梅すだれ

木花薫

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肥後の国

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予定通り朝までに山をくだった猿彦は、次の山も越えた。その山を越えてもまた山がある。
(この山の向こうに国があるとか?)
疑いが頭をかすめる。

二つ目の山はやけに高かった。木の種類は猿彦のいた西の森とあまり変わらなかったが、感覚として全く違うように感じる。強いて言うなら、この山の木は話しかけてこない。西の森の木々は、動物たちのように猿彦がいれば様子を窺うような気配があるし、登れば「元気かい?調子はどうだ?」と声をかけられているように思える。でもこの山の木たちは猿彦がいることにさえ気づいていないように静かなのだ。その違和感に、知らない場所に来たのだと思わされる。

お腹の空いた猿彦は登るのを途中でやめた。この山には実をつけた木が多い。三日間山を探索してお腹を満たした。元々山が好きな猿彦であるから、このままこの山に住もうかとも考えた。この静かな山をもっと知りたいという思いも出てきている。しかしまだ十六歳。石丸の言った「別の国」への好奇心がまさる。

(石ちゃんがあると言った国を見てみたかと)

甘い果実で心も体も元気を取り戻した猿彦は、山を越えようと頂上へ登った。するとそこで見たものは信じられない風景だった。山の向こうには平野が広がっている。低い山はいくつかあったが、もう高い山などない。生まれて初めて見る広々とした平坦な土地が広がっているのだ。

(あれが別の国?)

大きな平野に沿うように、これまた大きな湖が横たわっている。天野原の湖など比にならないほどの巨大な湖だ。

猿彦はごくりと唾を飲んだ。新しい世界の恐ろしさに身が震える。しかし天野原に支配された山の斜面の狭い村とは違う広々とした平野に期待も湧き上がる。飛びこんで行きたい衝動に駆られる猿彦は意気盛んに山を下り、次の低い山も一気に越えた。そうしたところ道に出た。獣道ではない。人間が通る道だ。

(この道の先に国がある!)

はやる気持ちが足を走らせる。小走りで道を進んでいくと、六里ほどで下り一辺倒になった。

(落ちた先は地獄か?それとも理想の国か?)

新しい国への扉へ体当たりするような気持で一気に下った。

やがて山を下り切り森も抜けると、農家や畑がぽつんぽつんと点在している。西の方角に山は見えない。山に囲まれていないなんて、慣れない感覚に不安な気持ちになる。それで畑で作業をしている人に尋ねた。

「この道の先には、何があると?」

「西へ行けば海だ。北へ行けばお城があると」

「うみ?おしろ?それはなんと?」

「おまえ海も知らんとか?見ればわかると」

猿彦は「うみ」を見ようと西へ進んだ。八里ほど進むと吹く風は塩の味がして肌にべたついてくる。体験したことのない塩っぽい湿気に、なにか恐ろしいものがあると予感しながら水辺に辿り着いた。そこは向こう岸もなく形なんてわからないほどに大きな湖だった。

近くに網を繕っている男性がいたので尋ねた。

「うみはどこにあると?この湖の向こうか?」

「何を言っとっと?これが海と」

子どもでも分かることを理解できない猿彦を、漁師はケラケラと笑った。この三十路の漁師、名を浜次郎はまじろうと言う。

「海も知らんと、どこから来たと?」

日向ひむかと」

「山を越えて来たとか。島原へ行く気か?あそこはやめとけ」

この頃、多くの者達が海の向こうの島原へ移住している。と言うのも、二年前に島原の住民はいなくなってしまったからだ。殺されたのだ。世に言う島原の乱で農民たちが藩主に反乱を起こしたが、幕府によって鎮圧されて三万人もの農民たちが殺された。人のいなくなった島原の土地は荒れてしまい、島原藩は復興の為に移住者を募っている。

浜次郎は猿彦も島原へ住みに来たのだと思った。しかし猿彦は島原のことも知らない。この何も知らない若者猿彦を明るい気性の浜次郎はうとむどころか面白がった。

山の人たちと違い、海の人たちは新しいものを受け入れやすい。
「海からなんでも流れて来る。人もあると。ただし死んどっと」
笑って話すが、人が流れつけば介抱し世話をし、亡くなっていれば埋葬もする。浜次郎は猿彦を連れて帰り家に住まわせることにした。

浜次郎の家には妻のタイと、三人の子どもがいる。上から十二、十、六歳。三人の子供たちから「さる!さる!」と慕われたものだから、猿彦は森での一人の生活とは一変して騒がしい毎日を過ごすようになった。タイも見知らぬ猿彦を怖がることもなく、まるで初めから家族であるように接したし、村の人たちも山から下りて来た猿がいると、珍しがりながらも温かく迎え入れた。
「明日から海へ出る。猿も来い」
浜次郎に言われて猿彦は初めて船に乗った。

浜次郎は普段有明海で漁をしているが、冬は近隣の村の者たちと一緒に遠海へ出る。島原の乱の前は年に四回は出ていたが、乱後は二回しか許可が下りなくなった。外国からもたらされた異教、切支丹の反乱であったことから、外へ出ることも中へ入ってくることも幕府から厳格に禁止されているのだ。

「それでもよ、殿様もうまい魚は食いたいとよ」

そう言って笑う漁師たちに、年に二回だけ遠海での漁が認められている。

十人乗れる大型の船五隻で有明海を出て東シナ海へ入る。果ての見えない大海で、いつもの魚よりもっと大きな魚をたくさん獲るのだ。

獲った魚は船の上ですぐにさばく。腹を開いて内臓を取り出して塩を塗り込む。そして船上へ並べて干すのだ。内臓も農家が肥料に欲しがるから捨てずに取っておく。猿彦にはこの古くなった魚の臭いに堪えられない。牛糞の臭いには慣れているが、魚の臭いは初めてで、あまりの臭さに鼻が利かなくなった。

しかし、そんな猿彦が得意になれることがこの船の上にはあった。それは魚をさばくこと。石丸からもらった黒曜石の石刃で、浜次郎も驚くほどきれいに大きな魚をあっという間に捌くのだ。山で鳥や動物を捌いていた猿彦にはお手の物で、その手付きに「猿、やるな、すごいと!」と道具を使う猿をみんなが褒めはやした。すっかり気分を良くした猿彦だが、残念なことに、その得意の捌きを披露できないくらい船に酔った。

昼も夜も一日中死んだ魚の臭さの中で揺られて、気分が悪くて仕方ない。仕舞いにはゲーゲー吐く始末。「しっかりしろ。そのうち慣れると」と励まされたが、猿彦にとって水の上は地獄。山の中で生まれ育った猿彦には、山を出て生きる場所などないのだと言われているように思えた。

ある日、五隻で囲んで追い込んだ網に大きな魚が何匹もかかった。それを一斉に引き上げていたとき、船は大きく揺れて猿彦は海に落ちた。

息もできずに海の底へ落ちていく猿彦はあまりの苦しさにもがくのだが、どれほどもがいても浮き上がることができない。水中に入ったのはこれが初めて。両足両腕を動かそうとしても、水圧に負けて思うように動かない。沈んでいく猿彦を隠すように泡が立ちこめる。太陽から降り注ぐ光で煌めいている水上が、泡に重なって見えなくなっていく。

もうあそこへ戻ることはできない。

「死」へと落ちていく中、山ノ影でのことが走馬灯のように頭を駆け巡る。兄たちとケンカして父親に殴られたことやら、母親がフォロウするように温かい握り飯を食べさせてくれたことやら、生まれてからの些細なことすべてを鮮明に追体験した。森に入り浸り、感染症で家を追い出され、そして森から逃げ出したところで、猿彦はこう思った。

(おいはあの時死ぬはずやった。逃げずに死ねばよかったと)

山ノ影のみんなは死んだではないか。山から逃げようがやはり自分も死ぬ身なのだ。しかし息のできない苦しさの中で、生命力がうごめく。

(死にたくない。おいは死にたくないと!)

生きることへの衝動がめくら滅法に手と足を動かせた。生きることを諦めることなど出来ないのだ。

最期の力を振り絞って足掻あがく猿彦に、幸運にも浜次郎が気づいて飛び込んで来た。猿彦を引き上げようとするが、足掻き続ける猿彦をうまくとらえられない。それに気づいた船の者たちは呆れて怒鳴った。

「猿は泳げんとか。動くな。浜次郎までおぼれっと!」

猿彦は観念するように助けに来てくれた浜次郎に身を委ねた。するとすぐに息が楽になった。水中を脱したのだ。光り輝く太陽が見える。

(眩しかと)

また助けられた。石丸に続き、今度は浜次郎に助けられた。

(生きとると。山ノ影のみんなは殺されたというのに、おいはまだ生きとると。なんでじゃ?!)

猿彦は助けられた喜びよりも、死ねない自分、生きたいともがく自分を責めた。村のみんなを裏切るように逃げ出して生きる場所などないと言うのに、まだ生きたいと心の底から思ってしまう。そんな自分は悪い奴にしか思えない。船上で自己嫌悪に泣く猿彦である。しかしそれに気付く者などいない。

この日は今までにない大漁で、漁師たちは威勢よく声を合わせて網を引き揚げている。その声は、あの石丸の叫び声「逃げろ」と重なる。どちらも血気盛んに生きる者の叫び声だ。

この声を聞きながら、猿彦は船床にうずくまり涙にくれたのだった。

つづく
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