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天草
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自分のしでかした罪に直面した松之助は気怠さに襲われた。これから自分はどうなってしまうのか。家族は、村はどうなってしまうのか。悩んでも答えは出ない。ただ苦しいだけ。まるで磔にされているようである。そんなんだから、この苦しみを分かち合えるイエスへの想いは消すどころか、ますます強くなっていく。
しかし次の日、猿彦と寺へ来たことでイエスへの想いが揺らいだ。雲十の「心がすべてを作り出す」という言葉が引っかかったのだ。
松之助は切支丹の集まりに行ったことが父親にばれて殴られるのではと心配していた。案の定、そのとおりになった。イエスは自分を裏切ろうとしている者がいると、弟子たちに向かって言っていた。そしてそのとおりになった。
最近切支丹が首を切られたのも、切支丹だとばれて首を切られるのではと恐れていたから、そのとおりになったのでは?
心のとおりに現実が作られていく。
猿彦が毎日二回も寺へ通い字を習いお経を暗唱しようと頑張っているから、その理由を尋ねた時に猿彦はこう言った。極楽へ行く為だと。その時の猿彦の顔は自信に満ち溢れていて、そうなることを信じて疑わない堂々とした言いっぷりだった。今思い出すと、きっと猿彦は極楽へ行くのだと思わずにはいられない。
それに加え、猿彦はこんなことも言った。
「おいが阿弥陀仏を唱えることで、死んだ父さんも母さんも兄さんたちも、殺された村の人たちも、みんな極楽へ行けるような気がすると」
きっとそうなのだろう。みんな極楽で猿彦を待っているのだ。だから猿彦は一人でもこうして生きていられるのだ。家族もいなくて可哀想な身の上ではあるが、何のしがらみもなく一人で気ままに生きている。松之助が欲しくて仕方ない、でも手に入れられない自由。それを持っている猿彦を松之助は実は密かに憧れている。猿彦に比べて自分はどうだ。父っちゃんたちを巻き込んで首を切られるかもしれないと怯えている。しかも伊予への未練は日に日に大きくなっていくばかりだ。
伴天連の会で見たマリア。あの姿がお藤に重なる。きっとお藤は誰か男と一緒になって子どもを産む。あのマリアのように赤ん坊を抱くことだろう。それを考えると嫉妬と怒りで腹の底が煮えくり返る。誰とも知らぬ男をお藤共々切り殺してしまいたい。そんなことを考えても自分が苦しくなるだけだとわかっているのに、そう思うことをやめられない。しかし思い続けていたら現実になってしまう。お藤を他の男にとられてしまう。それだけは絶対に嫌だ。
松之助は雲十に尋ねた。
「仏陀はどうやって死んだんや?」
「仏陀様は弟子たちに見守られて静かに息を引き取ったそうだ」
弟子に裏切られて殺されたイエスと何と違うことか!
おもむろに松之助は懐に手を入れた。ビリッと布を割く音を立てると十字架を取り出した。着物の胸の内に小さな布を縫い付けて十字架を隠し持っていたのだ。猿彦はまたもや「ふぇっ」と音を出して息をのんだ。その十字架は猿彦が拾ったものなのだ。松之助に渡したことなど忘れていたから、なぜ松之助がそれを持っているのかわからずに目を疑った。
十字架を前に置いた松之助は雲十にこう頼んだ。
「これはもういらん。経文が欲しい。くれんか?」
「寺へ通え」
嬉しそうに笑う雲十は月光に照らされて光を放っているように見える。その輝きはまるで阿弥陀様。猿彦が「雲十さんは阿弥陀様の化身と」と言っていたことが、今なら松之助にもわかる。
(わいは大丈夫や。わいも父っちゃんも母ちゃんもお清も栗坊も、誰も首なんか切られん。みんな極楽へ行ける。お藤の幸せも考えられるようになる)
そして次の日から松之助は猿彦のように朝夕寺へ通うようになった。
朝は読経後に字を習う猿彦の横で、松之助は阿弥陀経を書き写した。字を知っているとは言え、お経の漢字は見たこともない難しいものばかり。一画一画、間違わぬように目を凝らして書いていった。
夕刻は阿弥陀経の内容を雲十が解説してくれて、それを猿彦も一緒に聞いた。と言うのも、雲十の話は猿彦にした時とは違うのだ。例えば、猿彦には仏陀の弟子のひとり、周利槃陀伽について詳しく話したが、松之助には仏陀の後年の二十五年間を付き添った阿難陀について事細やかに話して聞かせた。
阿難陀は誰よりも近く長く仏陀のそばにいた弟子で、聞いたことを一語一句覚えているほどに記憶力が良かったことから、仏陀の説いたことを丸暗記していた。それ故に多聞第一と呼ばれている。仏陀の生存中には無理だったが、その死後悟りに達した。
「誰よりも多く仏陀様の教えを聞いたのが阿難陀だ。仏陀様の多くの尊い教えを、『如是我聞』私はこう聞きましたと後世に伝えたのだ。そのおかげで仏陀様の亡き今もこうして教えを聞くことが出来るのだぞ」
作之助という偉大な父親への不満を募らせている松之助に、今置かれている立場のありがたさを暗に示した雲十である。
こうやって話す相手に合わせて解説の内容が変わるから、猿彦にとっても別の視点が得られる貴重な時間である。
元々頭の良い松之助であるから、写経が終わる一月後には全文を暗唱できるようになっていた。その速さにより一層松之助を尊敬するようになった猿彦は、松之助は必ずこの天草を背負って立つ男になると信じて疑わないのだった。
つづく
しかし次の日、猿彦と寺へ来たことでイエスへの想いが揺らいだ。雲十の「心がすべてを作り出す」という言葉が引っかかったのだ。
松之助は切支丹の集まりに行ったことが父親にばれて殴られるのではと心配していた。案の定、そのとおりになった。イエスは自分を裏切ろうとしている者がいると、弟子たちに向かって言っていた。そしてそのとおりになった。
最近切支丹が首を切られたのも、切支丹だとばれて首を切られるのではと恐れていたから、そのとおりになったのでは?
心のとおりに現実が作られていく。
猿彦が毎日二回も寺へ通い字を習いお経を暗唱しようと頑張っているから、その理由を尋ねた時に猿彦はこう言った。極楽へ行く為だと。その時の猿彦の顔は自信に満ち溢れていて、そうなることを信じて疑わない堂々とした言いっぷりだった。今思い出すと、きっと猿彦は極楽へ行くのだと思わずにはいられない。
それに加え、猿彦はこんなことも言った。
「おいが阿弥陀仏を唱えることで、死んだ父さんも母さんも兄さんたちも、殺された村の人たちも、みんな極楽へ行けるような気がすると」
きっとそうなのだろう。みんな極楽で猿彦を待っているのだ。だから猿彦は一人でもこうして生きていられるのだ。家族もいなくて可哀想な身の上ではあるが、何のしがらみもなく一人で気ままに生きている。松之助が欲しくて仕方ない、でも手に入れられない自由。それを持っている猿彦を松之助は実は密かに憧れている。猿彦に比べて自分はどうだ。父っちゃんたちを巻き込んで首を切られるかもしれないと怯えている。しかも伊予への未練は日に日に大きくなっていくばかりだ。
伴天連の会で見たマリア。あの姿がお藤に重なる。きっとお藤は誰か男と一緒になって子どもを産む。あのマリアのように赤ん坊を抱くことだろう。それを考えると嫉妬と怒りで腹の底が煮えくり返る。誰とも知らぬ男をお藤共々切り殺してしまいたい。そんなことを考えても自分が苦しくなるだけだとわかっているのに、そう思うことをやめられない。しかし思い続けていたら現実になってしまう。お藤を他の男にとられてしまう。それだけは絶対に嫌だ。
松之助は雲十に尋ねた。
「仏陀はどうやって死んだんや?」
「仏陀様は弟子たちに見守られて静かに息を引き取ったそうだ」
弟子に裏切られて殺されたイエスと何と違うことか!
おもむろに松之助は懐に手を入れた。ビリッと布を割く音を立てると十字架を取り出した。着物の胸の内に小さな布を縫い付けて十字架を隠し持っていたのだ。猿彦はまたもや「ふぇっ」と音を出して息をのんだ。その十字架は猿彦が拾ったものなのだ。松之助に渡したことなど忘れていたから、なぜ松之助がそれを持っているのかわからずに目を疑った。
十字架を前に置いた松之助は雲十にこう頼んだ。
「これはもういらん。経文が欲しい。くれんか?」
「寺へ通え」
嬉しそうに笑う雲十は月光に照らされて光を放っているように見える。その輝きはまるで阿弥陀様。猿彦が「雲十さんは阿弥陀様の化身と」と言っていたことが、今なら松之助にもわかる。
(わいは大丈夫や。わいも父っちゃんも母ちゃんもお清も栗坊も、誰も首なんか切られん。みんな極楽へ行ける。お藤の幸せも考えられるようになる)
そして次の日から松之助は猿彦のように朝夕寺へ通うようになった。
朝は読経後に字を習う猿彦の横で、松之助は阿弥陀経を書き写した。字を知っているとは言え、お経の漢字は見たこともない難しいものばかり。一画一画、間違わぬように目を凝らして書いていった。
夕刻は阿弥陀経の内容を雲十が解説してくれて、それを猿彦も一緒に聞いた。と言うのも、雲十の話は猿彦にした時とは違うのだ。例えば、猿彦には仏陀の弟子のひとり、周利槃陀伽について詳しく話したが、松之助には仏陀の後年の二十五年間を付き添った阿難陀について事細やかに話して聞かせた。
阿難陀は誰よりも近く長く仏陀のそばにいた弟子で、聞いたことを一語一句覚えているほどに記憶力が良かったことから、仏陀の説いたことを丸暗記していた。それ故に多聞第一と呼ばれている。仏陀の生存中には無理だったが、その死後悟りに達した。
「誰よりも多く仏陀様の教えを聞いたのが阿難陀だ。仏陀様の多くの尊い教えを、『如是我聞』私はこう聞きましたと後世に伝えたのだ。そのおかげで仏陀様の亡き今もこうして教えを聞くことが出来るのだぞ」
作之助という偉大な父親への不満を募らせている松之助に、今置かれている立場のありがたさを暗に示した雲十である。
こうやって話す相手に合わせて解説の内容が変わるから、猿彦にとっても別の視点が得られる貴重な時間である。
元々頭の良い松之助であるから、写経が終わる一月後には全文を暗唱できるようになっていた。その速さにより一層松之助を尊敬するようになった猿彦は、松之助は必ずこの天草を背負って立つ男になると信じて疑わないのだった。
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