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第5話 隣人の食卓
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木村翔太の転落事故から、一ヶ月が過ぎた。
世間の関心は、すでに新しいニュースへと移り変わっていた。老朽化したインフラの問題点として一時は大きく報道された歩道橋も、今では通行が禁止され、青いビニールシートで無様に覆われているだけだ。人々の記憶とは、かくも薄情で移ろいやすい。鈴木一郎は、その事実を誰よりも深く理解していた。
一郎は木村家の近くにあるファミリーレストランの窓際の席に座っていた。清掃の仕事を終えた後の、平日の昼下がり。店内はまばらで、主婦たちの楽しげな会話がBGMのように遠くで響いている。彼はコーヒーカップを指で弄びながら、ガラス窓の向こう、緩やかな坂道の先にある木村家の屋根を、感情のない瞳で見つめていた。
彼は木村雄介が破滅へと向かう様を、定期的に観測していた。
事故の後、雄介は会社にほとんど顔を出さなくなったらしい。インターネットの経済ニュースサイトには、彼が代表を務める企業の株価が下落していることや、重要な取引先との契約がご破算になったことなどが、小さな記事として掲載されていた。SNSには、彼の会社の社員を名乗る匿名の人物による「社長が最近、酒に溺れて役員に当たり散らしている」といった内部告発めいた書き込みもあった。
一郎は、それらの情報を一つ一つ丹念に拾い集め、脳内に整理していく。息子の未来が奪われたことで、雄介の完璧だった人生の歯車は、凄まじい音を立てて狂い始めていた。それは、一郎が設計した通りの、静かで、しかし確実な崩壊だった。彼は、自分が仕掛けた罠が獲物をゆっくりと蝕んでいく様を遠くから眺めることに、冷たい満足感すら覚えていた。
ある日の深夜、一郎は衝動的に木村家の前まで足を運んだ。煌々と明かりが灯るリビングの窓から、男女の怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。雄介とその妻が、互いを罵り合っているのだろう。かつて幸福の象徴だったはずの豪邸は、今や出口のない地獄の様相を呈していた。一郎は暗闇の中でその光景を数分間見つめた後、音もなくその場を立ち去った。他人の不幸は、彼にとって蜜の味ですらなかった。それは、実験の経過報告を確認する科学者のような、ただの作業に過ぎなかった。
目的の観測を終えた一郎はファミリーレストランの席を立った。伝票を手にレジへ向かう。彼の頭は、すでに次のターゲットへと切り替わっていた。
佐藤和也。
中学時代、常に木村の傍らに立ち、主体性なく、ただ追従するようにして一郎を嘲笑っていた男。木村が王なら、佐藤は道化だった。その卑屈な笑いが、一郎のプライドをより深く傷つけたことを、本人は知る由もないだろう。
一郎の調査によれば、佐藤は木村とは対照的に、ごく平凡な人生を送っていた。中堅の食品メーカーに勤めるサラリーマン。役職は課長代理。都心から少し離れた郊外に、三十五年ローンで手に入れた小さな一戸建ての家。妻と、高校生の娘が一人。一郎は、その「平凡な幸福」こそが、佐藤にとっての最大の弱点だと見抜いていた。
その日の夕方、一郎は佐藤が住む街にいた。
そこは、木村が住む高級住宅街とは全く違う、どこにでもあるようなベッドタウンだった。似たようなデザインの建売住宅が並び、スーパーの袋を提げた主婦たちが自転車で行き交う。一郎は、宅配業者を装って用意した作業着に身を包み、ごく自然にその風景に溶け込んでいた。
佐藤の家は、すぐに見つかった。小さな庭には、色とりどりの花が植えられたプランターが並んでいる。几帳面に手入れされているところを見ると、妻の趣味なのだろう。二階の窓からは楽しげな音楽と、少女の笑い声が微かに漏れてくる。
一郎は佐藤の家の二軒隣にある、空き地のフェンスの前で立ち止まった。『売地』と書かれた看板が、草むらに埋もれるように立っている。そこは、佐藤家のリビングの窓を、夜でも観測できる絶好の場所だった。
午後七時過ぎ。家の明かりが、暖かなオレンジ色に変わる。夕食の時間だ。
一郎は懐から取り出した高性能の単眼鏡を、ゆっくりと目に当てた。
リビングの光景が鮮明に目に飛び込んでくる。
食卓を囲む、三人の家族。それが、佐藤一家だった。
佐藤和也は、中学時代の面影を残しながらも、すっかり疲れ切った中年男の顔をしていた。ビールを片手に会社での愚痴をこぼしているのかもしれない。
その向かいに座る妻、佐藤美咲は、穏やかな笑みを浮かべて夫の話に相槌を打っている。手入れされた庭と同じように、彼女自身もまた、丁寧に生活を紡いできたことが窺える、優しそうな女性だった。
そして、その隣に座る娘。ゆったりとした部屋着姿の彼女は、父親の話に呆れたような顔をしながらも、その目は笑っていた。家族の中心にいる、太陽のような存在。
一郎は単眼鏡のピントを、妻の美咲に合わせた。
彼女が夫の皿におかずを取り分けている。娘の髪についた糸くずを、優しく取ってやっている。その一つ一つの仕草が、この家庭の幸福を象徴していた。
一郎の脳裏に、再びあの黒いノートのページが浮かび上がる。
佐藤和也の項目。そこに記されているのは、中学時代の彼の卑劣な言動の数々だ。木村の命令で一郎の教科書を隠したこと。一郎の給食に、こっそり砂を入れたこと。そして、それらの行為を、常に楽しそうに、自慢げに木村に報告していたこと。
一郎の視線は再びリビングに戻った。
あの卑劣な少年が、今はこうして、何も知らずに温かい家庭の主として笑っている。この幸福は、他人の尊厳を踏みにじった上に築かれた、偽りの城だ。
ならば、その土台から、静かに崩してやるまで。
一郎は佐藤美咲の行動パターンを分析し始めた。彼女は専業主婦で、日中はほとんど家にいる。週に二回、決まった曜日の午後に、駅前のカルチャーセンターで開かれている陶芸教室に通っていることまで、彼はすでに突き止めていた。
陶芸教室。
粘土をこね、形を作り、窯で焼く。
無から有を生み出す、創造的な行為。
そして、脆く、壊れやすいものを扱う場所。
一郎の口元に、誰も気づかないほどの、ほんの僅かな歪みが浮かんだ。
それは、笑みと呼ぶにはあまりに冷たく、無機質なものだった。
彼は単眼鏡を懐にしまうと、音もなくその場を離れた。彼の頭の中では、すでに次の設計図が描かれ始めていた。ターゲットは佐藤美咲。彼女が通う陶芸教室という閉鎖された空間で、彼女の「平凡な幸福」に、最初の亀裂を入れるための、完璧な計画が。
秋の夜風が一郎の頬を撫でていく。
それは次なる悲劇の訪れを告げる静かな序曲だった。
世間の関心は、すでに新しいニュースへと移り変わっていた。老朽化したインフラの問題点として一時は大きく報道された歩道橋も、今では通行が禁止され、青いビニールシートで無様に覆われているだけだ。人々の記憶とは、かくも薄情で移ろいやすい。鈴木一郎は、その事実を誰よりも深く理解していた。
一郎は木村家の近くにあるファミリーレストランの窓際の席に座っていた。清掃の仕事を終えた後の、平日の昼下がり。店内はまばらで、主婦たちの楽しげな会話がBGMのように遠くで響いている。彼はコーヒーカップを指で弄びながら、ガラス窓の向こう、緩やかな坂道の先にある木村家の屋根を、感情のない瞳で見つめていた。
彼は木村雄介が破滅へと向かう様を、定期的に観測していた。
事故の後、雄介は会社にほとんど顔を出さなくなったらしい。インターネットの経済ニュースサイトには、彼が代表を務める企業の株価が下落していることや、重要な取引先との契約がご破算になったことなどが、小さな記事として掲載されていた。SNSには、彼の会社の社員を名乗る匿名の人物による「社長が最近、酒に溺れて役員に当たり散らしている」といった内部告発めいた書き込みもあった。
一郎は、それらの情報を一つ一つ丹念に拾い集め、脳内に整理していく。息子の未来が奪われたことで、雄介の完璧だった人生の歯車は、凄まじい音を立てて狂い始めていた。それは、一郎が設計した通りの、静かで、しかし確実な崩壊だった。彼は、自分が仕掛けた罠が獲物をゆっくりと蝕んでいく様を遠くから眺めることに、冷たい満足感すら覚えていた。
ある日の深夜、一郎は衝動的に木村家の前まで足を運んだ。煌々と明かりが灯るリビングの窓から、男女の怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。雄介とその妻が、互いを罵り合っているのだろう。かつて幸福の象徴だったはずの豪邸は、今や出口のない地獄の様相を呈していた。一郎は暗闇の中でその光景を数分間見つめた後、音もなくその場を立ち去った。他人の不幸は、彼にとって蜜の味ですらなかった。それは、実験の経過報告を確認する科学者のような、ただの作業に過ぎなかった。
目的の観測を終えた一郎はファミリーレストランの席を立った。伝票を手にレジへ向かう。彼の頭は、すでに次のターゲットへと切り替わっていた。
佐藤和也。
中学時代、常に木村の傍らに立ち、主体性なく、ただ追従するようにして一郎を嘲笑っていた男。木村が王なら、佐藤は道化だった。その卑屈な笑いが、一郎のプライドをより深く傷つけたことを、本人は知る由もないだろう。
一郎の調査によれば、佐藤は木村とは対照的に、ごく平凡な人生を送っていた。中堅の食品メーカーに勤めるサラリーマン。役職は課長代理。都心から少し離れた郊外に、三十五年ローンで手に入れた小さな一戸建ての家。妻と、高校生の娘が一人。一郎は、その「平凡な幸福」こそが、佐藤にとっての最大の弱点だと見抜いていた。
その日の夕方、一郎は佐藤が住む街にいた。
そこは、木村が住む高級住宅街とは全く違う、どこにでもあるようなベッドタウンだった。似たようなデザインの建売住宅が並び、スーパーの袋を提げた主婦たちが自転車で行き交う。一郎は、宅配業者を装って用意した作業着に身を包み、ごく自然にその風景に溶け込んでいた。
佐藤の家は、すぐに見つかった。小さな庭には、色とりどりの花が植えられたプランターが並んでいる。几帳面に手入れされているところを見ると、妻の趣味なのだろう。二階の窓からは楽しげな音楽と、少女の笑い声が微かに漏れてくる。
一郎は佐藤の家の二軒隣にある、空き地のフェンスの前で立ち止まった。『売地』と書かれた看板が、草むらに埋もれるように立っている。そこは、佐藤家のリビングの窓を、夜でも観測できる絶好の場所だった。
午後七時過ぎ。家の明かりが、暖かなオレンジ色に変わる。夕食の時間だ。
一郎は懐から取り出した高性能の単眼鏡を、ゆっくりと目に当てた。
リビングの光景が鮮明に目に飛び込んでくる。
食卓を囲む、三人の家族。それが、佐藤一家だった。
佐藤和也は、中学時代の面影を残しながらも、すっかり疲れ切った中年男の顔をしていた。ビールを片手に会社での愚痴をこぼしているのかもしれない。
その向かいに座る妻、佐藤美咲は、穏やかな笑みを浮かべて夫の話に相槌を打っている。手入れされた庭と同じように、彼女自身もまた、丁寧に生活を紡いできたことが窺える、優しそうな女性だった。
そして、その隣に座る娘。ゆったりとした部屋着姿の彼女は、父親の話に呆れたような顔をしながらも、その目は笑っていた。家族の中心にいる、太陽のような存在。
一郎は単眼鏡のピントを、妻の美咲に合わせた。
彼女が夫の皿におかずを取り分けている。娘の髪についた糸くずを、優しく取ってやっている。その一つ一つの仕草が、この家庭の幸福を象徴していた。
一郎の脳裏に、再びあの黒いノートのページが浮かび上がる。
佐藤和也の項目。そこに記されているのは、中学時代の彼の卑劣な言動の数々だ。木村の命令で一郎の教科書を隠したこと。一郎の給食に、こっそり砂を入れたこと。そして、それらの行為を、常に楽しそうに、自慢げに木村に報告していたこと。
一郎の視線は再びリビングに戻った。
あの卑劣な少年が、今はこうして、何も知らずに温かい家庭の主として笑っている。この幸福は、他人の尊厳を踏みにじった上に築かれた、偽りの城だ。
ならば、その土台から、静かに崩してやるまで。
一郎は佐藤美咲の行動パターンを分析し始めた。彼女は専業主婦で、日中はほとんど家にいる。週に二回、決まった曜日の午後に、駅前のカルチャーセンターで開かれている陶芸教室に通っていることまで、彼はすでに突き止めていた。
陶芸教室。
粘土をこね、形を作り、窯で焼く。
無から有を生み出す、創造的な行為。
そして、脆く、壊れやすいものを扱う場所。
一郎の口元に、誰も気づかないほどの、ほんの僅かな歪みが浮かんだ。
それは、笑みと呼ぶにはあまりに冷たく、無機質なものだった。
彼は単眼鏡を懐にしまうと、音もなくその場を離れた。彼の頭の中では、すでに次の設計図が描かれ始めていた。ターゲットは佐藤美咲。彼女が通う陶芸教室という閉鎖された空間で、彼女の「平凡な幸福」に、最初の亀裂を入れるための、完璧な計画が。
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