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復讐について
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やり返す、という行為について考える機会を得た。
自分がやられて嫌だったことをやり返す、という人が職場で数名見受けられる。困ったことに感情に起因する行為なのでやめろと言いにくいし、やめろと言えたとしても感情と理性で論じることになるので、僕は理性で感情を滅多打ちにしたり本人のどうしようもない感情を飲み込ませて濁らせてしまうかもしれない。そういうことは、できれば避けたいのだ。
とはいえ、問題が起きていることに対して傍観を決め込んで誰かの苛立ちを感じながら仕事をするのはどうにも心穏やかではない。どうしたらいいだろう、と思い、やり返す人間に対してどう対応すればいいものかと少し考えた。その思考の過程と結論、のようなものをだらだらと書いていこうと思う。
やり返す。復讐とも言い換えられるこの行為に関してはたくさんのことを考えた。かつて復讐に生きようとしていた人間としては復讐は積極的に行われるべきという考えを是としているし、復讐という行為が社会的に肯定されてほしいとすら思っている。
だが、今の職場で起きている小さな復讐に関しては、僕はやめればいいのに、と思ってしまう。この違いはなんだろうと思い、今こうして思考を文章に起こしながら結論を探している。
まず、僕が肯定している復讐という行為を整理しようと思う。
僕が復讐を肯定するきっかけとなったのは、やはり自分が復讐を望んだことだろう。かつていじめにあい、夢を諦め、その後の数年間を回復のために過ごしていた時は、自分の人生を壊されたような気持ちだった。今の自分の有り様の原因を他人に求め、自分が一時間の間に喜怒哀楽全ての感情に襲われて唸って泣いて嘆いて笑って、絵にかいたような情緒不安定の人間を自分の奥底から出た感情により演じている裏でのうのうと生きている人間が許せなかった。
それによりしばらくは復讐のことだけを考えて生きていた。また、耳目口司という僕の敬愛する作家との出会いにより、自分が復讐したいという感情の理由を言語化した僕は、自分が前に進むための行為として復讐を人生目標に掲げていた。
その時に、復讐の意味は「自らの心を救うこと」だと思った。
復讐という行為によって人の心が救われるなら、人の生が救われるのなら、復讐によってしか救われないのなら、復讐という行為はあって然るべきものであり、正しさを持つ行いだと思った。
自分が傷ついたことに意味が欲しかった。他人を傷つけた人間に他人を傷つけるという行為の意味を刻みたかった。そんな感情は復讐に依ってしか救われないと思ったし、当たり前のように道義で踏みにじられてよいものではないと思った。
故に僕は復讐という行為を肯定している。復讐によって人が救われるのならば復讐を行い、その行為が肯定されるべきだと考えている。このあたりが僕の肯定している部分だ。
次に、小さな復讐、と定義した職場でのやり返しの行為に関してだ。
よく見る出来事を例にあげると、毎日行われる仕事を誰かがやり忘れた、あるいはやっていなかった時に他の誰かが代わりにやり忘れた仕事をやることになった、またはやり忘れたことにより損害を被った、というような場合に、損害を被った側が仕事を忘れた、あるいはやっていなかった人間に対して同じように仕事を残していく、というような、ありふれた嫌がらせのような行為だ。
おそらくはこの程度であれば見たことのある人、または実際に自分がやってしまった、やってしまおうかと考えたことのある人も多いと思う。その時に、見て、やってみて、やってしまおうかと考えて、何を思っただろう。
僕もやってしまおうかと思ったことは数多くある。ただ、ほとんどの場合それは実行に至らなかったし、数少ない実行の後も総じていい気分にはならなかった。そういった経験もあってか、僕は小さな出来事をやり返すことに関してはまったく利益がなく、損害があるのみと考えるようになった。
前述した復讐と定義した行為にも同じことを思う人はいるだろうが、僕は自らの心を救うことを復讐の利益だと思っている、ということを残しておく。
では、こうした小さな復讐は心を救わないのかという疑問が浮かぶ。
それに関しては論理だてようとすると人それぞれだろう、ということしか言えないのだが、僕はここまで書いていて、復讐によって救われる心の大きさ、とでも言うべきものが僕の価値観の中にあることに気づいた。
復讐という行為を考えた時の感情を「復讐という行為でしか救われない感情」と「復讐以外の行為で代替できる感情」の二つに分けて考えているのだ。そして「代替できる感情」は代替してしまえばいい、という考えなのだ。
復讐は他人を攻撃する行為である。だが、他人を攻撃することによってしか救われない感情があるならば、癒えない傷があるならば、理由を求めるような事象があるのなら、他人を攻撃することを是とすればいい。
しかしながら、復讐という行為の代替行為があるのであれば、復讐ではなく代替行為を優先し、極力他人を攻撃せずに救われることを推奨する。僕の考えはそういうところにあるらしい。
代替行為によって救われてしまった人間の生ぬるい言説、かつ結局は人間ひとりひとりの裁量によるものなのだ、というつまらない結論に至ってしまったが、この結論だけを覚えずに、復讐でしか救われない人間がいるということや、復讐という行為の理由に関しては一度考えてみてほしいと思った。
そしてどんな形であれ復讐を考え、あるいは実行した人間に対して少し寛容になってもらいたいと思う。それは決して褒められた行為ではないが、感情に起因する正しくない行為、というものも少しは許容されてほしいと思う。
そういう気持ちがあるから、結局のところ僕は職場で行われている小さな復讐に関しては許容し続けるしかないのだろう。当事者になった時も、そうでない時も。
願わくば、全ての復讐が遂げられる世の中であってほしい。そして、多くの人が復讐の代替行為を見つけ、救われる世の中であってほしい。
……そんなこと思ってもいないのだが。まあ、許容の精神さえ広まっていただければ幸いである。そこだけは本当に、本当にそう思う。
思考の末に出た結論をまとめるのは難しい。次回の課題にでもしてみようか。
自分がやられて嫌だったことをやり返す、という人が職場で数名見受けられる。困ったことに感情に起因する行為なのでやめろと言いにくいし、やめろと言えたとしても感情と理性で論じることになるので、僕は理性で感情を滅多打ちにしたり本人のどうしようもない感情を飲み込ませて濁らせてしまうかもしれない。そういうことは、できれば避けたいのだ。
とはいえ、問題が起きていることに対して傍観を決め込んで誰かの苛立ちを感じながら仕事をするのはどうにも心穏やかではない。どうしたらいいだろう、と思い、やり返す人間に対してどう対応すればいいものかと少し考えた。その思考の過程と結論、のようなものをだらだらと書いていこうと思う。
やり返す。復讐とも言い換えられるこの行為に関してはたくさんのことを考えた。かつて復讐に生きようとしていた人間としては復讐は積極的に行われるべきという考えを是としているし、復讐という行為が社会的に肯定されてほしいとすら思っている。
だが、今の職場で起きている小さな復讐に関しては、僕はやめればいいのに、と思ってしまう。この違いはなんだろうと思い、今こうして思考を文章に起こしながら結論を探している。
まず、僕が肯定している復讐という行為を整理しようと思う。
僕が復讐を肯定するきっかけとなったのは、やはり自分が復讐を望んだことだろう。かつていじめにあい、夢を諦め、その後の数年間を回復のために過ごしていた時は、自分の人生を壊されたような気持ちだった。今の自分の有り様の原因を他人に求め、自分が一時間の間に喜怒哀楽全ての感情に襲われて唸って泣いて嘆いて笑って、絵にかいたような情緒不安定の人間を自分の奥底から出た感情により演じている裏でのうのうと生きている人間が許せなかった。
それによりしばらくは復讐のことだけを考えて生きていた。また、耳目口司という僕の敬愛する作家との出会いにより、自分が復讐したいという感情の理由を言語化した僕は、自分が前に進むための行為として復讐を人生目標に掲げていた。
その時に、復讐の意味は「自らの心を救うこと」だと思った。
復讐という行為によって人の心が救われるなら、人の生が救われるのなら、復讐によってしか救われないのなら、復讐という行為はあって然るべきものであり、正しさを持つ行いだと思った。
自分が傷ついたことに意味が欲しかった。他人を傷つけた人間に他人を傷つけるという行為の意味を刻みたかった。そんな感情は復讐に依ってしか救われないと思ったし、当たり前のように道義で踏みにじられてよいものではないと思った。
故に僕は復讐という行為を肯定している。復讐によって人が救われるのならば復讐を行い、その行為が肯定されるべきだと考えている。このあたりが僕の肯定している部分だ。
次に、小さな復讐、と定義した職場でのやり返しの行為に関してだ。
よく見る出来事を例にあげると、毎日行われる仕事を誰かがやり忘れた、あるいはやっていなかった時に他の誰かが代わりにやり忘れた仕事をやることになった、またはやり忘れたことにより損害を被った、というような場合に、損害を被った側が仕事を忘れた、あるいはやっていなかった人間に対して同じように仕事を残していく、というような、ありふれた嫌がらせのような行為だ。
おそらくはこの程度であれば見たことのある人、または実際に自分がやってしまった、やってしまおうかと考えたことのある人も多いと思う。その時に、見て、やってみて、やってしまおうかと考えて、何を思っただろう。
僕もやってしまおうかと思ったことは数多くある。ただ、ほとんどの場合それは実行に至らなかったし、数少ない実行の後も総じていい気分にはならなかった。そういった経験もあってか、僕は小さな出来事をやり返すことに関してはまったく利益がなく、損害があるのみと考えるようになった。
前述した復讐と定義した行為にも同じことを思う人はいるだろうが、僕は自らの心を救うことを復讐の利益だと思っている、ということを残しておく。
では、こうした小さな復讐は心を救わないのかという疑問が浮かぶ。
それに関しては論理だてようとすると人それぞれだろう、ということしか言えないのだが、僕はここまで書いていて、復讐によって救われる心の大きさ、とでも言うべきものが僕の価値観の中にあることに気づいた。
復讐という行為を考えた時の感情を「復讐という行為でしか救われない感情」と「復讐以外の行為で代替できる感情」の二つに分けて考えているのだ。そして「代替できる感情」は代替してしまえばいい、という考えなのだ。
復讐は他人を攻撃する行為である。だが、他人を攻撃することによってしか救われない感情があるならば、癒えない傷があるならば、理由を求めるような事象があるのなら、他人を攻撃することを是とすればいい。
しかしながら、復讐という行為の代替行為があるのであれば、復讐ではなく代替行為を優先し、極力他人を攻撃せずに救われることを推奨する。僕の考えはそういうところにあるらしい。
代替行為によって救われてしまった人間の生ぬるい言説、かつ結局は人間ひとりひとりの裁量によるものなのだ、というつまらない結論に至ってしまったが、この結論だけを覚えずに、復讐でしか救われない人間がいるということや、復讐という行為の理由に関しては一度考えてみてほしいと思った。
そしてどんな形であれ復讐を考え、あるいは実行した人間に対して少し寛容になってもらいたいと思う。それは決して褒められた行為ではないが、感情に起因する正しくない行為、というものも少しは許容されてほしいと思う。
そういう気持ちがあるから、結局のところ僕は職場で行われている小さな復讐に関しては許容し続けるしかないのだろう。当事者になった時も、そうでない時も。
願わくば、全ての復讐が遂げられる世の中であってほしい。そして、多くの人が復讐の代替行為を見つけ、救われる世の中であってほしい。
……そんなこと思ってもいないのだが。まあ、許容の精神さえ広まっていただければ幸いである。そこだけは本当に、本当にそう思う。
思考の末に出た結論をまとめるのは難しい。次回の課題にでもしてみようか。
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