怨嗟の記録

かわさきはっく

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第7話 囁きの毒

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 佐藤家の食卓から笑い声が消えた。
 あの日、陶芸教室から泣きながら帰ってきた妻の美咲は、別人のように塞ぎ込むようになった。彼女が大切にしていた、ささやかなコミュニティ。そこで起きた理不尽な出来事と、向けられた無言の非難は、彼女の柔らかな心を深く蝕んでいた。

「母さん最近元気ないね。どうかしたの?」
 娘の優奈が心配そうに尋ねても、美咲は「なんでもないの」と力なく笑うだけ。その笑顔は、まるで薄いガラス細工のように、今にも砕け散ってしまいそうだった。
 夫の和也は、そんな妻の様子に苛立ちを隠せないでいた。
「いつまで落ち込んでいるんだ。たかが趣味の教室のことだろう?嫌なら辞めればいいじゃないか」
 彼の言葉には妻を思いやる響きはなかった。彼にとって家庭とは安らぎの場所であり、妻とはその安らぎを無条件に提供してくれる存在だった。その前提が崩れることが、彼には理解できなかったし、許せなかった。

 食卓に立ち込める、重く、気まずい沈黙。
 かつて家族の暖かな中心だった場所は、今や互いの傷をえぐり合うだけの、冷たい空間へと変貌していた。鈴木一郎が投じた一石は、佐藤家の幸福という水面に、確実に波紋を広げ続けていた。

 一郎は、その波紋がさらに大きな渦となるよう、次の計画に着手していた。
 彼の新たな観測対象は佐藤家の長女、優奈だった。
 県立高校に通う、十七歳の少女。成績は中の上。吹奏楽部に所属し、友人も多い。悩みといえば、志望大学のランクをもう少し上げたい、というくらいのものだろう。悩みがあることすら幸福に見える、そんな輝かしい青春の只中に彼女はいた。

 一郎は数日かけて優奈の行動を徹底的に調査した。下校時に友人たちと立ち寄るファストフード店、休日に訪れる駅前の書店。彼は、その全てを記録し、彼女の人間関係を分析した。現代の若者を操るには、現代の道具を使うのが最も効果的だ。彼は偽名で複数のSNSアカウントを作成し、優奈の友人たちの輪に、亡霊のように忍び寄った。

 女子高校生たちの世界は、脆い信頼と、絶え間ない同調圧力で成り立っている。そこに、ほんの一滴、疑念という名の毒を垂らせばいい。

 一郎が仕掛けたのは、一つの巧妙な噂だった。
 彼は優奈が所属する吹奏楽部の、あまり目立たない生徒のアカウントを装い、匿名性の高い掲示板に、意味深な一文を書き込んだ。

『最近、佐藤さんの羽振りがいい理由、知ってる人いる?お母さんが、外で「パパ活」してるってマジ?だからあんなブランド物とか持てるのかな』

 嘘と、ほんの少しの真実を混ぜ込むのがコツだった。美咲が夫の安月給を補うためにパートを始めたのは事実だ。しかし、それを「パパ活」という、最も下劣な言葉に置き換える。そして優奈が持っているブランド物――それは彼女がアルバイト代を貯めてようやく買った、一つのキーホルダーに過ぎなかった――を、その根拠としてこじつける。

 毒は一郎の想像を上回る速さで拡散した。
 噂は匿名掲示板からSNSのダイレクトメッセージへと伝播し、教室の隅で交わされる囁き声へと変わっていった。最初は「まさか」と半信半疑だった者たちも、その刺激的なゴシップに、抗いがたい魅力を感じていた。

 優奈の周りから、少しずつ人が減っていった。
 今まで一緒に帰っていた友人から、「ごめん、今日用事あるから」と、ぎこちない理由で断られることが増えた。部活動の休憩時間、自分が輪に入ろうとすると、それまで盛り上がっていた会話が、不自然に途切れる。誰も彼女の目を見て話そうとしなかった。

「ねえ、何かあった?私、何かしたかな」
 ある日、優奈は一番の親友だと思っていた少女に、思い切って尋ねてみた。しかし、返ってきたのは、憐れみと好奇の入り混じった、残酷な視線だけだった。
「……知らない。自分で考えれば?」

 何が起きているのか、優奈には分からなかった。ただ、自分が今までいた世界から、透明な壁で隔てられてしまったような、途方もない孤独感だけが、彼女の心を支配していた。
 家に帰っても、安らぎはない。母親は相変わらず虚ろな目でソファに座っているだけ。父親に相談しようものなら、「お前の気のせいだろう」「友達と喧嘩くらい、自分で解決しろ」と、まともに取り合ってもらえないことは目に見えていた。

 そして運命の日。
 それは吹奏楽部のコンクールメンバーを決める、最終オーディションの日だった。優奈は、この日のために誰よりも熱心に練習を重ねてきた。しかし、彼女が楽器を構えた瞬間、審査員である顧問教師の背後で、他の部員たちがひそひそと何かを囁き合っているのが見えた。
(私のことだ……)
 そう思った瞬間、頭が真っ白になった。指が震え、思うように動かない。音は上ずり、リズムは乱れ、練習の成果を何一つ発揮できないまま、彼女のオーディションは終わった。

 結果は言うまでもない。
 帰り道、一人、とぼとぼと夜道を歩く。携帯電話には誰からも連絡はない。SNSを開けば、自分以外の部員たちが、オーディションの打ち上げで盛り上がっている写真が、これみよがしにタイムラインを埋め尽くしていた。

 悔しさと、悲しさと、行き場のない怒りで、涙が溢れて止まらなかった。
 なぜ。私が何をしたというの。

 その時、彼女のスマートフォンの画面に、一件の通知が表示された。
 匿名のダイレクトメッセージだった。

『君は何も悪くない。悪いのは君の母親だ。君の父親を裏切って、外で汚い金儲けをしている母親のせいだ。君は被害者なんだよ』

 その文章を読んだ瞬間、優奈の中で何かがぷつりと切れた。
 今まで点と点だったものが、一本の邪悪な線で繋がった。母の異変、友人たちの冷たい態度、そして、このメッセージ。
(……母さんの、せい?)
 そうか、そうだったのか。
 憎むべきは私を裏切った友人たちではない。この全ての元凶は、私の知らないところで家庭を汚し、私の居場所を奪った、あの人なのだ。

 優奈は鬼の形相で家路を急いだ。
 リビングのドアを乱暴に開けると、ソファに座る美咲と、テレビを見ていた和也が、驚いたように彼女を見た。
「優奈、どうしたんだ、そんな顔して」
 和也の言葉を遮り、優奈は叫んだ。その声は憎悪に震えていた。

「あんたのせいだ!あんたが外でみっともないことしてるから!私の人生、めちゃくちゃじゃない!どうしてくれるのよ!」

 娘から突き付けられた、身に覚えのない罵詈雑言。
 美咲の瞳から最後の光が消えた。
 和也は、ただ呆然と、変わり果てた娘と妻の顔を、交互に見ることしかできなかった。

 佐藤家の幸福を支えていた最後の柱が、内側から、大きな音を立てて崩れ落ちた。

 その一部始終を鈴木一郎は知らない。
 彼はただ、自室のパソコンの前で、匿名掲示板のログを眺めていただけだ。そこには、優奈のオーディション失敗を嘲笑う、無責任な書き込みが溢れていた。

 彼は満足げにブラウザを閉じると、静かに桐の箱を開けた。
『記録 No.22』。
 彼は赤インクの万年筆を手に取り、そこに新たな一文を書き加えた。

『十一月十五日(木)。佐藤優奈の社会的孤立を確認。家庭内不和を誘発。計画第二段階、進行中』

 次のターゲットは誰にするか。
 一郎の思考は、すでに冷たく、次の獲物へと向けられていた。
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