欠ける星空

七瀬美織

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① 小さな異界の入口

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 マンションのエントランスで、郵便ポストのロックを解除して手を入れた。途端に中から誰かに手を握り締められた。

「ヒッ!?」

 色気も何もない悲鳴をあげる。手を引こうにもビクともしない。ぬるりと湿った何者かの手は冷たくて硬かった。

「どうしました?」

 隣の部屋の奥さんが、幼稚園からお子さんを連れて帰って来たらしい。
 私は、手を引こうと力を入れるが、相変わらずビクともしない。

「た、たす、けて!」
「えっ?」

 奥さんが、不思議そうな顔をしたのも無理ない。夕暮れ刻、マンションの集合ポストに手を突っ込んだ、間抜けな姿の女に、助けを求められても意味不明だろう。

 突然、私の手が向こう側から力いっぱい引かれた!

 ガアアアアァァァン!

 私の身体は、アルミ製のポストに打ちつけられて、大きな金属音をたてた!

「痛あっ!」

 奥さんは、何が起きているのか分からないながらも、私の腰に腕を回して引き離そうと引っ張ってくれた。

 チッ!

 ポストの奥から舌打ちが聞こえたかと思うと、私の手は自由になってポストから抜けた。私は奥さんと一緒に後ろにひっくり返りそうになり、膝がくずれ落ちた。

 なんとか二人とも頭を打たずに済んだが、私は膝を擦りむき、奥さんは尻もちをついた。

 管理人が、何事かとオートロックの内側から出てきた。私たちの様子から、只事ではないと思ったらしい。

「どうしました! 警察、呼びましょうか?!」

 私も奥さんも呆然としていて、管理人にどう説明したらいいのか、わからなかった。

「あのね、おねいちゃんがポストに食べられちゃうのを、ママが助けたの!」

 お隣さんの子どもの言う通りだったが、こんな説明で、普通は納得してもらえないだろう。

 しかし、初老の管理人は私たちと、私がぶつかって少しへこんだポストを交互に見てから青い顔をした。

「わかりました。ケガの手当てをしましょう。みなさん、管理人室へどうぞ……」

 私たちは、顔を見合わせて管理人室へ向かった。

 このマンションの管理人室は、常駐できる住込みタイプの部屋だ。管理人は、奥から救急箱を取り出して私の膝の擦り傷を消毒してくれた。

 その時、私は自分の右手を見てギョッとした。赤黒い液体の大きな手形が、くっきりとついていたからだ

 隣の奥さんも、それを見つめていた。管理人は、手当てを終えると私に洗面所を使うように言った。ねばつく液体は、石けんですぐに落ちたのだが、手形は赤く残った。

「どうか、他言無用でお願いします」

 管理人は、そう前置きした。

「十年ほど前、小学生がこのマンションのエントランスで行方不明になったのです。母親に、ポストを見てくるように言われて、いつ迄たっても戻りませんでした。ポストの内扉に、その子が着てたスカートが引っ掛かっていたそうです。それ以上の手がかりもなく、事故か事件かもわからないままだそうです。ただ、小学生の間で噂が広まってしまって……」

 管理人は、深くため息をついた。

「『あの子は、ポストに食べられたんだ』そういう噂が広まって、こちらは賃貸物件ですので、入居者が半減してしまったのです。そこで、マンションの集合ポストは改修工事されて、防犯カメラも取り付けられました。しかし、年に一回くらい、ポストに引っ張られる人がいるのです。困ったものです」
「ああ、だからこのマンションのポストは、裏側にスペースがあるのに、前面に投函口と取り出し口がある開閉式なんですね。開けば中が全部見渡せるように……」

 今時、マンションでエントランスの外側から取り出すポストは珍しいと思っていたら、そんな理由だったなんて……!

「はい。年に一回お祓いもお願いしてます。せめて、何が起きているのか録画出来ればと思ってますから……実は、私はこの賃貸マンションのオーナーでもあるのですよ。まったく、とんだ物件を退職金をつぎ込んで買ってしまいました。困ったものです」

 管理人は、淡々と語った。困ったで片付けられるような話ではないと思った。

「この後、警備会社に連絡して、防犯カメラの録画画像を確認してみます。……一緒に見ますか?」
「いいえ、結構です。もう、主人も帰る時間ですから……」
「私も、用事がありますから……」

 これ以上、怪奇現象に深入りする気力はなかった。打ちつけられた半身がズキズキ痛み出したので、早く部屋に帰りたかった。

 管理人兼オーナーから、くれぐれも他言無用でとお願いされた。私も奥さんも何度も頷き承知した。

 私たちは、七階に住んでいる。エレベーターに乗っている間、お互いに無言だった。七階に到着して、廊下を歩き出した時、お隣さんのお子さんがエレベーターの中に手を振った。

「バイバイ!」

 私と奥さんは、顔を見合わせた。エレベーターに乗っていたのは私たち三人だけだったからだ。

「誰か、他に乗っていたの?」

 奥さんが、お子さんに聞いた。その声は、震えていた。

「小学生のおねいちゃんがいたよ。でも、変なの。おねいちゃん、スカートはいてなかったの」

 怪奇現象は、終わっていなかった…………。

 今夜、眠れるだろうか?


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