梅すだれ

木花薫

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御船

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この男の名まえは庄右衛門という。生まれは肥後の御船みふねで、魚醤の製造販売をしている商家の三男坊である。しかしその記憶は庄右衛門にはない。と言うのも五つの時に家は取り潰されて家族も使用人も皆殺しにされたからだ。

あれは春を迎えて種まきに忙しい季節のことだった。庄右衛門の世話役をしていた使用人のお菊は姉の出産が農繁期に重なったことで、姉の代わりに農作業をするために天草の実家へ帰省した。姉の出産が無事終わり産後の体調もよいことから一月ひとつきほどで御船へ戻ったのだが、驚いたことに誰もいない。お屋敷はもぬけの殻。何事かと呆然と立ち尽くすお菊であるが通りかかった隣の味噌屋の使用人から、

「五日前にお役人が来て吉利支丹や言うてとらえてったと。帰って来たらあかん。逃げ」

と小声で言われた。

「旦那様も奥様も坊ちゃんたちも?」

あまりのことに信じられないお菊に、

「おまんはおらんとよかったと。使用人もみんな打ち首と。拾った命を大事にな」

と逃げるように行ってしまった。

お菊はお屋敷を立ち去ることなどできない。

(まさか坊ちゃんも?あんな小さな子まで捕えて殺すとか?そげなひどいことなんでできよると?)

涙を流しながら屋敷の中を歩き回る。坊ちゃんを背負って歩いた廊下を。走る坊ちゃんを追いかけた廊下を。自然と足は蔵へと向かった。鍵は開いていて中の物は盗人が持っていったらしく乱雑に散らかっている。しかしそんなことには目もくれずお菊は隅の敷物の敷いてある所へ行った。上には大きな箱が置いてあるがその大きさからは予想もできないほどにこの箱は軽い。中が空っぽなのだ。それをひょいと持ち上げて横へ置くとお菊は敷物をめくった。木の板が置いてあってそれも取り外した。するとそこに穴が現れた。人の胴体ほどの円の大きさでくりぬかれている。お菊は両手を挙げてするりと足から入った。中は人の背丈の深さがあり五人が立って入れるほどの広さだ。真っ暗だがお菊にはどこに何があるか分かっている。置いてある蝋燭に火をつけた。揺らめく炎にマリアの姿が現れる。掛け軸が壁に掛けてあり、赤ん坊を抱いたマリア様が優しく微笑んでいる。金粉で描かれたその姿は暗闇でも眩しいほどだ。お菊は跪くと「なんでこげなことを」と声を出してむせび泣いた。

ちょうどお菊が奉公を始めた時に三男坊の庄衛門が産まれた。忙しい奥様に変わりお菊が庄衛門を背負ってあやして育てた。

「なんで坊ちゃんまで」

自分がいたら坊ちゃんを死なせはしなかった。必ずどこかに隠して生き延びさせたのに。無念でならないと泣くお菊であったがはたと気がついた。旦那様や奥様達が同じように考えないわけがない。なぜ蔵の鍵は開いていたのだろう。

お菊はろうそくを手に持つと周りを照らした。決して見逃すまいとゆっくりと照らしながら回った。と、隅に丸い塊がある。

「ぼっちゃん!」

ぐったりと冷たい庄右衛門がうずくまっている。お菊は宝物を見つけたように抱きかかえた。

「ぼっちゃん!ぼっちゃん!」

と何度呼び掛けても目を開けることもなく息もしていない。しかしその夜は屋敷に残っていた布団の中で坊っちゃんを抱いて寝た。庄衛門の上に二人の兄がいて、使用人が何人もいて賑やかだったお屋敷では夜だろうと誰かしらの気配を感じるのが常であった。なのに物音ひとつしない。坊っちゃんと二人冥土の入り口に取り残されたようで淋しさが体の奥から湧き上がってくる。お菊は布団を頭からかぶると「奥さまあ」とすすり泣いた。

十二歳で奉公に上がり庄衛門の子守を任されたお菊は奥様と一緒にいることが多かった。マリア様について熱心に語り聞かせてくれた奥様はお菊にとってマリア様のようであった。年の離れた上の兄二人は正反対の性格で、感情を表に出さず人付き合いの下手な十六歳の長男と騒がしく人懐っこい十四歳の次男。個性の違う二人に足りないものを補い合わせて魚醬屋の跡を継がせようと奥様は熱心に教育していた。機転が利き利発な長男の頭の良さを褒め、人から愛される次男の愛嬌の良さを褒め、長男の愛想のなさや次男の人騒がせな性格を許し受け入れていく姿に、お菊はマリア様を重ねていたのだ。

昨年から長男の嫁を探し始め、「あそこの娘は我が強いからダメだ」「あれは同じように愛想がないからダメだ」と厳しく選んでいたものの、魚を卸しに来る漁師の大将の娘をもらうことになり、「あんな娘と合うかしら」と不安を口にしていた。今年は若奥様が来てますます賑やかになるはずだったのにみんないなくなってしまった。

お菊は布団の中で涙と思い出と庄衛門を抱きしめて夜を過ごした。

次の日の朝は夜が明け切らぬうちに屋敷を出た。庄衛門を赤ん坊の頃のように紐で背中にくくりつけてその上に羽織を着て、きのう歩いて来たばかりの大矢野島おおやのじま(上天草)への道を足早に進んだ。薄暗い道を逃げるように歩きながら、暇をもらって帰ったときのことを思い出す。お菊の着物の裾を握って「おいもいっしょに行く。お菊といっしょに行く」とすがった坊ちゃんの泣き声が今も鮮明に聞こえる。「連れて行けばよかったと」とどだい無理なことではあるが後悔せずにはいられない。

川をふたつ越えたところで夜が明けた。宇土半島を八代海沿いに十里歩く道すがらお菊は背中の坊ちゃんに話しかけた。

「坊ちゃんが見たがっていた海ですよ。坊ちゃんの好きな魚がたくさん泳いでますよ。今日は波が穏やかですね」

頭上でさんさんと輝く太陽を浴びていたら日光浴をさせるために坊ちゃんを背負って庭を歩いた時と同じような気持ちになる。返事などないというのに話し続けた。

大矢野島へ渡る船着き場に着いた時には昼を一刻過ぎていた。昨日の朝早く渡って来たばかりであったから乗せてくれる漁師はお菊のことを覚えていた。寝ている子を背負っているし怪訝な顔をするから、

「病気の坊ちゃんを療養させることになったと」

と嘘をついて乗りこんだ。大矢野島へ渡り半刻ほど西へ歩くとお菊の生まれ育った登立のぼりたてへ着いた。上天草の最北端に位置する登立のぼりたては湿地に囲まれた小さな村で八代海で魚を捕り畑で野菜を作り生きている。

奉公へ帰ったはずのお菊が戻ってきて家の者たちは「首になったとか」と驚いたが、死んだ坊ちゃんを背負っていると知ると「なにがあったと」と驚愕した。味噌屋の使用人から聞いたことを話すと、

「お菊が戻ってきたら必ず見つけてくれると信じてお隠しになったと。でも遅かったとか。体を拭いてやる」

と婆ちゃんがしぼった手拭いを持ってきた。

「きれいに拭いてから埋めてやらんと」

と言う婆ちゃんに、

「坊ちゃんを埋めることなんてできんと」

とお菊は抱いたまま庄衛門を放そうとしない。

「何を言うとっと。一生抱いとるつもりとか?奥様が泣いとっと。埋めてやらんと」

婆ちゃんに叱りつけられたお菊は渋々庄衛門を渡した。婆ちゃんは庄衛門の着物を脱がせて床に敷き、その上に寝かせて体を隅々まで拭き始めた。

「きのうの昼には死んどったと言うたなあ。それにしては柔らかいと。」

といぶかしげに庄衛門の腕や足を動かした。手のひらを小さな胸に当ててしばらく待つと、

「この子は死んどらん。着物の中へ入れて抱いておけ」

とお菊に庄衛門を返した。お菊が言われたとおりに裸の庄衛門を着物の中へ入れ、肌を合わせて抱いていると、婆ちゃんは鍋に水を汲んで昼間だというのに囲炉裏に火をつけて湯を沸かし始めた。そして自信ありげに説明した。

「その子は死んだみたいになっとるだけと。真っ暗な中でさぞかし怖かったことやろう。あまりの怖さで心臓の動きが悪くなっただけと。温めてやれば生き返る」

その時お菊は「あ」と声を上げた。庄衛門の胸がどくんとひとつ打ったのだ。

「ばあちゃん、坊ちゃんの胸が動いたと!」

と叫ぶお菊には床下のマリア様が見えた。

(マリア様がお助けくださった)

奉公に出て五年間毎月あの床下でマリア様の前に跪き祈りを捧げてきた。それが今実ったのだ。お菊はあの祈りの時間はなんと神聖なことであったかと、使用人にまでマリア様の前で祈ることをお許しになった旦那様と奥様への感謝の気持ちでいっぱいになった。

一刻ほどしたら庄衛門の体は温かくなり胸もたくさん打つようになった。

「ばあちゃん、坊ちゃんが生き返ったと」

熱い涙を目に溢れさせるお菊に婆ちゃんは冷静だった。庄衛門をお菊の胸から取り出してさっきのように着物の上に寝かせると湯を絞った手拭いで体を拭いた。拭き終わると「まだ本調子じゃあない。今日は一日抱いておけ」とお菊に返した。

一刻ほどしたら庄衛門がスースーと寝息を立て始めた。お菊は「もうこれで大丈夫。いつもの坊ちゃんと」と安心した途端、昨日からの疲れが出て寝てしまった。そのまま朝まで寝入ったお菊は夢の中で奥様からマリア様の話を聞いていた。

「マリア様のお許しはどのような苦しみも消し去ってくれるのですよ。マリア様は巡礼中にいなくなった息子イエスを咎めることもなくお許しになりました。神の子として宣教する息子イエスを温かく見守り続け、磔にされてもまだ見捨てることなく息子イエスをお許し続けたのです。受難を背負うイエス様の苦しみをマリア様は許しを持って引き受けられたのです。許すのです。許すことが許される者と許す者に喜びを与えるのです。災いを遠ざけるのです。お菊、許しなさい。今日しでかしたことをすべて許すのですよ」

つづく
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