一ノ瀬一二三の怪奇譚

田熊

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「拾ってはいけない財布」

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財布を拾った男の話をしよう。

 いや、正確には「財布を拾ったせいでおかしなことに巻き込まれた男の話」だ。
 何の変哲もない、ありふれた都市伝説のような話だが、これは単なる噂ではない。
 少なくとも、僕は本人の口から直接聞いたのだから。



 その男――仮に「田村」としよう。

 田村は平凡なサラリーマンだった。
 特に怪奇現象を信じるわけでもなく、オカルトに興味があるわけでもない。
 ただ、いつものように仕事を終え、家に帰ろうとしただけだ。

 その日の帰り道、駅からの通りを歩いていると、交差点の信号のすぐ脇に財布が落ちているのを見つけた。

 「誰かの落とし物だな」

 それくらいの認識しかなかった。
 道端に財布が落ちていれば、交番に届けるのが普通の対応だろう。

 だから、田村は何の警戒心もなく、財布を拾い上げた。



 違和感に気づいたのは、その直後だった。

 財布を拾った瞬間、彼の背後に強烈な視線 を感じた。

 まるで、誰かが「ずっとそこにいたかのように」、突き刺さるような視線が背中に張り付く。
 慌てて振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 いや、厳密に言えば、街には人がいた。
 しかし、通りすがる人々は誰も田村を見ていなかった。

 それなのに、視線の感覚だけが、確かにある。
 まるで**「誰かが確実にこちらを見ている」**ような、あの嫌な感覚。



 気味が悪くなった田村は、財布を確認した。
 黒い革製の財布。年季が入っているが、それなりに上等な品に見える。

 中には一枚の千円札と、真っ白な紙 が入っていた。

 紙を開いてみたが、そこには何も書かれていない。
 住所や名前、カード類も一切ない。

 「……なんだこれ?」

 落とし主を特定できない以上、やはり交番に届けるしかない。
 そう思いながら財布を持って歩き出そうとしたそのとき――

 シャッ

 耳元で、何かが擦れる音がした。



 田村はまた、視線を感じた。

 そして、今回ははっきりと気づいた。
 それは 「一点」 からの視線ではなかった。

 複数の場所から、誰かが同時に見ている。

 駅前のビルの上、街灯の陰、遠くの電柱の横――
 田村は無意識にそれらの場所に目を向けた。

 ……何もない。

 だが、彼は確信した。
 そこに**「何か」** がいる。



 田村は怖くなり、財布を近くの公園のゴミ箱に捨てた。

 しかし、家に帰った途端、玄関の前で財布が落ちていた。

 同じ財布だった。

 「……おかしい。捨てたはずなのに……」

 恐怖を抑えながら、再び財布を開ける。
 そこには、やはり 一枚の千円札と、白紙の紙。

 だが、今回は違った。

 白紙のはずの紙に、たった一行の文字 が浮かんでいた。

 「ルール1 拾ったものは、責任を持って持ち帰ること。」



 この時点で、田村は完全に財布を手放すことができなくなっていた。

 交番に持って行こうとしたが、なぜか交番の前に立つと、財布を渡すことができない。
 手が硬直し、喉が詰まるような感覚に襲われる。
 意識がぼやけ、気づけばその場を立ち去っていた。

 「……なんだ、これは……?」

 次第に田村は、財布がまるで意志を持っているように思えてきた。



 その後、彼は何度も財布を捨てようとした。
 公園のゴミ箱、川の中、電車の座席の上――

 だが、どこに捨てても、必ず翌朝には枕元に戻っている のだった。

 そしてある日。

 財布の中の紙に、こう書かれていた。

 「ルール2 次は、お前を拾う番だ。」



 田村はパニックになり、どうすればいいのか分からなくなった。
 彼は知人を頼り、最後に僕の元へたどり着いた。

 彼の話を聞きながら、僕は淡々と質問を重ねた。

 「その財布は、今どこに?」

 田村は、震える声で答えた。

 「……もう、ない。」

 彼の部屋のどこを探しても、財布は見当たらなかったという。
 そしてそれ以来、彼は自分の背後に視線を感じ続けている らしい。



 僕は最後に、田村にこう聞いた。

 「君が拾ったのは、本当に『財布』だったのか?」

 田村は何も答えなかった。

 ただ――彼はもう、どこにも落ちているものを拾うことはなくなったらしい。

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