怨嗟の記録

かわさきはっく

文字の大きさ
5 / 40

第5話 隣人の食卓

しおりを挟む
 木村翔太の転落事故から、一ヶ月が過ぎた。
 世間の関心は、すでに新しいニュースへと移り変わっていた。老朽化したインフラの問題点として一時は大きく報道された歩道橋も、今では通行が禁止され、青いビニールシートで無様に覆われているだけだ。人々の記憶とは、かくも薄情で移ろいやすい。鈴木一郎は、その事実を誰よりも深く理解していた。

 一郎は木村家の近くにあるファミリーレストランの窓際の席に座っていた。清掃の仕事を終えた後の、平日の昼下がり。店内はまばらで、主婦たちの楽しげな会話がBGMのように遠くで響いている。彼はコーヒーカップを指で弄びながら、ガラス窓の向こう、緩やかな坂道の先にある木村家の屋根を、感情のない瞳で見つめていた。

 彼は木村雄介が破滅へと向かう様を、定期的に観測していた。
 事故の後、雄介は会社にほとんど顔を出さなくなったらしい。インターネットの経済ニュースサイトには、彼が代表を務める企業の株価が下落していることや、重要な取引先との契約がご破算になったことなどが、小さな記事として掲載されていた。SNSには、彼の会社の社員を名乗る匿名の人物による「社長が最近、酒に溺れて役員に当たり散らしている」といった内部告発めいた書き込みもあった。

 一郎は、それらの情報を一つ一つ丹念に拾い集め、脳内に整理していく。息子の未来が奪われたことで、雄介の完璧だった人生の歯車は、凄まじい音を立てて狂い始めていた。それは、一郎が設計した通りの、静かで、しかし確実な崩壊だった。彼は、自分が仕掛けた罠が獲物をゆっくりと蝕んでいく様を遠くから眺めることに、冷たい満足感すら覚えていた。

 ある日の深夜、一郎は衝動的に木村家の前まで足を運んだ。煌々と明かりが灯るリビングの窓から、男女の怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。雄介とその妻が、互いを罵り合っているのだろう。かつて幸福の象徴だったはずの豪邸は、今や出口のない地獄の様相を呈していた。一郎は暗闇の中でその光景を数分間見つめた後、音もなくその場を立ち去った。他人の不幸は、彼にとって蜜の味ですらなかった。それは、実験の経過報告を確認する科学者のような、ただの作業に過ぎなかった。

 目的の観測を終えた一郎はファミリーレストランの席を立った。伝票を手にレジへ向かう。彼の頭は、すでに次のターゲットへと切り替わっていた。

 佐藤和也。
 中学時代、常に木村の傍らに立ち、主体性なく、ただ追従するようにして一郎を嘲笑っていた男。木村が王なら、佐藤は道化だった。その卑屈な笑いが、一郎のプライドをより深く傷つけたことを、本人は知る由もないだろう。

 一郎の調査によれば、佐藤は木村とは対照的に、ごく平凡な人生を送っていた。中堅の食品メーカーに勤めるサラリーマン。役職は課長代理。都心から少し離れた郊外に、三十五年ローンで手に入れた小さな一戸建ての家。妻と、高校生の娘が一人。一郎は、その「平凡な幸福」こそが、佐藤にとっての最大の弱点だと見抜いていた。

 その日の夕方、一郎は佐藤が住む街にいた。
 そこは、木村が住む高級住宅街とは全く違う、どこにでもあるようなベッドタウンだった。似たようなデザインの建売住宅が並び、スーパーの袋を提げた主婦たちが自転車で行き交う。一郎は、宅配業者を装って用意した作業着に身を包み、ごく自然にその風景に溶け込んでいた。

 佐藤の家は、すぐに見つかった。小さな庭には、色とりどりの花が植えられたプランターが並んでいる。几帳面に手入れされているところを見ると、妻の趣味なのだろう。二階の窓からは楽しげな音楽と、少女の笑い声が微かに漏れてくる。

 一郎は佐藤の家の二軒隣にある、空き地のフェンスの前で立ち止まった。『売地』と書かれた看板が、草むらに埋もれるように立っている。そこは、佐藤家のリビングの窓を、夜でも観測できる絶好の場所だった。

 午後七時過ぎ。家の明かりが、暖かなオレンジ色に変わる。夕食の時間だ。
 一郎は懐から取り出した高性能の単眼鏡を、ゆっくりと目に当てた。

 リビングの光景が鮮明に目に飛び込んでくる。
 食卓を囲む、三人の家族。それが、佐藤一家だった。
 佐藤和也は、中学時代の面影を残しながらも、すっかり疲れ切った中年男の顔をしていた。ビールを片手に会社での愚痴をこぼしているのかもしれない。
 その向かいに座る妻、佐藤美咲は、穏やかな笑みを浮かべて夫の話に相槌を打っている。手入れされた庭と同じように、彼女自身もまた、丁寧に生活を紡いできたことが窺える、優しそうな女性だった。
 そして、その隣に座る娘。ゆったりとした部屋着姿の彼女は、父親の話に呆れたような顔をしながらも、その目は笑っていた。家族の中心にいる、太陽のような存在。

 一郎は単眼鏡のピントを、妻の美咲に合わせた。
 彼女が夫の皿におかずを取り分けている。娘の髪についた糸くずを、優しく取ってやっている。その一つ一つの仕草が、この家庭の幸福を象徴していた。

 一郎の脳裏に、再びあの黒いノートのページが浮かび上がる。
 佐藤和也の項目。そこに記されているのは、中学時代の彼の卑劣な言動の数々だ。木村の命令で一郎の教科書を隠したこと。一郎の給食に、こっそり砂を入れたこと。そして、それらの行為を、常に楽しそうに、自慢げに木村に報告していたこと。

 一郎の視線は再びリビングに戻った。
 あの卑劣な少年が、今はこうして、何も知らずに温かい家庭の主として笑っている。この幸福は、他人の尊厳を踏みにじった上に築かれた、偽りの城だ。

 ならば、その土台から、静かに崩してやるまで。

 一郎は佐藤美咲の行動パターンを分析し始めた。彼女は専業主婦で、日中はほとんど家にいる。週に二回、決まった曜日の午後に、駅前のカルチャーセンターで開かれている陶芸教室に通っていることまで、彼はすでに突き止めていた。

 陶芸教室。
 粘土をこね、形を作り、窯で焼く。
 無から有を生み出す、創造的な行為。
 そして、脆く、壊れやすいものを扱う場所。

 一郎の口元に、誰も気づかないほどの、ほんの僅かな歪みが浮かんだ。
 それは、笑みと呼ぶにはあまりに冷たく、無機質なものだった。

 彼は単眼鏡を懐にしまうと、音もなくその場を離れた。彼の頭の中では、すでに次の設計図が描かれ始めていた。ターゲットは佐藤美咲。彼女が通う陶芸教室という閉鎖された空間で、彼女の「平凡な幸福」に、最初の亀裂を入れるための、完璧な計画が。

 秋の夜風が一郎の頬を撫でていく。
 それは次なる悲劇の訪れを告げる静かな序曲だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。

夏目
恋愛
愛している王子が愛人を連れてきた。私も愛人をつくっていいと言われた。私は、あなたが好きなのに。 (小説家になろう様にも投稿しています)

処理中です...