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甲斐の国
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徳川三代将軍家光公御時のこと。甲斐の国の山間にある小さな村にお千代は生まれた。
お千代の両親、紗代と幹助は幼馴染で、紗代が妊娠したことを機に男手のない紗代の家に幹助が住むようになった。紗代の母である喜代は、これまた幼馴染の豊吉と結婚し、五人の子を産んだがどれも娘。五人のうち二人は幼くして死に、残った三人のうち二人は村の男に嫁いだ。残った末娘の紗代と三人、畑を耕しながら細々と生きていたのだけれど、豊吉は二年前に山で怪我をしたことをきっかけにあっけなく死んでしまった。突然二人きりになってしまったが、嫁いだ娘二人の助けを借りながら喜代は紗代と平穏に生きていた。
そこへ幹助が仲間入りをしてお千代が生まれ、三年後には松之助、そのまた四年後には豊代も生まれた。静かな生活が一転、慌ただしくも賑やかで楽しい毎日を送っていた。もともと虚弱体質な紗代は三人目を産んでから寝込むこともあったが、喜代に似て働き者。そして紗代の子、お千代も幼いながらよく働く娘で、病弱な母親の代わりに豊代の面倒を甲斐甲斐しくみている。
お千代は九つになった時、母親の紗代に刺し子を教えてほしいとねだった。着物を長く使えるように糸で補強をするのが刺し子。どの家でもしていることだったが、紗代の刺す糸は一味も二味も違う。針の目は均一で、大空に伸びる一筋の雲のようにまっすぐに連なり、曲線を描けば村を囲む山々を縁取ったように悠々とうねる。
紗代が針で描く線の美しさは村一番で、姉たちが刺し子を頼みに着物を持ってくる。紗代は頼まれればいくらでも縫った。刺し子の模様を着る人によってジグザグや波波などに変えて楽しんでいる。
お千代は一度尋ねたことがあった。
「なんで五郎平のは丸いんだ?三郎吉のは三角だ?」
「なんとなくだ。五郎平は丸っこいし、三郎吉は角角してるずら」
黒くて骨ばった五郎平は丸っこくないし、三郎吉はひょろりと細長い体をして角張ったところなどない。お千代には紗代の言っていることがさっぱりわからない。しかし、この紗代の刺し子は評判がいい。自分だけの模様を気に入り、村のいろんな人が刺してほしいと頼みに来る。
そして有難いことに刺し子のお礼にと、野菜や手編みのかご、薪などを持って来るのだ。みな自分の得意とする物を持参して紗代の刺し子と交換していく。お千代の大好きな熟れた李を持って来る人もいる。
「母ちゃんの刺し子はすげえ。こんなにおいしい李になるずら」
礼の品欲しさに、お千代は刺し子をしたいと思うようになった。
「できるだか?」
紗代はお千代の小さな手に針を持たせて、手ぬぐいを縫わせてみた。
「いたっ!」
自分の手を刺してしまうお千代に、
「まだ早いだ。もっと大きくなってからずら」
とやめさせようとしたが、
「できるずら」
と気張るお千代は、指を突きながらも日に日に縫えるようになっていった。そしてその針の目は、紗代のようにきれいに揃っている。
「お千代の手は紗代にそっくりだあよ。器用も似たな」
と言う祖母喜代の手は、二人のすらりと伸びた長い指とは似ても似つかない大きくてごつい手だ。体の小ささからは想像もつかないほどに、掌がやけに大きい。
「うらの手は不器用ずら」
と言う喜代だが、ほかの者には作れないものをこの手で作ることができる。それは将軍である家光公も食べた団子だ。
甲斐の国は甲州街道で江戸と繋がっていることもあり、将軍家直属の領地である。お千代の住む村は四方を山で囲まれていて、東の山の南側が鷹場になっている。そこへ年に一度、家光公が鷹狩りをしに来ていた。家光公はお千代が七つの時に亡くなったが、亡くなる前年まで来ていたそうだ。
鷹狩りの為に近隣の村は食事や鷹の獲物を用意せねばならない。男たちは鷹の好きそうな鳥や鼠を何日も前から捕まえて準備した。そして村でおいしいと評判の喜代の団子も、提供する品に数えられている。
喜代は団子を味噌から出る琥珀色の汁に浸けてから焼く。これが喜代の団子を格段に美味しくするのだ。
鷹狩りの日には朝早くから沢山の米を蒸して撞ついて丸めて焼いた。嫁いだ娘たちも手伝いに来て、その準備に大忙し。その様子を小さかったお千代は覚えている。父ちゃんが杵で米を搗き、婆ちゃんが丸めえる。婆ちゃんの手からコロコロと転がり落ちてくるまん丸の団子。それを母ちゃんたちが串に刺して琥珀の汁に浸けて焼いていくのだ。
出来立ての熱々を父幹助が鷹場へ運ぶ。帰ってくる時懐は銭で膨れている。銅製の丸い銭の中心は四角に穴が開いている。寛永通宝である。穴に紐を通して五十枚束ねたものをもらってくるのだ。数日後、銭を持って幹助は南の山を越える。すると甲州街道へ出る。そこから七里東へ歩くと甲府の町に着く。そこで布や糸や何やらを買ってくるのだ。
幹助はお調子者で気前の良い性質たちなものだから、行けばどっさり買い込んでくる。自分用の酒はもちろん、紗代の姉たちにも新しい着物や寒い冬をしのぐ為の真綿、可愛い髪飾りや甘い飴、村では手に入らない色んなものを買ってくるのだ。
村の女たちは髪の毛を頭の上で一つに縛り、いわゆるポニーテールにしている。垂れた髪は邪魔なので布で覆うのが常識で、その髪を覆う布として、喜代にまで光沢のあるおしゃれな紬布を買ってきたことがあって、
「婆にこんなものを」
と呆れられたりもした。
そんな鷹狩りも家光公が崩御してからは催されていない。新しい将軍はまだ十一歳。将軍の弟が甲府藩の藩主になったがまだ七歳。二人が大人になればまた鷹狩をしに来るだろうとその日を楽しみに待っていたのだけど、家光公が亡くなってから三年が経った年のこと。大きな不幸が村に襲い掛かった。これを機に婆ちゃんや母ちゃんのように生きるはずだったお千代の運命が大きく変わることになるのだった。
お千代の両親、紗代と幹助は幼馴染で、紗代が妊娠したことを機に男手のない紗代の家に幹助が住むようになった。紗代の母である喜代は、これまた幼馴染の豊吉と結婚し、五人の子を産んだがどれも娘。五人のうち二人は幼くして死に、残った三人のうち二人は村の男に嫁いだ。残った末娘の紗代と三人、畑を耕しながら細々と生きていたのだけれど、豊吉は二年前に山で怪我をしたことをきっかけにあっけなく死んでしまった。突然二人きりになってしまったが、嫁いだ娘二人の助けを借りながら喜代は紗代と平穏に生きていた。
そこへ幹助が仲間入りをしてお千代が生まれ、三年後には松之助、そのまた四年後には豊代も生まれた。静かな生活が一転、慌ただしくも賑やかで楽しい毎日を送っていた。もともと虚弱体質な紗代は三人目を産んでから寝込むこともあったが、喜代に似て働き者。そして紗代の子、お千代も幼いながらよく働く娘で、病弱な母親の代わりに豊代の面倒を甲斐甲斐しくみている。
お千代は九つになった時、母親の紗代に刺し子を教えてほしいとねだった。着物を長く使えるように糸で補強をするのが刺し子。どの家でもしていることだったが、紗代の刺す糸は一味も二味も違う。針の目は均一で、大空に伸びる一筋の雲のようにまっすぐに連なり、曲線を描けば村を囲む山々を縁取ったように悠々とうねる。
紗代が針で描く線の美しさは村一番で、姉たちが刺し子を頼みに着物を持ってくる。紗代は頼まれればいくらでも縫った。刺し子の模様を着る人によってジグザグや波波などに変えて楽しんでいる。
お千代は一度尋ねたことがあった。
「なんで五郎平のは丸いんだ?三郎吉のは三角だ?」
「なんとなくだ。五郎平は丸っこいし、三郎吉は角角してるずら」
黒くて骨ばった五郎平は丸っこくないし、三郎吉はひょろりと細長い体をして角張ったところなどない。お千代には紗代の言っていることがさっぱりわからない。しかし、この紗代の刺し子は評判がいい。自分だけの模様を気に入り、村のいろんな人が刺してほしいと頼みに来る。
そして有難いことに刺し子のお礼にと、野菜や手編みのかご、薪などを持って来るのだ。みな自分の得意とする物を持参して紗代の刺し子と交換していく。お千代の大好きな熟れた李を持って来る人もいる。
「母ちゃんの刺し子はすげえ。こんなにおいしい李になるずら」
礼の品欲しさに、お千代は刺し子をしたいと思うようになった。
「できるだか?」
紗代はお千代の小さな手に針を持たせて、手ぬぐいを縫わせてみた。
「いたっ!」
自分の手を刺してしまうお千代に、
「まだ早いだ。もっと大きくなってからずら」
とやめさせようとしたが、
「できるずら」
と気張るお千代は、指を突きながらも日に日に縫えるようになっていった。そしてその針の目は、紗代のようにきれいに揃っている。
「お千代の手は紗代にそっくりだあよ。器用も似たな」
と言う祖母喜代の手は、二人のすらりと伸びた長い指とは似ても似つかない大きくてごつい手だ。体の小ささからは想像もつかないほどに、掌がやけに大きい。
「うらの手は不器用ずら」
と言う喜代だが、ほかの者には作れないものをこの手で作ることができる。それは将軍である家光公も食べた団子だ。
甲斐の国は甲州街道で江戸と繋がっていることもあり、将軍家直属の領地である。お千代の住む村は四方を山で囲まれていて、東の山の南側が鷹場になっている。そこへ年に一度、家光公が鷹狩りをしに来ていた。家光公はお千代が七つの時に亡くなったが、亡くなる前年まで来ていたそうだ。
鷹狩りの為に近隣の村は食事や鷹の獲物を用意せねばならない。男たちは鷹の好きそうな鳥や鼠を何日も前から捕まえて準備した。そして村でおいしいと評判の喜代の団子も、提供する品に数えられている。
喜代は団子を味噌から出る琥珀色の汁に浸けてから焼く。これが喜代の団子を格段に美味しくするのだ。
鷹狩りの日には朝早くから沢山の米を蒸して撞ついて丸めて焼いた。嫁いだ娘たちも手伝いに来て、その準備に大忙し。その様子を小さかったお千代は覚えている。父ちゃんが杵で米を搗き、婆ちゃんが丸めえる。婆ちゃんの手からコロコロと転がり落ちてくるまん丸の団子。それを母ちゃんたちが串に刺して琥珀の汁に浸けて焼いていくのだ。
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幹助はお調子者で気前の良い性質たちなものだから、行けばどっさり買い込んでくる。自分用の酒はもちろん、紗代の姉たちにも新しい着物や寒い冬をしのぐ為の真綿、可愛い髪飾りや甘い飴、村では手に入らない色んなものを買ってくるのだ。
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と呆れられたりもした。
そんな鷹狩りも家光公が崩御してからは催されていない。新しい将軍はまだ十一歳。将軍の弟が甲府藩の藩主になったがまだ七歳。二人が大人になればまた鷹狩をしに来るだろうとその日を楽しみに待っていたのだけど、家光公が亡くなってから三年が経った年のこと。大きな不幸が村に襲い掛かった。これを機に婆ちゃんや母ちゃんのように生きるはずだったお千代の運命が大きく変わることになるのだった。
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