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日向の国
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転法輪は名を猿彦と言う。遥か西にある九州の東南、日向の生まれである。生まれ育ったのは日向の西にある小さな村。八家族が集まって暮らす村で、平地なんてものはない。なだらかな山の斜面に家を建て畑を作って暮らしていた。
この村の近くにはもう三つ村がある。猿彦の村よりも少し高い東側に一つ、同じく少し高い西側に一つ。一番高い上にもう一つ。一番上の村には広々とした高原と大きな池があり、田んぼもある。猿彦の村の十倍の規模である。この大きな村が、下の小さな三つの村を統括している。
大きな村の名は天野原。神が降臨した場所だと言い伝えられていて、今も神の住む場所だと信じられている。
この神の住処、天野原でまさかあんな恐ろしいことが起こるとは。猿彦が村を出ることになった痛ましい事件の始まりは二十年前、猿彦が十二歳の時のことだった。
天野原の下に位置する転法輪の村は、山ノ影と呼ばれている。その名のとおり、山の陰になるからだ。朝の十時から二時ごろまでの四時間ほどしか日が照らない。畑で野菜を作りはするが、村人はみんな天野原の田んぼで米を作る小作人である。そんな山ノ影では村の一角にある原っぱに青い花が咲く。この花は花忍と呼ばれていて天野原が欲しがる貴重な花だ。と言うのもここにしか咲かない珍しい花で、煎じて飲めば咳は止まり怪我をした時に塗れば血は止まる薬草だからだ。花忍を山ノ影の人たちは大切に栽培して天野原へ献上している。その対価として天野原の大きな湖から水を貰っているのだ。
天野原の湖は大きな火口に水が溜まって出来たもので、ここから引いた水を西側以外の三つの村が飲料、洗濯、畑など、なんにでも使って暮らしている。
平和に暮らしていた山ノ影だったけど、ある日、お千代の村のように麻疹が流行った。猿彦も含め村の全員が罹った。しかし亡くなったのはほんのわずか。三人だけ。そのうちの一人は猿彦の弟だった。その二年後、山ノ影でまた感染病が流行った。顔や体にできものができて、それが膿んで赤くなった。疱瘡と呼ばれる見た目にも恐ろしい病で、村の半分以上の人が死んだ。
猿彦の家族は最初に兄が罹り、二人の弟たちに移った。その時点で「うつるといけないからお前は森で暮らせ」と、まだ罹っていない猿彦を父親は家から追い出した。猿彦はその名のとおり猿のように木に登るのが上手で、森で遊ぶのが好きだった。一人で森の中で遊んでいてそのまま家に帰らないこともあったが、男兄弟が四人もいる家では猿彦がいないことに誰も気づかず、一晩森で過ごすこともあった。
そんな猿彦を父親は森へ隔離した。夏だったこともあり、森の中での野宿は猿彦にとってなんでもなかった。得意の木登りで木になる果実を採って食べていた。そうして冬になった時には、猿彦の家族はみんな死んでしまった。
一人になった猿彦は父親に生かされたのだと、その意志に報いようとそのまま森の中で暮らし続けた。しかし山ノ影の不幸はそれで終わらなかった。
疱瘡から二年後のこと。下痢をするものが次々と出始め、その排泄物は血で真っ赤。いわゆる赤痢である。
しかしこの赤痢は過去の病とは違い、ほかの村でも流行った。東の中腹に位置する中野原と上方一帯に広がる天野原も赤痢に襲われたのだ。この山ノ影、中野原、天野原の三つの村には共通点がある。それは天野原にある大きな湖の水を使って暮らしていることだ。この湖に運悪く落ちた病気の鳥の糞が原因であろうか?そんなことは誰も知る由のないことで、水が原因での病だなどと考える人は誰もいない。
山に暮らす猿彦は田植えや稲刈り、花忍の収穫を手伝って飯を貰うことはあったが、湖の水は飲んでいない。猿彦の住む西の森には、西の山から湧き出た水が流れる小さな川がある。その川の水を飲んでいるからだ。
山ノ影でまたもや伝染病が広まり始めると、猿彦は森から出ず村に近づかなくなった。
そんな猿彦には森で暮らすうちにできた友だちがいる。西の中腹にある村、西野原の少年で、名を石丸という。石丸は猿彦と同じ年齢であるが、猿彦のように森に住んでいるわけではない。山をうろつくのが好きで、猿彦のいる森まで下りて来ることがある。「石ちゃん」「猿ちゃん」と呼び合い、二人で崖下の蜂蜜を採ったりして仲良く遊んでいる。
赤痢の感染が蔓延して死ぬ者も多数出始めた頃に、石丸が血相を変えて森へ来た。
「猿ちゃん、逃げろ。今すぐ逃げろ!」
石丸が言うには、天野原、中野原、西野原が協力して山ノ影を焼き払うと言うのだ。赤い血は清浄なる神を敬う天野原では忌み嫌われている。鮮血の混じった便をする病が流行るのは悪霊の仕業であると天野原は考えた。ここ何年も感染病に見舞われている山ノ影こそ、悪霊に魅入られた村であると。
天野原では「上」こそが清浄で神の加護を受ける場所である。それは裏を返せば「下」は汚濁の地である。元々一番下に位置する山ノ影は四つの村の中では劣位に置かれている。しかも、前回の病では赤い出来物が全身にできて、生き残った者たちは痘痕で著しく見目が悪くなり、悪霊に憑りつかれたと言えるほどの変わりようである。そうしたことを総合的に考えて、山ノ影は悪霊に憑りつかれた村だと結論付けたのだ。
「山ノ影を皆殺しにするて、花畑以外を焼くて、今準備しとる、逃げろ。見つかったら殺される!」
「逃げるて、どこへ行くと?」
「西と。この山を全部越えれば別の国がある。急げ!」
(どこまでも連なるこの山に果てがあると?)
猿彦にはそんなことは信じがたい。しかし石丸はあると言う。こんな非常時に「下」にいれば殺されてしまうかもしれない。そんな危険を冒してまで下りてきてくれた石丸の言うことだ、きっとあるにちがいない。
「村の人に知らせんと」
「もう間に合わん。逃げろ!」
石丸の必死の形相に気圧されて、猿彦は西の山へ走り出したのだった。
つづく
この村の近くにはもう三つ村がある。猿彦の村よりも少し高い東側に一つ、同じく少し高い西側に一つ。一番高い上にもう一つ。一番上の村には広々とした高原と大きな池があり、田んぼもある。猿彦の村の十倍の規模である。この大きな村が、下の小さな三つの村を統括している。
大きな村の名は天野原。神が降臨した場所だと言い伝えられていて、今も神の住む場所だと信じられている。
この神の住処、天野原でまさかあんな恐ろしいことが起こるとは。猿彦が村を出ることになった痛ましい事件の始まりは二十年前、猿彦が十二歳の時のことだった。
天野原の下に位置する転法輪の村は、山ノ影と呼ばれている。その名のとおり、山の陰になるからだ。朝の十時から二時ごろまでの四時間ほどしか日が照らない。畑で野菜を作りはするが、村人はみんな天野原の田んぼで米を作る小作人である。そんな山ノ影では村の一角にある原っぱに青い花が咲く。この花は花忍と呼ばれていて天野原が欲しがる貴重な花だ。と言うのもここにしか咲かない珍しい花で、煎じて飲めば咳は止まり怪我をした時に塗れば血は止まる薬草だからだ。花忍を山ノ影の人たちは大切に栽培して天野原へ献上している。その対価として天野原の大きな湖から水を貰っているのだ。
天野原の湖は大きな火口に水が溜まって出来たもので、ここから引いた水を西側以外の三つの村が飲料、洗濯、畑など、なんにでも使って暮らしている。
平和に暮らしていた山ノ影だったけど、ある日、お千代の村のように麻疹が流行った。猿彦も含め村の全員が罹った。しかし亡くなったのはほんのわずか。三人だけ。そのうちの一人は猿彦の弟だった。その二年後、山ノ影でまた感染病が流行った。顔や体にできものができて、それが膿んで赤くなった。疱瘡と呼ばれる見た目にも恐ろしい病で、村の半分以上の人が死んだ。
猿彦の家族は最初に兄が罹り、二人の弟たちに移った。その時点で「うつるといけないからお前は森で暮らせ」と、まだ罹っていない猿彦を父親は家から追い出した。猿彦はその名のとおり猿のように木に登るのが上手で、森で遊ぶのが好きだった。一人で森の中で遊んでいてそのまま家に帰らないこともあったが、男兄弟が四人もいる家では猿彦がいないことに誰も気づかず、一晩森で過ごすこともあった。
そんな猿彦を父親は森へ隔離した。夏だったこともあり、森の中での野宿は猿彦にとってなんでもなかった。得意の木登りで木になる果実を採って食べていた。そうして冬になった時には、猿彦の家族はみんな死んでしまった。
一人になった猿彦は父親に生かされたのだと、その意志に報いようとそのまま森の中で暮らし続けた。しかし山ノ影の不幸はそれで終わらなかった。
疱瘡から二年後のこと。下痢をするものが次々と出始め、その排泄物は血で真っ赤。いわゆる赤痢である。
しかしこの赤痢は過去の病とは違い、ほかの村でも流行った。東の中腹に位置する中野原と上方一帯に広がる天野原も赤痢に襲われたのだ。この山ノ影、中野原、天野原の三つの村には共通点がある。それは天野原にある大きな湖の水を使って暮らしていることだ。この湖に運悪く落ちた病気の鳥の糞が原因であろうか?そんなことは誰も知る由のないことで、水が原因での病だなどと考える人は誰もいない。
山に暮らす猿彦は田植えや稲刈り、花忍の収穫を手伝って飯を貰うことはあったが、湖の水は飲んでいない。猿彦の住む西の森には、西の山から湧き出た水が流れる小さな川がある。その川の水を飲んでいるからだ。
山ノ影でまたもや伝染病が広まり始めると、猿彦は森から出ず村に近づかなくなった。
そんな猿彦には森で暮らすうちにできた友だちがいる。西の中腹にある村、西野原の少年で、名を石丸という。石丸は猿彦と同じ年齢であるが、猿彦のように森に住んでいるわけではない。山をうろつくのが好きで、猿彦のいる森まで下りて来ることがある。「石ちゃん」「猿ちゃん」と呼び合い、二人で崖下の蜂蜜を採ったりして仲良く遊んでいる。
赤痢の感染が蔓延して死ぬ者も多数出始めた頃に、石丸が血相を変えて森へ来た。
「猿ちゃん、逃げろ。今すぐ逃げろ!」
石丸が言うには、天野原、中野原、西野原が協力して山ノ影を焼き払うと言うのだ。赤い血は清浄なる神を敬う天野原では忌み嫌われている。鮮血の混じった便をする病が流行るのは悪霊の仕業であると天野原は考えた。ここ何年も感染病に見舞われている山ノ影こそ、悪霊に魅入られた村であると。
天野原では「上」こそが清浄で神の加護を受ける場所である。それは裏を返せば「下」は汚濁の地である。元々一番下に位置する山ノ影は四つの村の中では劣位に置かれている。しかも、前回の病では赤い出来物が全身にできて、生き残った者たちは痘痕で著しく見目が悪くなり、悪霊に憑りつかれたと言えるほどの変わりようである。そうしたことを総合的に考えて、山ノ影は悪霊に憑りつかれた村だと結論付けたのだ。
「山ノ影を皆殺しにするて、花畑以外を焼くて、今準備しとる、逃げろ。見つかったら殺される!」
「逃げるて、どこへ行くと?」
「西と。この山を全部越えれば別の国がある。急げ!」
(どこまでも連なるこの山に果てがあると?)
猿彦にはそんなことは信じがたい。しかし石丸はあると言う。こんな非常時に「下」にいれば殺されてしまうかもしれない。そんな危険を冒してまで下りてきてくれた石丸の言うことだ、きっとあるにちがいない。
「村の人に知らせんと」
「もう間に合わん。逃げろ!」
石丸の必死の形相に気圧されて、猿彦は西の山へ走り出したのだった。
つづく
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