怨嗟の記録

かわさきはっく

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第3話 観測者

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 その日、鈴木一郎は清掃員の制服ではなく、どこにでもいる初老の男を完璧に演じるための衣装を身にまとっていた。色褪せたチノパンに、襟の少しよれたポロシャツ。顔の半分を隠すための、つばの広い帽子。駅の売店で買ったスポーツ新聞を小脇に抱えれば、平日の昼間から時間を潰している、退職後の孤独な老人に見えなくもなかった。

 彼が降り立ったのは、都心から電車で三十分ほど離れた、閑静な高級住宅街の最寄り駅だった。空気が違う。一郎が住むアパート周辺の、排気ガスと生活排水の混じった淀んだ空気とは明らかに異質で、手入れの行き届いた植栽の匂いが鼻腔をくすぐる。一郎は、その清潔さに僅かな不快感を覚えながら、ゆっくりと駅の改札を抜けた。

 目的地までは、地図を見るまでもない。彼の頭の中には、この街の全ての道が、血管のように張り巡らされた立体地図として完璧にインプットされている。何度も、何度も、昼夜を問わず歩き回り、全ての監視カメラの位置、人通りの多い時間帯、建物の死角に至るまで、そのすべてを脳内のデータベースに記録してきたからだ。

 駅から緩やかな坂道を十分ほど上ると、周囲の家々はさらにその大きさと豪奢さを増していく。その一角に、ひときわ目を引くモダンな邸宅があった。高い塀に囲まれ、滑らかなコンクリートの壁が要塞のようにそびえ立つ。表札には、明朝体で『木村』とだけ記されていた。

 一郎は、その家から道を挟んで斜向かいにある小さな公園のベンチに、何気ない様子で腰を下ろした。公園には、錆びついたブランコと滑り台があるだけで、遊ぶ子供の姿はない。彼にとって、そこは特等席だった。木村家の玄関、ガレージ、そして二階の子供部屋らしき窓まで、すべてを死角なく観測できる絶好のポイントだ。

 スポーツ新聞を広げ、競馬のページに視線を落とす。しかし、彼の意識はすべて、あの忌まわしき男の城へと注がれていた。木村雄介。中学時代、常にクラスの中心にいて、その場の空気を支配し、一郎を奈落の底へと突き落とした張本人。三十八年の時を経ても、その顔、その声、その嘲笑は、昨日のことのように一郎の記憶に焼き付いている。

 しばらくすると、木村家の玄関が開き、一人の女性が出てきた。ブランド物の服に身を包み、髪を綺麗に整えた、見るからに裕福な主婦だ。木村の妻だろう。彼女は慣れた手つきで高級外車に乗り込み、滑るように走り去っていった。一郎の心は、凪いだ水面のように静かだった。憎悪の対象は、あくまで木村雄介本人とその血を引く者。彼の計画において、妻は重要な構成要素ではなかった。

 さらに一時間が経過した頃、一台の黒いハイヤーが家の前に停まった。後部座席から降りてきたのは、スーツを着こなした木村雄介その人だった。中学時代の面影を残しながらも、歳相応の貫禄と、成功者特有の傲慢さが全身から滲み出ている。彼は携帯電話で誰かと話しながら、苛立った様子で家の中へと消えていった。

 一郎の指が、新聞紙の上で微かに動く。心拍数は変わらない。感情の波も立たない。彼はただ、観測者だった。これから起こる天災を、静かに見つめるだけの存在。

 午後三時半。一郎が待ちわびていた瞬間が、ついに訪れた。
 集団下校の子供たちの、甲高い声が聞こえ始める。その中に、ひときわ明るい声があった。
「じゃあな、また明日!」
 友人たちに手を振り、木村翔太が一人、自宅へと続く道を歩いてくる。私立中学の制服が、彼の育ちの良さを物語っていた。父親譲りの、整った顔立ち。しかし、その表情には、父親のような傲慢さのかけらもなく、ただ子供らしい無邪気さだけが浮かんでいる。

 一郎の目は、その姿を一瞬たりとも逃さなかった。歩き方、カバンの持ち方、道のどの部分を歩くかという癖。彼は翔太が、道の端にある側溝の蓋の上を、まるで平均台のように渡るのが好きだということを知っていた。彼は家の手前にある交差点で、左右の確認が少しだけ疎かになることを知っていた。彼は、翔太がいつも右のポケットに、キャラクターもののキーホルダーを入れていることすら知っていた。

 翔太が公園の前を通り過ぎる。一郎は帽子のつばをさらに深く下げ、新聞で顔を隠した。少年はベンチに座る老人に気づく様子もなく、鼻歌まじりに歩いていく。その無防備さ、警戒心の欠如。それは、彼が幸福な世界に生きている何よりの証拠だった。

 一郎の脳裏に、ふと過去の光景がフラッシュバックした。
 雨の日の薄暗い体育館裏。木村と佐藤に壁際に追い詰められ、泥水で濡れた雑巾を口に押し込まれる。抵抗する力もなく、ただ嗚咽を漏らす自分。それを面白そうに見下ろす二つの歪んだ顔。
「お前みたいなゴミは泥でも食ってろよ」
 その言葉は、今も耳の奥で、呪いのように反響し続けている。

 一郎はゆっくりと目を閉じた。そして、再び開いた時、その瞳には何の感情も宿っていなかった。
 あの日の少年は、もういない。泥を食わされた少年は、三十八年の時を経て、復讐という名の神になるのだ。

 翔太が自宅のドアに吸い込まれていくのを見届けると、一郎は静かに立ち上がった。新聞を丁寧に折り畳み、ゴミ箱に捨てる。彼は公園を後にし、駅とは逆の方向へと歩き出した。

 彼の目的地は、翔太が毎日通る通学路の途中にある、古びた歩道橋だった。錆びついた鉄骨、ところどころ剥がれかけた塗装。一郎は階段を上り、橋の中ほどで立ち止まった。眼下には、車が絶え間なく行き交う、片側二車線の道路が広がっている。

 彼は手すりから身を乗り出し、下を覗き込んだ。そして、歩道橋の床と手すりの支柱を繋ぐ、一本のボルトに目を留めた。それは、長年の風雨に晒され、赤黒く錆びついていた。素人目には分からないほど僅かに、緩んでいる。

 一郎は懐から小さな工具を取り出すと、周囲に人がいないことを確認し、そのボルトをさらに数ミリ、慎重に緩めた。そして、まるで最初からそうであったかのように、自然な汚れを指で付け加えた。

 完璧だ。
 あとは、「その時」が来るのを待つだけ。強い風が吹く日、あるいは、数人の子供がこの上でふざけ合う日。ほんの僅かなきっかけさえあれば、この老朽化した凶器は、その役目を果たしてくれるだろう。

 誰にも気づかれず、誰にも疑われず、それはただの悲劇的な「事故」として処理される。
 そして、木村雄介は、自らが過去に蒔いた種が、最も残酷な形で芽吹いたことを、まだ知る由もなかった。
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