梅すだれ

木花薫

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雑賀

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この頃、滝たちが生まれ育った関東も移り住んだ畿内もずっと西の九州も、その遙か南の琉球もどこもかしこも争いだらけであった。地侍による自衛自治区であり大名の支配を受けない雑賀さいかとは言え、各地の大名が争う戦国時代において争いと関わらずにいることはできず、雑賀の鉄砲隊は各地の大名の傭兵部隊として戦いに参加している。

大名の中でも特に勢いのすさまじい織田信長が、京都を牛耳る三好三人衆と激しく争っていて、雑賀の鉄砲隊は三好三人衆の傭兵部隊として織田信長と戦うようになり、同じ紀の国でありながら紀ノ川の向こうの根来ねごろの鉄砲隊は織田信長側の傭兵となり、戦場では雑賀の鉄砲隊と敵対している。もちろんそれは京都での戦いの話しであって、根来ねごろが紀ノ川を越えて雑賀を攻めてくることはないが、物騒な気配は阿波から運ばれてくる鉱物の量の多さに表れている。

阿波やその奥に位置する伊予と土佐は鉄砲の玉の原料となる銅を産出する鉱山が多数ある。そこで産出された銅は南街道と呼ばれる吉野川を船で下り、鉄砲を製造している雑賀へ運ばれる。銅だけではない。伊予で採掘される輝安鉱きあんこうは銅と混ぜるとその硬度を増すことから、大量に掘り出されてこれまた銅と一緒に運ばれてくる。さらに火薬に必要な硫黄も大量に採掘されて、雑賀や根来の鉄砲部隊へと運ばれてくる。滝たちが握り飯を売る海岸には、鉄砲隊の為の船がひっきりなしに行き来するようになっている。

その上、大名の支配をうけない雑賀は抗争を続ける大名たちの会談の場所としての使用価値が高く、各地の大名の重臣たちが情報交換や裏交渉をするために雑賀へ集まってくる。滝が通った墨絵の宿屋も、武家人をもてなすために有名絵師の墨絵を取り寄せて飾っているのだ。

陸が荒れれば海も荒れる。瀬戸内の海賊の活動が活発になり、堺経由で京都へ運ばれていた物資が、海賊を避けて雑賀経由で京都へ入るようになった。

日を追うごとに増えていく船の数。握り飯を売る滝たちにとっては、客の数が増えて喜ばしいが、運ばれてくる物は戦に使われる物ばかり。そのことを考えるとずらりと並ぶ船から目を背けてしまう。
(父ちゃんは雑賀は安全だって言うけど、ここだって人は争って殺し合ってるじゃないか)
刀を差した武士が船から降りて来るのを見て、滝はため息をつく。不穏な時代の空気から逃れられないことが悲しい。しかし関東からの船に乗ってやってくる船員と話すことは滝の心を慰める。懐かしい話し言葉が耳に心地よく響く。滝がいまだに雑賀の言葉を話さないのは、いつか浦賀へ帰るという希望を持ち続けているからだ。 しかし、かたくなだった滝に変化が訪れる。それは阿波から来る男、マサと出会ったことがきっかけだった。

マサは滝より二つ年上で阿波の三好から三日に一度、船で荷物を運んでくる。桐が家へ戻った昼頃に岸に着く。一人で売る滝の元へ握り飯を買いに来て、滝の隣に座って食べる。そして食べながらずっと滝に話しかけるのだ。自分の家族のこと、三好のことを。つられて滝も父や妹のことを話すようになり、果ては決して話さないようにしていた浦賀で死んだ母や弟のことも話すようになった。それはマサがいつも笑顔で「そうなんやあ」と親身になって聞くからで、次第に滝はマサと話すのが楽しみになっていった。

食べ終わるとマサはもう二つ握り飯を買う。そして滝の編んだ籠に入れて持って帰る。ある日、去っていくマサに滝が「ありがとう。またね」と言うと「ちゃうちゃう。『おおきに』言うてみ」と、西の誰もが言う「おおきに」を滝に言わせようとした。意固地にも西の言葉を話さないお滝であったが、マサに言われたらすんなり「おおきに」が口から出た。

「おおきに」と言った自分を恥ずかしくも思ったが、「またな」と手を振るマサを見送る心はいつにもまして軽く、気持ちがいい。 それ以来、滝はほかの客にも「おおきに」と言うようになった。さらにマサに指導をされて客が来たときの挨拶に「まいど」も言うようになった。そんな滝を見て、
「ねえちゃんが変わった」
と桐はうれしそうに父親のタカベに報告した。

日に日に気温の上がっていく夏。浜で握り飯を売る滝と桐に、太陽は容赦なく照りつける。上からの陽ざしに加え、砂を反射した陽は下からも差しこんでくる。暑さをしのぐために滝は竹の皮を薄く剥いで網代笠を編んだ。同じ幅のひも状にした竹の皮を横と斜めにぎっしりと編みこむ網代編みは、決して陽を通さない。手ぬぐいを頭からかぶり鼻の下で結び網代笠をかぶれば陽ざしが顔に襲い掛かることはない。目だけ出ている状態で暑い夏も元気に握り飯を売り歩いた。

夏は畑で採った生の胡瓜きゅうりも売った。朝収穫したみずみずしい胡瓜きゅうりは水分を補ってくれる。握り飯と同じくらいよく売れた。それで生の茄子も売るようになった。そうしたところ握り飯に添える香香こうこうの野菜が不足するようになり、薄く切ったり、三切れを二切れにしたりして凌いだが、常連の客に「香香が少なくなった」と文句を言われるようになってしまい、自分たちの食べる野菜を減らす羽目になった。見かねたタカベは畑の回りを耕して倍の大きさに広げた。

同じ頃に桐が孝の母から牛糞を堆肥にするといいと教わってきて、滝が牛糞で肥料を作った。順調に野菜の収穫量も増え、野菜を作って籠を編んで握り飯を売ってと忙しく働く毎日の中で、三日おきにマサと会えることが滝の元気の源になっている。

お盆も過ぎた夏の終わり、この日は朝から売れ行きが良かった。マサがいつものように滝の隣で食べている間に握り飯は売り切れた。それでマサが食べ終わると滝は家へ帰ろうと歩きだした。するとマサがついて来た。 
「まだ時間があるけんね。もうちょっとおタキちゃんとしゃべれるわ」

マサの住む三好は、織田信長と戦う三好三人衆の本拠地である。三好三人衆とは山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨など、四国と近畿一帯を幅広く支配して東の北条氏康に匹敵する勢力を持った三好長政の死後、その権勢を引き継いだ三好三氏のことであり、室町幕府の将軍足利義昭を擁立する織田信長の京都への上洛に反対して京都で戦っている。その三好家の家臣である篠原長房しのはらながふさは、信長と共謀する中国地方で勢力を拡大する毛利氏と敵対する備前の国の浦上宗景うらかみむねかげと手を結び、阿波と讃岐の軍を率いて瀬戸内に浮かぶ備前の国の児島へ上陸した。

必然的に阿波ではこの戦のために食料や武器を運ばなければならない。しかしマサは武器を運ぶ船には乗らないと決めている。マサはため息交じりにつぶやいた。 
「わいは戦は嫌いやけんね」
 伊勢の国の北畠一族を皆殺しにして比叡山延暦寺も焼き討った信長の虐殺は止まることはない。信長に反抗した大名たちが殺し合うさまは鳴門の渦のようだ。その渦がどこまでも広がっていくのが悲しいと嘆くマサに、村打ちにあい母親と弟を殺された滝はうなずきながら聞いている。
「戦のないとこへ行きたいなあ」
「そんなとこあるの?」
と飯屋の前の坂を上っていく。もうすぐ坂を上りきる。マサが家までついてきたら桐に紹介しようと滝が思った時、マサが不意に後ろから滝を抱きしめた。突然のことに硬直する滝。

マサは「笠が痛いけん」と滝のあごの下の紐をするりとほどいた。笠がばさりと落ちて、マサは滝がかぶっている手拭いも解いた。ぱさりと落ちる手ぬぐい。そしてマサは滝のうなじに顔をうずめると、
「甘いなあ。いい香りや」
とぺろりとなめた。「ひっ」と小さな声を出す滝にお構いなく、マサは滝の胸を鷲掴わしつかみ「やわらかいなあ」と揉んだ。どうしてよいのかわからず身動きせずにいる滝。しばらくするとマサは体を離し、「またな」と坂を下り始めた。滝が振り返るとマサも振り返り手を振っている。呆然と立ち尽くす滝にマサは何度も何度も手を振った。

マサの姿が見えなくなると滝は笠を拾ったが、被らなかった。マサの大きな手に揉まれた胸には痛みが残っている。その胸を隠すように笠を抱いた。今さっきマサにされたことを思い出すと腹の底に火がついたように体の奥が熱くなる。なめられたうなじの感触が火を燃え上がらせて体全体を焦がすような恐ろしさも感じる。炎を吹き消すように足早に家へ戻った。

家では桐が炊きあがったご飯を握って籠へ入れていた。
香香こうこう、切るね」
何食わぬ顔で言うと、滝はぬか壺の中へずぶりと手を突っ込み胡瓜を取り出した。ぬかに程良く水分を抜かれてふにゃふにゃの胡瓜を優しく両手でさすってぬかを洗い流していると、
「ねえちゃん、顔が赤いよ。熱にやられたんじゃない?」
と桐が心配そうな顔をする。
「胡瓜を食べなよ」
と体を冷やすようにさとしたが、滝は売り物の野菜を食べようとはしない。
「午後に大きな船がもう一隻来るって。なるべく多く持ってこ。きっと全部売れるよ」
と切った胡瓜をすべて籠へ詰め込んだ。

滝が言ったとおり、刀を差した侍の乗った船がたくさんの人を連れて港へ来た。滝は握り飯を売りながらマサの姿を捜した。マサの乗ってきた船は港にいないからマサはもういないとわかっているのに。年恰好の似た男がいるとマサではと目をむいたりして。そんな滝の落ち着かなさは、やはり熱にやられたのではないかと桐が心配するほどである。

早々と握り飯は売り切れた。政情が不安になり諸国の治安が悪くなればなるほど握り飯は売れる。売れるのはうれしいが起こっていることは殺し合い。単純に喜ぶことなどできない。武家人たちに売った日は滝も桐も口数が少なくなる。しかしこの日の滝は侍のことではなく、マサのことで頭がいっぱいだった。次にマサに会えるのは三日後。その日が来るまでなんと長いことか。

この日の夜、募るばかりの会いたい気持ちが滝を寝させなかった。床に横たわり目をつぶっても、
「武器は運びたくない」
と父ちゃんと同じことを言ったマサの声が聞こえてくる。夏の暑さではだけたマサの胸は浦賀にいた頃の父ちゃんのように、太陽に照り付けられて褐色に焼けて海の香りが染みついている。
(あの胸に顔をうずめたい) 
そんなことを思いながら滝はそっと胸に手を当てた。小ぶりの胸は滝の手のひらにすっぽりと収まる。大きなマサの手では掴むこともできぬほどに小さな乳房だ。しきりと触っていたマサのことが不可解に思える。
(あれはなんだったんだろう?)
暗闇の中でマサのことをあれやこれやと考えながら、いつしか眠りに落ちる滝であった。

つづく
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