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第2話 黒い聖書
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玄関のドアを背に、鈴木一郎はきっかり三秒間立ち止まり、鍵が確かにかかったことを指先で確認する。これもまた、彼の数えきれないルーティンの一つだった。
静まり返ったアパートの廊下を彼は足音を殺して歩く。誰と会うこともない。彼の存在は、この建物の空気と同じくらい希薄だった。
最寄りの駅まで徒歩十二分。道すがら、彼は誰とも視線を合わせない。しかし、その意識は網の目のように周囲へと張り巡らされていた。ベビーカーを押す母親の疲れた横顔、スマートフォンを覗き込みながら舌打ちするサラリーマン、コンビニの前でだらしなく煙草を吸う若者たち。一郎はそれら全てを、一枚の風景画として記憶のキャンバスに焼き付ける。感情はない。ただ、記録するだけだ。
電車に乗れば、その観察はさらに密度を増す。向かいの席に座る女子高生の制服の僅かな汚れ、隣の老人が読む文庫本の題名、窓に映る自分の無表情な顔。すべてが情報として処理され、彼の脳内にファイリングされていく。この長年にわたる習性が、来るべき日のための訓練であることを、彼以外の誰も知らない。
一郎の職場は都心にある高層オフィスビルだった。彼が担当するのは、深夜から早朝にかけての清掃業務。人々が去り、ビルが深い眠りにつく時間帯が、彼の仕事場となる。同僚は数名いるが、それぞれが担当フロアに散らばるため、顔を合わせるのは始業前と終業後の短い時間だけだ。
「鈴木さん、お疲れ様です」
パートの初老の女性が、当たり障りのない笑みを浮かべて挨拶する。
「……お疲れ様です」
一郎は会釈だけを返し、それ以上の会話を拒絶する壁を瞬時に築き上げた。彼は、必要以上の言葉を交わすことを極端に嫌った。言葉は誤解と欺瞞を生むための道具に過ぎない。彼が信じるのは、自らの目で見て、自らの手で記した、揺るぎない事実だけだった。
モップを手に、広大なオフィスの床を滑るように磨き上げていく。規則正しい往復運動。それは彼の精神状態とよく似ていた。無駄なく、着実に、目的の場所へと進んでいく。窓ガラスに付着した指紋を特殊な洗剤で拭き取り、ゴミ箱の中身を分別し、トイレの陶器を鏡のように磨き上げる。彼の仕事は完璧だった。誰に褒められるためでもない。ただ、彼自身の内なる規律が、それを許さないだけだった。
午前八時、一郎の仕事は終わる。再び電車に揺られ、自宅へと戻る。帰りの車窓から見える景色は朝とは違う光に満ちていた。しかし、彼にとってはどちらも同じ、色のない風景に過ぎなかった。
アパートに戻り、無味乾燥な食事を済ませると、一郎はシャワーを浴びて汗を流した。そして、いよいよ彼の「本当の仕事」が始まる。
部屋の照明を一つ落とし、彼はあの古びた桐の箱の前に正座した。ポケットから取り出した小さな鍵で、南京錠を外す。カチリ、という乾いた金属音が、部屋の静寂に響き渡った。
蓋を開けると、防虫剤の匂いと共に、時間の澱のような空気が溢れ出す。箱の中には、黒い表紙の大学ノートが、隙間なくぎっしりと詰め込まれていた。その数、三十冊以上。すべてに、白いインクで几帳面に番号が振られている。
一郎は、一番手前にあった『記録 No.14』と書かれたノートを、まるで神聖な儀式のように両手で取り出した。ページをめくる。そこに広がっていたのは、日記と呼ぶにはあまりに異様な光景だった。
『昭和六十二年九月十五日(火)天気:曇りのち雨 最高気温:二十二度』
その日の天候から始まるページには、几帳面すぎるほどの、硬質な文字がびっしりと並んでいた。
『五時間目、体育。ドッジボール。木村が投げたボールが、故意に顔面を直撃。佐藤が笑いながら「ナイスボール」と叫ぶ。周囲の男子生徒数名が同調して笑う。頬に鈍い痛み。眼鏡が歪む。教師の斎藤は見て見ぬふり。ボールを拾い、無言で内野に戻る。その時の木村の口元の歪み、佐藤の目の細め方、忘れない』
それは、感情を排した、徹底的な事実の羅列だった。いつ、どこで、誰が、何をしたか。その時の相手の服装、表情、声のトーン、周囲の状況。まるで事件の調査報告書のように、客観的な事実だけが淡々と綴られている。ページによっては、当時の新聞の切り抜きや、隠し撮りしたであろう不鮮明な写真まで貼り付けられていた。
一郎は、ノートのあるページで手を止めた。そこには、数週間前に彼自身が撮影した一枚の写真が挟まっていた。高級そうな学習机で、有名私立中学の制服を着た少年が、屈託なく笑っている。
少年の名前は、木村翔太。
中学時代、一郎を最も執拗にいじめた主犯格、木村雄介の一人息子だ。
一郎は、写真の少年の顔を、指先でゆっくりと、確かめるように撫でた。その指の動きには、奇妙なほどの優しさと、底なしの冷たさが同居していた。彼はノートの余白に震えのない線で書き加える。
『翔太、十一歳。〇〇中学校一年。通学路、午前七時四十五分、××交差点を通過。友人と談笑。警戒心、皆無』
それは、彼の黒い聖書だった。学生時代からの憎悪と屈辱を、一滴たりとも零さずに注ぎ込み、熟成させ続けた怨念の器。ページをめくるたびに、忘れようとしても忘れられなかった地獄の日々が、鮮明に蘇る。だが、そこに悲しみや怒りの表情はない。彼の顔は、これから解くべき難解な数式を前にした、数学者のように静まり返っていた。
すべての準備は整いつつある。
一郎はノートを閉じ、寸分の狂いもなく元の場所に戻すと、再び桐の箱に錠をかけた。
部屋は、また元の静寂を取り戻す。
しかし、箱の中に封じ込められた怨嗟は、解放の時を今か今かと待ちわびて、その濃度をさらに深めていた。
静まり返ったアパートの廊下を彼は足音を殺して歩く。誰と会うこともない。彼の存在は、この建物の空気と同じくらい希薄だった。
最寄りの駅まで徒歩十二分。道すがら、彼は誰とも視線を合わせない。しかし、その意識は網の目のように周囲へと張り巡らされていた。ベビーカーを押す母親の疲れた横顔、スマートフォンを覗き込みながら舌打ちするサラリーマン、コンビニの前でだらしなく煙草を吸う若者たち。一郎はそれら全てを、一枚の風景画として記憶のキャンバスに焼き付ける。感情はない。ただ、記録するだけだ。
電車に乗れば、その観察はさらに密度を増す。向かいの席に座る女子高生の制服の僅かな汚れ、隣の老人が読む文庫本の題名、窓に映る自分の無表情な顔。すべてが情報として処理され、彼の脳内にファイリングされていく。この長年にわたる習性が、来るべき日のための訓練であることを、彼以外の誰も知らない。
一郎の職場は都心にある高層オフィスビルだった。彼が担当するのは、深夜から早朝にかけての清掃業務。人々が去り、ビルが深い眠りにつく時間帯が、彼の仕事場となる。同僚は数名いるが、それぞれが担当フロアに散らばるため、顔を合わせるのは始業前と終業後の短い時間だけだ。
「鈴木さん、お疲れ様です」
パートの初老の女性が、当たり障りのない笑みを浮かべて挨拶する。
「……お疲れ様です」
一郎は会釈だけを返し、それ以上の会話を拒絶する壁を瞬時に築き上げた。彼は、必要以上の言葉を交わすことを極端に嫌った。言葉は誤解と欺瞞を生むための道具に過ぎない。彼が信じるのは、自らの目で見て、自らの手で記した、揺るぎない事実だけだった。
モップを手に、広大なオフィスの床を滑るように磨き上げていく。規則正しい往復運動。それは彼の精神状態とよく似ていた。無駄なく、着実に、目的の場所へと進んでいく。窓ガラスに付着した指紋を特殊な洗剤で拭き取り、ゴミ箱の中身を分別し、トイレの陶器を鏡のように磨き上げる。彼の仕事は完璧だった。誰に褒められるためでもない。ただ、彼自身の内なる規律が、それを許さないだけだった。
午前八時、一郎の仕事は終わる。再び電車に揺られ、自宅へと戻る。帰りの車窓から見える景色は朝とは違う光に満ちていた。しかし、彼にとってはどちらも同じ、色のない風景に過ぎなかった。
アパートに戻り、無味乾燥な食事を済ませると、一郎はシャワーを浴びて汗を流した。そして、いよいよ彼の「本当の仕事」が始まる。
部屋の照明を一つ落とし、彼はあの古びた桐の箱の前に正座した。ポケットから取り出した小さな鍵で、南京錠を外す。カチリ、という乾いた金属音が、部屋の静寂に響き渡った。
蓋を開けると、防虫剤の匂いと共に、時間の澱のような空気が溢れ出す。箱の中には、黒い表紙の大学ノートが、隙間なくぎっしりと詰め込まれていた。その数、三十冊以上。すべてに、白いインクで几帳面に番号が振られている。
一郎は、一番手前にあった『記録 No.14』と書かれたノートを、まるで神聖な儀式のように両手で取り出した。ページをめくる。そこに広がっていたのは、日記と呼ぶにはあまりに異様な光景だった。
『昭和六十二年九月十五日(火)天気:曇りのち雨 最高気温:二十二度』
その日の天候から始まるページには、几帳面すぎるほどの、硬質な文字がびっしりと並んでいた。
『五時間目、体育。ドッジボール。木村が投げたボールが、故意に顔面を直撃。佐藤が笑いながら「ナイスボール」と叫ぶ。周囲の男子生徒数名が同調して笑う。頬に鈍い痛み。眼鏡が歪む。教師の斎藤は見て見ぬふり。ボールを拾い、無言で内野に戻る。その時の木村の口元の歪み、佐藤の目の細め方、忘れない』
それは、感情を排した、徹底的な事実の羅列だった。いつ、どこで、誰が、何をしたか。その時の相手の服装、表情、声のトーン、周囲の状況。まるで事件の調査報告書のように、客観的な事実だけが淡々と綴られている。ページによっては、当時の新聞の切り抜きや、隠し撮りしたであろう不鮮明な写真まで貼り付けられていた。
一郎は、ノートのあるページで手を止めた。そこには、数週間前に彼自身が撮影した一枚の写真が挟まっていた。高級そうな学習机で、有名私立中学の制服を着た少年が、屈託なく笑っている。
少年の名前は、木村翔太。
中学時代、一郎を最も執拗にいじめた主犯格、木村雄介の一人息子だ。
一郎は、写真の少年の顔を、指先でゆっくりと、確かめるように撫でた。その指の動きには、奇妙なほどの優しさと、底なしの冷たさが同居していた。彼はノートの余白に震えのない線で書き加える。
『翔太、十一歳。〇〇中学校一年。通学路、午前七時四十五分、××交差点を通過。友人と談笑。警戒心、皆無』
それは、彼の黒い聖書だった。学生時代からの憎悪と屈辱を、一滴たりとも零さずに注ぎ込み、熟成させ続けた怨念の器。ページをめくるたびに、忘れようとしても忘れられなかった地獄の日々が、鮮明に蘇る。だが、そこに悲しみや怒りの表情はない。彼の顔は、これから解くべき難解な数式を前にした、数学者のように静まり返っていた。
すべての準備は整いつつある。
一郎はノートを閉じ、寸分の狂いもなく元の場所に戻すと、再び桐の箱に錠をかけた。
部屋は、また元の静寂を取り戻す。
しかし、箱の中に封じ込められた怨嗟は、解放の時を今か今かと待ちわびて、その濃度をさらに深めていた。
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