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第6話 亀裂の音
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駅前の雑居ビルの三階、その奥まった場所に「ひだまり陶芸教室」はあった。鈴木一郎がドアを開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴り、粘土と釉薬《ゆうやく》の独特の匂いが彼を迎えた。
「ごめんください」
一郎の声に、作業台の奥から人の良さそうな初老の男性が顔を出す。この教室の講師だった。
「はい、こんにちは。見学の方ですか?」
「ええ、体験入会をお願いしたいのですが。退職して時間ができたものですから、何か手慰みになるような趣味でも見つけようかと」
一郎は、あらかじめ用意しておいた、少しはにかんだような笑みを浮かべた。人付き合いが苦手で、新しい環境に戸惑っている孤独な老人。それが、彼がこの場所で演じるべき役柄だった。講師はすっかり安心した様子で、どうぞどうぞ、と彼を中に招き入れた。
教室には、すでに数名の生徒が集まっていた。ほとんどが一郎と同年代か、それ以上の女性たちだ。彼女たちは、新しい参加者に一瞬だけ好奇の視線を向けたが、すぐに自分たちの手元にある粘土へと意識を戻した。その輪の中に佐藤美咲の姿はあった。
一郎は講師に勧められるまま、美咲から二つ離れたろくろの前に腰を下ろした。彼は決して彼女の近くに座りすぎないよう、細心の注意を払う。獲物を前にした狩人が、その気配を完全に消すように。
その日の課題は自由制作だった。一郎は講師のぎこちない手本を見ながら、不格好な湯呑を一つ作った。わざと歪な形にし、時折困ったように首を傾げてみせる。その姿は他の生徒たちの目には、微笑ましい初心者のそれとしか映らなかっただろう。しかし、その間も、彼の意識の大部分は佐藤美咲の挙動を捉え続けていた。
美咲は慣れた手つきで粘土をこね、ろくろを回していた。彼女が作っているのは、夫のためのビアカップだろうか。その指先は、まるで粘土と対話するように、滑らかで、愛情に満ちていた。他の生徒たちとの会話も、常に輪の中心にあり、その明るい笑い声は、教室の名前通り、陽だまりのような暖かさを持っていた。
一郎は、その光景をただ無感情に観測する。あの男、佐藤和也は、この暖かさに守られて生きてきたのだ。ならば、この陽だまりそのものを、凍てつかせてしまえばいい。
それから数週間、一郎は週に二回、欠かさずに陶芸教室へ通った。彼の存在は、すぐに教室の風景の一部として馴染んでいった。口数が少なく、自分の世界に没頭しているが、たまに話しかければ人の良さそうな笑みを返す無害な老人。誰もが、そう認識していた。
その裏で、一郎の計画は着々と進行していた。彼は図書館で地質学や鉱物学の専門書を読み漁り、ある特定の金属化合物を粘土に混ぜ込み、高温で熱した際に起こる化学反応について徹底的に調査した。彼が選んだのは、ごく微量で、見た目にはほとんど変化がなく、しかし窯の中で千二百度の熱に晒された時、内部で急激なガスを発生させ、自壊を引き起こす物質だった。それは、まるで時限爆弾のように、粘土の中で静かにその時を待つことになる。
彼はインターネットの匿名性の高い掲示板を通じて、その特殊な化合物を入手した。そして、自宅のアパートで万全の注意を払いながら、少量の粘土にそれを練り込んでいった。それは、憎悪を練り込む作業にも似ていた。
決行の日は美咲が娘のために作るという、一輪挿しの花瓶を完成させた日だった。彼女は、その出来栄えに満足した様子で、嬉しそうに作品を乾燥棚へと運んだ。素焼きの後、釉薬をかけて本焼きに入るのは、次回の教室の時だ。
チャンスは、その日の教室の終わりに訪れた。
生徒たちが帰り支度を始め、講師が別の生徒の質問に捕まっている、ほんの数分の間隙《かんげき》。一郎は自分の作品を片付けるふりをして、乾燥棚へと近づいた。彼の心臓は鉄のように冷たく、静かだった。
彼は、あらかじめ用意していた、化合物入りの粘土の塊をエプロンのポケットから取り出した。そして、美咲の花瓶の底、見えない部分に、その粘土を指先で薄く、巧妙に塗りつけた。それは、まるで元の粘土と一体であるかのように、完璧に偽装されていた。作業は十秒とかからなかった。
誰にも気づかれていない。
一郎は何食わぬ顔で自分の席に戻り、他の生徒たちと共に教室を後にした。
一週間後。本焼きの日。
教室には、いつもより少しだけ高揚した空気が流れていた。自分の作品が炎の洗礼を受けてどのような姿で生まれ変わるのか。誰もが期待に胸を膨らませていた。美咲もまた、娘に渡す花瓶の完成を心待ちにしているようで、その表情は明るかった。
夕方、十分に冷やされた窯の扉が、講師の手によってゆっくりと開けられる。
その瞬間、講師の顔から表情が消えた。
「……なんだ、これは」
窯の中は惨状を呈していた。
棚の中央に置かれていたはずの美咲の花瓶が、木っ端微塵に砕け散っている。それだけではない。爆発的な飛散によって、その周囲にあった他の生徒たちの作品、何週間もかけて作り上げた湯呑や皿が、無残な破片となって転がっていたのだ。美しい釉薬の色は見る影もなかった。
「うそ……」
美咲の口から、か細い声が漏れた。彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「どうして……私の花瓶が……」
「佐藤さん、君の粘土に何か混じっていたのか?こんなことは、今まで一度もなかったんだが……」
講師の声には困惑と、僅かな非難の色が滲んでいた。他の生徒たちも、自分の作品が破壊されたことにショックを受け、あるいはあからさまな落胆の表情を浮かべて、遠巻きに美咲を見ている。
あの暖かかった教室の空気は、一瞬にして冷え切っていた。
美咲は弁解の言葉も見つからず、ただ震える唇で「ごめんなさい」と繰り返すことしかできなかった。彼女のせいではない。しかし、この状況では彼女が全ての原因であるかのように見えた。彼女が大切に育んできた、このささやかなコミュニティからの無言の拒絶。その視線が無数の針のように彼女の心に突き刺さる。
その光景を教室の隅で、鈴木一郎は静かに見ていた。
彼は自分の作品が無事だった生徒の一人として、ただ黙ってそこに立っていた。心配するでもなく、非難するでもなく、ただ、そこにいるだけ。
美咲の瞳から大粒の涙が溢れ落ち、粉々になった陶器の破片の上に吸い込まれていった。
それは、彼女の「平凡な幸福」に刻まれた、最初の亀裂の音だった。
その夜、一郎は自室で黒いノートを開いていた。
『記録 No.22』。佐藤和也の項目。
彼は赤インクの万年筆を手に取り、そこに新たな一文を書き加えた。
『十月三十日(火)。ひだまり陶芸教室にて、佐藤美咲の作品が窯の中で爆散。他の生徒の作品数点を巻き込み破損。精神的孤立を確認。計画第二段階、完了』
インクの赤が、まるで血痕のように白いページの上で鈍く光っていた。
「ごめんください」
一郎の声に、作業台の奥から人の良さそうな初老の男性が顔を出す。この教室の講師だった。
「はい、こんにちは。見学の方ですか?」
「ええ、体験入会をお願いしたいのですが。退職して時間ができたものですから、何か手慰みになるような趣味でも見つけようかと」
一郎は、あらかじめ用意しておいた、少しはにかんだような笑みを浮かべた。人付き合いが苦手で、新しい環境に戸惑っている孤独な老人。それが、彼がこの場所で演じるべき役柄だった。講師はすっかり安心した様子で、どうぞどうぞ、と彼を中に招き入れた。
教室には、すでに数名の生徒が集まっていた。ほとんどが一郎と同年代か、それ以上の女性たちだ。彼女たちは、新しい参加者に一瞬だけ好奇の視線を向けたが、すぐに自分たちの手元にある粘土へと意識を戻した。その輪の中に佐藤美咲の姿はあった。
一郎は講師に勧められるまま、美咲から二つ離れたろくろの前に腰を下ろした。彼は決して彼女の近くに座りすぎないよう、細心の注意を払う。獲物を前にした狩人が、その気配を完全に消すように。
その日の課題は自由制作だった。一郎は講師のぎこちない手本を見ながら、不格好な湯呑を一つ作った。わざと歪な形にし、時折困ったように首を傾げてみせる。その姿は他の生徒たちの目には、微笑ましい初心者のそれとしか映らなかっただろう。しかし、その間も、彼の意識の大部分は佐藤美咲の挙動を捉え続けていた。
美咲は慣れた手つきで粘土をこね、ろくろを回していた。彼女が作っているのは、夫のためのビアカップだろうか。その指先は、まるで粘土と対話するように、滑らかで、愛情に満ちていた。他の生徒たちとの会話も、常に輪の中心にあり、その明るい笑い声は、教室の名前通り、陽だまりのような暖かさを持っていた。
一郎は、その光景をただ無感情に観測する。あの男、佐藤和也は、この暖かさに守られて生きてきたのだ。ならば、この陽だまりそのものを、凍てつかせてしまえばいい。
それから数週間、一郎は週に二回、欠かさずに陶芸教室へ通った。彼の存在は、すぐに教室の風景の一部として馴染んでいった。口数が少なく、自分の世界に没頭しているが、たまに話しかければ人の良さそうな笑みを返す無害な老人。誰もが、そう認識していた。
その裏で、一郎の計画は着々と進行していた。彼は図書館で地質学や鉱物学の専門書を読み漁り、ある特定の金属化合物を粘土に混ぜ込み、高温で熱した際に起こる化学反応について徹底的に調査した。彼が選んだのは、ごく微量で、見た目にはほとんど変化がなく、しかし窯の中で千二百度の熱に晒された時、内部で急激なガスを発生させ、自壊を引き起こす物質だった。それは、まるで時限爆弾のように、粘土の中で静かにその時を待つことになる。
彼はインターネットの匿名性の高い掲示板を通じて、その特殊な化合物を入手した。そして、自宅のアパートで万全の注意を払いながら、少量の粘土にそれを練り込んでいった。それは、憎悪を練り込む作業にも似ていた。
決行の日は美咲が娘のために作るという、一輪挿しの花瓶を完成させた日だった。彼女は、その出来栄えに満足した様子で、嬉しそうに作品を乾燥棚へと運んだ。素焼きの後、釉薬をかけて本焼きに入るのは、次回の教室の時だ。
チャンスは、その日の教室の終わりに訪れた。
生徒たちが帰り支度を始め、講師が別の生徒の質問に捕まっている、ほんの数分の間隙《かんげき》。一郎は自分の作品を片付けるふりをして、乾燥棚へと近づいた。彼の心臓は鉄のように冷たく、静かだった。
彼は、あらかじめ用意していた、化合物入りの粘土の塊をエプロンのポケットから取り出した。そして、美咲の花瓶の底、見えない部分に、その粘土を指先で薄く、巧妙に塗りつけた。それは、まるで元の粘土と一体であるかのように、完璧に偽装されていた。作業は十秒とかからなかった。
誰にも気づかれていない。
一郎は何食わぬ顔で自分の席に戻り、他の生徒たちと共に教室を後にした。
一週間後。本焼きの日。
教室には、いつもより少しだけ高揚した空気が流れていた。自分の作品が炎の洗礼を受けてどのような姿で生まれ変わるのか。誰もが期待に胸を膨らませていた。美咲もまた、娘に渡す花瓶の完成を心待ちにしているようで、その表情は明るかった。
夕方、十分に冷やされた窯の扉が、講師の手によってゆっくりと開けられる。
その瞬間、講師の顔から表情が消えた。
「……なんだ、これは」
窯の中は惨状を呈していた。
棚の中央に置かれていたはずの美咲の花瓶が、木っ端微塵に砕け散っている。それだけではない。爆発的な飛散によって、その周囲にあった他の生徒たちの作品、何週間もかけて作り上げた湯呑や皿が、無残な破片となって転がっていたのだ。美しい釉薬の色は見る影もなかった。
「うそ……」
美咲の口から、か細い声が漏れた。彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「どうして……私の花瓶が……」
「佐藤さん、君の粘土に何か混じっていたのか?こんなことは、今まで一度もなかったんだが……」
講師の声には困惑と、僅かな非難の色が滲んでいた。他の生徒たちも、自分の作品が破壊されたことにショックを受け、あるいはあからさまな落胆の表情を浮かべて、遠巻きに美咲を見ている。
あの暖かかった教室の空気は、一瞬にして冷え切っていた。
美咲は弁解の言葉も見つからず、ただ震える唇で「ごめんなさい」と繰り返すことしかできなかった。彼女のせいではない。しかし、この状況では彼女が全ての原因であるかのように見えた。彼女が大切に育んできた、このささやかなコミュニティからの無言の拒絶。その視線が無数の針のように彼女の心に突き刺さる。
その光景を教室の隅で、鈴木一郎は静かに見ていた。
彼は自分の作品が無事だった生徒の一人として、ただ黙ってそこに立っていた。心配するでもなく、非難するでもなく、ただ、そこにいるだけ。
美咲の瞳から大粒の涙が溢れ落ち、粉々になった陶器の破片の上に吸い込まれていった。
それは、彼女の「平凡な幸福」に刻まれた、最初の亀裂の音だった。
その夜、一郎は自室で黒いノートを開いていた。
『記録 No.22』。佐藤和也の項目。
彼は赤インクの万年筆を手に取り、そこに新たな一文を書き加えた。
『十月三十日(火)。ひだまり陶芸教室にて、佐藤美咲の作品が窯の中で爆散。他の生徒の作品数点を巻き込み破損。精神的孤立を確認。計画第二段階、完了』
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