猫のランチョンマット

七瀬美織

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第三十話 〆切厳守でお願いします

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 春になったら、滝沢篤志は滝沢不動産本社に戻って、お母さんと産まれる赤ちゃんと暮らす準備をするという計画になっていた。

 私は地元の高校を予定通り受験して、入学してから数ヶ月後に八木橋高校に編入する事になった。八木橋高校の受験は願書の受付が終了していたのと、編入する方が時期を選べるからと、大人達が判断したからだ。

 私も話し合いの場にいたけれど、学費を払ってもらう身としては、高校卒業資格を取得するだけでいいと思っていたのでどちらの高校でも、大したこだわりは無かった。制服も校風もどちらも悪くない。私立高校は、学費が心配だったけれど、滝沢家はいわゆる富裕層なので、経済的に困らないらしい。だけど、アルバイトをして、学費の足しに稼ぐつもりだと言ったら大笑いされた。

「志は立派だが、学生さんは大人達に頼っていい時は頼りなさい! 学業に影響無い範囲でアルバイトはしてもいいが、目的無しに働くのは良くない! 分かるか? ガハハハ!」

 それから、じっちゃんからスマホをプレゼントされた。合格の前祝いだそうだ。初めての自分の携帯電話にはしゃいで勉強を忘れそうになったけど、緊張感が程よく緩んで、入試はかなり手ごたえがあった。
 
 受験した高校は、家から歩いて十五分で通える距離が最大の魅力だった。おまけに県内で一番の進学校だそうだ。私は意外と要領と記憶力がいいので成績が良かったので落ちる心配はしていなかった。

 ……よし、あった!

 高校で合格発表を掲示板で見て、入学書類を受け取り帰宅した。大喜びのお母さんとテーブルに書類を広げて、書類を読んで住所や名前を記入して、プルプル震える手で印鑑を押した。印鑑を真っ直ぐ押そうとすると、何故か手が震えてしまう。……解せぬ。

 篤志さんは、入学手続きに必要な書類を、市役所に行って貰って来てくれた。

 その日、お母さんの部屋で篤志さんはジッと一枚の書類を見つめていた。私の視線に気がつくと、慌ててカバンにしまった。

 裏側に複写すると浮かび上がるモノグラムが入ったA4サイズの紙だった。あれは、住民票かな?

「な、何かな?」
「お母さんが、夕ごはんの支度が出来たから呼んできてって、だから来た」
「ははは、会話っていうより、説明文だな。すぐ行くよ」
「……うん」

 篤志さんを『お父さん』として見るつもりはない。だけど、高齢出産で体調を崩しがちなお母さんを、ずっとフォローしているのを見てきて思う所は色々ある。

「そうだ、高校から電話で、入学式に総代挨拶お願いしますって、留守電にメッセージが入ってたけど、総代って何?」
「うわぁ……。彩奈ちゃんって、頭がいいんだね。入試で首席で合格した人って事だよ」
「ふーん。そうなんだ。お母さん、挨拶なんて面倒だから断ってもいいかな?」
「……この子は! 一番になったんなら、面倒がらずにお受けしなさい!」
「えっと総代挨拶って、ほら、挨拶原稿を半紙に毛筆で書いたりするの? 手順とか入学式までに教えて貰えるのかな?」
「総代なんかなった事が無いから知りません……」
「なったって、知らない事は知りませんよ。何故、篤志さんが落ち込むの?」
「ほら、彩奈はお風呂入って、篤志さんは片付け手伝ってくれる?」
「もちろん!」

 うん。お母さんは、篤志さんの操縦が上手い。お母さん限定で篤志さんがチョロいのか?

 私がお風呂上がりにリビングを覗くと、篤志さんはまだ家にいた。お母さんと何やら深刻な顔で話し合っているようだ。

「それで、篤志さん……うっ、う……!」
「真希? どうしたの? 痛むのか⁈」

 突然、お母さんがお腹を抱えて苦しみ出した。お母さんの顔色は、どんどん悪くなって、額から汗がポタポタと落ちていく。

「……お母さん!」
「真希! しっかり!」
「……きゅ、救急車! 電話!」

 そのあと、医師に『今夜が峠です』なんて嘘みたいな言葉を聞かされた。

 私も動揺したけど、篤志さんの方が憔悴しきっていた。面会謝絶の病室の前で、二人で一緒にお母さんと赤ちゃんの無事を祈った。

 お母さんは、ずっと綱渡りみたいな状態で赤ちゃんと頑張って来ていた事を、その時篤志さんから聞かされた。私が受験生だから、お母さんは心配かけたく無いって言って、妊娠中のリスクについて内緒にしていたそうだ。

 翌日の朝、やっと面会謝絶から家族だけ面会が許されてお母さんに会えた。

 篤志さんは仕事どころじゃないって病室に連日張り付いたけど、会社が忙しくて、何かあったら必ず連絡するって約束をして出勤して行った。

 お母さんも赤ちゃんも頑張ってる。大丈夫。大丈夫。大丈夫……!

 それから出産まで、お母さんは入院する事になった。おばあちゃんはお母さんの出産後も助けになるように家に来てくれた。お母さんもやっと顔色がよくなって、みんなも安心できる様になった。

 私は短い春休みを入学準備に追われる事になる。その前に、遊びにおいでと言われて滝沢家にお邪魔していた。丁度、本社に仕事に来ていた篤志さんと明日一緒に帰る予定だ。

「そういえば、彩奈ちゃん、高校入試は都道府県によって日程が違うらしいが、入学手続きは済んだのかい?」
「えっと、篤志さんにお任せしてます。あれ、締切りって……先週末だったよね。書類一式渡してあったけど、私が記入する欄の記入漏れは無かったですよね」
「…………!」

 篤志さんは、ザッと血の気が引いた青い顔をして慌てて出て行った。じっちゃんと顔を見合わせて、まさかと思いつつ篤志さんからの連絡を待った。

 数時間後、篤志さんから電話で入学手続きをしていなかった報告があった。高校にも問い合わせて手続きをお願いしたらしいけど、規則だからどうにもならないので、私の入学は無効になった。

 人生って何があるかわからない。入試で一番になっても、入学無効になるんだ……。えっと、このままだと高校浪人? いや、私立高校の二次募集があったはずだ。最悪、大検受けて大学に行く手もある。高校三年間の学生生活に多少の未練はあるけど、どうにかなるかな……。

「この、‼︎」

 じっちゃんの怒号に、滝沢家は揺れた。

 きっと、篤志さんの携帯はスピーカー機能が壊れたんだろう。数日後、新しい物に変わっていた。

 後から知ったのだけど、家の留守番電話に高校の事務からメッセージが大量に入っていた。家で留守番していたおばあちゃんは、ほとんど病院にいたし、機械の操作が苦手だったから、それを聴けなかったのは仕方ない……。

 篤志さんは、私に土下座でもする勢いで謝ってきたけど、本当に土下座されても嫌だから何となく避けていた。

 私の高校入試は、八木橋高校の二次募集に賭けるしかなくなった。

 じっちゃんの秘書の新垣さんが『手続きは、私にお任せ下さい』と、やけに綺羅綺羅しい笑顔で言っていたのを覚えている。

 そんな混乱時、私はランチョンマットを見つけた。

 ちょっと散歩に行くと寿美さんに言って、裏道からアーケード商店街に入って、コンビニを目指しトボトボ歩いた。なんだか真っ直ぐ歩けず、夕暮れのアーケード商店街のシャッターに、もたれかかる様にうずくまってしまった。

 なんだか疲れてしまった。

 家の近くの公立校に無事合格しても、こちらで暮らすなら、数ヶ月で編入しなければならないと覚悟していた。八木橋高校に入学することになったら、滝沢家にお世話になるのかもしれない。

 お母さんと赤ちゃんと一緒に暮らすのが楽しみで、こっそり赤ちゃん関係の書籍を集めていた。

 やっぱり、篤志さんが苦手だ。上手に笑顔で隠してるけど、そこはかとなく敵意を感じる。きっと、私は篤志さんに嫌われている。それも随分前から……。

 今回の入学手続きを忘れたのは、きっと本当に忘れていたのだろう。お母さんの緊急入院で、それどころじゃ無くなったのだろう。分かるけど、高校受験は私の人生の中で大きな試練だった。もちろん、出来れば忘れて欲しくなかった。

 私の存在は皆んなの負担でしかなく、知らず知らずのうちに困らせているのだろうか? 珍しくネガティブな考えが、頭をぐるぐると重く冷たくしていった。

 お母さんが無事赤ちゃんを産んでくれたらみんな幸せになる。そうなれば、何もかも上手く行く。そうだよね……。


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