怨嗟の記録

かわさきはっく

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第4話 最初の亀裂

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 あの日から、三週間が過ぎた。
 鈴木一郎の日常に変化はない。早朝に目覚め、無味乾燥な食事を摂り、誰とも言葉を交わさずにビルの清掃をこなし、アパートに戻って眠る。その単調な繰り返しの中で、彼はただ静かに「その時」を待っていた。

 毎晩、眠りにつく前に天気予報を確認するのが、彼の日課に加わっていた。気圧配置、風速、降水確率。彼は、日本列島にじりじりと接近しつつある、巨大な台風の渦に全ての期待を託していた。それは、彼の計画を完璧な「事故」へと昇華させるための、天からの恵みだった。

 そして運命の日は訪れた。
 九月二十七日、火曜日。テレビのニュースキャスターが、切迫した声で市民に警戒を呼び掛けている。大型で非常に強い勢力を持つ台風が、夕方から夜にかけて関東地方を直撃する見込みだという。学校や企業は、軒並み午後の授業や業務を打ち切ることを決定していた。

 一郎は窓の外で荒れ狂う風の音を聞きながら、じっと壁の時計を見つめていた。午後二時。木村翔太が通う中学校も、既に下校措置を取っているはずだ。嵐の前の、つかの間の静けさ。子供たちは非日常的な状況に高揚し、いつもより少しだけ大胆になっているかもしれない。

 その頃、木村翔太は友人二人と共に、吹き荒れる風に煽られながら家路についていた。
「うわっ、すげえ風!飛ばされるって!」
 友人の一人が、大げさな身振りで叫ぶ。翔太もまた、風に向かって体を傾けながら、楽しそうに笑っていた。彼らにとって、この嵐はスリル満点のアトラクションに過ぎなかった。

 問題の歩道橋に差し掛かった時、一人の友人が悪戯っぽく言った。
「おい、競争しようぜ!向こうまでどっちが速いか!」
「よーし、負けねえぞ!」
 三人の少年は、風に背中を押されるようにして、錆びついた階段を駆け上がった。橋の上は、遮るものがないせいで、地上とは比べ物にならないほどの暴風が吹き荒れている。
「やべえ、まじでやべえ!」
 翔太たちは、手すりに体を預け、眼下を走る車を見下ろしながら歓声を上げた。その時だった。

 ゴウッ、と今までとは比較にならない、巨大な獣の咆哮のような突風が、歩道橋を叩きつけた。古い鉄骨が、悲鳴のような軋みを上げる。
「うわっ!」
 バランスを崩した友人が、翔太の背中を強く押す形になった。翔太の体が、ぐらりと手すりにのしかかる。

 次の瞬間、世界から音が消えた。

 一郎が長年かけて見つけ出し、ほんの数ミリだけ死へと近づけておいた一本のボルトが、その役目を果たした。金属疲労と暴風、そして子供たちの無邪気な体重。全ての条件が満たされた時、手すりの一部が、まるで熟した果実が枝から落ちるように、あっけなく外側へと崩れ落ちた。

 翔太の体は、抵抗する間もなく、宙へと投げ出された。
 驚愕に見開かれた彼の目には、灰色に渦巻く空と、地面に向かって急速に落下していく自分の足が映っていた。友人たちの絶叫が、風の音に掻き消されて遠くに聞こえる。硬いアスファルトに叩きつけられる寸前、彼の意識は、ぷつりと糸が切れるように途絶えた。

 病院の白い廊下に、木村雄介の怒声が響き渡った。
「どういうことだ!うちの息子が歩けなくなるだと?ふざけるな!お前ら、それでも医者か!」
 胸ぐらを掴まれた若い医師は、怯えながらも、淡々と事実を告げるしかなかった。
「残念ながら、第二腰椎の破裂骨折による、脊髄の重度の損傷が確認されました。緊急手術は行いましたが、下半身の機能が回復する可能性は、極めて……」
「金ならいくらでも払う!世界中の名医を呼んでこい!絶対に治せ!」
 妻がその場に泣き崩れるのも構わず、雄介は獣のように叫び続けた。彼の完璧な人生、彼の輝かしい未来を継ぐはずだった最愛の息子。その全てが、この一瞬で音を立てて崩れ去ったのだ。彼の頭の中には、怒りと絶望だけが渦巻き、「なぜこんなことに」という問いが、答えのないまま木霊していた。

 警察による現場検証は、翌日には終了した。歩道橋を管理する市の土木課の担当者が、深々と頭を下げて謝罪する姿が、ニュースで繰り返し報道された。原因は、長年の風雨による金属の腐食と、点検体制の不備。誰もが、それを痛ましい「事故」だと信じて疑わなかった。

 その夜、鈴木一郎は自室で、いつものように無表情でパソコンの画面を眺めていた。ニュースサイトのトップには、『台風被害、通学路の歩道橋で中学生が転落し重体』という見出しが躍っている。彼は記事の隅々まで、一言一句逃さぬように読み込んだ。そして、満足したように頷くと、おもむろに立ち上がり、あの桐の箱を開けた。

 黒い表紙のノート、『記録 No.14』を取り出す。
 木村翔太の、屈託のない笑顔の写真が貼られたページを開く。
 一郎は机の引き出しから一本の赤インクの万年筆を取り、定規を当てて、写真の上に、真っ直ぐで、冷たい一本線を引いた。まるで、帳簿から一つの項目を抹消するかのように。

 そして、その下に、彼の硬質な文字が刻まれていく。

『九月二十七日(火)天気:台風。午後二時十五分頃、〇〇区××歩道橋にて、木村翔太が転落。第二腰椎破裂骨折、脊髄完全損傷。下半身不随。計画第一段階、完了』

 書き終えた一郎は、インクが乾くのを数秒待ってから、ノートを閉じた。
 彼の心には、何の感情も浮かんでこない。喜びも、憐れみも、達成感すらも。ただ、設計図通りに一つの工程を終えた機械のような、静かな静寂があるだけだった。

 桐の箱にノートを戻し、錠をかける。
 彼は窓の外を見た。台風は過ぎ去り、嘘のように静かな夜が広がっている。しかし、本当の嵐は、まだ始まったばかりなのだ。

 一郎は再び箪笥の上に置かれた両親の遺影に目をやった。
 そして、その視線を、ゆっくりとノートの別のページへと想像の中で移していく。

 そこには、もう一人の男の名前が記されている。
 中学時代、木村の隣で常に嘲笑を浮かべていた男。
 佐藤和也。

 次の歯車が静かに回り始めた。
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