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ホーム・アローン

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駅のホームに降りると雲ひとつない薄暮の空が橙色から群青色へ見事なグラデーションを描いていたので仙一郎は思わず見上げたままたたずんでしまった。一人日帰りでスケッチ旅行に遠出した帰路、いつも利用するターミナル駅の手前、上り電車に乗る時はアパートから近いその駅で降りることがたまにあった。

しばらく人影もまばらなホームに立ちつくしているとズキズキと痛む足の痛みに彼の心は現実へと引き戻される。

あの夜、廃工場で吸血鬼どうしの殺し合いが繰り広げられたあの夜からすでに一週間。ナイフで刺された足の治療と大量出血の処置で数日入院するはめになってしまったが思いのほか傷の治りは早く、今はたまに痛む程度でもう普通に歩けるまでには回復していた。

ここ数ヶ月、そんな物騒な騒動に巻き込まれたり、出費がかさんでアルバイトを増やしたりと忙しない毎日が続いて疲弊するなか、スランプにおちいって絵のアイデアが浮かばずにいることが最近感じている陰鬱な気分に拍車をかけていた。今日の遠出もスランプ脱出と気分転換を兼ねてのものだったのである。



空もすっかり色を失い、仙一郎がそろそろ帰ろうかと思っていたときのこと、それは初め耳鳴りのようであったが次第に明瞭になり女性の歌声へと変化した。静かなホームに漂う耳慣れない言葉で歌われる哀愁を帯びたメロディに思わずあたりを見回すと十メートルほど離れたべンチに座るセーラー服の少女に気づく。

どことなく清楚さを感じさせる容姿にサイドテールを留めた水玉のシュシュが鮮やかな少女は目を閉じ片手を胸にあて、かすかに空を仰ぎ歌っている。素人目にも凄く上手いというものではなかったが、その歌にはどこか心に響くものがあった。

仙一郎は心地よくしばらく聞きいっていたが歌う彼女の物憂げで寂しそうな表情に不穏な空気を感じ、今いるこの駅が全国でも有数の自殺の名所であることを思い出す。そう連想してしまうともうどうしようもなく、ホームに入ってくる電車に飛び込む彼女の姿を思い浮かべてしまい、彼は思わず声をかけてしまった。

「良い歌だね?」

彼女はびっくりしたように目を見開いて仙一郎を見上げる。

「あ…ありがとう…ございます…」

確かに駅のホームで突然、見ず知らずの男に声をかけられたら不審に思ってもしょうがない。

「かわった曲だけど何て…」

「ゲール語の…アイルランドの伝統的な曲なんですよ。好きな曲なんです。」

彼女の表情が緩む。

「へぇ…。」

彼は相槌を打つが、その後が続かない。どちらかと言えば人付き合いの良い方ではないし、まして見ず知らずの少女と、どう接したらいいのか見当もつかない。後先考えずに話しかけてしまったが、どう話題を広げたら良いものか考えあぐね立ちつくしていると彼女が口をひらく。

「あの…もしかして私が自殺するんじゃないかとか心配してくれました?」

「うん、まあたぶんそんな感じだと思う。」

見事に見透かされ気恥ずかしさにしどろもどろになる。

「ありがとうございます。大丈夫!もう飛び込んだりしませんよ。」

「そっか。それなら、よかった。」

「最近は他人に無関心な人が多いのに…良い人なんですね。」

「そんな、出しゃばって迷惑だっかかな?」

「いえ!いえ!全然!それより少し話しませんか?」

少女はそういうとパタパタと座っているベンチの隣を軽くたたいた。

彼女の名前は小田美咲おだみさき、ここから一時間ほどの湾岸都市に暮らす高校生だという。嫌なことがあったときなどに色々な場所で歌うのがストレス解消法で今日は偶然ここで歌っていたらしい。

話すうち彼女は仙一郎が美大生だということに興味を示して色々と尋ねてきたが実に聞き上手で、仙一郎は吸血鬼の件を除いて諸々、悩み事までも吐露していた。

気づけば何本かの電車が通り過ぎ、かなりの時間が経ってしまい慌てて帰ることに。

「早見さん、スランプ早く抜け出せると良いですね。」

「ありがとう。なんか逆に俺が元気づけられちゃったね。」

笑顔で手を振る美咲に仙一郎は右手を上げて応えると帰途につく。何度か振り返ると彼女はいつまでも手を振り彼を見送っていた。



「遅かったのぉ…」

仙一郎がアパートに帰るとアルマはベッドにうつ伏せのまま不機嫌そうな声を上げる。たぶん、帰りが遅れた理由は黙っていても話しても因縁をつけられるのが確実だったので正直に話すことにした。

ベッドの前に正座して枕に顔をうずめたままのアルマに声をかける。

「えっと…ちょっと駅で話し込んでて…女性と。」

長い髪を揺らして上半身をゆっくりと起こして不機嫌そうな顔で仙一郎を睨みつける。

「おなごじゃと?」

彼女が、いつにもましてご機嫌ななめなのには訳があった。先の騒動で失血死寸前だった仙一郎は当然、輸血することになったのだが、それが仙一郎の滋味豊かな血の味を濁らせ、ここのところ彼の血を吸えずにいたからだ。

輸血で他人の血が混じるというのは、例えるなら、最高級ワインに安物のワインをぶち込んだみたいなもので仙一郎の味を知っているグルメなアルマにとっては我慢できないものらしく血が落ち着くまで飲めないとストレスを溜めていた。

「それが凄く歌が上手くて人当たりが良い学生さんで、つい盛り上がっちゃってさ!べ…別にやましいことはしてないぞ!」

アルマが烈火のごとく怒りだすと思って両手で防御を整えるが彼女は考え込むようにつぶやく。

「歌…女学生…」

そして問いただす。

「それは西桑都駅でか?」

「うん…それが?」

答えると彼女はベッドから跳ね起きて言った。

「すぐ出かけるぞ画学生!支度せい!」
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