38 / 89
Part Ⅰ. 目覚めたら魔法の国で、令嬢の中の人でした
30. 月夜のベランダ、母娘の語らい
しおりを挟む馬車の窓から見える景色が長閑に流れていく。石畳の道、なだらかな丘、遠くに見える風車の影──。
(この景色……もう、何度目かな)
私はいま、伯爵邸へと向かっている。
初めて里帰りしたあの日から何度も足を運ぶうちに、伯爵夫妻とはもうすっかり打ち解けた。
ギルベルト伯爵は変わらず過保護すぎるほどの愛情を注いでくれるし、セシリア夫人の陽だまりのような微笑みを目にすると、不思議と肩の力が抜ける。まるで、本当の親子みたいだなって思えるくらいに。
(だからこそ……)
手を膝の上でぎゅっと握りしめたとき、不意にレオンさんが口を開いた。
「伯爵夫妻に会うのが、まだ緊張するのか?」
私は困ったように首を振ると、力なく答える。
「ううん、緊張はしないよ。……むしろ、あの家にいるとホッとするかも」
そして、すっと視線を足元に落とす。
(……それがかえって苦しいんだよね)
その心の揺れを悟られたくなくて黙り込む私。けれどレオンさんは、ほんの一瞬だけこちらを見て、それから視線を外の景色へと戻した。淡々とした声の奥に、わずかな気遣いがにじむ。
「そうか。それならいいが」
窓の外に視線を流したまま、何気なさそうに言葉を継ぐ。
「今日は俺は、挨拶だけしたらすぐに戻る。お前は、ゆっくりしてこい。……泊まってきてもいい」
「え……うん、わかった」
口調は別にいつもと変わらないのに。なんだかその声が優しい気がして、ちょっと驚いてしまう。
(これも、恋する乙女フィルターだったりするのかな……!?)
私はレオンさんにバレないようにくるりと窓の方を向き、緩んだ頬をそっと押さえた。
(……でも、いいよね。せっかくだし、今日はありがたく甘えることにしちゃおっ)
小さく息をついて、私は窓の外に広がる青空を見上げた。
*
伯爵邸に到着すると、すぐに伯爵が両手を広げて駆け寄ってくる。
「おかえりぃぃ、シャル! この日をどれほど心待ちにしていたことか! まったく、前回来てからどれだけ日数を数えたと思っているんだ!」
(うわっ、お父様相変わらずすぎる……!)
「もうっ、あなたったら。ほんの一週間ほど前にも会ったばかりじゃないですか」
夫人が、いつもの穏やかな微笑を浮かべながら、涼やかに言った。
「一週間もシャルに会えなかったんだぞ! 一日の終わりにお茶を飲みながら、『あと何日』と指折り数えるのが、ここ最近の日課だったんだ!」
「ふふ……お父様、ただいま」
最初はドン引きしてしまった伯爵の溺愛っぷりにも、最近はすっかり慣れてしまった。
(なんか、このやり取りもホッとするなぁ)
「さあ、シャル、行きましょう。今日はニックが、あなたの大好きな苺のパイを焼いたのよ」
そう言って夫人は私を室内へ促す。私の腰に添える手があまりにも自然で──すごく、すごく嬉しいのに。やっぱり心の隅がツキンと小さく痛んだ。
*
応接間のテーブルには、紅茶と一緒に焼きたての苺のパイが並んでいた。こんがりと黄金色に焼けた生地から真っ赤な果実が宝石のように覗いていて……うん、これは絶対美味しいやつ。
ギルベルト伯爵は椅子を引くやいなや、私の隣をすかさず陣取り、肘がくっつきそうな勢いで身を乗り出してくる。
「ところで最近はどうなんだい? レオン様にちゃんと大事にされているかい?」
大きな瞳をわざとらしく潤ませて、眉を八の字にゆがめるその顔に、私は思わず肩を落とす。
「お父様……毎回それを聞きますのね」
「いや、大事なことだ! レオン様のことは信頼しているがな。シャルの優しさを当然のように思っているのではないか? まったく、気が気でないよ」
拳を握りしめながら声をひそめるその姿は、まるで秘密の相談を持ちかける子どものようで。
「そ、そんなことは……」
(あ~あ、またお父様の心配性スイッチが入っちゃった)
視線をそらして溜息をこらえたところで、夫人がピシャリと口を挟む。
「あなた! そんなこと、シャルの顔を見れば、幸せにやってることはわかるでしょう?」
呆れたような笑みを浮かべる夫人に、伯爵はぐっと言葉に詰まらせた。
「むっ……そ、それは……うむ……! ならばよいのだ!」
不器用に胸を張る夫を横目で見やりながら、夫人はゆったりと紅茶を口にした。湯気がやわらかく立ちのぼり、部屋に安らいだ気配が満ちていく。
この屋敷は、どこもかしこも心地よさで満ちている。ふたりの声も、目を細めて笑う仕草も、目の前にある苺パイの艶やかな焼き色も──全部がそれを物語っていた。
(なのに、どうして……)
胸の奥が、またチクチクと痛み出す。
(私は、本物のシャルロットじゃない)
ひと口食べた苺パイの、甘酸っぱい香りに喉が詰まった。これだって「あなたの大好きなパイ」って言われて差し出されたけど、私は今日が初めて。ほんとは「何これ、すっごくおいしい!」って言いたいのに、それさえ言えない。
(私、ずっとこの人たちを騙して生きていかなきゃいけないのかな)
(大好きなのに。どんなに仲良くなっても、抱きしめてもらっても、私はこの家の本当の娘じゃない)
笑みを貼りつけたまま、紅茶を口に運ぶ。その香りは豊かで、でも味はほんの少しだけ苦かった。
*
夜も更けて屋敷の空気がしんとする頃。部屋のドアが控えめにノックされた。
「シャル、よかったら少し二人でお話ししましょう?」
現れたのは、セシリア夫人だった。艶やかな絹地のナイトドレスに身を包み、その上から肩に淡い色のショールを羽織っていた。光を受けて、ドレスの裾が月明かりのようにほのかに揺らめいて見える。
「……うん」
促されるまま、私たちはベランダへ出る。夜風は少しひんやりしているけれど、不思議とやわらかくて。
月の光がしっとりと庭を照らし、葉の影を淡く地面に落としている。カーテンが風にふわりと舞い、草花の香りがほんのり鼻先をくすぐる。
(あ……綺麗……)
その景色に見とれていると、セシリア夫人がふと私を振り返り、夜空を映したような瞳でクスッと笑った。
「なんて、素敵な夜なんでしょうね」
庭を見渡しながら、のんびりとした口調で続ける。
「綺麗な景色に……隣には、可愛い娘もいて。こんな夜は、つい胸の内を話したくなってしまうわ」
その声は、ただの世間話みたいに自然で、でもどこか深いところに届いてくるようだった。
夜風がふたりの間をすり抜け、髪をさらりと揺らしていく。
「これは、そう……私のひとりごとよ」
夫人は目を伏せ、穏やかに言葉を重ねた。
「最近のあなたは、少し変わった気がするの」
「良いとか悪いとか、そういう話じゃないの。ただ、前よりずっと……明るくなった。ぱっと光が差したような、そんな感じ」
(そんなふうに見えてるんだ……)
「でもね、もしかしたら、いま私の可愛い娘は──」
そこで夫人は言葉を濁し、夜空を仰いだ。
「何か、胸の奥で迷っているのかもしれないわね」
(っ……!)
「それが、私たちのことを想ってのことなら……そんな必要はないのに」
風に揺れる髪を払う仕草ひとつで、儚く夜の闇が流れていく。
「昔のシャルも、今のシャルも、どちらも私の大切な娘よ」
言葉が、羽のようにゆっくりと降りてくる。
「大事なのは、あなたが笑ってくれること」
その声に、視界がふっとにじんだ。涙が勝手にどんどん目の奥にたまっていく。
視線の先で涙越しに揺れる夫人は、誰に言うでもなく、まるで、ぼんやりと浮かぶ月にでも話しかけているようだった。
たぶんどんな言葉をもらっても、私の中の棘は抜けない。だから赦されたかどうかじゃなくて。
「私はね、あなたが大好きよ、シャルロット」
それでも、夫人の言葉は──棘が刺さったままの心を、そっと撫でてくれた。
「……おかあ、さま……っ」
しゃくりあげる私を、夫人はぎゅっと引き寄せ、背中をあやすようにぽんぽんと叩いた。
「あらあら。私、ひとりごとを言っていただけなのに……いったい、どうしたのかしら?」
私の髪をそっと撫でる手。その声は、子守歌のように耳元に降りてきて、じんわりと満たしていく。堪えきれず、ぽつりと問いかけた。
「お父様も……そう思ってるのかな」
夫人は僅かに目尻を下げると、親指で私の頬を拭い、いたずらっぽく首をかしげる。
「さあ、なんのことかしら?」
とぼけるような仕草なのに、その表情は──何もかも見通しているような、澄んだ母の顔だった。
「あの人は……過去も今もこれからも、いつだって百パーセントの愛で、あなたを見てるわよ。見ればわかるでしょう?」
その言葉に、胸のつっかえがほどけていく。私は、こくりとうなずいて、また新しい涙をこぼした。
ふたりで寄り添ったまま、月の光の中に身を溶かすようにゆだねる。
夜は静かに流れ、ぬくもりだけが確かにそこにあった。
45
あなたにおすすめの小説
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
【完結】うっかり異世界召喚されましたが騎士様が過保護すぎます!
雨宮羽那
恋愛
いきなり神子様と呼ばれるようになってしまった女子高生×過保護気味な騎士のラブストーリー。
◇◇◇◇
私、立花葵(たちばなあおい)は普通の高校二年生。
元気よく始業式に向かっていたはずなのに、うっかり神様とぶつかってしまったらしく、異世界へ飛ばされてしまいました!
気がつくと神殿にいた私を『神子様』と呼んで出迎えてくれたのは、爽やかなイケメン騎士様!?
元の世界に戻れるまで騎士様が守ってくれることになったけど……。この騎士様、過保護すぎます!
だけどこの騎士様、何やら秘密があるようで――。
◇◇◇◇
※過去に同名タイトルで途中まで連載していましたが、連載再開にあたり設定に大幅変更があったため、加筆どころか書き直してます。
※アルファポリス先行公開。
※表紙はAIにより作成したものです。
至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます
下菊みこと
恋愛
至って普通の女子高生でありながら事故に巻き込まれ(というか自分から首を突っ込み)転生した天宮めぐ。転生した先はよく知った大好きな恋愛小説の世界。でも主人公ではなくほぼ登場しない脇役姫に転生してしまった。姉姫は優しくて朗らかで誰からも愛されて、両親である国王、王妃に愛され貴公子達からもモテモテ。一方自分は妾の子で陰鬱で誰からも愛されておらず王位継承権もあってないに等しいお姫様になる予定。こんな待遇満足できるか!羨ましさこそあれど恨みはない姉姫さまを守りつつ、目指せ隣国の王太子ルート!小説家になろう様でも「主人公気質なわけでもなく恋愛フラグもなければ死亡フラグに満ち溢れているわけでもない至って普通のネグレクト系脇役お姫様に転生したようなので物語の主人公である姉姫さまから主役の座を奪い取りにいきます」というタイトルで掲載しています。
愛人令嬢のはずが、堅物宰相閣下の偽恋人になりまして
依廼 あんこ
恋愛
昔から『愛人顔』であることを理由に不名誉な噂を流され、陰口を言われてきた伯爵令嬢・イリス。実際は恋愛経験なんて皆無のイリスなのに、根も葉もない愛人の噂は大きくなって社交界に広まるばかり。
ついには女嫌いで堅物と噂の若き宰相・ブルーノから呼び出しを受け、風紀の乱れを指摘されてしまう。幸いイリスの愛人の噂と真相が異なることをすぐに見抜くブルーノだったが、なぜか『期間限定の恋人役』を提案されることに。
ブルーノの提案を受けたことで意外にも穏やかな日々を送れるようになったイリスだったが、ある日突然『イリスが王太子殿下を誘った』とのスキャンダルが立ってしまい――!?
* カクヨム・小説家になろうにも投稿しています。
* 第一部完結。今後、第二部以降も執筆予定です。
編み物好き地味令嬢はお荷物として幼女化されましたが、えっ?これ魔法陣なんですか?
灯息めてら
恋愛
編み物しか芸がないと言われた地味令嬢ニニィアネは、家族から冷遇された挙句、幼女化されて魔族の公爵に売り飛ばされてしまう。
しかし、彼女の編み物が複雑な魔法陣だと発見した公爵によって、ニニィアネの生活は一変する。しかもなんだか……溺愛されてる!?
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
悪役令嬢は調理場に左遷されましたが、激ウマご飯で氷の魔公爵様を餌付けしてしまったようです~「もう離さない」って、胃袋の話ですか?~
咲月ねむと
恋愛
「君のような地味な女は、王太子妃にふさわしくない。辺境の『魔公爵』のもとへ嫁げ!」
卒業パーティーで婚約破棄を突きつけられた悪役令嬢レティシア。
しかし、前世で日本人調理師だった彼女にとって、堅苦しい王妃教育から解放されることはご褒美でしかなかった。
「これで好きな料理が作れる!」
ウキウキで辺境へ向かった彼女を待っていたのは、荒れ果てた別邸と「氷の魔公爵」と恐れられるジルベール公爵。
冷酷無慈悲と噂される彼だったが――その正体は、ただの「極度の偏食家で、常に空腹で不機嫌なだけ」だった!?
レティシアが作る『肉汁溢れるハンバーグ』『とろとろオムライス』『伝説のプリン』に公爵の胃袋は即陥落。
「君の料理なしでは生きられない」
「一生そばにいてくれ」
と求愛されるが、色気より食い気のレティシアは「最高の就職先ゲット!」と勘違いして……?
一方、レティシアを追放した王太子たちは、王宮の食事が不味くなりすぎて絶望の淵に。今さら「戻ってきてくれ」と言われても、もう遅いです!
美味しいご飯で幸せを掴む、空腹厳禁の異世界クッキング・ファンタジー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる