梅すだれ

木花薫

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吉利支丹

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六一郎がいなくなったことをまるで息子を失ったように悲しんだ男が、六郎太のほかにもう一人いる。隣の村の与兵衛よへえである。齢五十であるが、その風貌は七十に見えるほどに老け込んでいる。この数年の出来事が与兵衛をそうさせた。

何を隠そう、与兵衛は生粋の吉利支丹キリシタンで島原の乱で原城にたてこもった一人だ。原城とは乱の最後に吉利支丹たちが籠城した城で、有明海を挟んで天草の向こう側にある。なぜ与兵衛が有明海を渡ってまで籠城することになったのか。

最初は天草で起こった一揆に参加しただけだった。延慶寺の裏山にある本渡城を攻めるのに近隣の農民が多数一揆軍に加勢した。与兵衛もその一人だった。

一揆に参加したのにはもちろん訳がある。四年前に幕府が鎖国令を出して海外への渡航はもちろん、海外から入ってくることも禁じた。それに呼応するように海外の宗教を信奉する吉利支丹への弾圧が激しくなり強制的な改宗が大々的に行われた。住民の三人に二人が吉利支丹であったが、そのほとんどが棄教させられたのだ。

そうしたところ翌年天草では作物が育たなかった。その翌年には地震が起こり三万戸を超える家が倒壊した。それにとどまらず、その翌春には雨が降り続き夏は日照りで干上がったのだ。

これを益田四郎は神を捨てたことで起こった天変地異だと叫び、元吉利支丹たちを復宗させる運動を始めた。この三年間の飢饉で一人息子の子どもが死んでしまった与兵衛も、益田四郎に強く共感した。

益田四郎は関ヶ原の戦いで敗れた肥後の宇土うと城主、小西こにし行長ゆきながの家臣の息子である。宇土うととは天草と熊本の間にある宇土半島のことで、猿彦が世話になった浜次郎の村の南側に位置する。

小西家が没落して浪人になった父親は、母親の実家である宇土の江部えべ村で畑を耕す農民になった。しかし農民と言えど、利発で頭のよい息子四郎に期待を寄せて長崎で勉学をさせた。そして四郎が十六歳になると、生まれ故郷である大矢野島おおやのじま、宇土の南にある上天草へと連れていった。この年は上天草の南蛮寺にいた神父が禁教令の発令により海外へ追放された際、「二十五年後に神の子が現れて人々を救う」という予言を残した二十五年後であった。十六歳とは思えない豊富な知識と弁舌で説教をして回る四郎を、予言された神の子だと信奉する吉利支丹たちは、「四郎が海の上を歩いた」だとか「盲目の子どもの目に手を当てて見えるようにした」だとか、イエスの起こした奇跡を四郎もしたと噂するようになった。

与兵衛は四郎の姿を見た時にその噂を信じた。白い着物を着た色白の少年で、黒く塗られた歯と下ろした黒い前髪がその白さを際立たせ、神々しく輝いている。つののように後頭部から天へと突き上がる茶筅髷ちゃせんまげからは大将らしい強さも感じた。そしてイエスを思わせるような穏やかな声で、しゅを信じることの大切さを説くものだから、与兵衛はすっかり心服して言われるがままに一揆に参加した。 

当時天草藩の領主は肥前の国、唐津からつ藩の城主、寺沢広高てらさわひろたかであった。寺沢は天草の陸と砂州で繋がっている西の島に富岡城を築き、唐津藩の筆頭家老である三宅藤兵衛みやけとうべえを番代においた。天草の中央に位置する本渡城を一揆軍が責めると、三宅が千五百人の兵を率いて鎮圧しに来たが、数で圧倒的に上回る五千人の一揆勢がこの三宅を討ち取るという大勝利に終わった。

勢いに乗る一揆軍であったが、次に攻めた天草の西にある富岡城では苦戦を強いられた。富岡城は天草側である島の東の隅の高台に建てられていて、海からの攻撃には東の海にある巴形の砂嘴さしに守られ、陸からの攻撃には陸と繋がる南の砂州からしかできない難攻不落の城である。勢いに乗る一揆軍の数は一万人に膨れ上がり、一方の富岡城兵は三千人ほどであったが城を落とすことはできなかった。幕府からの援軍が来ると知った一揆勢は挟み撃ちにされるのを恐れて富岡城を諦め、島原の反乱軍と合流すべく有明海を渡り原城へと移動したのだ。

しかし、この時多くの農民は村へ帰ってしまった。益田四郎に復宗させられた村の多くも、幕府軍を恐れて藩側へと寝返った。与兵衛の村もそうだった。なのに与兵衛が原城へと益田四郎に付き従ったのは、息子が望んだからだ。与兵衛に負けず劣らず益田四郎に心酔し盲従する息子に説き伏せられ、与兵衛の妻と息子の嫁も連れて四人で有明海を渡った。

原城は有明海に突き出していて三方を海に囲まれている。南北に十二町(約1.5km)、東西に五町(約500m)の巨大な敷地だ。出身の村ごとに本丸、二の丸、三の丸が守衛場所として割り当てられ、指揮を執る元武士の統率に従いそこに住んだ。いくつもの集落が突如現れて大きな村を作ったかのようであった。

十二月に始まった籠城では三万人を超える農民が城へ来たが、天草の者はその一割に過ぎなかった。ほとんどは島原の農民たちであった。しかしこの島原の者たちは必ずしも吉利支丹ではなかった。合計十二万人もの討伐軍が次々と幕府から送られてきて一揆軍と戦うのだから、当然周辺の村はこの戦闘に巻き込まれる。数を増やしたい一揆軍に「城に立て籠もった方が安全だから」と説得されて城へ移動してきた者たちも多数いた。

最初は籠城ろうじょうしに来る島原の民があとからあとから増えていったが、一月経ったら逆に出て行く者たちが出て来た。と言うのも、どれだけ追い返しても幕府軍の兵は尽きることなく襲って来るが、こちらの食料は尽き始めたのだ。用意してあった兵糧米ひょうろうまいを食べ尽くしてしまい、補給の米は藩側に邪魔されて届かない。有明海に潜って採った海藻を食べるしかない有り様だ。正月だからだとか畑の作業があるからだとか理由をつけて出て行った者もいたし、夜逃げ出す者たちも後を絶たず、三万人いたのが二万人に減った。

与兵衛も逃げ出すことを考えた。ここへ来た当初は毎日益田四郎の説教を聞けることに心が躍り、しゅのために戦う使命に燃えていたが、息子の嫁が流産したのだ。本人も気づいていなかったようだが、城へ来た時には妊娠していたらしく、飢えて人が減り城内の雰囲気が悪くなり始めた二月に腹が痛いと寝込み、死んだ胎児を産み落とした。まだ髪は生えていなかったが握られた小さな手足の先は、五本の指に分かれていた。今まさに人間になろうとしていた矢先に死んでしまった。

二年前に子どもを失くしたばかりだったから、息子夫婦の気の落としようと言ったらない。もちろん与兵衛も意気消沈した。そんな与兵衛を妻のおかきは「城なんぞに来ねえで村にいたら生まれとっとと」と籠城したことを責めるものだから、与兵衛は原城へ来たことを深く後悔するようになった。追い打ちをかけるように、流産から三日後に嫁も死んでしまった。もうここには居られぬと意を決した与兵衛は、嫁の亡骸なきがらから離れず気息奄々きそくえんえんな息子を鼓舞して城を抜け出した。

夜皆が寝静まると与兵衛たちは海へ潜った。有明海を二里半(10km)泳げば天草に着く。皆の食料の為にと女たちが海藻を採った時、妻のお柿は誰よりもたくさん採った。泳ぎが得意なのだ。お柿なら十分泳いで渡れる距離だ。無事天草へ帰ることを疑うことなく三人で海を渡り始めた。

上天草のほうへ行けば二里もせずに湯島があるが、そこは藩側に抑えられている。湯島を避けて、島原半島を右手に西へ西へと泳いだ。

 (天草へ帰りたい)

ただ一心に願って泳いだ。

ところが半分ほど泳いだところで、与兵衛は後ろにいるはずのお柿がいないことに気づいた。

「おかき」

と呼んでも返事はない。この夜は新月。月がいないことをいいことに星たちはランランときらめいているが、自分たちが輝くだけで与兵衛たちを照らすほどの光を放っていない。その暗さは敵に姿を見られなくていいのだが、お柿の後ろを泳いでいた息子の太郎にさえお柿がいなくなったことを気づかせなかった。

「おかき、おかき!」

呼ぶ声を吸い込むほどに深い闇。息子は捜してくると言って潜ってしまった。

黒い海に漂って待つ与兵衛であったが、息子も戻って来ない。息子までもが闇にのまれてしまった。黒しかないこの世にひとりぼっちになった与兵衛は、冥界へ入り込んだような気分になる。不気味な恐怖を「おかき!たろう!」と大声を出して払い、潜っては泳ぎ、潜っては泳ぎを繰り返して周辺を探し回った。

と、水面に浮いている何かにぶつかった。

「おかき!」

触ってみると、なんとイルカである。丸太のように横たわって寝ているのだ。

「はあ…」

と力の抜ける与兵衛に、イルカが目を覚ました。きゅーきゅーと鳴いて乗れと言わんばかりに背中を押し付けてくる。お柿と息子を置いて行けるわけがない。潜ろうとすると邪魔するように、イルカは与兵衛の下に潜り込んで上へと押し上げて来る。

イルカを追い払いながら何度も潜ろうと試みるが、なぜだかイルカは徹底的に阻んでくる。揉み合ううちに体力は消耗し溺れそうになる与兵衛は、

(このまま皆と一緒にこの海で死んでしまおう。それがいい)

と生きることを諦めたが、イルカはそれさえも邪魔をした。背中に与兵衛を乗せるとスイスイ泳ぎ出したのだ。天草へ向かって。

次の日の朝、与兵衛は目標だった天草の鬼池の浜に打ち上げられていた。

つづく
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