猫のランチョンマット

七瀬美織

文字の大きさ
上 下
21 / 35

第十九話 生徒指導室

しおりを挟む

 教室にやって来た先生は、大学を卒業してまだ数年くらいの青年だった。私は知らなかったが、大野くんがあれが校内放送をした新任英語教師だと教えてくれた。

 周りにいた天使なクラスメイトが、私をさりげなく先生の視線から隠してくれる。

 今年就任だからといっても、まだ新任と呼ばれているのは変だよね。不思議だったから後で聞いたのだけど、私立は系列校が複数なければ、退職以外で教員の入れ替えがないからだそうだ。珍しさも加わって、三年経っても『新任』呼ばわりされるらしい。大野くんって、事情通だなぁ。

「榊原彩奈はイるか?」

 新任先生は、誰からも返事がないので舌打ちした。教師が舌打ちするなよー。
 細身のスーツ姿だけど、不機嫌で神経質そうな印象を受ける。細身のスーツ姿でも、新垣さんみたいな隙なし出来る男オーラが少しも感じられない。

「センセー! 榊原さんならココにいまーす」

 さっき、私をディスっていた女子が声を上げる。声の主に教室に残っていたクラスメイトの非難の目が一斉に向けられた。

「……な、何よ! 本当のことでしょう!」
「どこデす? 榊原彩奈、出て来なさい!」
「……はい。私が榊原彩奈です。何の御用でしょうか?」

 私が出る必要はないかもしれない。でも、これ以上何も悪くないのに隠れている気になれなくて前に出た。

「おまえが……なるほど。なるほど……」

 新任先生が私を見る目は、まるで値踏みするような目だ。口もとだけニヤニヤしている表情が、とても気味悪く感じる。

「校内放送を聞いてませンか?」
「聞きました」
「何故、生徒指導室に来ないのでスか?」
「担任の先生の指示です」
「生徒指導室の呼び出しよりも担任の指示の方が優先度が高いとでもいうのでスか?」
「そうです」

 教室にいたほとんどの生徒が、私に頷き同意してくれた。生徒指導室からの呼び出し自体が不当なので、担任教師の指示を優先して何の問題もない。
 先生は、私達の態度に顔を赤くして激昂した。

「これだから……! 規則だ、権利だ、義務だと言って過保護にするカら、生徒がつけあがるんスす!」
「はあ……?」
「私と生徒指導室に来なサい!」
「何故ですか?」
「理事と教頭がお待ちなのデす。聴取したい事があるので、即座に来なサい!」

 理事と教頭がどうして? 生徒指導室に呼び出し? 聴取って私は犯人か? 何か事件でも起こしたっていうの? 

「大野、理事って?」
「学校の経営陣だね。名誉職だったり数年任期で入れ替わる理事と、入れ替わらない常任理事がいるんだよ」
「何でそんな人達が、わざわざ出張ってくるの?」

 沙保里と大野くんの会話を聞きながら、私もその通りだと思った。問題があれば、まずは担任教師から事実確認してから、色々と段取りや検討してからの呼び出し、質疑応答でしょう?

「呼び出しに応じなければ、それ相応の覚悟を持って、処分を待っていなサい!」
「何、その横暴!」

 沙保里がブチ切れた。待って、その漢和辞書は凶器だから! 投げつようとしないで!

「沙保里! イスも投げるもんじゃないから!」
「沙保里! 落ち着け!」
「止めるな、彩っち、大野!」
「あー! もう! 行きます! 行ってきて何が起きてるのか、ハッキリとさせてくる!」
「彩っち! 何言ってるの?」
「彩奈がキレた……」

 担任の先生は戻って来ないし、新任先生は脅してくるし、沙保里はキレるし、私もか……このまま教室にいても解決しない。

「わかった。俺、先生に伝えてくる。彩奈は行くなら、なるべく何も答えないで、担任の先生が来るのを待っていろよ」
「大野くん……。うん。わかった」
「生徒指導室に行きます」
「ふん。では、ついてきたマえ」

 私は品行方正な女子高生だと自負している。断じて反社会的な行為を、率先して行いたいと望んだ覚えは無い!

 ちょっと堅苦しく言ってみた。カラオケ喫茶店『雲雀』のお客様のジジ様とババ様が、昔の学生運動家は、演説でやたらと小難しく話すのが特徴的だったと盛り上がって話していた。

 高齢者と触れ合える機会があるのは、リアルな近代史を教わるチャンスなんだろうなぁ。

 だけど、近代史ってあまり授業配分も試験範囲も狭いし、影が薄くて試験の参考にならない……。バブル期の無茶苦茶に景気が良くて、ネジが外れて狂ったような話や金まわりのいい話は、聞いてる分にはバカバカしくて面白かった。社会現象とか心理学とかの観点から、あの時代を研究すると面白いのかもしれない。

 私は、新任英語教師に連れられて、生徒指導室に向かいながらどうでもいい事を考えていた。
 そういえば、新任教師の名前を知らない。覚える気もないけど……。

 生徒指導室は、空き教室を利用しているようだった。まるで刑事ドラマの取調べ室のように、机と椅子が並べられて、窓側が取り調べの刑事の席で、犯人側の席は出入り口に近かった。

 常任理事と教頭の姿は無かった。どういう事だと視線を向けると、犯人席に座らされた。

 こんな密室に、男性教師と二人っきりだなんて、いまどきあり得ない。 

「一晩いくらでウルんだ?」

 この一言で、何もかも答える気を一切無くした。絶対にこれってセクハラだ。
 セクハラ先生が私に向ける目を知っている。私を人として、同等に扱う気の無い目だ。弱い立場をの相手を、人権や尊厳などあるはずが無いと蔑む目だ。
 時々、こんな目を向けてくる人に出会うことがあった。

 まだ二十代前半だろう。海外生活が長かったのか、発音がちぐはぐに高低に乱れる。明るい性格の人のクセなら面白いけど、この人だとただ気持ち悪いだけだ。

「キミは、ここに呼び出された意味をわかっていないネ」
「わかりません」
「キミは、学生としてあるまじき行為をしているそうじゃなイか?」
「何の事ですか?」
「裏サイトでは、もっと過激な行為についても書かれているんダよ」

 流石にこれ以上は、直接的な表現は言ってこない。要するに、裏サイトに書かれた有る事無い事を言ってるらしい。
 たいして調べもしないで、裏サイトの内容をそのまま鵜呑みにしているとしか思えなかった。

 手に持ったファイルを、パラパラとめくった。背表紙には私の名前と学生ナンバーがラベリングされている。多分、私の住所、家族構成、その他諸々のプライバシーが詰まっているのだろう。

 持ち出し厳禁ってシールが貼られいるけど、持ち歩いたりしていいのだろうか?

「学生で一人暮らしが認められるなど、異例尽くしだ。どんな取り引きをして認めさせたんだ?」
「学生寮が無いので仕方なかったんです。もちろん、下宿先も探しました。親戚宅にお世話になる事も、……その点については、学校側と保護者の話し合いで決まった話です。私もどういった話し合いの内容で、決まったのか知りません」
「アルバイトもカラオケ喫茶店などと言いながら、水商売なんじゃないのか?」
「きちんと学校側の審査を受けて許可されました。お店は、アルコールを出さない、健全な高齢者の憩いの場です」
「どんなコネで特別に一般受験外で入学したのです?」
「それは……」

 思わず、遠い目をしたくなる。私だって、本当は地元の県立高校に通いたかった。
 合格発表後、合格した高校から電話で総代挨拶の依頼があった。私は『総代』が何か知らないで、即座に断わろうとした。結局は断ることになったけど……。

「榊原は、滝沢理事とどんな関係があるんでスか?」
「……は?」
「理事の滝沢氏です」
「それは……」

 この高校は、じっちゃんの知り合いの経営する私立の高校で、事情を話して無試験で入学出来たのだ。じっちゃんは理事だったの? それとも『滝沢理事は』は同姓の別の人だろうか?

「県立高校に合格していたのですが、家庭の事情で入学が無効になったんです」
「高校入学が無効になるなんて、よっぽどの問題があるのでシょう?」
「お恥ずかしいお話ですが、……入学手続きを忘れていました」
「ははは、もう少しまともなウソをいいなサい」
「……ウソじゃなく、本当なんです」

 あの頃、お母さんは体調が悪くなって入院した。お母さんは、一時意識不明になり本当に危なかった。

 その上、私はランチョンマットを拾ったばかりだったのだ。初めて動物を飼うし、世話も慣れていなかった。
 あの頃、ランチョンはよく体調を崩して、動物病院を往復する生活だった。毎日がめちゃくちゃで、心配と混乱で忙しくて余裕がなかった。

 だから、お母さんと入籍した奴が、うっかり入学手続きの書類の提出や、入学金の振込みを忘れていたからといって責められない。私も含めて、誰も確認していなかったし、お母さんの事で憔悴しきっていた奴を、誰も強く責める事は出来なかった。

 今となっては、何を言いってもただの言い訳だし、間の抜けた話でしか無い。結果的に私は良い学校へ進学出来たのだからそれでいい……。良くないけどね。もう済んだ話だ。


しおりを挟む

処理中です...