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五葉・手紙、その2。
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素晴らしい人生を与えられてきました。
両の祖父母にとっての初孫であった僕は、その幼少期を大変愛されて過ごしました。
祖父母の家を掘り返せば、呆れるほどにたくさんの僕の写真が、これまた呆れるほど何冊ものアルバムにまとめられています。
孫には良い人生を歩んで欲しい……初孫であればこそ、より一層その想いは強いものだったのだろうと、そこからも伺えました。
どの写真を見ても人が沢山写っていて、そして僕はいつでもその中心にいました。
時に笑顔、時にしかめ面、時には怒り顔と、いかにも厚顔無恥、傍若無人で唯我独尊。
なんでも言う通りになって、なんでも用意されていて、そして何か気にくわないことには拗ねて……そんな、まるで我が世は春と言ったような毎日を過ごす、まさに「おぼっちゃま」とでもいうべきクソガキがそこには写っています。
まさに、愛。
溢れんばかりの愛に包まれ、僕は育ったのです。
幼小一貫校の幼等部に入学することが出来たのも、そうした愛ゆえに家族が時間とお金を注ぎ込んでくれた結果としてのものだったのでしょう。
幼等部では多くのお友だちも得ることが出来て、ますます充実した日々を送るようになりました。
僕に残る最も古い記憶もその頃のもの。
親戚や家族の優しさに包まれて、全てが満ち足りていたように記憶しています。
だからでしょうか。僕がそれ以降の人生において、失うものばかりの毎日だと感じるようになってしまったのは。
こうした日々が、僕の幸せの容積を大きく膨らませすぎたのだろうと、僕は今でも時たまそう思います。
小学校へと上がると、段々ちやほやとされる時間も少なくなっていきました。
ちょうど、妹が一層手のかかる時期になっていたということもあって、小学生でお兄ちゃんの僕は、よく我慢をさせられるようになりました。
まだ赤ん坊の気質が抜けきらなかった僕はどうにも親離れが出来ていなかったようで、少しずつ自立させようとする家族のその在り方を家族が自分から関心を失ってきているという風に捉えるようになりました。
恵まれすぎた幼少期を過ごしたからこそ抱えるようになった孤独感と喪失感。それを消化しきれないままに、小学三年生も終わりに近づいた頃のこと、ある出来事が僕に降りかかってきました。
父方の祖母の死です。
丁度ギャングエイジの真っただ中。僕にとって、自我が発達するような敏感な時期に起きた不幸でした。
人の死を理解できるようになっていた僕は当然、初めての体験にショックを受けました。
後から聞いた話では、もう相当前から祖母は体を壊していたようでした。
けれど、それを告げるには、僕はまだ幼いという判断されたのでしょう。祖母も親も、僕には何も伝えることなく、その日を迎えたのです。
余計な不安を与えたくなかったのか、あるいは言っても分からないだろうと思われていたのか。今となってはその理由を知りたいとも思わないし、知ることにも意味はありません。
ただ、周囲から何も言われず、また自分で何かを察することも出来なかった僕にとって、祖母の死はあまりに唐突で非現実的なものだったということは確かです。
或いは、僕にとって、一つの世界の終わりでもあったのかもしれません。
永遠だと信じていたものが、実のところはそうではないということをまざまざと見せつけられたのですから。
親に連れられて入った病室は、静かでした。
まるで水の中のように音がなくて、隠微で、けれども確かな重苦しさが空間全体を浸しているような、異質さ。
その中心で、祖母が在りました。
いるのではなく、確かにそこに「ある」。そのことを、感覚としてすぐに持ちました。
布団の下に隠れていた手を探り当てて、握りました。
久しぶりに触ったその手はザラザラとした不思議な触り心地でした。そして、それが確かに人の手の形を取っているにも関わらず、ピクリとも動かない。その事がそこに祖母がいないという事実を変に生々しく教えてくれて、ただ僕は祖母の手をいつまでもさすり続けていました。わんぱくだった僕が体を痛めた時に、いつも祖母がそうしてくれたように、ずっと。
でも、その手はついに握り返してはくれませんでした。
やがて、僕は大人たちによって祖母から離されました。
綺麗にお化粧をしなければならないから、と。
外で待っていなさい、と祖父たちに連れられて外へ行きました。
病室から出ると、途端に音が僕を包み込みました。
足音。話し声。すすり泣き。
色んな情報が溢れてきて、色んな感情が雪崩れ込んできて、うまく息ができなくなりました。
お通夜の間も、お葬式の間も、お婆ちゃんが焼かれるというその最後の姿を見ている間も、ずっとずっと胸が痛いくらいに押しつぶされたままでした。
けれどずっと胸が痛くて苦しいのに、それなのに、そうしている間にも僕は一度も涙を流すことができませんでした。
母やおばさん達が沈痛な面持ちのまま涙を流している間も、僕は似たような表情を取り繕いながらもどうやっても涙を流すことができなかったのです。
後に、太宰治の「人間失格」を読んだ時のこと。
ある面で彼自身を投影したであろう、主人公の葉三。その、周囲の人の顔色に合わせて自身を演じていた幼少期を、彼は道化と評しました。
葉三としての彼は、道化である自分自身を蔑み否定していたかもしれません。でも僕は、そのカメレオンのような姿に憧れました。
もし僕が葉三であったなら。
もし僕が嘘でも涙を流せていたなら……。
もし…………もし……………………。
…………話を戻しましょう。
祖母は亡くなりました。
確かにその死は、僕にとって限りなく大きな出来事でした。でも、きっと祖母の死の体験だけでは、僕もこんな遺書を書くことはなかったでしょう。
あくまでこれは、僕の人生の新しい始まりであり、そしてそれは、僕にとっての間の悪さの始まりでしかなかったのですから。
祖母が亡くなって、一年と少しが経った春のこと。
その頃になると祖母の一周忌も終わり、家族もみんな祖母の死を或いは受け入れ、或いは乗り越えて、生活にも平穏が戻り始めていました。
小学四年生と、そして五年生の間の春休みを満喫していた僕も、スポーツ少年団で大好きなサッカーに打ち込むようになっていました。
そんな日常の中。
突然父方の祖父が亡くなりました。
病気知らずで、亡くなる二日前には私と一緒に銭湯へと行くほどに元気だった祖父。
そんな彼が突然いなくなった事に、僕はそれを形容する言葉すら見つからないほどの激情を抱える事になりました。
週末にでもまた会えるだろうと別れた人との再会が、まさか亡骸となった後になるなんて、思いもしなかったから。加えて、僕はその死に目にまたもや間に合いませんでした。
夢だと思い込もうとしました。でも、祖父との日々を思い出すたびに、もうこれから先は二度とそんな日が来ないという現実を叩きつけられるように思って、うまくいきませんでした。
そんな僕にお構いなく、周りは動いていきます。お通夜、お葬式、そして出棺。気が付けばおじいちゃんは骨になっていました。
火葬場の火葬炉から棺桶が出てくると、そこで僕は初めて骨上げを体験しました。
骨はなぜだかボロボロで箸で持ち上げると今にも崩れおちそうで、そして悲しくなるくらいに軽かった。
その中でも喉仏だけは火葬場の職員さんも驚くほどにきれいに残っていて、みんなは泣きながら仏様のお慈悲だと口々に言っていました。
でも僕はありがたいなんて思えなかった。
仏がなんだ、ついこの間まで元気だった祖父を勝手に連れ出して何が慈悲だ、と。ただそれだけを心の奥底で神か仏に問い詰めながら、ボロボロになった祖父の亡骸をジッと眺めていました。
また、涙の一滴も零さないままに。
目の前では担当の方が骨壺に入れる骨の説明をしていました。
骨壺に入らない大きさのものは、割られました。
まるで物のように分解され壺に収められていく骨を見ていて、僕は悲しくて悔しくて……だけどやっぱり涙は出ませんでした。
代わりに、欠伸が出ました。
驚いて必死に嚙み殺しました。
涙がちろりと出ました。
僕は自分に怒りを通り越して呆れを感じました。涙さえも流せない、悲しむ母達に共感する姿すら見せてあげられない、そしてあろうことか欠伸まで……。
そして、それをめざとくおばさんが見ていたようでした。
彼女は静かに僕の隣に歩いてくると、こっそりと耳元で囁きました。
「お骨の話はちょっと退屈だったかな?」
顔から血の気がさぁと失せていくのをはっきりと感じて、僕は灰色の床に目を落としました。
見られていなければ良かった。
でも見られてしまった。そして、声をかけられまでした……。
そのことに僕は胸が締め付けられるような思いがしました。
決して、おばさんの言葉は僕を責めるようなものではありませんでした。むしろその声は優しくて、二日にも及ぶ通夜と葬式で困憊しているであろう小さな子供を労う気持ちのものだったんだろうと思います。
でも、疲れているのはおばさんも同じことでした。
いや、僕よりも長い時間を共に過ごしたおばさんの方が祖父の死に嘆き苦しみ悲しんでいることは、子供の目にも明らかでした。
だからこそ、今度は祖母の葬式の際には成し得なかった「母やおばさんの支えになる」ことを心に留めていた。
彼女たちに共感して、少しでもその苦しみをお互いに和らげてあげて、そして……、そして…………。
でも、逆に慰められてしまった。ひょっとすると、その態度で傷つけてしまったかもしれない。
そう思うと、自分が許せなくなりました。
しばらくして顔を上げると、その時にはもう祖父はすっかり骨壷の中に入ってしまっていて、丁度蓋を閉めようかというところでした。
「見えるか?」
覗き込もうとする僕に何を感じたのか、そう言って父は僕を持ち上げてくれました。
壺の中を蓋のように隠す頭蓋骨だけが見えました。
「これでもうお別れだから。よく覚えておくんだよ」
父のその言葉を合図にしたかのように蓋が閉められて、それきりもう祖父には触れることも見ることもできなくなりました。
次の日、僕は学校に行きました。
何も知らない友達がいつも通りに話しかけてきて、いつものように遊んで、いつものように笑って。
家に帰ると、いつものように本を読んで、晩御飯を食べて、そして寝る。
何も変わらない日常が数日続くうちに、祖父の死がまるで夢だったのではないかと感じる瞬間が多くなりました。
骨壺に蓋がされる最後の瞬間、目に焼き付けたはずの頭蓋骨の形や色も、しばらくするともう細部にノイズが走るようになりました。
胸のあたりがグワングワンとなって、自分の感情の置き場所が見当たらないという日が続くようになりました。苦しくて苦しくて、なのに、毎日が当たり前のようにすぎていくことに何か気持ちの悪さを感じていたのです。
もう決して戻らない、あの幸せな日々。なのに、家族や世界は元の通りに戻って、まるで変わらないままに日常が続いていく。
そのことが気持ち悪くて、居場所がないように感じました。
あの幸せな日々をみんなが忘れていくように思えて、絶対にそんなことはあり得ないと気付いていながらも、僕はそのぞわぞわとした気持ちの悪さを消すことができませんでした。
そんなぞわぞわに耐えきれなくて、小学校五年生から六年生になるまでの間、僕は荒れました。
人の役に立てない自分への怒り、祖父母を連れて行った「死」への怒り、祖父母を忘れたかのように忍び寄る「日常」への怒り……。
それまで「良い子」だった僕は、やがて親に反発するようになりました。
それはきっと僕なりのSOSだったのかもしれません。もしくは、祖父や祖母たちのことを忘れないで欲しいという僕なりの叫びだったのかもしれない。
今となっては自分でも分からないけれど、とにかく日常へ帰ろうとする親の気を引こうと必死だったことだけはハッキリと覚えています。
それが決して褒められた方法ではなく、正しくもないと知りながら。
そのうち、今度は母方の祖父まで体調を崩し始めました。
父方の祖父が亡くなって、まだ半年と経たないような時期のことでした。
僕は、祖父の時のことを思い出しました。神や仏を恨んだあの時のことを。
僕のせいかもしれないと思いました。僕が無礼にも神や仏を呪ったから、仕返しが僕ではなく僕の大切な人に降りかかっているのかもしれない、と。
その考えが驚くほどにストンと腑に落ちて、僕は僕がさらに許せなくなりました。
親は、祖父のお見舞いにはなかなか連れて行ってくれませんでした。その頃僕はよく親に反発していて、そのことに親もうんざりしていたのかもしれません。
いえ、たとえ誘われても親と一緒には行きたくなかった。だから僕は稀に誘われた時もそれを断って、後からこっそり親がいない時を見計らって祖父に会いに行ったりしていました。
「いつもお見舞いに来てくれてありがとうね。本当に優しい子に育ってくれて嬉しいよ」
ベッドの上で祖父はいつもそう言ってくれました。
でも、僕はその言葉を聞くたびに、心の中で首を横に振っていました。だって、親に反発するような子どもが、優しい子であるはずが無いと思ったから。
自分のしていることがお門違いであることくらい、心のどこかでははっきり気づいていました。
だからその言葉を聞くたびに、僕はなんだか胸がチクチクと痛むのを感じました。
でも、それでも僕は親への反発は止めることができなかった。
そんなある日、またいつものように母に反発していると、彼女は突然涙を流し始めました。
「あなたが良い子にしていないから、みんなどんどんいなくなるのよ」
泣きながら、そんな事を言って、そしてまた泣き伏せました。
酷いことを言っていると思いますか?
でも、きっと母もいっぱいいっぱいだったんだと思います。
母は父方の祖父母ととても仲が良かった。それこそ実の親へのそれと変わらぬ愛情を持って接していたようでした。
その祖父母が相次いで亡くなり、今度は自分の親が……。心労も身体の疲労も、随分と積み重なっていたはずです。
そこに子供が反抗ばかりして、全く言うことを聞かなければ……人なら、何かが切れても仕方がなかったでしょう。
とはいえ、その言葉は強く僕の心に残りました。
祖父母の死と僕の行いに直接的な因果関係などあるはずもないことくらい、頭では分かっていた。でも、すでに自分を責める思いを持て余していた僕にとっては、決定的な楔となって僕の心に刻み込まれたのです。
加えて、今まで葬儀の場面以外で見たことのない母の涙が僕の心を激しく揺らしました。
甘えていたのだ、と思いました。
親には、母には何を言っても良いだろうと。
すぐに日常に戻ることの出来た親の心を、鉄でできたような硬さを持っているに違いないと、勝手に思い込んでいたのです。親の方こそ、自分よりも長く深く関わった相手が亡くなった悲しみを堪えていることに気がつかないままに。
僕は、自分が自己中心的な人間だったとそこで初めて気がつきました。
それきり僕は、反発をやめました。
自分のことを分かってもらうことに固執する事を改めて、人の心を汲み取ることのできる人間になろうと、そう決めました。
次の日から、世界がガラリと変わって見えました。
人のことをよく観察して、何も自分なら何を求めるのかを考えるようになりました。
そうした意識の変革は、やがて周りの人たちからの評価を変えるようになりました。
「孝太は優しい」「孝太くんは面白い」……。
そんな言葉をかけられるようになるうちに、僕の内面は大きく変わっていきました。
僕は優しい、僕は他人のことを考えてあげられる--そんな根拠のない自信がいつしか、僕を縛っていた自分を責める気持ちすらも溶かして忘れさせていました。
やがて僕は、調子に乗るようになりました。
みんなの考えている事は手に取るように分かる、と。
いつしか、心の中でこっそりと他人の考えを予想して、時たまにそれが当たった時などは万能感に包まれるようになりました。
自分の心の中にあるその思いが、他人を思う気持ちとは全く逆のものであることに気づかなかったくせに。
入院から一年後、祖父が亡くなりました。
夏休みの前の、暑い日のことでした。
祖父は、危篤の状態に陥ってから死の瞬間まで一度も目を覚ますことなく逝ってしまいました。
ただ、その最期をそばで看取ることが出来たのは僕にとって救いでした。
大切な人を亡くすことが毎年の年中行事のようになっていたことで感覚がバグっていたのかもしれませんが、それでも僕は祖父が家族全員に看取られたことに安堵の気持ちを抱えていました。
いや、それは安堵というよりは感謝。祖父が、僕らのことを思って旅立ちの瞬間をぎりぎりまで我慢してくれたのだろうという思いが小学六年生の心を締め付けました。
通夜や葬式は届懲りなく進みました。火葬場での最後のお別れまで、今度こそ僕は欠伸のひとつもしませんでした。
火葬場の待合室にて。
僕は大ガラスの向こうでいっぱいに水を湛えた池を見ていました。
奥には陽光に輝く青の山々。その中に一筋、煙が見えました。
近くにいた職員さんを捕まえて、あれが祖父を焼く煙なのかと問いかけると、彼は首を振りました。
あれはごみ焼却所の煙です、と。
では、祖父の煙はどこかと問うと、ここからは見えないと言われました。
そうですか、と答えると、僕のことを不憫にでも思ったのでしょうか。ごめんね、と謝られました。
僕は首を振って、大丈夫と答えました。
大丈夫、ただ祖父の旅立ちを見守ってあげたかったのですが……。
そういうと、彼は少し悲しそうな顔をしてかつて祖父に言われたものと似た言葉を口にしました。
「君は、優しいね」
その後、広い待合室の片隅で祖母が泣いているのをちらりと見かけました。
後から知ったことでしたが、さっきの僕と職員の会話を祖母は聞いていて、甚く心を打たれたのだとか。
けれど、そんなことを知らなかった当時の僕は、その姿に胸がチクリとするのを感じました。
涙を流し続ける祖母のそばに行こうと思いました。
でも、やめました。
そばには大人たちがたくさんついて慰めていて、子供の入る隙なんてなかったから。
だから僕は、ただごみ焼却場から昇る煙が青空に消えていくのを眺めていました。
ただ、天を目指している祖父のその胸の内を想像しながら。
相変わらず涙は出ませんでした。
四十九日が過ぎて、あっという間に納骨の日になりました。
その日は朝から雨が降っていました。
お墓にいよいよ納骨するというとき、なかなか骨壺がお墓に収まりませんでした。
何が原因だったのか。
その様子が、僕には祖父が何かを伝えているかのように感じました。
ふと、僕は思い出しました。
祖父が、親族の全員集合を待つかのようにゆっくりと息を引き取ったことを。
祖父が、いつも僕に慈愛に満ちた目を向けていたことを。
「おじいちゃん、まだこの世にいたいのかな」
口からこぼれた言葉は、祖父を悼む心持ちのつもりのものでした。
それは、祖父がもっと僕らをそばで見ていたかったのではないかという、祖父の思いの読解。
決して、祖父が後悔を抱えているだとかこの世への未練を抱えているだとか、そういった類のものはニュアンスとしても一切含まないつもりでした。
ただ、旅人が旅立ちの間際にもう一度見送りの者を振り返るのを見ているような感覚。その者たちとの日々や思い出を回顧して、そしてその道の先で僕らを優しく見守ると言ってくれているのだなぁという感嘆のつもりの言葉だったのです。
しかし。
「あの言葉は、いったいどういうつもりだい?」
言葉という形を得たその想いは、気付けば祖父の尊厳を踏みにじる醜悪なものとして見送る人々の心を抉っていました。
「おじいちゃんがこの世に未練でもあるというのかい? 小学六年生にもなって、まだ何を言ったらいけないのかすら分からないなんて……」
帰宅後、僕を諫める父の言葉に、僕は違うとは言えませんでした。
だってそれは振り返るほどにひどい言葉。安らかに逝った人の在り方を侮辱し、残されたすべての人の心を傷つけるものだと、自分の言葉を咀嚼し直してみて気がつきました。
そのことに言われなければ分からない自分がいました。
そして振り返れば、目を逸らせなくなるほどに強く顕示された僕の本心。
その死を悼み最後の別れと冥福を祈る場において、その事もせずにただ上手いことを言ったと得意げになっている自分が、鏡の前で口の端を変に歪めていました。
僕は僕を呪いました。
これ以上ないほどに自分に失望しました。
自分を責め、自分に怒り、自分に呆れて、そして、これまでの自分の姿を振り返りました。
一度も涙を見せることはなく、ただ、ぼんやりとその旅立ちを見送るだけの自分の姿を。
浅はかな考えと態度と行いで人を傷つけ、そしてそれを繰り返した自分の浅ましさを。
神や仏を詰り、死者の尊厳を踏みにじり、遺された人々の安寧を汚した自分の罪深さを。
僕は……僕は…………。
僕は、どうして生きているのだろう。
こんな無様な自分で、どうして……。
--いつしか僕は、そんなことばかりを考えるようになりました。
やがて夏休みになって、それから休みが明けて。
真夏のように暑い陽射しの中で、テレビが久しぶりの降雨を予報した九月のある日。
その日も僕はいつものように学校で授業を受けていました。
退屈な時間。厳しい残暑。
上の空になる中で、僕は自然と「なぜ生きているのだろうか」と考えていました。
祖父が亡くなってから随分と経ったと言うのに、なおも答えは見つからない、その問いを。
「あっ」
その時、隣の席の女の子が消しゴムを落としました。
僕の足下に滑り寄るそれを、何とは無しに拾って手渡しました。
少女は、「ありがとう」と微笑みました。
次の休み時間。
手洗いから教室に帰ると、遠くで僕の名前が聞こえました。
それは隣の席の女の子の声。
「とっても優しいんだよ!」
落ち着いていた心を、思い切り後ろから叩かれたような感じがしました。
ぐわりと世界が歪むような気がして、それまで波濤のように押し寄せていた教室の喧騒が、さぁと引いて消え去りました。
代わりに、思い出したのは祖父の言葉。
「本当に優しい子に育ってくれて……」
その日、僕は初めて授業をサボりました。
休み時間とは打って変わって夢のように静まり返った廊下を抜けて、体育館の裏の砂利の上で膝を抱えました。
ミュィーン、ミュィーン、と鳴く蝉の声が近くなったり遠くなったり。
その声に掻き乱される脳内で、僕は必死に言葉を紡ぎました。
ごめんなさい、お爺ちゃん……と。
僕はいい子なんかじゃなかったよ……と。
その日の空はどこまでも抜けるような青さで染め上げられていて、結局夜まで雨は降りませんでした。
両の祖父母にとっての初孫であった僕は、その幼少期を大変愛されて過ごしました。
祖父母の家を掘り返せば、呆れるほどにたくさんの僕の写真が、これまた呆れるほど何冊ものアルバムにまとめられています。
孫には良い人生を歩んで欲しい……初孫であればこそ、より一層その想いは強いものだったのだろうと、そこからも伺えました。
どの写真を見ても人が沢山写っていて、そして僕はいつでもその中心にいました。
時に笑顔、時にしかめ面、時には怒り顔と、いかにも厚顔無恥、傍若無人で唯我独尊。
なんでも言う通りになって、なんでも用意されていて、そして何か気にくわないことには拗ねて……そんな、まるで我が世は春と言ったような毎日を過ごす、まさに「おぼっちゃま」とでもいうべきクソガキがそこには写っています。
まさに、愛。
溢れんばかりの愛に包まれ、僕は育ったのです。
幼小一貫校の幼等部に入学することが出来たのも、そうした愛ゆえに家族が時間とお金を注ぎ込んでくれた結果としてのものだったのでしょう。
幼等部では多くのお友だちも得ることが出来て、ますます充実した日々を送るようになりました。
僕に残る最も古い記憶もその頃のもの。
親戚や家族の優しさに包まれて、全てが満ち足りていたように記憶しています。
だからでしょうか。僕がそれ以降の人生において、失うものばかりの毎日だと感じるようになってしまったのは。
こうした日々が、僕の幸せの容積を大きく膨らませすぎたのだろうと、僕は今でも時たまそう思います。
小学校へと上がると、段々ちやほやとされる時間も少なくなっていきました。
ちょうど、妹が一層手のかかる時期になっていたということもあって、小学生でお兄ちゃんの僕は、よく我慢をさせられるようになりました。
まだ赤ん坊の気質が抜けきらなかった僕はどうにも親離れが出来ていなかったようで、少しずつ自立させようとする家族のその在り方を家族が自分から関心を失ってきているという風に捉えるようになりました。
恵まれすぎた幼少期を過ごしたからこそ抱えるようになった孤独感と喪失感。それを消化しきれないままに、小学三年生も終わりに近づいた頃のこと、ある出来事が僕に降りかかってきました。
父方の祖母の死です。
丁度ギャングエイジの真っただ中。僕にとって、自我が発達するような敏感な時期に起きた不幸でした。
人の死を理解できるようになっていた僕は当然、初めての体験にショックを受けました。
後から聞いた話では、もう相当前から祖母は体を壊していたようでした。
けれど、それを告げるには、僕はまだ幼いという判断されたのでしょう。祖母も親も、僕には何も伝えることなく、その日を迎えたのです。
余計な不安を与えたくなかったのか、あるいは言っても分からないだろうと思われていたのか。今となってはその理由を知りたいとも思わないし、知ることにも意味はありません。
ただ、周囲から何も言われず、また自分で何かを察することも出来なかった僕にとって、祖母の死はあまりに唐突で非現実的なものだったということは確かです。
或いは、僕にとって、一つの世界の終わりでもあったのかもしれません。
永遠だと信じていたものが、実のところはそうではないということをまざまざと見せつけられたのですから。
親に連れられて入った病室は、静かでした。
まるで水の中のように音がなくて、隠微で、けれども確かな重苦しさが空間全体を浸しているような、異質さ。
その中心で、祖母が在りました。
いるのではなく、確かにそこに「ある」。そのことを、感覚としてすぐに持ちました。
布団の下に隠れていた手を探り当てて、握りました。
久しぶりに触ったその手はザラザラとした不思議な触り心地でした。そして、それが確かに人の手の形を取っているにも関わらず、ピクリとも動かない。その事がそこに祖母がいないという事実を変に生々しく教えてくれて、ただ僕は祖母の手をいつまでもさすり続けていました。わんぱくだった僕が体を痛めた時に、いつも祖母がそうしてくれたように、ずっと。
でも、その手はついに握り返してはくれませんでした。
やがて、僕は大人たちによって祖母から離されました。
綺麗にお化粧をしなければならないから、と。
外で待っていなさい、と祖父たちに連れられて外へ行きました。
病室から出ると、途端に音が僕を包み込みました。
足音。話し声。すすり泣き。
色んな情報が溢れてきて、色んな感情が雪崩れ込んできて、うまく息ができなくなりました。
お通夜の間も、お葬式の間も、お婆ちゃんが焼かれるというその最後の姿を見ている間も、ずっとずっと胸が痛いくらいに押しつぶされたままでした。
けれどずっと胸が痛くて苦しいのに、それなのに、そうしている間にも僕は一度も涙を流すことができませんでした。
母やおばさん達が沈痛な面持ちのまま涙を流している間も、僕は似たような表情を取り繕いながらもどうやっても涙を流すことができなかったのです。
後に、太宰治の「人間失格」を読んだ時のこと。
ある面で彼自身を投影したであろう、主人公の葉三。その、周囲の人の顔色に合わせて自身を演じていた幼少期を、彼は道化と評しました。
葉三としての彼は、道化である自分自身を蔑み否定していたかもしれません。でも僕は、そのカメレオンのような姿に憧れました。
もし僕が葉三であったなら。
もし僕が嘘でも涙を流せていたなら……。
もし…………もし……………………。
…………話を戻しましょう。
祖母は亡くなりました。
確かにその死は、僕にとって限りなく大きな出来事でした。でも、きっと祖母の死の体験だけでは、僕もこんな遺書を書くことはなかったでしょう。
あくまでこれは、僕の人生の新しい始まりであり、そしてそれは、僕にとっての間の悪さの始まりでしかなかったのですから。
祖母が亡くなって、一年と少しが経った春のこと。
その頃になると祖母の一周忌も終わり、家族もみんな祖母の死を或いは受け入れ、或いは乗り越えて、生活にも平穏が戻り始めていました。
小学四年生と、そして五年生の間の春休みを満喫していた僕も、スポーツ少年団で大好きなサッカーに打ち込むようになっていました。
そんな日常の中。
突然父方の祖父が亡くなりました。
病気知らずで、亡くなる二日前には私と一緒に銭湯へと行くほどに元気だった祖父。
そんな彼が突然いなくなった事に、僕はそれを形容する言葉すら見つからないほどの激情を抱える事になりました。
週末にでもまた会えるだろうと別れた人との再会が、まさか亡骸となった後になるなんて、思いもしなかったから。加えて、僕はその死に目にまたもや間に合いませんでした。
夢だと思い込もうとしました。でも、祖父との日々を思い出すたびに、もうこれから先は二度とそんな日が来ないという現実を叩きつけられるように思って、うまくいきませんでした。
そんな僕にお構いなく、周りは動いていきます。お通夜、お葬式、そして出棺。気が付けばおじいちゃんは骨になっていました。
火葬場の火葬炉から棺桶が出てくると、そこで僕は初めて骨上げを体験しました。
骨はなぜだかボロボロで箸で持ち上げると今にも崩れおちそうで、そして悲しくなるくらいに軽かった。
その中でも喉仏だけは火葬場の職員さんも驚くほどにきれいに残っていて、みんなは泣きながら仏様のお慈悲だと口々に言っていました。
でも僕はありがたいなんて思えなかった。
仏がなんだ、ついこの間まで元気だった祖父を勝手に連れ出して何が慈悲だ、と。ただそれだけを心の奥底で神か仏に問い詰めながら、ボロボロになった祖父の亡骸をジッと眺めていました。
また、涙の一滴も零さないままに。
目の前では担当の方が骨壺に入れる骨の説明をしていました。
骨壺に入らない大きさのものは、割られました。
まるで物のように分解され壺に収められていく骨を見ていて、僕は悲しくて悔しくて……だけどやっぱり涙は出ませんでした。
代わりに、欠伸が出ました。
驚いて必死に嚙み殺しました。
涙がちろりと出ました。
僕は自分に怒りを通り越して呆れを感じました。涙さえも流せない、悲しむ母達に共感する姿すら見せてあげられない、そしてあろうことか欠伸まで……。
そして、それをめざとくおばさんが見ていたようでした。
彼女は静かに僕の隣に歩いてくると、こっそりと耳元で囁きました。
「お骨の話はちょっと退屈だったかな?」
顔から血の気がさぁと失せていくのをはっきりと感じて、僕は灰色の床に目を落としました。
見られていなければ良かった。
でも見られてしまった。そして、声をかけられまでした……。
そのことに僕は胸が締め付けられるような思いがしました。
決して、おばさんの言葉は僕を責めるようなものではありませんでした。むしろその声は優しくて、二日にも及ぶ通夜と葬式で困憊しているであろう小さな子供を労う気持ちのものだったんだろうと思います。
でも、疲れているのはおばさんも同じことでした。
いや、僕よりも長い時間を共に過ごしたおばさんの方が祖父の死に嘆き苦しみ悲しんでいることは、子供の目にも明らかでした。
だからこそ、今度は祖母の葬式の際には成し得なかった「母やおばさんの支えになる」ことを心に留めていた。
彼女たちに共感して、少しでもその苦しみをお互いに和らげてあげて、そして……、そして…………。
でも、逆に慰められてしまった。ひょっとすると、その態度で傷つけてしまったかもしれない。
そう思うと、自分が許せなくなりました。
しばらくして顔を上げると、その時にはもう祖父はすっかり骨壷の中に入ってしまっていて、丁度蓋を閉めようかというところでした。
「見えるか?」
覗き込もうとする僕に何を感じたのか、そう言って父は僕を持ち上げてくれました。
壺の中を蓋のように隠す頭蓋骨だけが見えました。
「これでもうお別れだから。よく覚えておくんだよ」
父のその言葉を合図にしたかのように蓋が閉められて、それきりもう祖父には触れることも見ることもできなくなりました。
次の日、僕は学校に行きました。
何も知らない友達がいつも通りに話しかけてきて、いつものように遊んで、いつものように笑って。
家に帰ると、いつものように本を読んで、晩御飯を食べて、そして寝る。
何も変わらない日常が数日続くうちに、祖父の死がまるで夢だったのではないかと感じる瞬間が多くなりました。
骨壺に蓋がされる最後の瞬間、目に焼き付けたはずの頭蓋骨の形や色も、しばらくするともう細部にノイズが走るようになりました。
胸のあたりがグワングワンとなって、自分の感情の置き場所が見当たらないという日が続くようになりました。苦しくて苦しくて、なのに、毎日が当たり前のようにすぎていくことに何か気持ちの悪さを感じていたのです。
もう決して戻らない、あの幸せな日々。なのに、家族や世界は元の通りに戻って、まるで変わらないままに日常が続いていく。
そのことが気持ち悪くて、居場所がないように感じました。
あの幸せな日々をみんなが忘れていくように思えて、絶対にそんなことはあり得ないと気付いていながらも、僕はそのぞわぞわとした気持ちの悪さを消すことができませんでした。
そんなぞわぞわに耐えきれなくて、小学校五年生から六年生になるまでの間、僕は荒れました。
人の役に立てない自分への怒り、祖父母を連れて行った「死」への怒り、祖父母を忘れたかのように忍び寄る「日常」への怒り……。
それまで「良い子」だった僕は、やがて親に反発するようになりました。
それはきっと僕なりのSOSだったのかもしれません。もしくは、祖父や祖母たちのことを忘れないで欲しいという僕なりの叫びだったのかもしれない。
今となっては自分でも分からないけれど、とにかく日常へ帰ろうとする親の気を引こうと必死だったことだけはハッキリと覚えています。
それが決して褒められた方法ではなく、正しくもないと知りながら。
そのうち、今度は母方の祖父まで体調を崩し始めました。
父方の祖父が亡くなって、まだ半年と経たないような時期のことでした。
僕は、祖父の時のことを思い出しました。神や仏を恨んだあの時のことを。
僕のせいかもしれないと思いました。僕が無礼にも神や仏を呪ったから、仕返しが僕ではなく僕の大切な人に降りかかっているのかもしれない、と。
その考えが驚くほどにストンと腑に落ちて、僕は僕がさらに許せなくなりました。
親は、祖父のお見舞いにはなかなか連れて行ってくれませんでした。その頃僕はよく親に反発していて、そのことに親もうんざりしていたのかもしれません。
いえ、たとえ誘われても親と一緒には行きたくなかった。だから僕は稀に誘われた時もそれを断って、後からこっそり親がいない時を見計らって祖父に会いに行ったりしていました。
「いつもお見舞いに来てくれてありがとうね。本当に優しい子に育ってくれて嬉しいよ」
ベッドの上で祖父はいつもそう言ってくれました。
でも、僕はその言葉を聞くたびに、心の中で首を横に振っていました。だって、親に反発するような子どもが、優しい子であるはずが無いと思ったから。
自分のしていることがお門違いであることくらい、心のどこかでははっきり気づいていました。
だからその言葉を聞くたびに、僕はなんだか胸がチクチクと痛むのを感じました。
でも、それでも僕は親への反発は止めることができなかった。
そんなある日、またいつものように母に反発していると、彼女は突然涙を流し始めました。
「あなたが良い子にしていないから、みんなどんどんいなくなるのよ」
泣きながら、そんな事を言って、そしてまた泣き伏せました。
酷いことを言っていると思いますか?
でも、きっと母もいっぱいいっぱいだったんだと思います。
母は父方の祖父母ととても仲が良かった。それこそ実の親へのそれと変わらぬ愛情を持って接していたようでした。
その祖父母が相次いで亡くなり、今度は自分の親が……。心労も身体の疲労も、随分と積み重なっていたはずです。
そこに子供が反抗ばかりして、全く言うことを聞かなければ……人なら、何かが切れても仕方がなかったでしょう。
とはいえ、その言葉は強く僕の心に残りました。
祖父母の死と僕の行いに直接的な因果関係などあるはずもないことくらい、頭では分かっていた。でも、すでに自分を責める思いを持て余していた僕にとっては、決定的な楔となって僕の心に刻み込まれたのです。
加えて、今まで葬儀の場面以外で見たことのない母の涙が僕の心を激しく揺らしました。
甘えていたのだ、と思いました。
親には、母には何を言っても良いだろうと。
すぐに日常に戻ることの出来た親の心を、鉄でできたような硬さを持っているに違いないと、勝手に思い込んでいたのです。親の方こそ、自分よりも長く深く関わった相手が亡くなった悲しみを堪えていることに気がつかないままに。
僕は、自分が自己中心的な人間だったとそこで初めて気がつきました。
それきり僕は、反発をやめました。
自分のことを分かってもらうことに固執する事を改めて、人の心を汲み取ることのできる人間になろうと、そう決めました。
次の日から、世界がガラリと変わって見えました。
人のことをよく観察して、何も自分なら何を求めるのかを考えるようになりました。
そうした意識の変革は、やがて周りの人たちからの評価を変えるようになりました。
「孝太は優しい」「孝太くんは面白い」……。
そんな言葉をかけられるようになるうちに、僕の内面は大きく変わっていきました。
僕は優しい、僕は他人のことを考えてあげられる--そんな根拠のない自信がいつしか、僕を縛っていた自分を責める気持ちすらも溶かして忘れさせていました。
やがて僕は、調子に乗るようになりました。
みんなの考えている事は手に取るように分かる、と。
いつしか、心の中でこっそりと他人の考えを予想して、時たまにそれが当たった時などは万能感に包まれるようになりました。
自分の心の中にあるその思いが、他人を思う気持ちとは全く逆のものであることに気づかなかったくせに。
入院から一年後、祖父が亡くなりました。
夏休みの前の、暑い日のことでした。
祖父は、危篤の状態に陥ってから死の瞬間まで一度も目を覚ますことなく逝ってしまいました。
ただ、その最期をそばで看取ることが出来たのは僕にとって救いでした。
大切な人を亡くすことが毎年の年中行事のようになっていたことで感覚がバグっていたのかもしれませんが、それでも僕は祖父が家族全員に看取られたことに安堵の気持ちを抱えていました。
いや、それは安堵というよりは感謝。祖父が、僕らのことを思って旅立ちの瞬間をぎりぎりまで我慢してくれたのだろうという思いが小学六年生の心を締め付けました。
通夜や葬式は届懲りなく進みました。火葬場での最後のお別れまで、今度こそ僕は欠伸のひとつもしませんでした。
火葬場の待合室にて。
僕は大ガラスの向こうでいっぱいに水を湛えた池を見ていました。
奥には陽光に輝く青の山々。その中に一筋、煙が見えました。
近くにいた職員さんを捕まえて、あれが祖父を焼く煙なのかと問いかけると、彼は首を振りました。
あれはごみ焼却所の煙です、と。
では、祖父の煙はどこかと問うと、ここからは見えないと言われました。
そうですか、と答えると、僕のことを不憫にでも思ったのでしょうか。ごめんね、と謝られました。
僕は首を振って、大丈夫と答えました。
大丈夫、ただ祖父の旅立ちを見守ってあげたかったのですが……。
そういうと、彼は少し悲しそうな顔をしてかつて祖父に言われたものと似た言葉を口にしました。
「君は、優しいね」
その後、広い待合室の片隅で祖母が泣いているのをちらりと見かけました。
後から知ったことでしたが、さっきの僕と職員の会話を祖母は聞いていて、甚く心を打たれたのだとか。
けれど、そんなことを知らなかった当時の僕は、その姿に胸がチクリとするのを感じました。
涙を流し続ける祖母のそばに行こうと思いました。
でも、やめました。
そばには大人たちがたくさんついて慰めていて、子供の入る隙なんてなかったから。
だから僕は、ただごみ焼却場から昇る煙が青空に消えていくのを眺めていました。
ただ、天を目指している祖父のその胸の内を想像しながら。
相変わらず涙は出ませんでした。
四十九日が過ぎて、あっという間に納骨の日になりました。
その日は朝から雨が降っていました。
お墓にいよいよ納骨するというとき、なかなか骨壺がお墓に収まりませんでした。
何が原因だったのか。
その様子が、僕には祖父が何かを伝えているかのように感じました。
ふと、僕は思い出しました。
祖父が、親族の全員集合を待つかのようにゆっくりと息を引き取ったことを。
祖父が、いつも僕に慈愛に満ちた目を向けていたことを。
「おじいちゃん、まだこの世にいたいのかな」
口からこぼれた言葉は、祖父を悼む心持ちのつもりのものでした。
それは、祖父がもっと僕らをそばで見ていたかったのではないかという、祖父の思いの読解。
決して、祖父が後悔を抱えているだとかこの世への未練を抱えているだとか、そういった類のものはニュアンスとしても一切含まないつもりでした。
ただ、旅人が旅立ちの間際にもう一度見送りの者を振り返るのを見ているような感覚。その者たちとの日々や思い出を回顧して、そしてその道の先で僕らを優しく見守ると言ってくれているのだなぁという感嘆のつもりの言葉だったのです。
しかし。
「あの言葉は、いったいどういうつもりだい?」
言葉という形を得たその想いは、気付けば祖父の尊厳を踏みにじる醜悪なものとして見送る人々の心を抉っていました。
「おじいちゃんがこの世に未練でもあるというのかい? 小学六年生にもなって、まだ何を言ったらいけないのかすら分からないなんて……」
帰宅後、僕を諫める父の言葉に、僕は違うとは言えませんでした。
だってそれは振り返るほどにひどい言葉。安らかに逝った人の在り方を侮辱し、残されたすべての人の心を傷つけるものだと、自分の言葉を咀嚼し直してみて気がつきました。
そのことに言われなければ分からない自分がいました。
そして振り返れば、目を逸らせなくなるほどに強く顕示された僕の本心。
その死を悼み最後の別れと冥福を祈る場において、その事もせずにただ上手いことを言ったと得意げになっている自分が、鏡の前で口の端を変に歪めていました。
僕は僕を呪いました。
これ以上ないほどに自分に失望しました。
自分を責め、自分に怒り、自分に呆れて、そして、これまでの自分の姿を振り返りました。
一度も涙を見せることはなく、ただ、ぼんやりとその旅立ちを見送るだけの自分の姿を。
浅はかな考えと態度と行いで人を傷つけ、そしてそれを繰り返した自分の浅ましさを。
神や仏を詰り、死者の尊厳を踏みにじり、遺された人々の安寧を汚した自分の罪深さを。
僕は……僕は…………。
僕は、どうして生きているのだろう。
こんな無様な自分で、どうして……。
--いつしか僕は、そんなことばかりを考えるようになりました。
やがて夏休みになって、それから休みが明けて。
真夏のように暑い陽射しの中で、テレビが久しぶりの降雨を予報した九月のある日。
その日も僕はいつものように学校で授業を受けていました。
退屈な時間。厳しい残暑。
上の空になる中で、僕は自然と「なぜ生きているのだろうか」と考えていました。
祖父が亡くなってから随分と経ったと言うのに、なおも答えは見つからない、その問いを。
「あっ」
その時、隣の席の女の子が消しゴムを落としました。
僕の足下に滑り寄るそれを、何とは無しに拾って手渡しました。
少女は、「ありがとう」と微笑みました。
次の休み時間。
手洗いから教室に帰ると、遠くで僕の名前が聞こえました。
それは隣の席の女の子の声。
「とっても優しいんだよ!」
落ち着いていた心を、思い切り後ろから叩かれたような感じがしました。
ぐわりと世界が歪むような気がして、それまで波濤のように押し寄せていた教室の喧騒が、さぁと引いて消え去りました。
代わりに、思い出したのは祖父の言葉。
「本当に優しい子に育ってくれて……」
その日、僕は初めて授業をサボりました。
休み時間とは打って変わって夢のように静まり返った廊下を抜けて、体育館の裏の砂利の上で膝を抱えました。
ミュィーン、ミュィーン、と鳴く蝉の声が近くなったり遠くなったり。
その声に掻き乱される脳内で、僕は必死に言葉を紡ぎました。
ごめんなさい、お爺ちゃん……と。
僕はいい子なんかじゃなかったよ……と。
その日の空はどこまでも抜けるような青さで染め上げられていて、結局夜まで雨は降りませんでした。
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