きを認められたいのは普通だ」

 普通。

 その言葉が、少し意外だった。

「普通、ですか」

「そうだ。だが、公爵家が今さら困ったからといって、お前が無償で穴を埋める必要はない」

 エルセリナは、反射的に言った。

「でも、返礼が滞れば、関係先に失礼が」

「それは公爵家の責任だ」

「領地報告もあるかもしれません」

「それも公爵家の責任だ」

「倉庫や、村の備蓄などは」

「必要なら皇太子宮から別口で確認する。だが、公爵家の体面のためにお前を戻す話ではない」

 戻す。

 その言葉で、胸が少し冷える。

 アシュレイドは、そこを見逃さない。

「お前はもう、あの家の穴埋め係ではない」

 穴埋め係。

 不格好な言葉。

 でも、正確すぎて痛い。

 エルセリナは、膝の上の左手を見た。

「私は、あの家で、穴を埋めていたのでしょうか」

「少なくとも、連中はそう使っていた」

「公女ではなく」

「公女でも、娘でもなく、便利な処理機構としてだな」

 処理機構。

 あまりにも冷静な表現に、エルセリナは一瞬呆然とした。

 そして、少しだけ笑いそうになった。

 笑えなかったけれど。

「ひどい言い方です」

「ひどい扱いには、ひどい名前がつく」

 エレーヌが目を伏せた。

 セドリックは咳払いをして、筆記の準備をした。

「返答文を作成しますか」

 アシュレイドは頷いた。

「書け。公爵家より照会のあった記録帳は、皇太子宮保護下の証人記録であり、包括的閲覧は認められない。必要事項は個別項目として正式申請すること。エルセリナ本人への直接照会は、皇太子宮立会いなしに行わないこと」

「はい」

「加えて、領地報告の滞りがある場合は、民に被害が及ばないよう該当領地名と案件を即時報告させろ。これは社交上の返礼とは別に扱う」

 エルセリナは顔を上げた。

「領地の方は」

「領民に罪はない」

 アシュレイドは短く言った。

「公爵家が無能を晒すのは勝手だが、穀物を腐らせるのは別だ」

 その言い方に、少しだけ胸が温かくなる。

 彼は公爵家の体面は助けない。

 だが、領地の民は切り捨てない。

 線を引いている。

 エルセリナは静かに頷いた。

「ありがとうございます」

「礼を言う立場か?」

「分かりません。でも、言いたくなりました」

「なら、受け取っておく」

 珍しく、彼は否定しなかった。

 その夜、エルセリナは久しぶりに返礼記録を開いた。

 原本ではない。

 皇太子宮で保全した後、必要な範囲だけ写した控えだった。古い公爵家の紙ではなく、皇太子宮の滑らかな記録用紙に、セドリックが読みやすく写し、エルセリナが確認印を入れたもの。

 そこには、彼女の小さな仕事が並んでいた。

 白月一日、マレンシア侯爵夫人、昨年の代理出席に不満。次回はミレーニア本人が望ましい。
 白月三日、老伯爵夫人、白磁を好む。亡き娘関連の品には軽い菓子返礼不可。花は白菫。
 白月五日、リュカ村倉庫。湿気注意。前年も床板腐食あり。修繕承認遅れれば穀物移動不可。
 白月七日、男爵令嬢、蜂蜜菓子は前年送付済み。重複避ける。
 白月十日、北領税報告。家令裁量不可。当主署名必要。

 細かい。

 地味。

 公女の仕事ではないと、ヴィオラリスは微笑んだ。

 だが、この地味な文字が、家の外側を支えていた。

 エルセリナは、その一行一行を見ながら、胸の奥に奇妙な感覚が広がるのを感じた。

 自分は、何もしていなかったわけではない。

 誰にも見られず、褒められず、冷めたスープの後で、懲罰室の後で、腫れた手で、眠い目をこすりながら書いていたものが、確かに役に立っていた。

 それが今、家を困らせている。

 喜べない。

 でも、消せない。

 エルセリナは、記録帳の横に新しい紙を置いた。

 左手で、今日の記録を書く。

 白月八日。
 公爵家、返礼漏れ発生。
 招待状返信漏れ、贈答品取り違え、領地報告未処理の可能性。
 父発言、「こんなもの誰でもできる」
 実際には、処理滞る。
 ヴィオラリス発言、「そんな地味なこと、公女の仕事ではないでしょう」
 私の感情。
 困ればよいとは思わない。
 しかし、私が何もしていなかったわけではないと分かった。
 胸が痛い。
 認められたかったのかもしれない。
 アシュレイド殿下発言。
 「お前はもう、あの家の穴埋め係ではない」
 「領民に罪はない」

 書き終えて、エルセリナはペンを置いた。

 右手ではなく、左手で書いた字はまだ少しぎこちない。

 でも、読める。

 窓の外は夜だった。

 皇太子宮の庭には静かな灯りがともり、遠くで水の音がする。

 公爵家では今も、書簡室に未処理の封筒が積まれているのかもしれない。ミレーニアはヴィオラリスの傍にいるだろう。公爵は苛立っているだろう。家令は台帳を探し、使用人たちは誰にもできない地味仕事の山を前に青ざめているだろう。

 ヴィオラリスは、きっと微笑んでいる。

 そんな地味なこと、公女の仕事ではないでしょう、と。

 エルセリナは、その言葉を思い出した。

 少しだけ胸が痛む。

 けれど、以前のように自分を恥じる痛みではなかった。

 地味でいい。

 細かくていい。

 誰にも見えないところで支えていた仕事なら、それは確かに仕事だった。

 公女の仕事でないのなら、なおさら。

 それは、エルセリナが自分で覚え、自分で積み重ねたものだった。

 彼女は、記録紙の最後に一行だけ足した。

 地味なことでも、消えない。

 その文字を見て、少しだけ息がしやすくなった。

 部屋の扉は、今日も完全には閉じられていない。

 細い隙間から、廊下の灯りが入っている。

 閉じ込められてはいない。

 そして、もうあの家の見えない仕事へ、無言で戻る必要もない。

 エルセリナは、記録帳をそっと閉じた。

 その音は小さかった。

 けれど、彼女の中では、一つの扉が静かに閉まる音に似ていた。

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